二人の長〜い日常
「おや」と、雅愛は声を上げた。
あったかい緑茶を二つ、淹れたのだが、その湯呑みの二つともに、茶柱が立っていたのだ。思わず夫の名前を叫ぶ。
「裕介ー! 裕介ー! 見て見て、これ見て」
裕介はそれどころではなかった。
森へ向けて双眼鏡をキョロキョロと忙しく動かし、モゴモゴと口を左右に動かしながら、岩の上に片足をかけて、「チッ」と舌打ちすると、ようやく双眼鏡から目を離した。
雅愛がそれを見てまた呼んだ。
「裕介ー! これ見てよ! ほれ」
裕介は地べたに敷いたかわいいピクニックシートの上に戻ってくると、悔しそうに、湯呑みをひったくった。
「待って! 待って待って! それ、よく見て見て!」
「ああん?」
不思議そうに裕介が雅愛の顔を見る。
「茶柱! 茶柱がね、立ってるでしょ? こっちも立ってるの! 珍しいでしょ、ね?」
「ほう……」
感心したように裕介が目を見瞠き、鳥っぽい首の動かし方で、二つの湯呑みをヒョイヒョイと見較べた。
「これは珍しい」
「ね! いいことあるよ」
「いや、しかし……。ウム、いいこと、あったかもしれん。早速な」
「双眼鏡で何を見てたの?」
「キツネだ。……あれは間違いなく、新種のキツネだった」
「えー! 写真に撮ってたらすごかったんじゃない?」
「キツネにワシの名前がついとっただろうな。ユースケギツネとか……。あ、いや、発見者の名前がつくのは学名のほうだったか?」
裕介がそう言って眉を上げると、額のシワが増えた。
「すごいじゃないの!」
雅愛は目尻にシワをいっぱい寄せて、へにゃあと笑った。
「茶柱が二本も立ったんだもの! また姿を見せてくれるわよ! 今度は写真に収めてあげましょう」
ピクニックというには結構険しい山の中だった。
そんなところに遊びにやって来る老夫婦なんて彼らだけかもしれない。
50回目の結婚記念日に、金婚式をするよりよりは二人きりではしゃぎたいと、夫・田所裕介(78)と妻・田所雅愛(75)は、高山の中腹まで並んで歩いてやって来たのだった。
「思えばこの50年、あっという間だったな」
緑茶を啜りながら裕介が言う。
「子も作らずに二人で生きて来たが、本当にこれでよかったか?」
「子供がいないからずっと仲良しで来られたんだと思うよ」
雅愛は湯呑みを膝の上に置いて、答えた。
「ずっと恋人同士みたいな夫婦で来られたよねぇ」
樹の上で鳥が鳴いた。初めて聞く鳴き声の鳥だった。
「今の、なんて鳥だ?」
「あなたにわからないもの私が知るわけないでしょ」
緑茶を啜ると、雅愛が笑う。
「人生って短いね。こんなに生きたのに、まだまだ知らないことがいっぱい」
「だから楽しいんだ」
鳥の姿を探しながら、裕介も笑う。
「俺は生きることにちっとも飽きてないぞ」
「お互いまだ仕事できてることにも感謝しなくちゃね。あなたは大学教授、私はポエムの先生」
「この年になっても働かせてもらっていることに感謝だな。おまえも子がいない代わりに、かわいい生徒たちに囲まれて幸せそうだ」
「幸せですよ」
雅愛は目を閉じて、しみじみ言った。
「昔は子供ができないなんて不幸だと思ってましたけど、代わりに全世界の子供のことを愛してるんですもの」
「不安は……ないのか?」
おそるおそるというように、裕介が聞く。
「ありますよ」
雅愛は表情は変えずに、お茶をくいっと飲んで、答えた。
「あなたより先に自分が逝っちゃったらどうしようって思ってる」
「俺も同じだ」
裕介は真面目な顔になると、膝の上で拳を握った。
「おまえを一人にしたくない」
「ここで心中でもします?」
「そうしようか」
カサカサと音を立てて、紅葉の赤い葉っぱが風に流されてきた。
二人の間にそれは止まると、赤ちゃんのてのひらみたいに開き、にっこりと笑った。
二人も笑った。
「ウフフ」
「はっはっはっ」
目を上げると山が鮮やかな紅葉で色づいている。裕介はおむすびをひとつ取ると、ぱくついて、美味しそうにもぐもぐした。それから驚いて、
「おっ!? これ、アレだな?」
「わかった? ふふ……。アレだよ? 懐かしいでしょう?」
二人にしかわからない会話だった。
キツネの鳴き声が森のほうから聞こえた。揃って速いスピードで二人がそちらを振り向くと、森の入口に虹色のキツネが立っている。
「アレだ!」
「まじで!?」
二人が競うようにカメラを手に取ると、虹色のキツネはからかうように背を向けて、森の中へ隠れてしまった。
二人はまだまだ続く二人の未来を見るように、そのしっぽを見送った。