8 誠の術司
闇に取り巻かれて、うずくまっている。
きつく噛みしめた唇に、血が滲む。
青白い肌をなお青く染めて、耐えている。
それ、を見下ろす青年。
薄い唇に、この上ない至福の笑みを刻んで、見下ろしていた。
「今さら……なぜ抗う? そこまで染まっておいて?」
腕を差し伸べる。
「負の波動に、身を委ねなさい。楽になりますよ、麗しの乙女よ──」
二人の姿を見取った瞬間、ヒューは駆けた。
「や……止めろーっ!!」
その長さと重量故に扱いあぐねている聖剣、“誓約の剣”を振りかざして。
強い銀光を放つ剣を、一気に振り下ろす。
その一閃が、リドゥーラからソーヴェに向かっていた闇の流れを断ち切る。
ソーヴェが、闇から解放される。
安堵するヒューを、リドゥーラが嘲笑する。
「遅い」
リドゥーラが、嗤う。
「さあ、この邪魔者を始末なさい。……我が、同志よ」
その声に従うように、ゆらりと、ソーヴェが立ち上がった。
差し上げた腕に凝縮していくのは、闇色の炎。
一瞬の躊躇いもなく、それが放たれる。
逸れることなく自分に向かってくる闇の炎。
「ソーヴェっ!?」
驚愕に立ち尽くす。
ヒューの問いに、辺り一帯を引き裂く轟音がかぶさった。
「下がっていなさい、坊や」
目前で、遮られた攻撃。
ライオットの張った遮壁に、命を救われた。
「ソーヴェ!? 一体どうしたんだ!?」
叫ぶヒューを引きずるようにして、ライオットが続く攻撃からヒューを守る。
「この人は、以前のこの人ではない! 負の域に陥った」
「ソーヴェが、まさか!?」
「ちゃんと見なさい! 髪が、禍しい黒に染まっているでしょう! 負に陥った証しです。やがて、全身を覆います」
決然とした表情で、ライオットが語る。
信じがたい。
だが、確かに、ソーヴェの白い髪の大半が、黒く染まっていっていた。
「ソーヴェ、止めろ!」
叫ぶヒューの横で、ライオットが自らの剣を鞘から抜いた。
術司としては、ライオットとソーヴェの力は比較にならない。
そのために、剣での勝負に持ち込むつもりらしいのを察する。
「ライオット王子! ソーヴェの剣の腕は、超一流だ。術司とて、侮るなよ!」
街のならず者共を倒した時の、ソーヴェの剣の冴えを知っていたヒューが、警告の叫びをあげる。
ソーヴェに術を司るための余裕を与えず、ライオットが連続で剣を打ち込む。
「同じ、誠の術司として……その誓約の下、倒します。“無の騎士”殿!」
ヒューの警告の叫びに頷きながらのライオットの口上。
ヒューは青ざめて、ライオットを凝視する。
──ソーヴェを、殺す!?
ライオットの躊躇いのない剣筋。
「止めろ、ライオット王子! ソーヴェを殺すなんて、俺が許さない!」
ライオットの青い瞳が、ヒューを見返す。
「誠の術司は宣名と共に、誠の誓約の下に入る。それは、負に陥ることを非としている」
キン!
ライオットの剣が、ソーヴェの剣を弾く。
「それに、……俘の術司として生きることを、この人が望むとは……思えない!」
ライオットの細い剣が、舞う。
ソーヴェのその剣よりやや刃幅の広い剣が、それを、がっしりと受け止める。
激しい火花が、空を彩る。
その知識と知恵を買われる術司は、概して柔弱と思われがちであるが、それはとんでもない思い違いである。
術司は、その術を封じられた時、自らの体術によって、相手と対する。その体術は、実践を経た上級騎士並み。馬術、剣術は基より、あらゆる武術に通じている。
ギリギリと、刃が音を立てて交わる。
いずれも譲らぬ、激しい鍔迫り合い。
間合いを取るために、両者が同時に後方に跳んで、解ける。
剣が、空間を撫でるように切り取る。
そのたびに、激しい火花が飛んだ。
二人の術司の間に、張り詰めた闘気が満ちていく。
縦横に、剣が舞う。
二人を、はらはらと見つめるヒュー。
やがて、ソーヴェがライオットに押され始める。
決して、ソーヴェの腕が劣っている訳では、無い。
それなのに、ソーヴェがライオットに押されていく。
剣が交わる都度に、その差が明らかになっていく。
女性と男性の持つ、体力差? ……それとも、ソーヴェの、抵抗?
