10 終幕
「フェイ……、いい加減に離れないか?」
ぴったりと寄り添うように後に付き従う友に、げんなりとしたヒューが懇願する。
「陛下のご命令だ」
不機嫌なフェイの言葉は、続く。
「目を離せば、すぐに行方をくらましかねんだろう?」
フェイは無表情に答えた。微塵も譲るつもりが無いらしい。
ヒューは、大きく溜息を吐いた。
結局、兄王にさんざん絞られた挙句、城出の原因となった隣国の姫のお披露目舞踏会に、王の名代として出席する羽目になったのだ。
「ヒュー……、何度も言いたくはないが、“無の騎士”は、北の大陸に入ってからの消息がまったく不明だ。恐らく、生きてはいまい」
びきり……!
何度聞いても腹立たしい話題に、ヒューのこめかみに青筋が浮かぶ。
「聞けば、人間かどうかも怪しい相手ではないか。悪いことは言わない、諦めろ!」
フェイの言葉は、小さくなって更に続いた。
「まったく……。とんでもない理想を捨てたと思ったら、これだ。始末に負えん」
「悪いか!! ソーヴェ以上の女性が二人といるものか! 俺は、絶対探し出す!」
ヒューの絶叫を、フェイが鼻であしらう。
「一人では、城から一歩も出してもらえないのにか? 舞踏会に出席するのを承諾したのも、途中で抜け出すためだろうが、そうはいかないからな」
ヒューが、眉間に皺を寄せる。
「兄者の名代なんだから、途中で放り出したりはしないぞ」
そして、不満げな言葉が続く。
「だが、姫君への求婚なんぞという真似は、死んでもしないからな。二十歳にもなるまで人前に出もしない、父親の操り人形に興味はない」
「……美女と名高い姫だ。お前の気も変わろうさ。異相の持ち主など、やめろ、やめろ!」
「ソーヴェは、綺麗だ! どんな美姫にも勝る!」
「お前は、王族だぞ! 少しは自覚しろ!」
「国には、兄者が居る! 守護者には、従弟殿が居る! 戦にしか能のない俺は、王家を離脱しても誰も文句は言わん!」
「ヒュー! お前は、どうしてそこまで自分を貶める!! こんなくだらないことで、王族の務めを放棄する気か!?」
フェイが、ヒューの胸元を掴んで怒鳴る。
「俺は、……絶対諦めない」
ヒューが、にぃと、笑う。
「……俺は、絶対に反対だからな!!」
二人は、同時にそっぽを向いた。
*
「父上がお倒れになったなどと! 真っ赤な嘘ではないかっつ!!」
乙女が低い声で、眼前の青年に非難の言葉を叩きつけた。
「私は、貴方を信頼していたのだぞ! それが……っつ!! よりにもよって、お披露目の舞踏会だと!? 私が、そういうのを一番嫌いなのは知っているだろう、貴方はっつ!!」
激昂する乙女を、青年が穏やかな笑みで見つめる。その素直な表情を愛おしむように。
「こうでもしないと、いつまでも導師の所に行ったきりであったでしょうから」
「悪いか? 破壊の術など、二度と使いたくない。修業のしなおしなんだ、文句を言われる筋合いはない」
拗ねるように、乙女が返す。
「……いい加減、逃げるのはおやめなさい」
「逃げる? 一体何のことだ?」
青年が、深いため息を吐く。
「……彼が、外見で惑わされるなど有り得ない。私同様、あの日、の貴女に魅かれた男です」
なぜ私が擁護しなければならん。内心忸怩たるものがある。
「今さら、見分けられぬほど間抜けとは思いません。そこらの、上っ面に惹かれて集まる男と一緒にしては……かわいそうですよ」
青年のからかうような声。
目に見えて、乙女がひるむ。
雲の影に隠れていいた月が、その姿を現す。
淡い銀光の中、浮かび上がる乙女の姿。
少し大人びていたが、それは確かに、あの日、ヒューが、精霊の柱の中に見出した乙女であった。
清冽な月光を透かし込んだ銀蒼色の緩い巻き毛と瞳をもった、美しい乙女。
