婚約者は土の王様
『婚約者は蛇の貴公子』の後日譚になります。前作を読んでいただいた方が分かりやすいかと。
前作のエリカとユーゴもほぼ出ずっぱりです。
今回は蚯蚓が頑張っているので、苦手な方すみません。蛇もちょろっといます。
女学院で親しくなったエリカから外出に同行して欲しいと頼まれたのは夕べの事だった。
私はオリーブ・モレル。もうすぐ十六歳。王都にある女学院に在籍している男爵家の娘だ。
一応は貴族令嬢ではあるものの、貧乏男爵家の第六子で三女の末子。貴族としては終わってるに近い。何せ婚約者もいないから、貴族を名乗れるのは女学院を卒業するまででしかない。奇跡のように見初められたりしない限り。そしてそんな夢物語はお伽噺の中にしかないと思い知らされて育った。
それでも今はまだ男爵令嬢なので、貴族の令嬢の入学が義務化している女学院に去年の秋より在籍中。
貧乏男爵家の私と違って、裕福な子爵家の令嬢が寮の隣室だと知った時は、どう接したらいいかと悩んだことが今となっては馬鹿らしい。エリカは令嬢の皮を被った野生児だった。
普通、寮裏の雑木林でするすると木登りする令嬢はいない。更に樹上の果樹をもいですぐに齧り付くのも令嬢としてはどうかと思う。果樹は私のだと差し出された分はありがたく美味しく頂いたが。私は自分の事を令嬢だと思った事がないから良いのだ。
私とて木に登れないとは言わない。ただ制服を汚したくないから登らない。服と言えば姉達からのお下がりばかりだった私に誂えられた唯一のものが制服だったから。彼女のように何枚も用意されているわけではない貴重品なのだ。
「私、外出用のドレスなんて持ってないんだけど」
「制服でいいじゃない。学則にも『外出時は華美な装いを避け、なるべく制服を着用すべし』ってあるし。オリーブが制服なら私も制服にするし」
エリカは本当に飾らない。顔立ちも可愛らしいし、着飾ったら似合うと思うのに。言動も飾らない。きっと野生児だから。けれどそんな彼女に救われている自分もいる。
そんなエリカが幼い頃からの婚約が破談になったと駆け込んで来たのはつい先月の事。てっきり被った猫を落としたせいかと思ったら、彼女の愛蛇が原因だった。内心、普通の貴族家で大人しく奥様するのは無理じゃないかと思っていた事は秘密である。友情は全てを話すことではない。
驚いたのが何と破談になった当日に次の婚約を決めて来た事だ。蛇が原因で破談になり、蛇が原因で縁が結ばれたとか訳が分からない。お相手は蛇神を祀る第二神殿の神官騎士と聞いた。神殿で婚活すると言った側からだったので、その行動力が怖いと思った。
この国はそもそも荒れ地が広がるばかりだったところに、他国から追放された初代国王が興されたものだ。その際に加護を与えて王を守り助けたのが四柱の土地神様たち。烏・蛇・蚯蚓・蜘蛛の四柱は人からは忌避されることが多く、人からの信仰を持って力とする神としては弱い存在でいらっしゃった。けれどその恩に報いて、建国後に国神、主神として祀られたことで大きく力を付けられたという。初代王に手を貸された順に第一神、第二神などと呼ばれるが、あくまでも四柱の差はなく、等しく主神とされている。他国では人と神の間は遠いものらしいが、この国ではかなり近しく、そのお力を感じることも多い。何せ神の御子孫が今もおられるのだから。
「それでね、ユーゴ様とお出掛けする時にお友達も来られることになったのよ。だからユーゴ様が私も友達を誘ったらって言ってくださって」
ユーゴ様というのが彼女の新しい婚約者だ。先の婚約者に対しては関心がまったく無さそうだったけれど、どうやら今回は上手くいっているようだ。
「仲良くやってるみたいで良かったけど、それで私?」
「うん。オリーブが一緒に来てくれたら嬉しいなって」
話を聞くと行き先は王都郊外にある有名な湖。景色が良いことで知られており、貴族だけでなく庶民にも愛されている行楽地だ。もちろん私は行ったことがない。
「湖までの往復は先方が馬車を用意してくれるし、湖上での船遊びも手配済み。当日の昼食に途中の軽食もあるって。ユーゴ様のお家の料理人はすっごく腕がいいから食べないと勿体ないよ!」
それはつまり、当日にこちらの出費はないと言うこと。小遣いの少ない私には嬉しい話。しかも食べ物は口の肥えたエリカのお墨付き。更に、親友の新しい婚約者を見定められる好機となれば、行かない理由が私にはなかった。
―――この決断が以降の私の運命を大きく変えることになる。
湖に向かうその朝、寮できっちり朝食を取ってから女学院の門へと向かう。二人共に制服姿である。門を抜けた途端に何か見つけたらしいエリカは走り出すが、私だけでなく被っていた猫さえ置き去りになる全力疾走。エリカに置いていかれた猫は仕方ないので私が被ろう。初対面の相手の前だ。猫は何匹被ってもいい。
門から少し離れた場所に止められていた馬車の前で、エリカがしきりと話しかけているのがお相手だろう。立ち姿が姿勢よく凛としていて、戦える人だとそれだけで主張しているよう。こちらに気付いたようで挨拶される。
「はじめまして。神官騎士のユーゴです」
「こちらこそはじめまして。エリカの友人でオリーブ・モレルと申します」
声がいい、顔もいい。品格もある。間違いなく高位貴族の出身と見た。そしてエリカを見つめる眼差しに多分、愛がある。おそろしいほどの優良物件……を手懐けたらしいエリカがもっと怖い。
お互い名前で呼び合うことを了承して、馬車に乗り込むことになった。いちいち家名で呼ばれるのも面倒であるし、そも神官や神官騎士は家名を名乗らないものだから。
しっかりした箱型の馬車は見た目は飾りすらなかったが、中は我が家のおんぼろ馬車とは雲泥の差。床にも絨毯があり、座席もふかふか。向かい合う座席の奥には、既に座っている人がいた。
奥に詰めてとエリカに言われるまま、先乗者の前に座って観察する。その人物は座っているのではなく、眠っているのだとすぐに分かった。穏やかな寝息が漏れていたからだ。
「マエル、いい加減に起きてくれ」
「本当に起きませんねー」
ユーゴ様に肩を揺すられてもまったく起きる様子はない。
「すまない、オリーブ嬢。湖に着く頃にはさすがに起きると思うので、紹介はその時に改めて」
馬車の壁に凭れて熟睡するその人は、長い髪が顔に被さっているため、どんな顔立ちかも見えない。
「私にとっては友人でもあるが頼りになる兄のような人なのだが」
ユーゴ様は私たちより三歳上と聞いているので、それよりは年上なのだろうな、というくらいしか、眠れる貴人の情報は得られなかった。
湖までは馬車で半刻もかからずに着いた。けれど私にはとても長く感じられたものだ。というのも、この婚約者同士のふたりが、予想以上に仲が良くて、どうにも居たたまれなくなってしまったからだ。制服が踝丈でなく床まで届く長さだったら、こっそり蹴飛ばして眠れる人を起こしたいと思うほどに。……帰りは絶対に起きていてもらおう、そう誓った。
未婚の貴族男女が付添人もなしに共にいることを許される数少ない例外が馬車だ。純粋に付添人まで同乗すると狭いからという理由で。おまけにこういった馬車は厳密には密室ではない。座席の上の一枚の布の向こうは御者席になっている。
