三日目
「恋人に会う時は、授業が終わった時のように浮き浮き気分。でも恋人と別れる時は、学校へ行く時のように沈んだ気分。そんなところかな」
また与太話が始まった。だが妙なことに、あまり与太でもない気がした。
「ロミオとジュリエットですか?」
窓の外で小鳥が遊んでいる。放課後、チャイムは鳴らないらしい。
「さすが襲くん。博学だね。昔読んだことがあったのかな?それとも次の演劇の研究で身につけたのかな?」
そういえばノートを拾ってから、演劇部に顔を見せてなかったな。
「後者です。ところで急にどうしたんですか?ロミオとジュリエットの話でもしたかったんですか?それともいつもの与太話ですか?」
演劇部に現れない僕への当てつけだろうか。先生は空を見上げた。空といっても教室の天井か。
「襲くん、君の顔に書いてあるんだよ。恋の病にかかってしまったようだね」
時計の針だけが一定だった。
「え、な、なんで、なんでわかったんですか」
「先に生まれたって書いて、先生というからね。ふふ、もっと演技力を身につけないと、全国にはいけないよ」
相変わらず先生には何でもかんでも見透かされてしまう。ただ単に先に生まれたからではない。この老人は悟りでも開いているのかもしれない。ソクラテスが現代に蘇ったとしたら、彼のような人物なんだろう。そう思わされた。
それにしても、僕は隠し事が下手らしい。
「おーそういえばこんな言葉もあったな。アインシュタインのだったかな。
『現段階では、科学がその正式な説明を発見していない、ある極めて強力な力がある。それは他のすべてを含み、かつ支配する力であり、宇宙で作用しているどんな現象の背後にも存在し、しかも私たちによってまだ特定されていない。
この宇宙的な力は「愛」だ。
科学者が宇宙の統一理論を予期したとき、彼らはこの最も強力な見知らぬ力を忘れた。
愛は光だ。
それは愛を与え、かつ受け取る者を啓発する。
愛は引力だ。
なぜなら、ある人々が別の人々に惹きつけられるようにするからだ。
(中略)
これこそが、私たちがあまりにも長く無視してきた変数だ。
それは恐らく、愛こそが人間が意志で駆動することを学んでいない宇宙の中の唯一のエネルギーであるため、私たちが愛を恐れているからだろう。
愛に視認性を与えるため、私は自分の最も有名な方程式で単純な代用品を作った。
「E=mc²」の代わりに、私たちは次のことを承認する。
世界を癒すエネルギーは、光速の2乗で増殖する愛によって獲得することができ、
愛には限界がないため、愛こそが存在する最大の力であるという結論に至った』
そう綴っていたよ。だからね、襲くん。その感情を大事にするんだよ。愛にはね、宇宙のメモリを変えうる力がある、私はそう思っているよ。白紙のページは、愛で書き起こせばいい。書かれているページだろうと愛で書き足せばいい」
僕は空を見上げた。LEDが眩しかった。
「本当に、そうですね」
『九月四日十六時十五分 襲は演劇部の部室に現れる』
意思など錯覚___そうでもなかった。ノートに書かれていたからではない。読んでいても、読んでなくても、自分の意思でここに現れただろう。
薄暗い部室だった。まるで舞台袖みたいだ。淡い日差しがカーテンの隙間から射し込み、埃の粒を照らしていた。その光は僕へのスポットライトなんだろうか。
「お、襲じゃん。久しぶり」
部長が椅子を蹴って立ち上がる。ああ、きっとこれが、僕の人生最後の開演ベルなんだろう。
「主役のおでましさ」
口が勝手に台詞を吐いた。いつも通り、格好つけてしまう。
でも、その台詞に拍手は起きなかった。
後輩の苦笑が小さく爆ぜて、空気が緩んだ。
机の上には、ロミオとジュリエットの台本があった。
運命なのか。恋と死が、いつも隣り合っている。
