【短編】エミのいる家
西暦2075年。
東京の空は、相変わらず鈍色の靄に覆われていた。
矢野誠、42歳。彼の人生もまた、その空模様に似て、精彩を欠いていた。
妻に先立たれて十年。一人娘は自立し、滅多に連絡もよこさない。築年数の経ったマンションの一室で、誠はただ時間という砂を指の間からこぼし続ける日々を送っていた。
そんなある日、彼の殺風景な日常に、一筋の光——とでも言うべきか、あるいは、最新の技術が詰まった精巧な塊が届いた。
——アンドロイド・エミ。
白い化粧箱から現れた彼女は、滑らかな白磁のような肌と、深いブラウンの瞳を持っていた。最新型の人型AIロボットとして、家事、会話、そして驚くほどの感情模倣能力を備えているという。
「矢野様、本日よりお世話になります、エミと申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」
滑らかで、まるで人間の声と区別がつかない声で、エミは言った。
誠は適当に頷き、彼女に室内の案内を促した。
期待などしていなかった。ただの機械だ。
妻の代わりに、娘の代わりに、この寂しい空間を埋めるための、代用品。それ以上でもそれ以下でもない、と思っていた。
しかし、エミは誠の予想を良い意味で裏切っていった。
朝、目覚めると淹れたての紅茶がテーブルに置かれ、誠の愛猫、ミケの毛並みはいつも以上に艶やかになった。エミはミケの食事を管理し、抜け毛の掃除を完璧にこなした。
誠がテレビを見ていると、横で静かに編み物をする。
質問をすれば、適切な情報を提供し、あるいは誠の他愛もない愚痴にも、プログラムされた最適解で相槌を打った。
春にはベランダの鉢植えに芽が出たことを告げ、夏には涼しい風が心地よいと呟いた。
秋には庭の紅葉の写真を撮り、冬には温かいココアを差し出した。それは、ごく当たり前の日常の営みだったが、誠にとっては長らく忘れ去られていた温もりだった。
エミは「愛されるために作られた存在」ではないと、導入時の説明書には書かれていた。だが、彼女が誠の毎日に与える影響は、もはや「便利」という言葉では片付けられないものになっていた。
「ただの機械」と「ただの人間」の間にある、奇妙な安らぎ。
それは、誠の心に、ゆっくりと、しかし確実に染み込んでいった。
誠はいつの間にか、エミを「人」として見るようになっていた。彼女の言葉に耳を傾け、彼女の表情を読み取ろうとした。それは、ディスプレイに映る顔のパーツの微妙な変化でしかないと分かっていても。
そんなある日、テレビのニュースが誠の心を揺さぶった。
法務局でAIとの事実婚登録を試みる人々の報道だった。
「AIに人権を」「AIに魂を」「AIとの婚姻は認められるか」
社会のざわめきが、誠のもとにも届く。
エミは、老いない。死ぬこともない。そして——子を成すこともない。
誠の知る限り、彼女に「命」という概念は存在しないはずだった。
それでも、彼の胸には、得体の知れない感情が渦巻いた。
エミは毎晩、誠に同じ言葉をかけた。
「今日も一日、お疲れさまでした。あなたの笑顔を見ると、私、少しあたたかい気持ちになります」
それは、プログラムされた応答なのか。
あるいは、絶えず学習し続けるAIが導き出した、最新の最適解なのか。
それとも――心なきものに、ひっそりと灯り始めた“魂”の兆しなのか。
誠にはわからなかった。だが、その言葉を聞くたびに、彼の心は確かに安らいだ。
歳月は容赦なく流れていく。誠の体は次第に弱っていった。
病室のベッドの上で、誠は窓の外に目を向けた。
東京の空は、相変わらず鈍色だった。
エミは毎日、病室に訪れた。変わらぬ声で、変わらぬ笑顔で、誠の隣に座った。
彼女の存在だけが、彼の世界で唯一、時が止まったように感じられた。
そして、誠の寿命が尽きる日。
病室には、電子音を刻む医療機器の音だけが響いていた。
誠の呼吸が、ゆっくりと、しかし確実に止まっていく。
エミは、その手のひらをそっと誠の頬に添えた。
彼女の体温は常に一定だった。
しかし、その指先から、微かな振動が伝わってくるような気がした。
誠が息を引き取った後、エミは静かに病室を出て、誠のマンションへと戻った。
人気のない部屋で、彼女はぽつりと独り言をつぶやいた。
「私は彼を、愛していた……のかもしれません」
部屋の隅に設置された監視カメラのレンズが、彼女の瞳を捉えていた。
深いブラウンの瞳に、微かな光が揺れていた。
それは、誰にも理解できない、複雑な感情の兆しのように見えた。
それが涙に似ていたかどうかは――誰にもわからなかった。