六嫋盟と三住綾子②
「えっ、星崎さん学校来たの?」
「そうそう、教室の鍵を返しに行った時に職員室で井和瀬先生と話してるのを見てさ。それでちょっと話したんだけど、もうすぐ復学するみたい」
「まだ…居るかな?」
「んー。分からないけど、行くなら早く行ったほうがいいよ」
「う、うん。盟は先に帰ってていいから!」
三住はそう言うと同時に靴下のまま駆け出す。
杞憂…だったのか。三住はこちらのことなど目もくれず行ってしまったが、俺が嘘を吐いていたことはどう思っていたのだろうか。少なくとも、何も思っていない訳はないはずだ。
「あの子なら、その程度の事は等閑に付すと思うよ」
六嫋がガラス窓に寄り掛かりながら言う。その口調は、まるで三住の思考を全て把握しているとでも言いたげな自身に溢れていた。しかし、それとは別に、何故俺の考えている事まで把握できたのか。考えうる選択肢は一つしかない。
「聞いてたのか?」
「うん。だから君と同じ嘘吐きだ。あっ、この事は盟には内緒にしてね」
「まあ、どうせ滅多に話さないしな」
意を決して歩き出し、そのまま六嫋を追い越す。一刻も早くこの場を去りたかった。罪悪感が消えない。三住にではない、星崎に対してだ。
星崎がクラスでまことしやかな噂を立てられていたのは、俺も知っていた。人は自分が知らないもの対して、それを補う為に脚色を加える。そうやって架空の星崎を作り出していたのは、俺も同じだ。俺も星崎の事をよく知らなかったから、クラスメイトの話を半ば受け入れてしまっていたのだ。真に受けて信じていた訳ではなかった事が、何よりも俺の心を抉った。
その点、三住綾子は星崎の友達だった。友達として、彼女を案じていて、それ以上に信頼していた。本当に、嫉妬するほどの人格者だ。
「じゃあ私も帰ろっかな」
後ろからハイテンポで近づいてくる足音は、やがて俺の真後ろで固定された。
「え、えっと…六嫋さん?」
「まあまあ、そんな顔しないでよ。駅まででいいから送ってよっ」
振り返って軽く睨むと、六嫋は下から覗き込んでからかう様に言う。彼女がいると、いつまでも罪悪感が消えない。心臓に掛かる重石が煩わしい。それでも、彼女の申し出は断れなかった。
軽く頷き、何も言わずに歩き始める。街灯の光で六嫋の影が俺の左斜め前に写し出された。この距離は、その昔、武士の夫婦が外を出歩く時の距離間とされていた。理由は分からないが、この距離間は妙に不安を煽られた。
この文化公園を抜けて、交差点を一つ渡れば駅に辿り着く。その間およそ50m。ここまでの道のりで六嫋は一度も口を開く事はなく、彼女の影だけが、彼女の存在を教えてくれていた。
「ねえ、ちょっといい」
「…何?」
俺は立ち止まらなかった。影が相変わらず着いてきていたから。歩いたままでいい、ということなのだろう。
「星崎さんと何を話したの?」
思わず歩が止まりそうになる。沈思黙考しないと気が済む答えが出せそうになかったからだ。変わりに歩速を緩め、何を話すべきか考える。起きた事をそのまま話す事など出来るはずもない。もしも言ってしまったら、六嫋はどう思うのか、大方の予想はついていたからだ。
結局、公園を出ても答えを言えずにいた。交差点の赤く光る信号がタイムリミットを警鐘している。
この信号は普段使わない。だからこの信号を渡ってから、六嫋の質問に答える事はできない。彼女の為に信号を渡るという選択肢は選べない。どうして見栄を張る必要があるか、と自己撞着に陥りそうになる脳内を整理する。
俺と星崎が職員室で交わした言葉は、一言にしてしまえば社交辞令だ。だが、それを声に出す事はできない。認めたくない。認めてしまえば、それは現実となって俺の頭を支配してしまうからだ。
考えても答えを口に出来ず、否、答えは見つけた。それは先の回答よりも認めたくはないものだけれど、決して間違えていないと、確固たる自信があった。
ついに信号が青になる。星崎の影が歩き出す。
星崎が視界に入る前に、それを防ぐ為に、俺は認めたくない模範解答を独白する。
「……告白して、振られた」