我が国の箱馬車がこういう形状になったのは、悪天候や気温、襲撃さえ寄せ付けない結界の<加護石>が馬車に設置されるようになってからだという。<加護石>は文字通り神の加護が込められた石。結界の<加護石>はどの神殿でも得られる。有償であるのは仕方ない。神殿にだってお金は必要なのだから。
眠れる人は目的地に着いて強引に起こされた。さすがに馬車から降りなければならなかったから。ユーゴ様に引きずられるように放り出されては、どれほど深い眠りであっても醒めるだろう。
「すみません、ご令嬢方にご挨拶もせず礼を失してしまいまして。第三神殿にて神官を拝命しておりますマエルと申します」
湖の畔、さわやかな風を受けて流れるその人の髪は乾いた砂の色に似ていた。柔和な笑みのため細められた瞳は何色だか定かではない。少しおっとりとゆっくりと言葉を紡ぐ姿は、育ちの良さを告げている。人が神官と聞いて思い浮かべる人物像に近い雰囲気だ。穏やかそうで優しそうで話をじっくり聞いてくれそうな。今は仕事中ではないからか、神官服ではないが、印象の似た裾まであるゆったりした長衣が似合っている。ややくすんだ青一色の、決して華美ではない長衣だが、生地そのものが良いのか、とろりとした光沢があった。
「マエルは見た目の印象通り、身体を動かすのは得意ではないが、昔からやたらと釣りは上手くて」
馬車から離れて湖へと向かいながらユーゴ様が話し始める。彼が今回の主催ということもあるだろう。マエル様もおっとり同意する。
「はい。今日のメインはお任せくださいね」
「君たちはどうする? 一緒に釣りをするなら用意してあるし、水辺を散策してもいい」
「はいっ! 釣りしたいです!」
エリカがやりたいと言うならば、ユーゴ様も離れないだろうし、私ひとりが散策するとも言い難い。そのまま四人で少し湖に突出した岩辺まで移動した。先行していたユーゴ様の家人が準備していてくれたらしく、岩場には布が四本の柱に掛けられた日除けがあり、敷物や簡易の椅子まで用意されている。
それまでの緩慢な動きが嘘のように、マエル様は誰よりも早く使用人から釣り竿を受け取って椅子を置く場所を指示している。そうして流れるように釣り針に餌をつけて水面へと竿を大きく動かした。
岩場から湖面まではやや距離があり、思わず覗き込んでしまう。岸辺のあたりは水草も多く、緑に揺蕩う様子に底までの深さは分からなかった。
「あまり前に出ると危ないですよ」
「あ、はい。気を付けます」
「餌は私がつけましょうか? 女性は苦手な方が多いですし」
やんわりと私に注意を促したマエル様の手元には小さな壺があり、そこには水辺に多い虫が蠢いている。やはりこういう場合だと生餌になるよねえ、とか思いながらさっと一匹つまみ上げた。
「ありがとうございます。でも平気なので」
可愛げがなくて申し訳ないと思いながらもさくっと針に刺す。そのまま釣り竿を大きく振った。
「頼もしい。経験者だったのですね」
「はい。実家近くの川で兄や甥と……」
マエル様に答えつつ振り返った私が見たのは、既に一匹釣りあげて魚を手繰り寄せている姿だった。
「は、はやくないですかっ!?」
「釣りは得意なんです」
魚の口から針を抜いて、彼はさっきまでそこになかったはずの生簀に放り込む。本当にいつの間に作られたのか。しかも、しっかり水まで張ってある。
「この生簀、今作られたんですか!?」
「はい。ないと不便でしょう?」
一応私も、両親共に貴族だから、そこそこの魔力は持っているけれど、所詮は下級貴族レベル。ちょっと生活上であれこれ使えて便利、程度である。しかも、こんなにさらっと使うあたり、やはりマエル様は高位貴族の出身なのだろう。そんな人と同席していていいのかと思わないでもないけれど、やっていることは釣り。ならば公式の場所でもないしきっと許されるだろう。そう気を取り直して自分の手の中の竿に意識を戻した。
昼に近づくにつれて日差しは徐々に強まるが、湖面から吹き上げられてくる風が心地よい。こんなにのんびりとしたのは女学院に入ってから初めてだ。蕩けるような時間の流れの中で解放感が支配する。
「ユーゴ様には負けませんからね!」
「私も釣りは下手ではないんだが」
「勝負ですよ! 私が勝ったら―――」
少し離れた場所で釣りを始めた婚約者同士の気のおけないやり取りが聞こえてきて、ずっと自分のものにはならないと諦めて押し込めていた感情が溢れそうになる。
なんだろう、これは。
(嫉妬、に似ているような、何か違うような)
けれど表に出したところでどうにもなりはしないのだからと、少し重く感じる胸から意識を逸らすように次の餌を付けて釣糸を投げた。
釣りというのは、必ずしもやったからとて釣果を得られる作業ではない。変に焦っても餌だけ取られることも多い。かかったと思っても、魚以外のものだったりする。
何が言いたいかというと、マエル様の腕前が異常すぎた。
私がようよう人差し指くらいの大きさの魚を一匹釣りあげる間に、簡易生簀には既に五匹以上泳いでいる。
「あの、どうしてそんなにお上手なんですか?」
今まさに大物の鱒を釣り上げた隣の人物に疑問をぶつけずにはいられなくなった。
「自分でもよく分かりませんが。そうですね、多分、相性ではないかと」
「相性、ですか?」
「絶対に釣り上げる、と意気込むよりも、釣れればいいなくらいの気持ちでいると、よく釣れる気がします」
「そういうものなんですか」
新たに垂らした自分の釣糸の先を眺める。釣りって、やっぱり魚が釣りたいからやるのであって、いいな、くらいの気持ちではやる意味がないような。
「短気と焦りは禁物です」
「それはマエルにはないものだな」
マエル様の様子を覗きに来られたらしいユーゴ様が口を挟んで来られた。
「おや、どういう意味です、ユーゴ」
「マエルは何をするにも気が長いし、焦っているところは見たことがない」
「んー、気は長い方かもしれませんが、私だって焦ることくらいありますよ」
「たとえば?」
「末っ子がちゃっかり他の兄よりも先に相手を見つけてきた時とかですかね」
「それは神のお導き、いや采配だろう」
兄のようなと馬車内で聞いたがマエル様の方もユーゴ様は弟扱いらしい。この場合、ユーゴ様がエリカと婚約したことだろうけれど、話の流れからするとマエル様に婚約者がいないととれる。高位貴族は下位貴族に比べて婚約が早いそうだけれど。何か事情があるのかもしれない。
「うわっ、これマエル様が釣った分ですか!? 絶対勝てないじゃないですか!」
ひょいと生簀を覗き込んだエリカの声が驚愕に彩られている。隣で見ていても信じられないほどだから彼女の気持ちもよく分かる。けれどエリカは、どうやら今度はマエル様に対抗意識を燃やしたらしい。
「ユーゴ様、銛とか持ってきてらっしゃいません? 私、そっちの方が得意です」
およそ令嬢らしくない方向に。
「銛? 家人に聞いてみるが」
「ちょっと、やめてよエリカ! 制服で銛はやめて!」
「大丈夫よ。この制服、結構丈夫なのよね」
婚約者だけじゃない他の男性もいる場所で、猫はどうしたどこに投げた。ユーゴ様も野生児を甘やかさないで!