ただ、その顔に、もう哀しみはなかった。
あるのは、戸惑いと躊躇い。
「彼には、一歩先を越されていますからね」
乙女の前の青年が、優しく頬に触れる。
黄金の巻き毛に、青い瞳。ふっくりとした赤い唇には、コケティッシュな笑み。
「今回、無理に貴女に戻っていただいたのは、恋敵と一線に並びたいと言う、私の我が儘ですが……」
にこり、と青年が笑う。
「お付き合い、願えませんか?」
青年の言葉の真意を悟り、乙女の顔色が変わる。
「来て……? リィン‐ファン‐ヒュー‐バダム王子が、来ているのか?」
自ら恋敵を呼ぶような真似をするなど……。
信じられぬ、とその表情にありありと浮かべて、乙女が問う。
青年が、女と見紛うばかりの美しい面に浮かべた、コケティッシュな笑みを深める。
──いや……、この人なら遣りかねんな。この微笑みに魅せられて、いったい何人のご婦人が泣いたやら……。
げんなりとして、乙女が青年を見上げる。
「女らしく着飾って、改めて悩殺してあげなさい」
にっこり。
穏やかな笑みが返る。
ただし……底が、知れない。
「本当に……。貴方って人は、私で遊ぶのが好きだな」
ふるふると横に首を振りながら、乙女が呟く。
そんな乙女を、青年がゆるく抱きしめる。
「大丈夫。七十年に一度の三重月は、先の月起こりました。今の彼は、既に貴女に出会っています。貴女だと、一目で分かりますよ。賭けたっていい」
青年が、乙女に向かって深く呟き、その手が、乙女の頬に優しく添えられる。
「……私の可愛い、ソリュー‐アヴェラ。怖がらないで」
乙女の瞳が、半目にすがめられる。
「……『私の』だと? この私が、怖が──」
ソリュー‐アヴェラの体が、急に強張る。
「ラ、イ……っ!! ライオット!! この手はなんだ、この手は!?」
実にさり気なく胸元に伸びてきた手を、ソリュー‐アヴェラがつねりあげる。
「おや? いけませんね。久しぶりの再会に、勝手に散歩に出てしまったようです。悪い手だ」
悪びれたようすもなく、ライオットが答える。
ソリュー‐アヴェラが、再度頭を振った。
「まったく、貴方って人は!! その、実にイイ性格を、世のご婦人たちに教えて差し上げたい!」
「お互いさまでしょう? お淑やかで、華のような美姫と名高い、ソリュー‐アヴェラ?」
逆襲されて、ソリュー‐アヴェラが口を閉ざす。
「……貴女は、私にとっては特別な女性。私の全てを、知っていて欲しい」
ライオットが、ソリュー‐アヴェラの顎をとり、親指でその唇をゆっくりとなぞる。
「それに、こうゆー性格……、好きでしょう?」
向けられる、底知れないコケティッシュな笑み。
ソリュー‐アヴェラが、観念して答える。
「……好きですよ、ライオット。どーせ私は、ひねくれ者ですからっ!!」
正直な答えに、満足気にライオットが忍び笑う。
「ランスは、私が鳥厩へ移しておきます。時間がありません、早く着替えていらっしゃい」
促す声。
しかし、ソリュー‐アヴェラはその場を動かない。
「貴女を愛した男でしょう? 信じることも出来ぬ男を、この三年待っていたとでも?」
「わ……私だって、女なんだ。迎えに来てくれる王子様の夢見て悪いか!?」
ぷくりと頬を膨らませて拗ねると、ふぃ……と、宙空へとその姿が消えた。
*
「確か……この辺りだったと思うんだが」
ヒューが、城の裏手にある森の、高い茂みを掻き分けながら進んでいく。
少し離れた所から、ヒューを呼ぶフェイの声が上がっているが、それに構っている暇はなかった。
その背を越える茂みを抜けた所で、先ほど見かけたモノを、ようやく見出す。
少し開けた場所で、うずくまる青銀色の大きなグリフィン。
躊躇いもなく駆け寄り屈みこむ。
気持ち良さそうに寝息を立てている聖獣の顔を、両手で掴んだ。
