零日目
下校時刻。石蕗が咲いているあたりで一冊のノートを見つけた。夕焼けが赤黒く滲んで、摩天楼の窓が血のように乱反射していた。
周囲には誰もいない。誰かがいたら何もしないのか、誰もいないからそれをするのか。
僕はそれを拾い上げた。バラバラになったティッシュをつまみ上げるような所作ではなく、両手でハムスターをすくい上げるような所作であった。
革の質感が、体温を吸い上げた。 表紙を撫でた瞬間、異常な懐かしい感覚が走った。それは錯覚だった。
とっさに交番へ届けようと思った。だが、足が動かなかった。 帰り道の途中で、何度もノートの存在が気になって、バックの中にある確かな質量を確かめた。
人間とは不思議なもので、恐怖よりも好奇心の方が長持ちする。いや正確には、恐怖を覆い隠して見えなくするのが、好奇心なのかもしれない。
家まで帰ると、部屋は薄暗く、蛍光灯が揺れていた。机にノートを置いて、ぼーっと眺めた。 まるで中に、僕の知らない世界が存在しているような気がした。
風が吹いて、ページが一枚だけ勝手に開いた。
最初の行に、僕の名前があった。
『九月一日十九時十三分 襲はノートを開き、この文字を読む』
脳髄が溶けた鉛で飽和した。ような気がした。
人は皆、血の気が引くという表現を聞いて、激しい心境の変化を垣間見るかもしれない。だが実際、血の気が引くという現象はとても静かだ。
これは偶然だ。そう信じたかった。 けれど、時計を見ると、まさに十九時十三分を指していた。
ノートを閉じた。その拍子に、風でカーテンがヒラリと浮かび上がり、奥のページがめくられた。これが風の便りだということか。 ちらりと見えた最後のページの前のページ。
そこには僕の名前がもう一度書かれていた。
『九月八日十三時五三分 襲は死亡する』
息が詰まった。息が止まった。酸素が薄い。部屋の隅々に蝶が渡っていくような。ふと笑みが溢れた。あまりにも、出来すぎている。まるで、世界の外側にいる誰かが僕の人生を脚本に一つの映画を綴っているようだ。この世界は見知らぬ誰かの創作物に過ぎないのだろうか。
それでも、その夜、ノートを枕元に置いて眠った。
怖くて読めないくせに、手放すのが惜しかった。
人の愚かさは、恐怖をコレクションすることにある。人は恐怖を集めて、哲学を書きおこすのだ。
僕はその夜、夢の中でもページを捲っていた気がする。
この本に書かれたことすべてが真実で、それに沿って生きるしかないのか。7日後まで劇場で独り、フォークダンスに身を任せるしかないのか。そんなことを考えながら、いつのまにか眠りに落ちた。
それが、何度洗っても色褪せない喜劇の始まりだった。




