第3話 禁書盗難の日(夜)
第一章: 『ノワリクト』脱出編
コウダの背中が小さくなるまで見送り、ナコはその場に立ち尽くしていた。
住宅街の空は、淡い夕焼けから群青に変わりかけている。銀河中央区の夜は人工照明が強く、星の瞬きはわずかしか見えない。それでもナコは、空の向こうにアゲハがいる気がして、しばらく視線を離せなかった。
——アゲハを助けたい。
その思いが胸の内で何度も形を変え、やがてひとつの像を結ぶ。
ナコは鞄から携帯通信端末を取り出し、アゲハとのメッセージ履歴を開いた。最後のやり取りは昨夜の二十三時過ぎ。
『明日さ、食堂で新メニュー出るんだって』
『マジ? じゃあ昼はそれだね』
たったそれだけの、他愛もないやり取り。
それが、もう遠い過去のように思える。
家路を歩きながら、ナコは自然と足を遅めた。
ふと、脳裏にジャコウの姿が浮かぶ。
初めて会ったのは二年前。アゲハに誘われてカグラ家に遊びに行ったとき、台所でエプロン姿の彼が出迎えてくれた。
「アゲハの友達か。ナコちゃん、よく来たね」
低く穏やかな声と、少し照れた笑顔。それが第一印象だった。
ジャコウは銀河中央図書館の書庫管理課に勤めていた。地味な部署で、華やかさはないが、古文書や禁制資料の取り扱いにも関わる責任ある仕事だった。
彼の語る図書館の話は面白く、ナコは何度も聞き入った。ときには銀河全域の伝承や、現存しない惑星の記録を話してくれたこともある。
——あんな人が禁書なんて盗むはずがない。
『禁書』
それは銀河中央図書館の最奥、「神格の間」に厳重に保管される、最高機密中の最高機密だ。
歴代の元首と限られた高官しか閲覧を許されず、そこに記された内容を知ることは、事実上「国家の核」を握ることを意味する。
何が書かれているのか、禁書という名の通り書物なのか、別の媒体なのか、そもそも概念なのか……一般市民は知らない。ただ、禁書に触れた者は全員、狂ってしまう——そんな都市伝説だけが広まっている。
「神格の間」の警備は、文字通り銀河最上級だ。
七重の生体認証と、時刻ごとに変化する暗号キー。加えて常時二十四時間、警備兵と監視ドローンが巡回し、外壁は量子分子シールドで覆われ、分子レベルでの侵入検知も行われる。
ジャコウのような一般職員がそこに入るには、何十段階もの許可が必要で、単独で禁書を盗み出すことなど物理的に不可能——そのはずだった。
だが現実には、禁書は消えた。
そして同じ時刻を最後に、ジャコウの行方は途絶えた。
この事実だけで、政府は彼を犯人と断定し、銀河国際手配をかけたのだ。
さらにニュースは冷酷だった。
「一週間以内にジャコウ・カグラが禁書を持って出頭しなければ、その唯一の家族であるアゲハ・カグラを、最地下牢獄に終身刑として収監する」
その映像で、両脇を銀河警察官に抱えられ、無言で歩くアゲハの姿が流れた。
抵抗はしていなかったが、彼女の瞳は強く、揺るがなかった。まるで——ナコに何かを託すように。
ナコは帰宅すると、部屋の照明を落とした。
机の引き出しから、一冊の古いノートを取り出す。表紙は擦り切れ、銀河共通語ではない文字がびっしりと記されている。
それは二年前、ジャコウが何気なく手渡してくれたものだ。
「図書館に勤務していると、色々と興味深いことが多くてね。このノートは僕が気になったことをその場その場でメモしたものなんだ」
ページをめくると、不明瞭な地図や、数字の羅列、そして——見たこともない単語が並んでいた。
その一つに、ナコは息を呑む。
『地球』
——禁句。
誰も口にしないその言葉が、なぜここに。
ナコは手が震えるのを感じながらも、視線を逸らさなかった。
「興味あるかい?」
ジャコウの優しい声に、ナコは「気になります」とだけ答えた。
するとジャコウはにっこりと笑って「うん、じゃあこれはナコちゃんにあげるよ」と言って、ノートを手渡してくれた。
ジャコウがあの時、このノートをナコに託した理由は特になかったのかもしれない。だけど、今はこのノートに書かれていることこそが、何かこの事件の糸口に繋がっているかのように感じている。それは漠然とした感覚のようで、でも確かな温度を持っていた。
胸の奥で何かが決壊する。
恐怖も迷いも、すべて押し流す勢いで、ひとつの感情だけが残った。
——アゲハを助ける。ジャコウの無実を証明する。そして、この「地球」という謎を暴く。
窓の外では、夜空にわずかな星が瞬いている。
ナコはその光を見上げ、静かに呟いた。
「必ず、助けるから」
第4話『アゲハ救出計画(前編)』に続く。