長引くに従って、ソーヴェの息が上がり、動きが鈍る。
立て続けに剣が交わった後、強い打ち込みと同時に、ソーヴェの剣が飛ばされる。
「許しは請いません!」
振り上げられたライオットの剣。
「これも、誠の術司としての務め!」
躊躇いもなく、振り下ろされた。
「止めろーっ!!」
ソーヴェを庇って、ヒューは、振り下ろされた剣の下に、その身をさらした。
今のヒューには、“誓約の剣”は扱いきれない。
斬撃に耐え切れず、その剣を取り落とす。
飛び散る鮮血。
びしゃり!
鮮血が、ソーヴェの顔を濡らす。
「いい加減にしろ! ソーヴェは、好きでこうなったんじゃない! それに、どんな理由にせよ、女性を手にかけるなぞ、最低だ!!」
ざっくりと切られた肩口を押さえて、ヒューがライオットを怒鳴りつける。
「ソーヴェもだ! ソーヴェは、誰に対して怒っている? 思い出せ!」
振り返って、ソーヴェに、その想いを叩きつける。
「ソーヴェは、愛する者を護れなかった自分自身の不甲斐なさを、一番悔やんでたんだろ!?」
きつい鈍銀の瞳が、闇色の瞳を、真っ向からとらえる。
双方退かぬ、激しい睨み合い。
「無駄なことを……」
リドゥーラの揶揄するような声が、それを破った。
声に促されるように、ソーヴェが、飛ばされていた剣を拾う。
「ソーヴェ……?」
ソーヴェが、拾い上げた剣を、大きく振りかぶる。
「ソーヴェっ!!」
ヒューが、急所を庇うように、腕を上げる。
ザクン!
鈍い、大きな、物を断ち切る音。
……ソーヴェのその首筋で、ざっくりと髪が断ち切られていた。
「ヒュー、感謝する」
黒く染められた髪が、風に巻き上げられて宙に散る。
「お前が居なければ、私は、憎しみに目が暗んで、本当に負に陥っていた」
ソーヴェが、リドゥーラを見据える。
「誠は正に、生は聖に、聖は生に通じる。誠の術司とは、すなわち生命の術司! “闇の貴公子”……。私の護ろうとした子供にまで手をかけさせた罪、贖ってもらうぞ」
ソーヴェの剣先が、ひたり、とリドゥーラに定められる。
「二度までも、我が術下より抜けるとは……」
リドゥーラが、苦く舌打ちする。
その体から、闇色の靄が立ち昇り、ソーヴェに襲い掛かる。
ソーヴェの剣が、白い閃光を発して、それを宙に散らす。
「無駄だ……と、今度は私が言わせてもらおうか」
発光する剣の刃に左手を添え、右手を下げる。
縦一文字に、剣を眼前にかざす。
小さく紡ぎだされる言葉。司られる術。
「なぜ私が、“無の騎士”と呼ばれるのか、その身をもって知るがいい」
復活したソーヴェの銀蒼の炎が、剣に吸い込まれ、その発光をいや増す。
「二人とも、離れて……」
ソーヴェの言葉に、怪我を負ったヒューを抱き上げて、ライオットがその場を離れる。
それを確かめて、さらに強い場、が、形成されていく。
リドゥーラが必死の形相で、反撃に出る。
が、繰り出される攻撃は、全て、ソーヴェの持つ剣の発する光りに阻まれる。
パキ! パキパキ! パ────ンっ…………!!
澄んだ高音と共に、水晶の壁が現れる。
そのまま凄まじい勢いで広がり、ソーヴェとリドゥーラをその裡に取り込む、球状の結界が形成されていく。
「この水晶の結界の中では、いかなる術も司ることは出来ぬ」
パキパキ……。
水晶の結界が、広がる。
「無の結界……。全ての術を無に帰する、精霊の結界」
ゆらゆら。
銀蒼の炎を纏いながら、ソーヴェの剣先が、ゆったりと円を描く。
「精、霊……!?」
何人と言え受け入れることのない、この世界最大の術を司る、人間とは形態を異にする生命。
否、純粋なる聖力の塊。
「知らぬのか? 随分と長く生きておろうに──」
剣先が、止まる。
キ────ンっ!