「第四神殿で祝福された糸が使われていますね、その制服」
神官だとそういうことも分かるのかマエル様が指摘されたが、焦っているのが私ひとりなのはどうかと思う。
第四神殿は蜘蛛神を祀っており、そこで祝福された糸で作った衣類は丈夫なことで知られていた。様々な加護も込めやすいらしい。
学院は心身共に在校生を守ることを第一に掲げているけれど、制服までそうとは思わなかった。卒院生でもある姉たちがこの制服はすごく高いのだと言ってたが、材料のせいもあったようだ。
思い返すと、冬場でも制服だと厚着しないでも問題なく過ごせた。今も濃い色の長袖だというのに、初夏の日差しの元快適そのものだ。温度調節がされているのか、それとも馬車のように簡易の結界が込められているのかもしれない。
「それでなんですね! 木登りしても解れないし」
「エリカ! 一応、あなただって令嬢なんだって思い出して!」
「んー、着替えたらいいの?」
「違うでしょう、そうじゃなくて!」
きっとエリカは制服でなくとも木登りくらいするだろう。けれど少しは隠そう! せめて異性の前くらい!
「すまないエリカ。銛は用意していないようだ」
本当に使用人に尋ねたらしいユーゴ様もどこかずれている気がしてきた。エリカを自由にさせ過ぎではないですか?
「残念です。銛ならマエル様に対抗できるかと思ったんですが」
「私に対抗する必要はないかと思いますよ」
「こんなに差をつけられる予定じゃなかったので!」
マエル様はそれまでとは少し違う、悪戯を思いついたような表情でユーゴ様を見やった。
「いざとなれば奥の手がありますよ、ユーゴに」
「奥の手! 教えてください、ユーゴ様!」
打てば響くようにその言葉に反応したエリカがユーゴ様に期待の眼差しを向けていた。対して、ユーゴ様の表情は少々渋い。そんな顔でもかっこいいのは少しずるくはないだろうか。
「マエル、それは最早釣りじゃないだろう」
「ユーゴはエリカ嬢に甘いようですし、良い所を見せたいのではないかと」
「はい! 見たいです!」
「あー、そのうち?」
誤魔化すユーゴ様と纏わりつくエリカが少し離れたので、その隙に声を潜めてマエル様に聞いてみる。奥の手とか言われたらエリカでなくとも知りたくなる。
「あの、マエル様? 奥の手って何ですか?」
「ユーゴは水魔法が得意なんです。ですから、いざとなれば湖の水を割ったり引かせたりもできますよ」
それは、得意と言っていいレベルじゃない。達人、いや、それ以上というか。エリカが知ったらきっと見たがるだろう。私は……そこまでいくとちょっと怖い。
「第二神殿は水の加護がありますからね」
第二神殿が祀るのは蛇神。水を司る神だ。そちらに仕えるユーゴ様が水魔法を得意とするのもそのせいかもしれない。
「マエル様の第三神殿はたしか」
「土の加護、大地の加護ですね」
記憶を辿っているとマエル様が答えてくださった。
「第三神殿は豊穣のご利益があるから、農家に信者が多いですよね。私の実家の方でも一番参拝者が多いのが第三神殿の分殿なんです」
四柱の神を祀る本神殿は王都にあるが、その分殿は各領地にある。場所によってはひとつの神殿に祀られていることもあると聞くが、一応実家の領地ではそれぞれに小さな神殿があった。第三神殿が祀るのは蚯蚓神。
「オリーブ嬢のご実家の方では農業が盛んなのですね」
「はい。うちは貴族とは名ばかりの、ちょっと規模が大きい農家みたいなものですから」
子供の頃、兄姉にも構ってもらえなかった時にはよく訪ねていたと思い出す。神殿は邸からも近く、一番馴染があったから、第三神殿の分殿の神官様たちに遊んでもらったりもした。そのせいか、初対面なのにマエル様には話しかけやすい。
「オリーブは土壌の改良とかも頑張っているんですよ」
エリカが割り込んで言わなくてもいいことを告げる。領地の生産性を上げるためにどうするかという課題のために、実家でやっていたことを発表したことがあったのだ。
「うちの土地って全体的に痩せているから肥料の見直しとかもしていますが、まず土を肥やしたいと思って。その、まだあまり成果は出ていないんですけど」
「後でオリーブ嬢のご実家がどのあたりか教えてください。神公家の巡回から漏れている可能性がありますからね」
四神の子孫でもある四神公家の方たちには、それぞれが神のお力を継いでいらっしゃるために、王都から離れて地方の神殿を巡られ、守護の力を注いでくださるというお役目があるのだとか。けれど記憶にある限り実家に巡って来られた覚えはなかった。私が生まれる前にあったとしたら、随分年数が経っていることになる。
「どうやら準備ができたようだ。昼にしよう。皆、こちらへ」
エリカの追及から逃れるためか、同行の使用人の方に行っていたユーゴ様が戻ってこられて、私達はそれぞれの作業を止めて移動することにした。気が付けば太陽は天空高く真上にあり、思い出したように空腹を感じた。
湖を見下ろす少し小高い場所に、釣り場にあったのより大きな日除けの布の下、持ち込まれた長机と椅子。そこには私達四人用の席が設けてあった。その用意周到さに驚くが高位貴族の遊山ともなると当たり前のことなのかもしれない。
手を清めた後、昼餐は食前酒から始まった。
軽い食前酒は私とエリカが学生だからか甘みの少ない林檎酒。サラダにはさっぱりと酢の効いたドレッシングがかかっており、少し気温の高い今の時期に嬉しい。スープも初夏を意識したのか緑豆の冷製ポタージュ。きっちり裏ごしされてなめらかな舌触り。
エリカの言う通り、ユーゴ様のお家の料理人は腕が良いのは本当のようだ。実家よりも寮の食事の方が美味しいと思っていたが、これは更に上をいく。
お待ちかねの魚料理は、マエル様が釣り上げられたばかりの鱒。バジルやタイム、レモンの効いたハーブソテーのようで、彩りも味も素晴らしい。
「美味しい!」
