七日目
『九月八日四時七分 襲は自宅のベッドで目を覚ます』
◯桜木襲
彼女と寝たのは二回目ってことになるのだろうか。
いや、そうか否かはわからない。
気がついたら、命日になっていた。
昨日、どこからともなく現れた初寧さんがぎゅーっと抱きしめてくれた。
そこからの記憶が存在しない。
ノート曰く『九月七日十七時十三分 襲は初寧の腕の中で眠る』。
僕は寝間着に覆われていた。
部屋には僕の制服が干されていた。
ダイニングテーブルには十二玉の林檎が添えられていた。
林檎___ Malus domestica___バラ科リンゴ属の落葉高木の果実。知恵、不死、欲望、豊饒、美、愛などの象徴。神話だとか漫画とかに何かと厄介ごとを背負わされがちで、ちょっと気の毒な果実。ニュートンが万有引力を発見したきっかけでもあるとか。
___Malus___単なる「林檎の木」以外にも意味を持つ。
「悪い」「不吉な」「有害な」___英語のmal系の単語もこのラテン語の一単語から来たとか。
___domestica___「家に属する」という意味らしいが、これもまた然り。
「家に慣れた」「飼いならされた」「内輪の」「国内の」「私的な」「家庭内の」___英語のdomesticもそこから生まれたのだとか。
それらを総合すると、Malus domesticaを「飼いならされた不幸」と解釈することもできる。
___旧約聖書において、エデンの園にいたアダムとイヴが蛇にそそのかされて食べた、禁断の果実___
ある意味間違ってはないのかもしれない。
林檎は、種から育てると親と全然違う性質の実になる。よって雑種化が激しいから、品種そのものを維持したい場合は必ず接ぎ木で増やすらしい。接ぎ木とは、枝そのものを別の台木にくっつけて増やすこと。だから、細胞そのものが親木のコピーだという。つまり、同一の品種は遺伝的に同一のクローンである。
現在進行系で齧ってるこれも、禁断の果実に等しいのだろうか。
「甘すぎ」
僕は机の上に乱雑に並べられたそれらを全て喰らった。
最初は吐き気がするほど甘かった。
でも、食べるたびに味が薄れていった。
それでも飽き足らず、冷蔵庫から王林を一玉摘み出した。
いくら黄色に近い黄緑でも、黄金の果実には程遠いんだな。
最後の一玉はあっけなくて、無味無臭だった。
『九月八日五時十四分 襲は自宅のソファーに座り、テレビをつける』
ニュースしか放送されてない。
事故や事件のニュースばかりがどこもかしこの局で話題に上がっているのが億劫で、結局動画配信サービスを開いた。今話題のおすすめの映画や、国民的アニメが羅列されているのを横目に一昔前の映画のページにダイブした。
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『九月八日七時十三分 襲は干されている制服を手にして、着替えを始める』
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『九月八日七時三七分 襲はドアを開けようとするも、手をおろす』
『九月八日七時三八分 襲はリビングに戻り、キッチンの棚に収納された包丁を見つめる』
『九月八日七時三九分 襲は「僕は人殺しになるつもりはない」と独り言を吐く』
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『九月八日七時四七分 襲は学校に電話をかける』
「今日、体調悪くて学校休みます」
「嘘が下手だね」
「え、なんで」
「先に生まれたと書いて先生だからね。今からいうことはね、先生としてはどうかと思うんだけど、学校休んでもいいよ」
「え」
「やるべきことがあるんじゃないかな?」
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先生は黒板に書かれた一つの式を指でなぞった。
「___E=mc²___その式がいわんとすることは、『世界を癒すエネルギーは、光速の2乗で増殖する愛によって獲得することができ、愛には限界がないため、愛こそが存在する最大の力』ということだ。確かに愛は宇宙のメモリを広げ、上書きすることができる際限のない感情だ。たとえそれが自分に向けられていようが他人に向けられていようが、それは変わらない。だがその愛が生み出すエネルギーは必ずしもプラスにばかり働くわけでもない。そんな愛が、こんなに無惨で醜いバッドエンドの潤滑油となったのだから」
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「おい、どういう教育うけてんだ。元カレで元バンド仲間のメッセージを無視するなんてな。やっぱりお前ズレてるわ。やめて正解だな。関係もバンドも、人生も」
男はアパートの扉をドラムにした。
醜い。汚い音だ。
力任せ。乱暴。美学のへったくれもない。
初寧はベランダの扉を開き、そこから飛び降りた。
『九月八日十三時四十分 襲は初寧のもとにたどり着く』
空を舞った初寧を受け止めたのは襲だった。
お姫様抱っこされた初寧はまんざらでもない笑顔、ではなかった。
「ねえ、なんで来ちゃったの」
お互いに眼光は細くて鋭かった。
「ノートに書かれてるから、ではないんだよね。初寧さんを守りたいから、かな」
襲はにやけておどけてみせた。