水晶の結界が完成する。
「なぜ、わが一族に生まれる娘が、稀に“乙女”の称号を享けるのか」
ゆったりと、落ち着いたソーヴェ。
対するリドゥーラは、苦痛も露わに、膝を折った。
「良く……目を凝らして見るがいい。自分が、一体、誰と対していたのか」
霞む視界をソーヴェに向ける。
その身を包む、大輪の華のごとき、銀蒼の炎。大きく猛るように輝く、その炎。
それは、術による物では無かった。
術による物であれば、この結界の中に存在することは出来ない。
驚愕に、リドゥーラの瞳が見開かれる。
「本当に、人間なのか……?」
力ない呟きと共に、リドゥーラの術が限界を超えた。
その身から、一気に全ての力が流出し始める。
「特別な血を引いてはいるが、私は人間だ。ほんの少し、人より多く精霊達に愛でられ、その術を司ることを許された」
美しかったリドゥーラの身が、干からびた老人のモノへと変わっていく。
「今の私の術は……精霊の物。相手が悪かったな、“闇の貴公子”」
皺枯れた腕が、虚しく宙を掻く。
「嫌だ……嫌だ。死にたくない──」
ぼぅ……!
銀蒼の炎が、皺枯れた指先に点る。
「私は、未だ生きたい。老いて醜く、死にたくない──」
「もう、十分に生きたであろう。たくさんの人間の哀しみを吸って……」
慈愛に満ちた表情で、ソーヴェがリドゥーラを見下ろす。
「嫌だ……」
弱々しい呟き。
それが、哄笑に変わった。
「貴女の負けだ」
指先に点った炎を振り捨てる。
「今ここで私を倒しても、貴女は元の姿には戻れぬ! その呪術は、私の生死とは無関係に働くように司られている。私が死んでも、その源を滅さぬ限り解けぬ!」
狂ったような笑いが響く。
「この、私以外には、解けぬ!!」
黒い瞳が、ソーヴェを捉える。
「さあ……解け! この結界を解けっ!!」
ソーヴェの表情が一瞬曇った。
「これ以上、お前を生かして、被害者を出す訳にはいかない」
静かにその首が横に振られる。
「この術は、解けねば解けぬで、それだけのこと」
静かに、言葉が続く。
「こだわらぬと言えば、嘘になる、が……な」
その偽りの微塵もない言葉に、リドゥーラが青ざめる。
「すべてを忘れ……、無の眠りにつきなさい」
銀蒼の炎が、リドゥーラを包み込む。
「ああ……──」
深い吐息と共に、リドゥーラの腕が地に落ちる。
ゆっくりと、水晶の結界が消えていく……。
併せたように、さらさらと、リドゥーラの屍が風に溶けて消えていく。
静かにそれを、ソーヴェが見取った。
仇討ちの終わりに何を見ているのか、何をも映さぬその闇の瞳は語らない。
ただ、その身を包む銀蒼の炎だけが、広がっていく。
静かに、淡く輝き、全てを優しく包み込むように、広がっていく。
……森が、ゆっくりと呼吸を再開する。
負うた傷が癒されていく。
ソーヴェは、安心したような、ひどく儚げな笑みを浮かべた。
そして、静かに目を伏せ、宙を仰いだ。
声なき声が、何かを宙に呟いている。
ヒューは、傷ついた身に癒しの炎を受けながら、そんなソーヴェを見つめる。
「ソーヴェ……」
静かなヒューの声。
その身を僅かに強張らせ、ソーヴェが振り向く。
「ソーヴェ……。こんな時は、泣いてもいいんだよ」
ヒューが、ゆっくりと両の腕を差し上げる。
「我慢することない。強がることない」
笑み。
「哀しみに負けて、弱くなりたくなかったんだろ? けれど、もういいんだ」
小さな手が、ソーヴェの頬に添えられる。
「ソーヴェ、もう、泣いていいんだよ……」
闇色の瞳の淵に、銀色の雫が滲む。
「一人前の口を……」
弱い、憎まれ口と共に、ゆっくりと頬を伝っていく銀の雫。
溢れる涙に混じる、小さな嗚咽。
ヒューは、小さな両腕を精一杯に伸ばして、ソーヴェを抱いた。
「母上……! サキ……! っ……!!」
関を切ったように、ソーヴェが泣いた。
ヒューが、その背を撫でてやる。
ゆっくりと、あやすように……。
──ああ……。どうして俺は、今、子供なんだ? 大人だったら……。
自覚してしまった自分の想いに、ヒューが苦く思う。
今、すぐにでも、本当の姿が欲しかった。
この姿では、どうあがいても、この想いを伝えられない。