エリカも真っ先に切り分けて感嘆しているが、まったくの同感。
「ほんと、美味しい」
口の中に広がるハーブと香辛料があっさりした鱒の味わいを深めていて、いくらでも食べられそう。
「よく身も締まってますしね」
神官騎士で身体を動かされるユーゴ様だけでなく、マエル様も健啖家のようで、お二人の皿には追加のソテーが載っていた。更に釣果である小魚たちが素揚げされて目の前に並ぶ。揚げたてでハーブソルトを振っただけのようだが、これもさくさくと食が進む。
「お酒が欲しくなる味ですよね」
「そうだな。ワインも用意してあるが飲むか?」
「いえ、遠慮しておきます。この後は船に乗るのでしょう? 飲んだら眠ってしまいそうですから」
口直しのソルベはライムで、これまたさっぱりと口中の脂を流してくれて、次の肉料理である鴨のロースを一層美味しく感じさせてくれた。
デザートは小さなタルトタタン。カラメルが香ばしくもほろ苦さもあって、中のリンゴの砂糖煮が甘すぎない。食後に出された濃いめのカフェまで大満足のコースを満喫してしまった。
こんなにゆったりと時間をかけてお昼を頂くなんて、ほとんどなかったことだ。それを野外で用意してしまった料理人もすごいけれど。
「美味しかったー! ちょっと動けないかも」
あまりに美味しくて食べ過ぎてしまったかもしれない。淑女は小食が尊ばれるらしいし呆れられていないかと前方のお二人に視線を流すと、予想外に慈愛の籠った眼差しを向けられていた。
「エリカ嬢もオリーブ嬢も完食してくれて、うちのものも喜んでいる」
「美味しかったですもん!」
「はい、とっても!」
「お嬢さん方が美味しそうに召し上がっていたので、久々に私も食が進みました」
「やはり最近はろくに食べていなかったのか」
「ええ、色々立て込んでいましたからね。今日、ここに連れ出してくれたユーゴには感謝しかありません」
馬車で熟睡されていたのもそのせいだったのかと納得する。もう解放されたのなら良いのだけれど。
「マエルはもっと外に出た方がいい」
「久々の釣りも楽しくて、よい気分転換になりましたよ」
穏やかに会話を交わす貴公子たちの様子は自然体で優雅。まるで一幅の絵画のようで眼福だと眺めつつ、満ち足りた気分でしばし過ごした。
食休みの後に案内された船は、思っていたよりも大きかった。十人以上が乗れそうな、釣り船ではなく客船、遊覧船と呼べるようなしっかりとした船。
「湖ですから波もあまりありませんが酔ったりしませんか?」
「艀くらいしか乗ったことがないですが、多分大丈夫だと思います」
マエル様がエスコートしてくださって船に乗り込む。甲板が広い。船室に入るのも勿体なくて、そのまま四人で甲板に立つ。
ゆっくりと岸を離れた船は、湖上からしか見えない景色を見せてくれる。湖は大きく、周囲の森を湖面に鏡のように落としている。日差しを反射する水面がきらきらと眩しくて、どこか遠い異国にでも来たような気分になった。
「広々していて、気持ちいいね、オリーブ!」
「そうね。風も気持ちいいわ」
内陸に位置する我が国は、国神として信仰を集めた四柱の力が増して、その加護で現在は他国に比しても豊かさを誇るようになった。とはいえ、私の実家のように国の端々まで豊かというわけでもない。どうしたって王都近辺の加護が厚い。この湖も森も四神様方のお力で作り出されたのだという。湖を水源とする川が流れ、王都をも潤している恵みの水だ。
船はさして速度を上げずにまっすぐ湖の中央を目指した。そこには上陸できるほどの大きさではないが岩の小島があって、しばしその場に停泊する。視界いっぱいの満々と湛えられた水。このあたりは水が透き通っていて、底までよく見える。
来て良かったと景色を満喫していたが、少し離れたところで男性ふたりは何やら真剣なお話をされていたようだ。
「森の一部に立ち枯れている所がありますね」
「下船したらその辺りも家人に調べさせよう」
何かの調査でも兼ねていたのだろうか。あちこちを指さしながら話すユーゴ様とマエル様の表情が少し厳しい。
「ユーゴ様、マエル様とばっかりお話されててずるいです!」
エリカのハーフアップにしたストロベリーブロンドが湖面を吹く風に遊ばれてなびく。自分の茶の優った金茶色の髪と比べると、なんと愛らしいのかと思う。軽く走るようにユーゴ様の元に行ったエリカを見つめるユーゴ様の視線は、先ほどの厳しさをたちまち払拭して、優しく、甘い。
エリカのような色の髪に生れたかったわけではない。エリカのようになりたかったわけでもない。ここに来て時折去来する感情は、嫉妬にも似ているようで違う。おそらく名付けるならば憧憬―――。あんな風に素直に、あんな風に誰かと心を通わせたい。私には似合わないと押さえつけていた気持ちが溢れる。
素直さも容姿の愛らしさも私にはないもの。私とて美人の範疇には引っかかるだろうが可愛いとは言われない。卒業してしまえば私は平民になる。それ自体に抵抗はない。貴族としての名や生活が惜しく感じる程恵まれた環境ではなかったから。ただそうなると私とエリカの接点はなくなる。どれほど憧れても自分では得られない互いを思い合う相手を見つけたエリカとは。それが未練になりそうで。
「いいな、エリカ。可愛い」
「エリカ嬢は愛らしいですが、大地を彩る緑の瞳が私にはより慕わしいですね。柔らかな若芽に手を伸ばしたくなるような瑞々しさがあって、とても魅力的です」
ぽつりとこぼした言葉に返されたのは、いつの間にか隣にいて私を見下ろすように立つマエル様だった。
「マ、マエル様! 何をおっしゃって……!」
「社交辞令ではありませんからね? 生命を育む豊かな大地の髪もあなたを飾る王冠のようです」
これまで、私にこんな美辞麗句を寄越した男性はいない。え、なに。高位貴族こわい。お世辞? まさか口説かれてるとか、そんなこと!?
