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四日目


『九月五日十時十七分 襲は書店に入る』


書店に来たのは僕の提案だった。僕自身の生存確認をする場所だからだ。誰かしらの言葉に溺れて、自分がまだこの世界に張り付けているかどうかを確かめたかった。


「へぇ。じゃあ案内してよ。記録くんがいつも記録してる世界、ちょっとだけ覗いてみたいな」


僕の世界なんて、そんな大それたものじゃない。この世界は誰のものでもない。ちょっと死ぬまでの間だけ、自分のものだと思い込んでるだけだ。


アドラーだとかの哲学書、十冊に一冊しかアタリのない経済の本、気取ったセリフばかりの詩集、目に優しくない図録、ありふれた小説。文字たちはすっかり黙り込んで、存在を訴えている。


やけに桃色が目立つ棚だった。


初寧さんは本を手に取ると、パラパラと雑にめくり始めた。瞳孔は開いていた。


「ねぇ、こっちはどう?この表紙かわいくない?」

「あ、漫画ですか?」

「漫画読むよ?あんたは読まなさそうだけど」


僕は何も返せなかった。


「読みます」と返すのは嘘になり、「読まないです」と返すのは突き放すようで、適切な言葉が浮かばなかった。


その代わり、彼女が手にしていたそれを覗き込んだ。淡いパステルの色彩の表紙に、見つめ合う二人が描かれていた。


「へぇ、こういうの読むんですか。意外かもです」

「読むよ?だって頭使わなくていいじゃん。人の恋を外から覗くの。酔ってる時でもできるし」


初寧さんは本を胸に抱える。あざとく首を傾けた彼女の三つ編みが僕の頬に触れた。


「で、君は?外から眺める派?それとも、中に落ちる派?」


僕は答えられなかった。


既に落ちてしまっていたからだ。


「ま、何でもいいや」


何故か悔しかった。


でも、心の奥底で小さな風船が膨らんでいった。ような気がした。




『九月五日十一時十九分 襲は楽器店に入る』


「あっち行っていい?」


呼びかけはナイフのように鋭かったけれど、ヒビの入ったガラスのように脆かった。


視線の先には、苔むした楽器店の看板。

音楽の亡霊が棲んでいそうな、アンティークで鈍色の窓ガラス。

初寧さんは一度も振り返らず、ブラックホールへ吸い込まれていった。


扉が軋むと、空気が急に乾いた。店に満ちるのは、木の匂いとサビの匂いとタバコの臭い。


かつての思い出が散りばめられた写メにライターで火を放って、その端から焦げていき、イカ焼きのように丸まったところから生まれた、空へ舞い昇る黒い蜃気楼のような臭いだ。


彼女が覗き込むギターの弦は張り詰めていた。


「初寧ちゃん、今日も来たんだ」


初老の店主が柔らかく声をかける。


初寧さんは目を細めたまま、そっぽを向いた。


「ちょっとだけね。触りに」


僕は店内を見渡す。


店の奥。


アンプの前に一人、俯いて座る男がいる。


空気が凝固した。凍りついた。


初寧さんの指先が、微かに震えた。


店の奥で弦を交換していた黒いコートの男の肩が、一拍だけ止まった。


「あ、やだ。いるんだ」


初寧さんが吐き捨てたそれは囁きに近かったけど、僕の耳にははっきり届いた。


「(最悪)」


彼女は声に出していない。でも息は漏れ出していた。


男は弦を巻く手を止めなかった。


巻き上がる金属の摩擦音は、黒板を爪で引っ掻いたような音だった。


「まだいたのかよ、初寧」


この音の波形は直線的だろうな。

 

