第1話 禁書盗難の日(朝)
第一章: 『ノワリクト』脱出編
惑星系グリージュポイント・エストリプス銀河最大惑星『ノワリクト』
その中層域に位置する銀河中央高校は、エストリプス銀河中の若者が集う学び舎であり、普通科の授業と並行して、超空間航行学や量子倫理学、銀河間外交史など、多種多様な科目が学べる名門校だ。言語は銀河共通言語で統一され、卒業生にはノワリクト銀河政府の要人も多い。
銀河中央高校の朝は、いつも同じ光景から始まる。
透明なドームに覆われた校庭には、青白い光を放つ人工太陽が昇り、朝霧のような薄い防塵フィールドが風に揺れる。浮遊式の昇降機が生徒を各階に送り込み、廊下にはそれぞれの制服が色とりどりに流れていく。
その教室の片隅で、ナコは机に肘をつきながら、扉の方をちらちらと見ていた。
いつもなら、あの軽い足取りがすぐに聞こえてくるはずだった。
アゲハは時間に正確な人間だ。朝礼の二十分前には席に着き、持ってきた朝食パックを少しずつつまみながら、ナコに「今日の天気予報、信じていいと思う?」なんて取りとめもないことを言う。それが当たり前の朝だった。
けれど、その姿がない。
ナコは携帯通信端末を取り出し、親指で連絡アプリを開く。
《おはよう。もう学校着いた?》
送信。画面の隅に浮かぶメッセージは、既読の印が付かない。
眉をひそめる。
アゲハは体調を崩しても必ず連絡を寄越す。寝坊するタイプでもないし、無断欠席など一度もなかったはずだ。
ホームルームのベルが鳴り、担任が出欠を読み上げる。
「アゲハ・カグラ、欠席……連絡なし」
その一言が、ナコの胸に小さなざわめきを広げた。
午前の授業は、集中しているふりをしているだけで過ぎていった。
銀河史の教科書が目の前に開かれていても、文字はただの模様にしか見えない。時折、机の中で端末をのぞいては、新しいメッセージが来ていないことを確認して、溜息をつく。
——帰りにアゲハの家に寄ってみようか。
そんなことを考えながら、昼休みのベルが鳴った。
ナコは学生食堂に向かう。
吹き抜け構造の食堂は、上階から差し込む人工光が白く広がり、長い行列が各売店にできている。空中スクリーンには娯楽番組やスポーツ中継が映っていたが、不意に、全ての画面が緊急ニュースの赤い警告枠に切り替わった。
《緊急速報》
硬い声のアナウンサーが、事務的な口調で読み上げる。
「本日未明、銀河中央図書館に保管されていた最高機密『禁書』が盗まれる事件が発生しました。容疑者は図書館勤務のジャコウ・カグラ氏。関係者によりますと——」
ナコの耳に、ざわりと冷たいものが走る。
ジャコウ・カグラ。アゲハの兄の名前だった。
映像が切り替わる。図書館の外観、警備ドローンの群れ、そして高層ビルの最上階から見下ろすように銀河中央図書館の姿が映し出されている。画面右下には、たくさんの報道陣が集まってきているのが見えていた。
アナウンサーの声が続く。
「銀河中央図書館の『禁書』は、この世界の機密として、代々政府の最高機関が銀河中央図書館第七層『神格の間』に保管してきました。『神格の間』は最上級のセキュリティが施され、侵入・持ち出しは不可能とされてきましたが……」
ナコの頭に、聞いたことのある噂話が浮かんだ。
『神格の間』は、七重の生体認証と、時刻ごとに変化する暗号キーによって守られている。さらに、外壁は量子分子シールドで覆われ、搬出口は存在しない——それが、この銀河で最も堅牢な場所とされてきた。
しかし、画面のテロップは事実を告げている。
禁書は消え、同時にジャコウも行方不明となった。
「なお、ジャコウ・カグラ容疑者は現在、銀河国際手配中です。さらに——」
そこで画面が切り替わった。
ナコは息を呑む。
映っていたのは、両腕を拘束され、銀色の拘束服を着せられたアゲハだった。顔は強張り、唇を固く結んでいる。両脇には黒い制服の銀河警察官が立ち、映像の下に字幕が流れる。
《ジャコウ・カグラの妹、アゲハ・カグラを最高検察庁へ連行》
《一週間以内にジャコウが禁書を持って出頭しない場合、アゲハを最地下牢獄にて終身刑》
——何それ。
喉の奥から声にならない言葉が漏れた。
アゲハの兄が、禁書を盗み出すような人間だとは思えない。
ナコは何度もジャコウに会ったことがあった。少しぶっきらぼうだが、妹思いで、今では見かけることも少なくなっている紙でできた本を愛し、冗談を言うときには静かに笑う——そんな人だった。
どう考えても、彼があの鉄壁の『神格の間』から禁書を盗み出すなんて不可能だ。
『禁書』というのが、実体があるものなのかデータなのかは分からないが、きっと別の犯人がいて、ジャコウは何かに巻き込まれた。そう考えるのが普通だろう。
それなのに政府は、証拠もろくに提示せず、国際手配までかけている。
胸の奥に、黒い違和感がじわじわと広がった。
——何かが裏で動いている。
それは漠然とした確信だった。
もし、このまま一週間が過ぎれば、アゲハは一生、光の届かない最地下牢獄に閉じ込められる。
そんな未来、絶対に許せない。
ナコは握った拳に力を込めた。
——私が助ける。
心の奥で、小さくても鋭い決意が芽を出した瞬間だった。
第2話『禁書盗難の日(昼)』に続く。