「揶揄わないでください。私、そういうのには慣れてないんです」
心臓がばくばくして、顔が熱くなる。私はもっと現実的で割り切った性格のはず。こんな甘い言葉くらいで動揺するような、そんな簡単な女じゃないはずなのに。
「私も女性を口説くのは初めてなもので。難しいものなんですね」
この人、はっきり口説くとか言ってますけど! 適齢期のおそらくは高位貴族の令息。そんな選り取り見取りで相手に不自由しないはずの人が、木っ端男爵の小娘を口説くとか訳が分からない。分からないというのは怖いということで。なので私は動揺したままマエル様を置いて船室へと逃げ込んだのだった。
「あー。警戒されてしまいましたねえ。本当にこれは難しい」
そんなマエル様のつぶやきも知らぬままに。
ゆったりと舟遊びを楽しんだ後、先ほどの場所で軽食が用意されているからと船を降りた途端、どこからか湧くように現れた男たちに取り囲まれた。いかにもな怪しい集団で、顔の半分が布で隠されている。その数は見えるだけで七人。その手には刃物。
「何者だ。何の用があって近づいた」
私達を庇うようにユーゴ様が一歩踏み出される。けれど今日は休暇だから、神殿騎士の得物である長杖は持っておられない。
「怪我したくなかったら持っているだけの<加護石>を寄越せ」
「こんなことをせずとも、神殿で賜れば良いでしょう」
「信徒でないと譲れないとぬかされたんでな」
「他国の者か。それでは持って行っても―――」
「煩い。おい、女を人質に取れ!」
当たり前だが、一応は貴族令嬢なのだ。荒事には縁がない。暴力などという野蛮な行為を前にして、私の足はその場に縫い付けられたよう。足手まといになる前に船に逃げ戻るとか、いくらでも出来ることはあるはずなのに。
「オリーブ嬢!」
私へと伸ばされた賊の手から庇おうとしてくださったマエル様が大きく振り払われて地面に倒れた。
「マエル様!」
私はその時になってようやく動くようになった足でマエル様の元へ行こうとするが、また別の賊に阻まれる。
「オリーブ嬢、マエルの方に!」
ユーゴ様が賊に体当たりして作ってくださった隙に、私は駆けだす。ようやっと上半身を起こされたマエル様の長衣の裾が乱れて、片足に巻かれていた白いアンクレットが目に入った。随分と変わったアンクレットだと最初は思ったのだが……動いた!
まだ立ち上がれていないマエル様を別の賊が殴ろうとし、それを避けようと動かれた反動か、するりと解けるようにマエル様の足首から離れたそれが宙へと投げ出されて、咄嗟に抱きしめるように受け止めていた。
「え、蚯蚓……!?」
よく土を掘り返したら出て来る蚯蚓を作業中は手で戻したりもしていたので、同じようなものかと思っていたのだが、予想していたようなぬめりは感じない。むしろふさっとした感触があった。ここまで白い蚯蚓というのは見るのは初めてだ。白だけれどどことはなしに透明感のあるような、内側からほんのり輝いているような?
大きさはエリカの愛蛇シャンテリーよりは長いが、蛇と違ってとぐろを巻くこともなく、だらりと私の手と胸の間に挟まれ紐のように細い全身が垂れ下がっていた。頭部が、何か探すように左右に揺らめいている。ちなみに頭部と判断したのはそちらが上にあって環帯が近かったからだが、間違ってはいないようだ。蚯蚓には光を感じる器官はあっても視力はない。それでも探しているのだということが伝わってきた。
「もしかしてマエル様を探してるの?」
頷くように頭を上下されたことで、どうやら話が通じるらしい。
(なんか、エリカのシャンテリーと似てるかも)
シャンテリーも普通の蛇と違って賢いのだと、エリカに何度も自慢されている。ただ。いくら賢かろうがまだ蛇ならば飼うこともあるとしても、蚯蚓はないと思う。土中に住むので飼ったとしても姿を見られないペットというのはどうだろう。しかも正直、嫌悪もないが好感を呼ぶ形状ではない。ただ、こうも白い上に一匹だけであればまだ受け入れられそう。何匹も折り重なるように蠢いていられるとそっと土をかけるけれど。
「神殿で飼われているのかしら。神様の眷属だものね」
当たり前だが発声器官を持たない蚯蚓は静かだ。他の虫が鳴いているのが誤認されていたこともあるようだが、土を実際に耕していればそんな間違いはしない。
「マエル様のところに連れていってあげるから待っててね」
土中であればそれなりの速さで進むのだろうが、地上にあっては抱えていった方が早いだろう。
「ええと、こういう風に抱えていても苦しくはないかしら」
また頭が上下に振られる。
「苦しかったら教えてね」
マエル様を殴ろうとしていた賊は、何故か彼の足元に蹲っている。何があったのかは分からないけれど、さして離れていないマエル様のところまでようやくたどり着く。
「マエル様!」
「オリーブ嬢、こちらへ!」
引き寄せられ庇われるように胸に押し付けられる。蚯蚓が潰されるのではと危惧したが、視界の端で白いものが動いたのでおそらく無事だろう。
「もうこのくらいで良いでしょう。令嬢を人質に取ろうとするような輩に情けも無用ということで」
マエル様の声と共に地面が揺れて、賊らしき男たちの悲鳴が耳に届く。何があったのか知ろうと首を動かして見えたものは。割れて隆起した地面。そこから土の槍が生えるように現れ、賊全ての足を貫いている。あっという間に立っている襲撃者はいなくなっていた。そこにユーゴ様の使用人たちが現れて手際よく捕縛していく。
それを指揮するユーゴ様の影からエリカが飛び出してきた。
「オリーブ! 無事だった!?」
「エリカ!」
マエル様の腕から抜け出してエリカと無事を喜び合うが、すぐにエリカはマエル様に詰め寄っていく。
「一体どういうことですかっ!? こんなことは聞いてませんよ!」
「巻き込んで申し訳ありません。襲撃されるかどうかは五分五分だったんです」
「神殿が関わっていることですよね!? 私はユーゴ様の婚約者だからまだ分かりますけど、オリーブはまだ無関係なのに!」
いきり立つエリカの肩を戻って来られたユーゴ様が抱く。
「すまん。発案は私だ。マエルには反対されていたが押し切った」
「ひどいです、ユーゴ様!」
「ああ、その通りだ。私が悪い」
そんな場合ではないのに、小型犬が大型犬に向かって吠えているようにしか見えなくて、私は口を挟んでいた。
「あの、責任の有無とかはいいので、説明していただきたいんですけど」
顔を見合わせた後、マエル様が説明を買って出てくれた。
