2 出会い
パチパチと木の爆ぜる音。
瞼を透かして炎の紅が染みた。
「う……」
眩しさに、掌を炎に翳す。
「目が覚めたか、坊ず?」
穏やかな、やや高めの澄んだ声が、頭の上から降ってきた。
「身一つで、湖に放り込まれるなぞ、訳ありのようだな。一体どうしたんだ、坊ず?」
心配げな声。が、問われた方は、別の事に意識が集中していた。
「『坊ず』『坊ず』連呼するな! 俺は、これでも二十七だ! 外見が二十歳ぐらいに見えるのは王族に連なるからだ!!」
非難された相手が、首を傾げている。
「余程、怖い目にあったのだな。大丈夫だ、落ち着け」
その声には、不憫だと言う調子がありありと潜んでいた。
伸ばされた手が、頭を撫でる。
「子供扱いするな!!」
叫んで起き上がった瞬間、自分の体の異変に気付いて、少年は愕然とした。
「ち……小さい?」
地についていた自分の手の平を鼻先に持ってきて、少年はまじまじと見つめた。
「おい、鏡持ってないか?」
問われて、相手が首を傾げる。
「俺は幾つに見える?」
「十二、三だな」
あっさりと答えながら、不思議な形に手が組まれ、解かれ、宙に線を描いている。
パン! と、手が打ち付けられると、程よい大きさの水球がそこに浮かんでいた。
「水鏡……。お前は術司なのか?」
問いながら、その鏡を見つめる。
そこには、確かに答え通り、十二、三の少年の顔が映っていた。
鈍い銀色の、肩の上で切り揃えられた髪。同色の瞳は、少年期特有で大きく、真摯な光りを湛えていた。
少年はそれから目を離し、自分の体を見回した。
そして、頭を抱え込む。
「え~~~~~と。う~~~~~ん……」
「どうした?」
考え込む少年の間近で起こった声に、反射的にそちらを見遣る。
鼻先に、深淵の闇を覗き込んだような穴が、二つ浮かんでいた。
……白目と虹彩の境さえ無い闇色の瞳。
少年の眼が大きく、開く。
「お前、盲なのか?」
先程、あっさりと自分の年齢を答えた相手に尋ねる。
とても、見えているとは思えない。
一瞬、きょとんとした表情が浮かぶ。そして、口許に苦笑。
「この瞳か? 気にするな。呪術司の呪いで封じられているだけだ」
そして気が付いた。自分を助けただろう相手の異様な容姿に。
糸のような艶も腰もない真っ白な髪。闇色の宝石のような瞳。青白い透き通る程の肌。炎に照らされてなお、青白いのだ。
「私のことより、坊ずの事だ。こんな杜の奥で、一体どうした?」
「どうした、と言われても俺にも訳が分からん。水晶の柱を見つけて……。それから先、まったく覚えていない。さっきお前が、声をかける迄の記憶が……無い」
「……悪いが、坊ず。私は、これでも十七だ。年上に向かって『お前』は無いと思うぞ」
少年の瞳が、ギロリと相手を睨む。
「俺は、二十七だ。何故か知らんが、若返ったのは俺の責任では無い。第一、俺はお前の名を知らん」
一瞬考え込み、相手が答える。
「誠の術司。名は、ソーヴェ。坊ずは?」
「『坊ず』じゃない。俺は、リィン‐ファン‐ヒュー‐バダム。南大陸の極東国の王弟だ」
ソーヴェが、ヒューの額に手を遣る。それは、いわゆる熱を測る時の仕種である。
「疑うか!!」
「ファン‐ヒュー王子のことは聞いたことがある。確か、今年で二十四の筈だぞ」
瞬間、ヒューの血が音を立てて引いた。
その様子を、ソーヴェが見つめる。本人かどうか、判断しかねる反応なのだ。
「坊ず……、じゃなかった。ヒュー、先ほど、水晶の柱がどうとか言っていたな?」
「ん、ああ。ちょっと兄者と喧嘩して城出した。で、一緒に出た奴とも喧嘩して、杜で迷った。そこで泉を見つけて……、その中心に建つ水晶の柱を見つけた」
言葉に、呆れてソーヴェが尋ねる。
「夜にか?」
素直に頷く。
「ヒュー……、その晩満の月だったか?」
再度、頷く。ソーヴェの呆れが深まる。
「確認するまでも無いとは思うが……三重月?」
「三つとも、満の月だったと思うが?」
「……そりゃ、ヒュー、お前が馬鹿だ」
ソーヴェの身も蓋もない批評に、ヒューが非難の声を上げようと口を開く。
が、それを制してソーヴェが先を続けた。
「満の三重月の晩に、“精霊の柱”に向かって願い事すりゃ、叶うわ、そりゃ……」
げんなりとした様子で答えてやる。