「ねえ、恥ずかしいから、下ろして。てか下ろせ。あんたに守られる筋合いはないから」
初寧は腹に抱えていた運動靴をはいて、そっぽを向いた。
「そんなの僕の勝手だよ。初寧さんだって、初めてあった時、頼んでもないのに手を貸してくれたよね。理由なんて必要ないよ」
アパートの階段が軋む音を聞いた襲は、初寧に手を伸ばした。
「手を取ったら、逃避行のはじまりさ」
初寧は彼の手を取ろうとする。けれど、手を翻した。
襲は初寧の腕をとって、路地裏へと逃げ込んだ。
二人は足音からひたすら逃げた。
「襲くん、今日は絶対転けないでよ」
「わかってるよ」
そうこう逃げているうちに桜並木というほどではないけど、そこそこ桜が生えている墓地へとついた。
桜紅葉が一面を覆い尽くしている。逃げ道はそこで途絶えた。
「ねえ、バカなの、未来知ってたんじゃないの。だったらどこに逃げればいいか解るじゃん。書いてないところに行けばよかったのに」
「ごめん、目の前のこと、逃げることに夢中すぎて、全然頭回らなかった。なんどもここに来る前、どう逃げるべきか考えてきたのに」
男が追いついた。懐からさも当然のようにナイフが登場した。
「またこの前の男か。そいつを庇うつもりか?そんなことしてもしょうがないぜ?そいつに命を掛ける必要はない。お前もそのうち解るさ。お前もすぐに俺達側に立つはずさ。だから、こっちに来いよ」
男が手招きする。襲はすぐさま首を横に振る。
「いいえ、暴漢に加わるつもりはありません。キャストクレジットから離脱する気もありません。そもそも初寧さんに命をかける必要がないなら、あなたが初寧さんを殺すのもナンセンスそのものじゃないですか」
襲は男に人差し指を突き出す。手のひらは上向きだ。
男は首を傾げてにやけてみせる。
「お前は何もわかってない。その女はな、俺達をさんざん狂わせてきたんだ。バンドメンバーだけでない。他の男もな。初寧に恨みを持ってるやつは何人もいる。このナイフは俺達の総意なんだよ。だからこのナイフはお前に向けるものじゃない。そこをどけ。お前を殺すつもりはないんだ」
襲は後ろをちらりと覗く。初寧が110に電話しようとするのを見届ける。
「嫌だ。どきません。彼女は僕が守ります。彼女を殺したいなら僕を先に殺したらどうですか?ああ、そのナイフで僕を殺してもしょうがないですよ。あなたの人生が終わるだけだから」
「黙れ」
カラスが何羽か飛び立った。
鈍い音はしなかった。
ただ、赤いのが流れている。
初寧は叫んだ。喉の奥から、硝子の破片が突き出すような声で。
襲は男の左手首にチョップし、ナイフから手を離させる。
初寧は110をコールし終える。
襲は口元の血を拭う。
「肉を切らせて骨を断つってね」
「どけ、お前に興味はないんだ」
「初寧さんには指一本触れさせませんよ、彼氏が守らないで誰が守るんですか?」
そのまま男の左手と脇を掴んで、関節に膝蹴りする。
男の腕があらぬ方向に曲がる。
発狂する暇もない男はそのまま頭突きで吹っ飛ばされる。
どちらもふらついて、後ろに仰け反り合う。
襲が左手でナイフの周りを撫でた刹那___
その隙に男は飛びかかり、襲に乗りかかる。
初寧は119番に電話をかけ終わる。
男は腕を力押しで元の位置に戻し、両腕が粉になるほどの勢いで殴りつける。
出血、返り血、血飛沫___二人とも血まみれになって、どちらがどちらの血か判別できない。
血で血を拭うとはまさにこのことだ。
男がナイフに手をかけようとしたことに気がついた襲は、火事場の馬鹿力で、男の股間を思いっきり蹴った。
金的。
男が悶絶してる間、襲は自分の腹に刺さったナイフを、酒瓶のピンを抜くように、簡単に抜いてみせた。
抜いて即座、勢いのままに男の腹を切りつけ、腸の辺りに蹴りを入れてふっとばした。
男は墓に頭をぶつけ、そこから黒い液体を流す。
襲は二人の血で汚れたナイフに舌を這いずらせる。
唇を舐めた襲は、男から向かって右側の口角だけをあげる。
「これで、もう、やれない、だろ・・・」
「クソッタレ、が」
まっすぐ歩けないほどふらつきながらも、男に迫っていく。
襲は逆手に持ったナイフを振り上げる。
だが一瞬動きが止まり、手からナイフがこぼれ落ちる。
足はおぼつかないまま後ろへ向かう。
襲も地面に崩れ落ちる。
初寧はすかさず襲を抱きかかえる。
ハンカチで傷跡を抑えるも、出血は止まらない。
「なんで、なんでだよ、庇わなくていいって言ったのに」
しゃがれた声。滴り落ちる涙。
「ごめん。ここに来るまで、正直迷ってた。何度も逃げだそうとした。でも気がついたらここに来てて、ナイフ刺さっっちゃっった」
血を吐きながら、言葉も吐く。
「もういいから。喋らないで。救急車呼んだから」
「辞世の句くらい言わせてくれよ。どうせ死ぬんだからさ」
襲の目の焦点はずれていた。
「死ぬな。死ぬなよ。生きてよ。生きろよ。生きろ」
桜の枯れ葉が風で空を舞った。
遠くからサイレンの音が鳴り響く。
「はは、僕めっちゃかっこいいわ。ドラマの主人公みたいでさ」
「全然かっこよくないよ、こんなに血まみれになって」
「本当だったんだね。初寧さん。生きようとしてた時の方が、死んでいくのよりずっと怖かったよ。最期に初寧さんを守れてよかった。」
「強がんなよ。格好つけんなよ。ほんとにひどい人だ」
「ふふ、あなたも人のこといえないでしょうに」
「初寧さんは生きてよ。初寧さん、も___
桜紅葉は血で桜色になった。




