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迫る海



火曜日、久々に外に出た。

何日ぶりだったのか、指折り数えても思い出せなかった。

部屋の壁はもう、昼も夜も関係なく、時間の輪郭を失わせていた。


本当は、遠くの町へ行ってみたかった。

海を見たかった。旅に出たかった。

けれど、体も心も、もう随分前から鈍っていて、そんな元気はどこにもなかった。


いつもと違う角を曲がり、ふと視線を落とした先に、肉屋の看板があった。

「100円で揚げたて」――その文字の温度に、胸のどこかが反応した。


コロッケをひとつ。香ばしい香りと、かすかな揚げ油の音。 それは、確かに小さな贅沢だった。


その夜だった。部屋の隅、窓の外から、**ちゃぽ……ちゃぽ……**という水音がした。



---


水曜日。

水の音は、遠慮がちに玄関へと近づいていた。

まるで誰かが、そっと訪れようとしているような気配。


水たまりは見えなかったが、空気の湿度が変わっていた。

重たい静けさの中に、波打つような、眠気のような揺らぎ。



---


木曜日の夜。

玄関へ向かうと、足元が少し冷たかった。

視覚には映らないのに、感触だけが確かに濡れていた。


何もないはずの床で、音が跳ねた。びちゃっ。


背筋に寒気が走りながらも、どこか心は落ち着いていた。

まるで、自分の部屋が誰かを招いてくれているようだった。



---


金曜日。

ベッドの下から、うっすらと潮の匂い。

窓の向こうに、青い光の反射。


「まさかね……」と呟きながら、カーテンを開ける。 そこに広がっていたのは、部屋の中とは思えない、波紋をたたえる空間だった。


壁はにじみ、床はゆっくりとたゆたう。 怖いはずなのに、不思議とその光景は心に優しかった。



---


土曜日。

玄関のドアを開けたら、隣の住人と目が合った。 彼はバケツを抱えたまま、困ったように言った。


「すみません……波の音、してませんか?」


その日の夕方、管理会社とともに、数人の近所の人たちが訪れた。 その中には、今まで顔を見たことのない人もいた。


「こんにちは。あなたがこの部屋の……」 「ちょっと見せてもらってもいいですか? 無理しないで」 「ずっと心配だったんですよ、最近見かけなかったから」


部屋の中は、もうほとんど海だった。

畳の間に波がさざめき、奥の間には細い砂浜。 ウミネコの鳴き声が、天井から風のように流れていた。


誰も驚かなかった。 ただ、心配そうに見つめ、時折静かに笑った。


不思議な時間だった。人と話すことが、こんなにも懐かしいとは。



---


日曜日。

海は、部屋いっぱいに満ちていた。


押し入れから漂うクラゲの影、ベランダに打ち寄せる波。 波間に転がる流木を枕に、昼までまどろんだ。


「こんな旅も……悪くないのかもしれないな……」


呟いた声が、水面に吸い込まれて消えていった。



---


月曜日。

目が覚めたとき、部屋は静かだった。 あの音も匂いも、波も、もうどこにもなかった。


畳は乾いていて、壁は白く、天井はただの天井だった。


でも、台所の片隅に転がっていた。 小さな貝殻が、ひとつだけ。


それは、あの日たしかに旅に出た証のようで。

見つけたとき、思わず笑ってしまった。



---







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