乾燥しきっているのに、地雷原に返り血で湿った火薬が転がっているような。そんな音だった。


初寧さんは薄ら笑いする。


「またいたのかよ、だろ?」


「またって。相変わらずよく言えてんな、うざったい。またっていうほど会っていないくせに、どうせ俺の癖まで覚えてるんだろ」


「忘れたよ。あんたの癖なんて全部」


「そうか。じゃあ次は、ベッドでの癖も忘れといてよ」


「次がある前提かよ。きったたねえ話だな。触れんなよ?」


店の豆電球のフェラメントが一つ燃え尽きた。


灯りが一つ堕ちた。


男は肩をすくめた。


「別にいいだろ。てか、まだ怒ってんの? こっちはもうとっくに忘れたけど」


その瞬間だ。


斜め後ろにいた僕でも、はっきり分かった。


初寧さんの呼吸が、カッターナイフの断面みたいに薄く鋭くなるのが。


「へぇ。忘れたんだ? あれ全部?」


男は弦を爪で弾いた。


地に落ちて這いずり回った音は、再び空気を震わす前に崩れ落ちた。


「バンドだって、波長だって、合わなくなったら、はい終了。関係ってのはね、続けられる奴が続けるだけよ。続けたいかどうかなんて知ったことか。断ち切ってやるよ」


「確かに、そうかもね」


初寧さんは、踏みしめるように一歩進んだ。


表情は変わらない。


「でもあんたは、私を、」


男は唾を吐いた。呆れたようで吐き捨てるようで、わざとらしく。初寧さんの次の言葉を断ち切るように。


「お前が勝手に目立ったんだろ。浮いてんだよ。空気も読めないし。俺が悪いんじゃねぇ。お前がズレてるんだよ」


折り鶴を水槽に沈める時、まず羽の部分から染み込んでいき、それによって重さを増した折り鶴がより深いところへ堕ちていき、首や頭まで侵されていく。


そんな、ゆったりとした崩れ方だった。


その沈みゆく彼女の背中を、僕は見ていられなかった。


足が勝手に前へ出た。


___この世はすべて ひとつの舞台、男も女も 人はみな役者に過ぎぬ___


シェイクスピアに書かれた通りだった。


___僕は舞台で踊り狂うピエロ、らしい___


「あなた、その言い方、趣味悪いですよ」


男の眉が跳ねた。


「は?」


「初寧さんを傷つけたいなら、もっと手際よくやらないと。今のはただの下手な自己紹介です。あなたの器に初寧さんが入らなかっただけですよ」


男の目が薄く笑った。


美術館の中世絵画のみすぼらしい男がこちらを侮蔑するような。


「何も知らねえ外野が口出すなよ。お前みたいな素人とは違う」


「プロってことですか? ああ、そうかもしれない。けど」


紡いだ言葉が脊髄から滑り落ちた。


「あなた今、すっごくダサいですよ。キャストクレジットにも名が乗らない、暴漢A?的な?」


楽器で飽和した一室ながら、音一つなくなった。


「は? 何やこいつ。初寧、また新しい男を」


「うるさい」


初寧さんがまた一歩前へ。


ペンキで染め上げられた皮膜が、悲鳴もあげずに壁から剥離していく。


「手に収められなかった、あんたが悪いんだよ」


男は何か言い返そうと口を開いたけど、店主が奥から咳払いした。


「喧嘩するなら外で頼むよ。楽器が泣く」


その一声で、この世界に音は戻ってきた。


男は舌打ちし、ギターケースを引きずって行った。


初寧さんは俯いたままだった。


「記録くん、いや、襲くん。別の場所行こ」






・・・・・・・・・・・・


『九月五日十二時十三分 襲は喫茶店に入る』


・・・・・・・・・・・・


『九月五日十三時二七分 襲は遊園地に入る』


・・・・・・・・・・・・


『九月五日十七時三二分 襲は映画館に入る』


・・・・・・・・・・・・







『九月五日十九時二三分 襲は初寧に家に誘われる』


「ねえ、家寄ってく?」


初寧さんのアパートは、住宅街の外れにあった。


玄関の前に立つと、彼女は鍵を回しながら「散らかってるけど我慢してね」と呟いた。


扉が開いた瞬間、胸が少しだけ熱くなった。


部屋の隅には3つのギターケース。


譜面台には手書きの楽譜。ベッドには黒くなった灰皿。


部屋の隅には未開封の段ボール(缶チューハイやエナジードリンクの注文書が貼られている)が積まれていて、その上に見覚えのないメンズのパーカーが無造作にかけられてる。


「飲み物、冷蔵庫の好きなの取って。あ、お酒はダメだよ」


そう言って、三つ編みを後ろで払いながら洗面所に消える。


彼女はバックから錠剤を取り出した。


彼女は錠剤と水道水を飲み干すなり、三つ編みを解いた。


僕は冷蔵庫から葡萄ジュースを取り出した。


ファーストキスとは違う味だった。


ベッドに腰を下ろすと、机の上に散らばった楽譜が目に入った。


消えかかった文字。乱雑に書き殴られ、当の本人にしか判別できそうにない走り書き。没になったのか書き間違えたのか、重ねられたバッテン。所々に赤黒いインクのような痕がこびりついている。