聖獣がそれに驚いて、銀色の瞳を開く。
鼻先に、目の座った青年の顔……。
「……」
沈黙の内の凝視。
聖獣は、気圧されて、身動きもままならない。
「……ランス? 湖の騎士だろう?」
確信を持てぬ、それでも確認したくて焦れているヒューの問い。
「俺だ! ヒューだよ! 分からないか?」
青年の問いに、聖獣は、首を傾げて考え込む。
燻し銀の髪。燻し銀の瞳。凄まじく整った白皙の青年の顔。
気の強そうな目つきに薄めの唇は、少しばかり冷酷に見える。
やがて、それは、同じ色を纏っていた少年の顔に重なった。
「くるる……?」
三年前、半月ばかり一緒に旅をした、鈍色の少年。
目の前の青年には、はっきりとその面影がある。
お気に入りだった少年との再会に、聖獣は喉を鳴らし、盛大に懐いた。
「どうしてこんな所に居る? ソーヴェも居るのか?」
ヒューの問い。
肯定するように聖獣の首が大きく縦に振られる。
「仕事か? この国で何かあったのか?」
確認するように、続く問い。
それには、首を横に振って答える。
「じゃあ、何で来たんだ? ソーヴェはどこに居る?」
気の急いたヒューの問いが畳みかけられる。
答えるべく、聖獣が鳴き、喚く。
「……お前の言葉は、俺には分からん! 何が言いたいんだよ、お前はーっつ!?」
苛立ちに爆発寸前で、ヒューは頭を掻きむしった。
ガサリ!
背後の茂みが鳴った。
ランスの顔を掴んだまま、ヒューが振り返る。
「これはまた……とんだ所でお会いしましたね、ヒュー坊や」
屈みこむヒューを、冷えた青い瞳が見下ろしていた。
「お久しぶり。と、言って良いのですかね?」
「ライオット王子!? どうしてここに?」
思いもかけぬ青年の姿に、ヒューは驚きを隠しもせずに尋ねていた。
「私の愛おしい女性を追って来る以外の何があると?」
何を当たり前のことを? と言わんばかりに、ライオットが答える。
「じゃあ、やっぱりソーヴェが居るんだな!?」
「……『ソーヴェ』?」
思わず聞き返すライオット。
「ソーヴェだよ! 居るんだろ!?」
詰め寄るように、ヒューがライオットに迫る。
「ああ……、君は未だ、あの事を知らないのでしたね」
「あの事?」
焦れるように問い返すヒュー。
ライオットは思案げに、目を伏せる。
「……愛する女性の初めての口づけを奪った男に、あえて教えるなどしたくはありませんね」
「ライオット王子?」
不安げにヒューが問う。
「しかし私には、追うなと言われていた貴方たちを追って、あの事を目撃したというペナルティがありますし……」
「何をブツブツ言ってるんです!?」
先を急いて、ヒューが叫ぶ。
「相変わらず、一本気ですね。それに、せっかちだ。……まあ、落ち着いて聞きなさい」
ライオットが、ヒューを見上げて言葉を続ける。
「その一……。この国の王家は、王族の祖の忠告を忠実に守り、王族の血を薄めています。それが、幸か不幸か、精霊たちの意に叶った。この王家には、稀に“乙女”の称号を贈られる姫が誕生します。その姫たちは、精霊と情を交わします」
ライオットが、右手の人差し指を立てて、ヒューの鼻先に突きつける。
「その二……。六年前、この国の妃と、誕生したばかりの男君が急逝しました。……同時に、唯一の後継となった姫君は、人前に姿を見せなくなりました」
ライオットの手に、中指が加えられる。
「その三……。この国の姫君の名前は、ル‐ソリュー‐アヴェラ‐ソーンと言います」
ライオットの手に、薬指が加えられる。
三本の指が、ヒューに突きつけられる。
「私の言わんとすること、……頭があるなら、分かるでしょう?」
にっこり、とライオットがその唇に笑みを刻む。
しかし、その瞳は笑っていない。