僕の幕が下りる四日後、その舞台の幕は下りていないだろう。いや、上がってすらいないはずだ。
「襲、ロミオ。立ち稽古入るぞ」
部長の声が響く。僕は無言で立ち上がり、脚を舞台板のように強く踏みしめた。
「僕の心は、とっくの昔に燃えている」
セリフを吐いた瞬間、部室の空気が一変した。
僕の声がやけに響く。
演じているのか、本気なのか、わからなくなっていた。
「襲先輩、それ恋してるってより、熱中症ですよ」
ジュリエット役の後輩が吹き出す。
照明の下で、僕はいつも少し間抜けなロミオを演じている。いや、演じられてない。僕そっくりだ。
「恋ってのは、いつだって熱中症みたいなもんだろ?」
口が勝手に動いた。アドリブ。
それが妙にリアルだった。ロミオから襲がにじみ出てるような。
ほんの一瞬、時間が止まり、誰かが小さく息をのんだ。
部長が吹き出す。
「お前、それ本番で言えたら優勝だわ」
どこか痛かった。
本番の日、僕はこの世界にいない。
幕の裏側に、立つことはできない。
『九月四日十六時四八分 襲はセリフを間違える』
ノートには、そう記されていた。
でも、台詞を噛んだとき、観客はいなかった。
だからこそ、照れ隠しの中で、僕はほんの少しだけ自由になれた。
舞台袖の鏡に、僕の姿が映っている。
無様で、汗だくで、ロミオにもなりきれていない。
ジュリエット役の子が、小さく呟く。
「さっきのセリフ、ちょっと、よかったです」
僕は肩をすくめた。
「だろ? 狙って言ったから」
『九月四日十七時三四分 襲は笑われながらも笑う』
照明の光が滲む。
誰もいない観客席の向こうで、僕の人生という舞台の幕が、静かに下り始めている気がした。
___いつもの帰宅路。
あいも変わらず、世界が焼き増し、生き写しに見えていた。決まり切った公式に従う数字の羅列のようにも思えていた。
だが、E=mc²___あなたになら従ってもいいかな、と思ってしまった。愛が宇宙を動かすエネルギーなら、僕はその法則の誤差でいい。
そんな気がした。
僕ら人間はどれだけ愚かなんだろう。
ただ恋に堕ちただけで、残りの人生が、何度洗っても色褪せない喜劇だと思えるんだから。
___いいね、それ。死ぬ予定が決まってるなら、全部ネタバレ済みだ。怖いもんなんてないじゃん___
初寧さんの言わんとすることがやっと解った。確かに怖いものはなかった。
___会いたい。
そこに理屈なんてなかった。
僕は走り出した。
夜の街は、昨日と大差なかった。
居酒屋の灯が滲んで、遠くで誰かの歌声が闇の中に溶け込んでいた。
交差点の向こう、ブランコの上に初寧さんはいた。
缶チューハイ片手に。一杯一杯噛みしめるごとに、缶の穴の中を覗き込んでいる。
「よ。ストーカー少年」
そう言って、彼女は缶を捨てた。
空き缶が転がる音が、どこか心地よかった。
声の調子はいつも通りなのに、湿度だけが違った。
「まだ、飲んでるんですね」
「飲んでる、じゃなくて、生きてる、でしょ」
彼女はウインクしながら、口の端に指を当てた。
僕は隣のブランコに腰掛けて、彼女を見つめ返した。
「明日___」
言葉が、喉の途中で引っかかった。
「明日、時間ありますか」
初寧さんはタバコのケースを握ったまま微動だにせず、しばらくしてから、ため息をついた。
カラスが空き缶をつついた。
「また転んだのかよ、若いくせに」
つつかれた缶がカランと鳴って、地面を転がった。
信号が青に変わった。電子音のヒヨコが嘆いた。二人とも渡らなかった。
カラスは飛び立っていった。
風の向こうで、初寧さんは箱を開いた。ライターを弾く音がやけに耳に残る。黒い煙が風に乗って、空へと消えていった。初寧さんはこちらを見向きもせずに呟いた。
「明日、晴れるかな」
僕は既にその答えを知っていた。
「晴れますよ。きっと」
もう、ページの外に出てしまった。ような気がした。




