第88話
その夜―――
首都の隅にある小さな神社。
からん・・・からん・・・
誰も居ない境内に、小さな音が響く。
「・・・」
赤い字で絵馬に書いてあるのは『ゑいもせず』。いろは歌の最後の5字。
普通、絵馬には名前、住所、日付を書く。
この絵馬には、名前、住所、時間がある。
「どこで聞きつけやがった・・・」
男が小さく呟き、絵馬を取って、袖に入れて神社を去って行った。
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丑の刻(午前2時)。
歓楽街の裏手、空き家になっている小さな宿。
浮浪者や、酔っ払いがたむろするような場所だが、今夜は誰の気配もない。
こんこん・・・こんこん・・・
男がドアをノックする。
しばらく待っていると、がちゃりと鍵の開く音がして、ドアが開きかけたが、とん、と男がドアに手を置き、
「開けるんじゃあねえぜ」
「うっ・・・本当に」
「お前さんは何も見ねえ。何も聞いてねえ。だろ」
「あ、ああ。俺は何も見てねえ。何も聞いてねえ。こんな所、来た事もねえ」
「それでいい。そこに居な」
ぱたん、とドアを閉め、男がドアにもたれ掛かる。
「で? 誰を始末してほしい」
「カオル=サダマキ」
む? と男が肩越しにドアを向く。
「サダマキ・・・そいつぁ、あのトミヤスの内弟子の事か」
「そうだ」
「ふうん・・・何故だ」
「てめえは金で人斬りすんだろうが。理由なんかいるのかよ」
「相手によりけりだ」
「ちっ! ・・・俺の顔に泥を塗ったからだ」
「お前さんの顔を潰された腹いせかい」
「そうだ」
「で。いつ、どこで、何をされた。最初から全部、細かく話せ。事実だけを話すんだ。お前さんがどう思ったとかは関係ねえ。あった事だけだ。それで手数料を決める。で、今回は相手が相手だ。値は覚悟しとけ」
「ああ、分かった。今日、いや、もう昨日の事か。俺は車道流の道場で・・・」
中の者が話し始めた所で、男はやれやれと首を振って袖から静かに絵馬を出し、そっとドアの前に置いて、音もなく離れて行った。
「・・・そういう訳だ。ああ私怨だ。それがどうした。俺はあの女を殺せりゃそれで構わねえんだ。それで、いくらだ」
返事がない。
「おい。いくらだ? 値切るような事はしねえよ」
かちゃ・・・小さくドアが開いた。
「居るのか・・・? おい?」
ゆっくりとドアを開けていくと、こん、と何かがドアに当たり、
「ふっ!?」
小さく声を上げ、びく! と手を止めた。
しばらくして、恐る恐る、中に居た車道流の輩が顔を覗かせる。
「お、おーい・・・居るのか・・・? 開けるぞ・・・?」
輩がそっとドアを開けると、外には誰もおらず、自分が書いた絵馬が落ちていた。
「・・・くそ・・・名前聞いて尻尾巻きやがったのか・・・?」
絵馬を拾い上げ、輩が裏通りに出て、左、右、ときょろきょろ見回したが、暗い裏通りには何の影も見えなかった。
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翌日、シルバー・プリンセス号前。
ニシムラ兄弟が足を止めて船を見上げている。
「なあ、兄貴・・・これかよ」
「そうだ。舳先の紋章はレイシクラン家のものだ。と言うか・・・」
キョウイチが港を見回し、
「他に客船はない」
「なあ、他の港じゃあねえのか?」
「俺は言ったな。あの舳先の紋章はレイシクラン家のものだと。あれだ」
「まじかよ・・・」
オクマツが座り込む。
「なあ、兄貴。正直に言うと、俺はビビッてるぜ。あんな豪華な船に! って喜びは全く感じねえ。入ったら金ピカの騎士とか忍だらけじゃあねえのか?」
「・・・」
「それはねえって言ってくれよ」
キョウイチが座り込んだオクマツを見て、
「それを否定出来ん。レイシクラン本家の令嬢の船だ」
「まじかよ」
キョウイチがポケットからハンカチを出して、軽く額を拭う。すっとポケットにしまい、
「行くぞ」
「まじかよ!? まじで行くのかよお~~?」
