二日目
涙で潤んで霞んだ瞳ですら、すべての情報を記録してしまうらしい。
世界が焼き増し、生き写し、二番煎じのドライフラワーに見えた。すべてが、決まり切った公式に従う数字の羅列のように思えた。
僕ら人間はどれだけ愚かなんだろう。
すべて定められているというのに、明日に夢を馳せている。
かつての僕もそうだった。
いや、それ以上に傲慢だった。
天賦の記憶術を誇り、街の景色や、教科書の一節を完璧に記録しては、まるで神になったかのような錯覚に浸っていた。
「すべてを記録できる僕こそ、アカシックレコードそのものだ」と。
だが、結局のところ僕もただの一つの文字列、プログラムにすぎない。
優越感というノイズで、空白を埋めていただけだった。
でも僕は強がった。
アカシックレコードの実在を知るのは自分だけだと、内に言い聞かせて。
体の震えを虚像の優越感で殺し、嘲笑って心の白紙を埋め尽くした。
二日ぶりに外に出た。学校へ行く気力などなかったが、家にいることにも意味を見いだせなかった。何をしたところで、五日後に僕は死ぬ。
それはすでに書かれている。
僕の意思でどうにかなることなど、何一つない。
『九月三日七時四三分 襲は冷めた味噌汁を口に運び、顔をしかめる』
『九月三日七時五五分 襲は玄関で靴ひもを結び損ね、やり直す』
『九月三日八時十一分 襲は通学路で犬に吠えられる』
『九月三日八時二四分 襲は横断歩道の信号を待つ』
『九月三日八時二五分 襲は雲の切れ間を見上げる』
ただ、それだけのことが淡々と続いていた。
これらはノートを見る前の僕のルーティンと比較してみても、大差のない行為であった。
淡々と続いていると形容したが、以前となんら変わっていないことに気が付き、笑みを漏らした。
だが僕には判別できないことがあった。
ノートを無意識に脳内再生しているからノート通りに進むのか、それとも僕の意思なのか。
いや、ノートが公式だ。この世の真理だ。
僕は「この世界の中で、自分がどんな手順で死んでいくのか」それを観察しているだけだ。
『九月三日九時三二分 襲は教室のドアを開け、席につく』
『九月三日九時三九分 襲はノートを開かず、黒板を見つめる』
先生の声が遠くで反響している。内容など耳に入らなかった。
世界の音は、もう意味を持たない空気の振動だった。
授業後、廊下を歩いていると、先生が立っていた。
二日前の服と同じ白いシャツ。
まるで、二日前の録画を再生しているようだった。
「眠れていないだろう、襲」
その声を聞いた瞬間、背筋が粟立った。
すべてを見透かされているかのような。
「なんでわかるんですか?」
「先に生まれたって書いて、先生というからね」
ノートを脳内再生してみた。
刻まれている記録は僕の動向だけで、先生のセリフは書いていなかった。
でも、「なんでわかるんですか?」という僕の言葉は、とっくの昔に刻まれていた。
それが怖かった。まるで僕の返答が、先生を書き起こしたかのようで。
「先生、すべてがアカシックレコードによって記録されているなら、僕たちはどうすればいいと思いますか」
なぜこのセリフが溢れだしたのかは判らなかった。
だが、「それもノートに定められている」と言われたら、反論はできなかった。
先生は少しだけ笑みを作って、窓の外を見た。
「私ならね、どこまで記録されているかはわからないけど、書かれていない隙間につけこむんじゃないかな。書かれていないページは、自分で書き足せばいいんじゃないかな」
黒板のチョークの線が、一本だけブレたように感じた。
放課後、足元を見て歩いていたら、足元を救われた。
『九月三日十五時二十五分 襲はなにもないところでコケる』
それはいくら注意を払おうと既定路線であった。だが、ここに誰が来るかまでは知らされていなかった。知っているのは名前くらいだった。
「おい少年、シラフでそんなふらついてんのかよ、ほら手を取りなよ」
未来で彼女になるらしい彼女は彼女らしからないようだ。アカシックレコードによるとあと2日ほどで恋仲になるらしい。永いお別れまでの仮初の愛なのか、死ぬ前の快楽物質による欺瞞なのか。
この電撃は。
僕は彼女の手を取りかけて、そっぽへ翻るも、彼女は僕の腕を取った。顔も知らない彼女の名前を呼んでみた。
「初寧さん?」
「ええ、あれれ?名前言ったっけ?言ってないよね?あー思い出せないや」
初寧さんの全身から放射される蒸留酒の香りは想定外だった。アルコールの熱が言葉の合間に漂って、息を吸うたびに胸が少し焼かれた。
「なんてね。まだあんたとは初対面のはずだ。ここで転んだのも、意図的なのかい?そこまでして話したかったかーストーカーくん、しかし大層なもんだなあ。ウチが助けるってわかってないとできないよーな」
脚本に載っていた僕の台詞量の多さから、彼女が多弁なのは十分に予想できていた。しかしここまでだとは書かれていなかった。書かれていないだけだろうか。