「女学院にまで伝わっているかは分かりませんが、隣国では数年続けて大きな水害に見舞われています。もちろん我が国から麦などを送って援助はしていますが、それでかの国の民全部に行き渡るかと言えば到底足りない。けれど我が国でも余剰分以上は割けません。当たり前のことでしょう。国土の広さも住民の数もあちらが上なのです。自国が倒れるほど他国に費やしたところで、共倒れになるしかない。
隣国でもそれは分かっているはずなのですが、何しろ我が国は建国以来四神の加護に守られて大きな不作には見舞われず、天災も最小限に抑えられています。それが腹立たしかったのでしょう。しかし戦争を仕掛けるほどあちらには体力がない。だが我が国が豊かなままなのが許せない。
そういうことで、ここしばらく隣国からの工作員が国に入りこんできていたのです。毒や塩を蒔いて大地や水を汚そうとしていたようで、一部被害が出ています」
なんて勝手な話なんだろうと、隣国のやり口にため息が出る。それでうちの国が被害にあうとか冗談ではない。船上で森を見て話されていたのはこのことだったのかと納得する。
息を継がれたマエル様がまた話し出された。
「その一方、我が国で貴族中心に所持している<加護石>を奪う動きも見られました。特に王都近辺での報告が多く届きまして。そこで今回のことが計画されたのです。
ここは有名な行楽地で、そして今はまさに訪れるのによい季節です。それなのに私達と従者、船の関係者以外誰もいなかったでしょう? 王都民には密かに今日はこちらに来ないよう手を打っていたのです。私達しかいない。そして私達は家紋を掲げていなくとも貴族と分かる。ですからまあ、襲撃は予測されていたというか、誘き出されたんです。
おふたりには事前にお伝えせず驚かせてしまい申し訳ありません。行楽に男だけでは不自然だと言われ巻き込んだ形になります。おふたりには護りの結界で直接の危害が与えられる心配はなかった上に、私達がついているので安全であると判断されまして」
「判断って誰のです?」
「……王家からの要請を神殿の上が受けてのことだ」
ああ、それは逆らえない。問うたエリカ同様、この話は責められないと分かった。
「馬鹿なやつらだ。<加護石>をいくら奪ったところで信心のないものには使えないというのに」
「他国の方には理解できないでしょう。我が国ほどには神との距離が近くない。あちらの主神は複数の国で祀られていますが、心から信じている者は少ない。当然、加護も薄いものになる」
「神の息吹をこれほどまでに感じる我が国が特殊だとは思うのだがな」
国の在り方、神との関わり。それが違うと理解していないからこその襲撃だったのだろう。もしくは自国の惨状をどうにかしたいと藁にもすがる思いだったのかもしれないが。残念ながらその藁はうちの国専用だ。
「捕らえた人たちの背後を調べるおつもりなんですか?」
手際よく捕縛され、どこかに隠してあった荷車に運ばれていく男たちを眺めながら聞くと。
「調べるまでもない、背後にいるのは隣国だ」
「実行犯を捕まえたかった理由は、複数の人物を解析して特有の波動を読み取り、国の結界ではじくよう処置するためです。その結界の術式変更のために、ここしばらく睡眠や食事の時間も削って準備してきたのですから」
行きの馬車の中や久々によく食べたという話はここに繋がるのかと思った。おそらくはエリカも。二人を責めたとて仕方ないと。
「事情は分かりましたけれど、おふたりは私とオリーブへの誠意を見せてください」
「ふむ。その通りだ。要求はあるだろうか」
「まずはとびきり美味しいお茶とお菓子です! 甘いものが大至急、必要です!」
「それならば家人が用意しているはずだ。どのみち軽食を取るはずだったからな」
「増量で! お願いします!」
「では今から頼みに行くか」
一足先にと歩き出したエリカとユーゴ様の後をすぐには追わず、私はマエル様にずっと抱えたままだった白い蚯蚓を差し出した。
「マエル様、この子をお返ししますね」
「ありがとうございます。大切な子なんです」
戻された白い蚯蚓はマエル様の手首に二重三重に巻き付き、自らの尾を銜えて輪になった。私の知る普通の蚯蚓はそういったことをしないが、足にもそうやって巻き付いていたのだろう。連れ歩くならば後は懐にでも入れておくしかない。それ以前に普通は蚯蚓を連れ歩かないけれど。
「この子はなんという名前なのですか?」
「名前はまだありません。オリーブ嬢が良ければ付けてくれませんか」
「私が付けても良いのですか?」
「嫌がっていませんからね。お前もオリーブ嬢に付けて欲しいよね?」
マエル様の言葉に、輪になったままの蚯蚓が大きく動く。それは首肯しているのと同じらしい。
私は少し考える。さすがに蚯蚓に名前を付けた経験はない。蚯蚓で白くて光ってて……。
「ではそう、リュミエールと」
「まさかそうきましたか」
「だってこの子、内側から光って見えますから」
「リュミエール。良いですね。お前も気に入ったかい?」
柔和に目を細めている姿ばかり見ていたので、てっきり目の細い方なのかと思っていたが、今はしっかりと開いて、切れ長の涼し気な目元を晒していた。そうすると随分と印象が変わって、優雅さや端正な顔がこれまでもよりも強調されるよう。そこにいたのはその独特な瞳で私を見つめてくる貴公子。
「え、白い瞳?」
瞳の色が白い人など初めて見たかもしれない。瞳孔は薄い金色。
不思議な色だった。思わず凝視してしまったのは仕方ないと思う。見つめていると吸い込まれそうな気がした。実際に私の足は知らずに引き寄せられるようにマエル様に近づいて、そして―――。
「ふふっ。捕まえました」
その腕の中に捕らえられて文字通り目と鼻の先にその顔があった。
「あまり視力がよくないものですから。あなたの瞳の中に私の目が映っているところをもっとよく見せてください」
その距離は。まるで口づけを乞うような距離で。白金の瞳に魅入られるまま思わず目を閉じそうになって―――。
「マエル! 急ぎ過ぎだ!」
「そうです、マエル様! 私の親友、返してください!」
「嫌です。紹介してくださったのはエリカ嬢でしょう?」
「だからって性急すぎるんです!」
「ですが、リュミエールも彼女を気に入ってしまったようですし。もう離したくありません!」
頭上でされるやり取りは私の耳を通り過ぎるばかり。固い胸板に押し付けられているため、マエル様の鼓動も私と同じくらいに早いのが分かる。