かつかつと靴を鳴らして歩いて行くと、船員がタラップから下りてくる。
「申し訳ありません。この船は全室予約済みです。お引き取りを」
キョウイチが軽く会釈をして、
「私はキョウイチ=ニシムラ。クレール=フォン=レイシクラン様はおられるか。クレール様に陰陽術の指南を頼まれた者だ」
「そちらは」
「弟のオクマツ=ニシムラ。これはヤナギ車道流の者だ。マサヒデ=トミヤス様にお引き合わせしたく、連れて来た。無用とあらば帰す」
「あ、ども。ニシムラっす」
ぺこ、と頭を下げたオクマツを、キョウイチがじろりと睨む。
「少々お待ちを」
船員がタラップを上がって行く。
廊下に消えた所で、
「兄貴ぃ・・・やべえって~。これ絶対入っちゃいけねえって~」
「では、お前は待っていろ。トミヤス殿がおられたら、ここに来るように伝える」
「ナイスアイディアっ!」
「・・・客として訪ねて来て、俺は入りたくないからお前が出てこいと言うのか?」
「だよな。それはさすがに俺でも分かる」
「分かっているなら良い」
キョウイチが襟を正し、オクマツもそれを見て襟を正す。
しばらく待っていると、船員が下りて来た。
「大変お待たせ致しました。ご案内致します」
「お手数をお掛けします」
「うす」
ぱしん! とキョウイチがオクマツの頭をはたき、
「宜しくお願い致します、だ」
「すません! 宜しくお願い致します!」
くす、と船員が笑う。
キョウイチがベルトのホルダーの刀に手を置き、
「得物はどこでお預けをしたら」
「ああいえ。帯刀したままで結構です。ではどうぞ」
かん、かん、と船員の後に続き、タラップを上がって行く。
上がって廊下を歩きながら目を見張る。
ずーっと敷かれた赤い絨毯。
重厚感のあるドアは、ワックスで綺麗に磨かれ、つやつやとしている。
埃ひとつなく、窓のガラスは分厚いのに、綺麗に外の景色が見える。
「失礼。参考までにお聞きしたいのだが・・・」
「何でしょう」
「この船に部屋を借りる場合、いくらになるのか」
「1日金貨19枚です」
「・・・」「・・・」
「レイシクランのシェフのレストランに、最高のスパ、プール、展望台、世界各国の書物を揃えた図書室、最新の訓練設備を備えた訓練場。他にもまだまだ。部屋は言うまでもありませんね。全てをご利用出来ます。設備を考えればお得ですよ。船足もあり、ほとんど揺れません。快適な航海を楽しめましょう」
「左様で」
ひたひたとキョウイチが額にハンカチを当てる。
(聞かなければ良かった)
ちらっとオクマツを見ると、完全に萎縮している。
「おーい!」
船員が声を上げ、は! として、オクマツが顔を上げた。
向こうに居た別の船員が、足を止めてこちらを見て歩いて来た。
「こちらのオクマツ殿を訓練場にご案内してもらえるか。トミヤス様のお客人だ。俺はキョウイチ殿をクレール様の所にご案内する」
「はい」
「あ、兄貴」
オクマツが不安で一杯の目をキョウイチに向ける。
「後でな」
キョウイチは船員について歩いて行ってしまった・・・
呼び止められた船員がオクマツの所に来て、
「ご案内致します。トミヤス様方は、今は稽古中ですので」
「はいっ!」
兄貴ー! と心の中で叫びながら、オクマツは大きな身体を縮こまらせて船員について行く・・・
たんたんたん、と階段を下り、船員が足を止めた。
「こちらです」
「ここ?」
「はい。どうぞ」
オクマツが恐る恐るドアを開けると、マサヒデとアルマダが剣を構えて向かい合っていた。
(広いじゃあねえか! 船かよ!?)
いいー、とオクマツが訓練場を見渡す。
奥では拳銃を構えたラディにイザベルが何か指差して教えている。
壁際に並んだ重量上げの器具の上には、鎧を着たままでトレーニングをする者。
反対側を見ると、カオルとシズクが並んで遅く振る素振りをやっている。
ぱたん。
「はっ!?」
音にびくっとして後ろを向くと、ドアが閉まった。
恐る恐る目を戻すと、マサヒデ達がオクマツを見ていた。