初寧さんが戻ってきた。


トレンチコートは脱いで、薄手のリブニットと黒のタイトスカートだけになっている。

薄暗い蛍光灯の下で、ニットの編み目が身体のラインをしっかり拾い上げていた。


控えめな服装なのに、存在感は隠しきれていない。


「あーそれ、私の好きなやつじゃんかーちなみに私はこれにしようかな」


アップルブランデー。林檎の蒸留酒らしいけど、僕にとっては未知の領域だ。


これを口にする日は、たぶん、いや絶対に来ないんだよな。


「襲くんが今キスしてる葡萄ってのはね、私にこそぴったりなんだよ。酔いと狂気。私のための言葉だね」

「あなたにぴったりなそれ、冷蔵庫にあったのに」

「襲くんの前では、酔って狂いたくないな」

「昨日も一昨日も酔ってたくせに。一昨日なんて急にキスしちゃって」

「そ、それは驚くかなあって。好奇心」


彼女はグラスの端にキスをした。付着した口紅は酒では流されなかった。


「やっぱり生きてるって感じ。ギターでも弾こっかな」

「近所迷惑だろうに」

「知らね」


寝具の上。


アコギを一本携えて、僕の隣に腰を下ろした。


肩が触れそうだ。


彼女が弦を弾くと、空は震えた。


「やっぱりうまいじゃんか」

「うまいだけじゃダメらしいよ」


初寧さんは唾を飲み込み、顎を高く突き出した。


「あいつが色々だべってたじゃん? まあ、簡単に言うとね、ウチが目立ちすぎたらしい。音とかだけじゃなくて、存在自体がね」


淡々と映るけれど、言葉の端々に微かに鉛が沈んでいる。


その確かな質量が、心の海にゆらりゆらりと堕ちていった。


「でも、襲くんはウチの音、ちゃんと聴いてくれるんでしょ?」


初寧さんは僕の方に視線を寄こした。やっぱり濁っていなかった。


でも、こめかみを押さえるたびに前髪が揺れ、仮面の下に隠された、虚ろが見て取れる。


「今日、襲くんさ。遊園地でも映画館でも、ずっとウチばっか見てたでしょ?」

「まさかね」

「まったく。嘘が上達しないね。まっすぐすぎるんだってば」


ネックを外して、ギターを壁に立て掛ける。


「まあ、だから安心して隣にいられるの」


彼女は肩の力を少し抜いていた。


僕は彼女に目配せした。


「また、音楽やったら?」

「襲くんはさ、無責任で汎用的な励ましなんて言わないと思ってたんだけど」

「ひどいなあ。初寧さんだって言ってきた癖に。僕にも言わせてよ」


すると彼女は唇を噛んだ。


「ねえ、襲くん」


呼ばれて振り向くと、初寧さんは髪の先を指でつまんでくるくる弄んでいた。


「ウチ、今日ガチで楽しかった。たぶんね、最近で一番」


その表情は、昼間よりずっと素直で、無防備だった。


「だからさ。もうちっとだけ、一緒にいて」


その言葉は恋愛とか色気とか、それだけじゃ語り尽くせない。この世にへばりつくために誰か他人を必要とする極めて人間的な潜熱だった。


僕は黙って頷いた。


初寧さんは糸が切れたマリオネットのように、僕の肩に頭を預けた。


その確かな存在が、愛しくてたまらなかった。

グラスの底の見えない深淵に彼女の顔が溶け込んでいく。

彼女は指先でグラスを回しながら、何度か瞬きをした。


「はぁ。いい? 今日はもう、まともなウチじゃないからね」


笑っているようで、全然笑っていない。


いつもの余裕も、あの俯瞰的でからかいたっぷりのお姉さんも、少しずつ、音を立てず砕け落ちる。


「まともなウチじゃない、とは?」

「お酒はね、頭のネジを全部外しちゃうの」


グラスの中身を一気に飲み干し、絶頂の笑みを作る。


「頭も痛いしさ。酒飲んだら余計悪化するのにな。バカだよね、ウチ」