「ストーカーじゃありません。書かれてたんです」
「ほえー予言書でも持ってるのかー?」
「いいえ、予言じゃありません。記録です。『九月三日十五時二十五分 襲は初寧に助けられる』って」
彼女は挑発的な笑みを浮かべる。彼女の瞳の中にいる虚像の僕はひどく歪んでいた。
「へー面白いじゃんか、だったらどうだ?」
覚悟はできていたが、所詮過去の遺物だった。初めてのキスは葡萄の味がした。
無味無臭無色透明の水溜めに、一滴の、一閃の赤紫の涙を落として、核爆発したかのように全体に広がっていく。そんな光景が脳裏に通りすがった。だが不思議なことに、色が薄まっていくことはなかった。
薄紅色が心の白紙を埋め尽くした。
状況の整理が追いつかず、理性と感覚にタイムラグが生じた。
「うちにキスされるってことも書いてあるんだ?その割にうぶだねえ」
軽口の奥深くに、鳩尾を刺すような芯があった。近くで見ると、彼女の目は濁っていなかった。
「ん、じゃーさー記録くん。せっかく会ったんだし、カラオケでも行こっか。うちの奢り」
「なんでですか」
「書かれてるんでしょ?それが答えでいいんじゃない?」
彼女がそう言って、ひょいと歩き出す。僕はすでに知っていた。
『九月三日一六時一八分 襲は初寧とカラオケ店に入る』
でも、彼女が狂酔しているとは知らなかった。
いや、それだけじゃない。
「僕が彼女に少しだけ惹かれている」とも知らなかった。
僕は、渡るべきでない信号を渡った。
いや、正確には、彼女に引っ張られた。
赤信号の上を走る初寧の靴音が、世界のリズム、予定調和と秩序を乱していた。
「危ないですよ」
「うるさいな、死ぬときゃ死ぬの。生きてるうちは生きとくんだよ」
彼女は首を傾けて、コンビニ袋を掲げた。中には雑に並べられた缶チューハイが三本。彼女は僕に一本差し出した。その仕草がやかましかった。
「未成年ってわかってて誘ってんですか」
「私のことは疑うくせに、自分のノートは疑わないんだ?」
図星だった。
初寧の言葉は狂っているのに、やけに鋭かった。
言葉の端々に、僕を真っ向から否定する棘が混ざり込んでいる。
「ほら、早く。冷めるよ」
「酒ですか?」
「違う。違うよ。勢い。人間、勢いが冷めたら死んだも同然よ」
そう言って頬をゆるめる彼女の瞳には影があった。
それを見た瞬間、僕はふと思った。
この人は、書かれていない領域に立っているのかもしれない。
カラオケ店のドアを開けたとき、埃っぽい音楽の匂いがした。
マイク、照明、液晶。
『九月三日一六時二五分 襲は初寧に煽てられ、マイクを握る』
「さあ記録くん、歌え」
「なにを」
「なんでもどうぞ。書かれてないことを」
マイクを握った瞬間、冷たい金属の感触が指に貼りついた。
指と露結して離れなくなったような。
僕の声にならない声、ただのブレスが壁の反響で何層にも割れて広がった。
次第に喉の奥が熱くなった。
空気が震えて、声が音になる。
その音は、どの記録にも存在しない。
感情の輪郭が、音の波に乗って形を持ちはじめた。
感情はノイズだ。
そう信じてたはずなのに、ノイズの中にしか僕はいなかった。
初寧が呟いた。
「へえ、感情こもってるじゃん」
歌詞が滲んだ。
視界の端で、初寧の頬が赤く写った。
脳裏に焼き付いた。
なぜだか、それを見たくなって、もう一度声を出した。
「そうそう、それでいい。世界なんて、だいたいリハーサル通りなんだよ。でも、本番は誰にも見せなくていい」
僕は笑った。
初寧さんは、マイクを片手にだらしなく座り込みながら、天井のシミを数えていた。
曲が終わっても、拍手も、気まずい沈黙もなかった。
「ねえ記録くん。あんたさ、死ぬって書かれてるんだっけ」
心臓に釘が刺さった。
「なんで知ってるんですか」
「顔に書いてある。あんた、死に急いでるやつの顔してるんだよ」
彼女はそう言って、缶チューハイを一気に飲み干した。
炭酸の弾ける音が、呼吸代わりらしい。
「いいね、それ。死ぬ予定が決まってるなら、全部ネタバレ済みだ。怖いもんなんてないじゃん」
僕はうつむいた。アカシックレコードにおいて、彼女がどんな役割を持っているのか、知りたくなかった。
それを知った瞬間に、彼女が記録に堕ちる気がして。
「じゃあ、初寧さんは?怖くないんですか」
初寧さんは腕をまくった。いくつかの細くて赤い線をなぞった。
「怖いさ。毎日がだいたい後悔でできてる。でも、それでも飲むんだよ。生きるってのは、二日酔いとおんなじさ。昨日のバカな自分を引きずりまわしながら、次のバカを選ぶだけ。それの繰り返しよ。でもね、記録くん。その退屈なループの中にね、たまに空白の時間があるんだよ。虚無の時間って言ったほうがいいのかな。そこでどんな刺激が得られるか、それはあんた次第だ」