「“精霊の柱”!? アレがァ!?」
「大惚けだな。それでも、王族か? 満の月の晩に杜を歩けば、精霊の杜の結界踏み越えもする。それを、よりにもよって、満の三重月の晩にだと? 『異界現象学』真面目にとったか?」
「とった! ただ、俺は軍属で必要なかったから……忘れて……た?」
ヒューが、不審の目でソーヴェを見る。
「何で、そんな事まで知ってる? 王族の学ぶべきことは、下々の者はほとんど知らぬはずだ」
「言ったろ。私は、誠の術司だ。誠の塔は、王族の導師を多数送り出している」
今一つ納得のいかぬ様子でヒューが首を傾げるのにも頓着せず、ソーヴェが話しを続ける。
「で、ヒューは一体何を願った? 子供に戻りたいとでも?」
「ば……馬鹿にするな!! そりゃ、ガキの頃は苦労知らずで良かったが、俺はそんな後ろ向きじゃない!!」
「では、この状況をどう説明する?」
「では、聞く。ガキに戻るだけなら、過去に戻る必要までは無いぞ! 俺が居たのは、これからまだ三年も先だ!」
「……なるほど。で、本当の所、何を願った?」
「覚えてない!」
内容に反して、明るく、それもきっぱりとした答えに、ソーヴェの体が大きく傾ぐ。
「ほ……本当にファン‐ヒュー王子本人なら、この状況で冗談が言えるとは思えんぞ。戻りたく無いのか、え!?」
ドスの効いた声が、詰め寄る。
「悪かったな! これが性分なんだよ!」
「……」
──こ……こいつ~~~。
双方譲らぬ不毛の睨み合い。
崩したのは、ヒューの大きなくしゃみ。
「は……はっくしゅっ!! くしゅん!!」
「お、おい大丈夫か?」
連続するくしゃみにソーヴェがうろたえる。
「な……何か、着る物を」
素っ裸に厚手のマントを一枚掛けられているだけの姿なので、ヒューが非難がましく要求する。
「生憎、子供の服など持ってはおらん」
言いように、ヒューが心底腹を立てた。
「それなら、どこかで調達してこい。俺は寒いんだ」
「ここは、森ではなく、杜だ。過剰な要求をするな。これだから、王族の苦労知らずは……」
「こ……これでは、風邪をひくだろうが!」
「……ふむ。それはもっともだ。ランス!」
ソーヴェの呼び声に、ヒューの背後で大きな獣の動く気配が起こる。
「こいつを抱いててやれ。せっかく助けた子供に風邪でもひかれた日には目も当てられん」
命令に答えて、暗がりにあった獣の体がのそのそと近付いてくる。
「……」
炎に照らし出された大きな姿。目前にした獣をひたすらの沈黙でヒューが見遣った。
その様子を楽しげにソーヴェが見つめる。
獅子の胴体に鷲の頭と翼を持つ蒼銀色の大きなグリフィン。
獰猛で決して人に馴れぬ、南大陸の極南国に生まれた聖獣。
「グ……グリフィンだぁ?」
ヒューの反応は、ソーヴェの想像をしっかりと裏切った。
大きなその聖獣の顔を両手で掴むと、鼻のすれすれまで引き寄せて見せたのだ。
聖獣の方も、その反応には驚いたらしく、銀色の瞳を見開いている。
「夢だ……。こいつはきっと、お茶目な夢だ」
頭を抱えてそうつぶやくと、それでも聖獣の翼の下に入り込み、暖かな寝床を確保する。
「俺は……寝る!! いや、起きてやる!!」
矛盾した事を叫んで、ヒューは次の瞬間には本当に寝息をたて始めた。
「……中々に、豪胆な反応だな」
あきれてつぶやくソーヴェに、聖獣が頷く。
「気に入ったか、ランス?」
その問いに、大きく縦に首を振って、嬉しそうに聖獣が頷いてみせた。
「だが、駄目だぞ。危険すぎる。導師の所にでも預けていこう」
無表情にソーヴェが言い放つ。聖獣は、そんなソーヴェを恨めしげに睨む。
「そんな目で睨むな! お前はガキ好みで、困るな!!」
叫ぶソーヴェを睨み続ける。
「……そうだよ!! 悪いか!! 私も気に入ったよ、この糞生意気なガキを!! どーせ私は、無条件でガキと女には弱いよ!! 悪いか? えっ!?」
八つ当たりそのもので喚くソーヴェに、聖獣がクルクルと喉を鳴らす。
「笑うんじゃない! 湖の騎士っ!!」
漫才をする主従とあどけない寝顔の少年を、踊る炎が照らし出す。
獣も棲まぬ深き杜の中、静かな夜が更けてゆく。
闇に包まれる杜はひたすらの沈黙を守り、注ぎ込む満の月の光は静かに凍てつく。
ただ、炎の紅だけがユラユラと、動かぬ杜を舞っていた。