「名付けさせたのか!?」
「快く名付けてくれましたよ。これで第一にも第四にも取られずにすみます」
そっと腕を引かれた先には心配そうなエリカの赤紫の瞳があった。
「オリーブ、しっかりして! 大丈夫!?」
「え、エリカ、私、なんか変かも」
思考がまとまらない。ぼーっとする。顔が熱い。動悸もする。
「マエル様っ、まさか魅了とか持ってませんよね!?」
「そんなもの持っていたら、ここまで嫁取りに苦労していません」
「昔からマエルの目を見るとのぼせる令嬢はそれなりにいたな」
「私の目が魔眼だとでも? ですが、私を好きだと言ったそのすぐ後に、うちの子を見て逃げていく令嬢ばかりでした。今回は逆でしたが。お会いしてみれば、土に生きる虫を厭わず掴み、土壌の改良をしようという姿勢に好感を抱きました。その上、我が半身に悲鳴も上げずに抱き留めて私の元まで連れてきてくれるなんて! これを奇跡と呼ばずにどうしましょう。運命です! 私の嫁です!」
「気持ちは分かる! 分かるが抑えろ!」
「ユーゴより三年も前に分身を授かっていたのにですよ、ずっと逃げられ続けてきた私の気持ちが分かるというのですか。第一と第四に言われるならともかく!」
三人の話す内容がまったく分からないまま、いつの間にか私の足元に寄って来ていたリュミエールを自然と抱き上げていた。何しろ細いので、実際は掴むに近かった。繊毛の感触はどことなく犬ぽくて思わず撫でてしまう。
「リュミエール、私、何かもうよく分からないかも」
ぼんやりとリュミエールを撫でながら立ち尽くす私の前に、マエル様が土に汚れることも厭わず跪いた。
「オリーブ嬢、どうかこの私、マエル・ドゥテールの求婚を受けていただけませんか」
「マ、マエル様っ!? え、ドゥテールって!?」
「私はドゥテール神公家の嫡男です。歳は二十一。いずれドゥテールの爵位と役目を引き継ぐ者です。これまで恋人も婚約者もいたことはありません。まっさらきれいな身の上です。私にはあなたが、あなただけが必要なんです。どうか、どうかこの哀れな男を引き取ってはくださいませんか」
ドゥテールとは第三神公家の家名だ。それくらいは私でも知っている。でも、その公子様が会ったばかりの私に求婚してくるとか意味が分からない。
私はマエル様から視線をはずし、背後にいたエリカを見つける。
「エリカ! エリカ! これどういうことなの!?」
「うん、オリーブなら蚯蚓も平気かなって、お見合い仕組んだの」
「お見合い……って私の!?」
「そう。オリーブとマエル様の。まさかその日のうちに名付けまでいくとは思ってなかったけど」
「名付けって、リュミエールのこと?」
「うん。まんまと、って言っちゃってもいいかな。マエル様、オリーブがお気に召したからって、だまし討ちで名付けさせちゃった」
「それが何なの」
「名付けちゃって認められちゃったから、オリーブはマエル様の婚約者になったの」
「婚約者……なったの……って、決定?」
「神公家の次期様からの求婚、断れる?」
「え、無理……」
「おめでとう。オリーブは未来のドゥテール神公家夫人です」
「もっとちゃんと説明して!」
私が叫んだのは仕方ないと思う。淑女教育の先生もきっと大目に見てくれるに違いない。
結局、三人掛かりでされた説明によると。
四神の子孫である神公家では神より後継ぎと認められると半身という眷属が下される。それが蚯蚓神の子孫であるマエル様にとってのリュミエール。ちなみにユーゴ様の半身はエリカのシャンテリーだという。まさかの神公家の公子ふたりとご一緒したというだけでも心臓に悪い話なのに、それで終わってくれなかった。
神公家の後継者はその半身に認められないと婚姻が出来ないらしく。認められた証が、半身に名付けられるかどうかだという。そして一旦名付けてしまったら、名付け親以外との婚姻は不可。うっかりリュミエールの名付けをしてしまった為、その時点で私はマエル様と婚約してしまったと。
「普通サイズでも令嬢には蚯蚓は厳しいのですが、半身は年々大きくというか長くなりますので、条件が厳しくなるばかりで。ああ、第一はサイズを変えられるそうですよ。ずるいですね」
「あれは単に邪魔だからだろう。他の三家の眷属は本来があまり大きくないが、第一の眷属は元からある程度大きいからな。それにその特性を一番羨んでいるのはおそらく第四だと思うが」
「うちだって相当だと思うのですけれどね。まあオリーブ嬢と巡り会えたので、私にはもうどうでも良いことですが」
「マエル様、それご自分のお子さんとかも苦労するお話では?」
「私の子供……いい響きですね。このまま私で血が絶えるのではと危惧していましたが。ですが今は、私の嫁という更に魅惑的な響きを味わうのに忙しいです」
「まだ嫁じゃないだろう、婚約者だ。しかも実質というだけで縁組はまだだ」
「そうでした。オリーブ嬢、あなたのご両親がいらっしゃるのは遠方のご領地でしたね。では夏の長期休暇にそちらまでご一緒してお許しを貰いにいきましょうね。そのついでに巡回も済ませてしまいましょう。それまでにうちの両親にも会っていただいて。結納の品も用意せねば。ああ、きっと母が喜んでドレスやら何やら準備しそうですね」
立て板に水で話し続けられるマエル様は瞳孔が開いていて少し怖いくらいで。私はそのままエリカに縋りつく。
「オリーブ、ごめんね! マエル様、穏やかな大人の人だと思ってたから紹介しようと思ったんだけど、こんな方だとは思いもしてなくて! 嫌じゃない? マエル様、もう振っちゃう?」
「ええっと、まだ混乱してるけど、マエル様は嫌じゃないわ。でも、あの、婚約とか結婚とか急すぎてどうしていいのか分からないというか」
「ユーゴ様の時もそうだったのよ! なんか怒涛のような展開なの」
「怒涛。そうね、まさしくそれ」
まるで待てをさせられている犬のように私から目を離さないマエル様に向かって、今言えるだけのことを告げることにした。
「頭では分かったと思います。決定なんですよね。でもあまりにも急な事なので時間をください」
「すみません。あなたを困らせる気はなかったのです。そうですね、時間。愛を育む時間は必要ですね。
毎日、あなたに会いにいってよろしいでしょうか。そうしてお互いを知っていきましょう。本当は今すぐにでも結婚して欲しいのですが、女学院を卒業せねば悪い評判がたってしまいますからね。―――卒業まで二年ですか。まさかこれ程の苦行が待ち受けているとは。これが神の試練!!」