ヒューは、その顔に、ありありと混乱を浮かべて、ライオットの言葉を受け止めていた。
「これで、分からないようなら……、貴方には、絶対に、あの女性は渡しません! あの女性がなんと言おうとね!!」
優しい面に、ひどく苛烈な表情を浮かべて、強くライオットが言い放つ。
それと、ほとんど同時だった。
ライオットの出てきた茂みを鳴らして、人が近づいて来る。
「ランス! ライ! 久しぶりに盛装したんで、自信がない。どこかおかしくないか?」
やや高めの澄んだ声。
その声は、ヒューの記憶の中のソーヴェの声で──。
「ソーヴェ! ソーヴェ!!」
その人物が茂みから現れたのと、その人物にヒューが抱きついたのは、同時だった。
「何者だ!?」
誰何の声と、その平手がヒューの頬に炸裂したのも、同時だった。
目から火花を散らして、ヒューが離れる。
「ソ……ソーヴェ~? 何もいきなり──っ!?」
驚きを露わにして、眼前に立つ、美しい銀蒼の乙女。
銀蒼の瞳。銀蒼の豊かな長い巻き髪は高く結い上げられ、薄絹のベールと銀色の簪で留められている。
小柄で華奢な身体を包む、同色に揃えられている薄い透けるような蒼の絹衣。華のように幾層にも重ね着られて、白い肌を隠している。
その姿は、あの日見た……乙女。
精霊の柱の中に、見出した、乙女の姿。
ヒューの中で、どうしても思い出せなかった最後の記憶が弾けた。
「『君は……誰?』」
そのヒューの呟きに、乙女の顔が哀しみで歪んだ。
銀蒼の瞳から、耐えきれなくなった銀色の雫が溢れ落ちる。
ライオットが真っ青になって、乙女を抱き寄せていた。
「ソリュー‐アヴェラ!! 泣かないで……っ!!」
ライオットの胸に、ソリュー‐アヴェラが縋るように顔を伏せる。
まるでそれが当たり前かのように、ライオットはソリュー‐アヴェラを腕の中であやす。
そんな二人の姿に、ヒューの裡に、嫉妬の渦が逆巻いた。
「ソーヴェ! 離れろよっ!!」
ヒューの叫び!
「ヒュー……? 私が、分かるのか?」
ソリュー‐アヴェラが、驚いたように顔を上げる。
「あ……当たり前だっ!! 俺は、愛する女性も見分けられないほど、馬鹿じゃないぞ!!」
余りと言えばあまりな言われように、ヒューは喚く。
「それでは、『君は誰?』とは何だ?」
ソリュー‐アヴェラを抱きしめたまま、きつい瞳で、ライオットがヒューを睨み上げる。
「やっと最後の記憶が戻った! ソーヴェの、その姿を見て……」
首を傾げるソリュー‐アヴェラ──ソーヴェに、ヒューが答える。
「初めて会った晩、覚えてないと言ったろ? 精霊の柱に願った事」
記憶を探るように、ソリュー‐アヴェラの瞳が、ふ……、と、宙を彷徨う。やがて、何かに思い至ったようにヒューに、瞳が向けられた。
「それが『君は……誰?』だ。精霊の柱の中に映った君は、とても哀しそうで……。俺は、君が、どういう人なのか知りたい。君を、助けたい。そう、願った」
ソリュー‐アヴェラの瞳を、まっすぐに見つめて、ヒューが言葉を繋ぐ。
「それできっと、精霊たちは、俺を君の許に送ったんだ。君が、一番心を許せる、子供の姿に変えて」
ヒューが、ゆっくりとソリュー‐アヴェラに微笑みかける。
「手が早い所は同じなんだな、ソーヴェ……」
優しくすがめられた燻し銀の瞳が、銀蒼の瞳を覗き込む。
「いや、ソリュー‐アヴェラ姫」
涙が、絶えることなく流れ落ちる。
「約束……果たしたからな。どうだい? 俺は、けっこう見られるだろう?」
ヒューが、ソリュー‐アヴェラに、両腕を大きく広げて差し出す。
「ヒュー……ヒュ──っ!!」
ライオットの腕をすり抜けて、ソリュー‐アヴェラがヒューの腕に飛び込んだ。
子供のように泣きじゃくる。
溢れ落ちる銀の雫。
その涙は、哀しみのものではない。
嬉しさ故のものであった。