テーブルにグラスを置いた彼女は、手の甲で目をこする。


「初寧さんは、バカじゃないよ。こんなに僕の胸中を見透かしちゃって。痛いほどに」

「襲くんは優しいね。だから危ない」

「危なくないよ」

「危ないの。こういう夜は危ないの。わたし、誰にでも甘えちゃうし、すぐ近づくし。ほら、こうやって」

 

彼女は、僕の膝に音を立てて頭を落とした。


身体が凍りつく。というよりは縛り付けられたような、金縛りのような、いやそれにしては暖かかった。


「しんどいよ」


僕は初寧さんの頭に手を重ねた。

撫でるわけでもなく、慰めるわけでもなく。


体が勝手に。


初寧さんは脈拍と呼吸以外止まっていたが、やがて身体を起こした。


彼女は軽く伸びをしてピクピクと震える。


目元が赤い。グラスのせいじゃない。


「ごめんね。こんなの見せたくなかった」

「見せてくれていいのに。全然受け入れるから」

「うそだぁ。わたし、酔うとほんと面倒くさいのに。あーあ、こんなんで大学生名乗っていいのかな。あ、でも胸は立派だよ? ここは武器だよ?」


変な声が出かけた。


彼女は自分で胸元を押して、確かにそこにあるその存在感を主張してきた。


「どこ見てんだよ」

「自分から誘ったのに」

「ほら。こんなふうに狂ってんの。アルコールのせいで思考が蕩けるんだよ。この前だってキスしちゃたし」

「別にいいじゃん、そういうとこ嫌いじゃないし」

「なんでよ」

「えっそれで僕、救われたんだけどな」

「襲くん。そういうとこ、ずるい」


初寧さんはベッドに倒れ込んだ。


僕もベッドにうなだれた。


すると、彼女はためらいもなく腕を伸ばしてきて、僕の首裏を掴んで引き寄せた。半径15cm未満まで顔を近寄せてきた。


「今日だけ、甘えていい?」

「いいよ」

「えへへ、ありがと」


彼女の呼吸はゆっくりで。少しだけ不規則で。


あったかくて。


薄暗い灯りの中。


さっきまでは、たるんだ声をしてたのに。


これだけは妙に澄んだ音だった。


「ねぇ、襲くん。好きって、言ってもいい?」


静電気。


僕は、喉の奥に鋭いナイフがつっかえたかのように硬直した。


でも逃げなかった。


「僕も、好き。大好き。最初からね」


そう言った刹那、初寧さんはしょうもない一発ギャグにツボったかのように息を荒げた。


笑ったのか、泣いたのか。


「ほんとに言った。襲くん、ほんとに、言ったじゃん」


そのまま、彼女は僕にしがみついた。


離れたら消えてしまうものにすがるかのように。


「もうやだよ、そういうの、落ちるじゃん」


「落ちていいよ。いや、落ちてよ。僕も落ちてるから」


初寧は、小さな声で「ばか」と言って顔を埋めた。


僕は苦笑した。


いつもなら照れ隠しで何とかごまかせただろうに。


今宵はどこにも逃げ道がなかった。


初寧は僕の手を探し、指を絡めた。


「付き合ってよ。逃げないなら」

「逃げないよ。こんないい人からは」

「ガチで?」

「うん。予定より早く死んじゃうくらいはガチ」


初寧さんは僕を抱きしめた。


想っていた何倍も柔らかかった。


「じゃあ、今日からだね。うちら」


その言葉は、酒のせいでもノリでもなく、素面の彼女が言うよりも、ずっと正直だった。


心の奥の風船が、小さく、小さく膨らんだ。

僕たちはそのまま寄り添いあって、目を閉じた。

熱も、心音も共同財布に仕舞ったまま。


それだけで十分だった。

それ以上は要らなかった。


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