「浮かれすぎだ、マエル」
「拗らせた男にようやく来た春です。多少浮かれても許されるはず!」
改めて用意された軽食の席でも、帰りの馬車の中でも。マエル様の口は止まらなかった。間違いなく帰路には起きていてくれたけれど、当初思っていたのと随分違う車中だった。
それから本当に夏季休暇まで毎日マエル様は女学院まで来られて。おかげで私の婚約はすっかり女学院中に知られてしまった。
お休みの日には連れ出されて、もちろん第三神殿だとかドゥテール家のお城みたいな邸宅にも呼ばれたし、そこで現ドゥテール夫人(マエル様のお母様)から着せ替え人形にされたり、そこからマエル様に取り返されて私室で甘い言葉の雨を降らされて溺れそうになったり、普通に王都の色々なお店に連れていかれたり、第一と第四の神公家の公子様方に引き合わされて自慢されたり。
正直なところ、ふわふわして現実感がないまま、しっかり外堀を埋められていた。
それがまた嫌じゃない自分が不思議で。そう。以前の、マエル様と出会う前の私ならば、毎日押しかけてくるような男はうっとおしくて迷惑だと思ったはずだ。なのにマエル様は私と会うと本当に嬉しそうで。私も嬉しくて。むしろもっと会いたくて。辛うじて仕事や学業を放棄するようなことにはならなかったけれど、かなり危険な状態だったことは自覚している。
マエル様は本当に私だけを見ていて。私だけを必要としてくれている。それが信じられる。何もできない年下の女の子ではなくて、対等の相手にするように愛を乞うその姿は、私がずっと欲しかったものを惜しみなく与えてくれる。
おまけの末っ子に対する薄い愛情ではない。私にだけ注がれる特別な感情。
だから自分がいつしか恋をしているのだと、認めないわけにはいかなくなった。
そうして出会って二月も経たずに夏の長期休暇を迎えて。神公家の快適な馬車に揺られ、二人して私の実家に向かった。連なる馬車の一台には、お義母様の付けてくださった侍女と付添人も乘っていて、決して二人きりの道中というわけではなかったが、<加護石>の結界の中で更に二人だけを包む結界をさらっと築くマエル様によって、誰に見られることも聞かれることもなく甘い時間を過ごすことになった。
私達の名誉のために言うと、不純な行為はなかった。指先だとか髪だとかに口づけられたり、肩をずっと抱かれたり、膝に乗せられたりとかはあったけれど、許される範囲内ではないかと思う。多分。実家での許可を得る前は接吻さえなかったのだから。
マエル様と共に帰宅した実家は。神公家の公子と婚約というまさかの事態に、蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。嫁いでいた姉たちや、婿入りした兄たち、その家族も知らせを受けて集まって、そして大勢が無駄に右往左往する始末。
一応、婚約を申し込まれている相手を連れていくとは伝えておいたのだが、私に高位貴族との縁があるとは誰も予想していなかったのだ。姉たちのように近隣下位の男爵家や子爵家、豪農、もしくは王都の平民男性と両親の主導で卒業までに縁づくことになるだろうと思われていた。まだまったく決まっていなかったのは不幸中の幸い? それが雲の上の神公家だ。その気持ちはよく分かる。なんかもう、申し訳ない気分になったほどだ。
もちろん両親には断れる筋ではない。マエル様がにこやかに多少強引に進められる話に頷くしかなく、婚約は正式なものとなった。持参金もいらない、結婚式も全部仕度してくれる、そんな美味しい話はそうそうない。両親はそろそろ長兄に家督を譲るつもりだったので、兄に陞爵の話が押し付けられて、周囲はまた紛糾した。
騒がしい実家を離れて、領地の神殿に巡回されるマエル様にご一緒して、女学院に入学して以来の第三神殿の分殿にも訪れた。地方の分殿のこと、神官様はお二人だけしかおられない。少し離れただけで随分とお歳を召されたように感じたが、かつて私と遊んでくれた神官様たちも、巡回と私の婚約の両方に大層喜んでくださった。
マエル様がリュミエールと共に要の神石に力を注がれると、地面を何かが伝わっていくのを感じる。
「すぐに結果が出るわけではありませんが」
第三神、蚯蚓神の神威が、大地に浸透して広がっていったのだという。今年は収穫まで間もないので影響はないが、来年以降の実りには期待が持てるそうだ。
まさか貧乏男爵家の味噌っかすの末子であった私が、神の末裔に嫁ぐことになる未来なぞ夢にも見たことはなかった。
「どうか私を支えてください。オリーブにしか出来ないことなんです」
そう優しく笑って目を細めるマエル様の隣がこれからの私の居場所となる。
土を富ませ豊かな実りをもたらす大地の王様の化身とも言うべきその人が、私を必要としてくれる限り、この奇跡は現実となって、日々はずっと続いていくのだ―――。
『婚約者は土の王様』 完
フランス語でヴェールドゥテールが蚯蚓です。リュミエールは光。
オリーブの瞳の色は黄緑の優ったオリーブグリーン。
学院の入学時期は初秋。前作はそこから半年後だったので初春。この話は初夏です。
作中の蚯蚓は神様由来なのでフィクションではあるのですが、リアルでもすごく長く育つ種もあり、国内で60㎝、海外で3m越えがいるようで、それはさすがに見たら悲鳴をあげるかもしれません。ただ骨がないから太くはならないので多少はマシかも。ひたすら長い感じ。
そして蚯蚓は卵生ではありませんが、この四柱の半身はすべて卵状態で下されます。厳密には本当の卵ではなく神の力に覆われている状態なのですが、人の目には卵に見えます。
四神の中で一二を争うほど女性に嫌悪させる半身を持っていただけに、マエルが後半はっちゃけてしまいました。そんなキャラじゃなかったはずなのに。
半身をアンクレット状で連れていたのは、人目を避けるためです。腕輪だと目に入ってしまうから。
オリーブの家族について。三男三女の六人兄妹。一番下の姉とも十二歳離れています。その上の五人は年子。なので本当に予定外、しかも子育てが遠のいた後の子供だったので、両親からも子どもというより孫に近い扱い。そうこうするうちに長兄が結婚して甥姪も生まれて、愛情が注がれないわけでもないけれど肩身が狭い。そんな立ち位置でした。夢なんか持てないくらい。
このシリーズは全四話で次の話は第四神公家(蜘蛛神)を予定しています。第一(烏)の方が書きやすそうなんですが、どちらもまだ書いていないので。