086 東京都地下下水ダンジョン その30
ユーリという七歳児を前に、アキラは地面に蹲ったまま、返して返して、と蹲っていた。
兵士が持ってきた木箱は地面に置いてある。アキラを安心させるためか、アキラの目が届く範囲にきちんと置かれていた。
まだモンスターの危険もあるということで、ユーリが周囲に簡易的な防壁や椅子を生成していた。
床を踏むという動作で錬金を行うその姿はまさしく物語の登場人物のように見える。
周りの兵士や、あのキリルでさえその錬金の技術に感嘆し、瞠目する。
(な、なんで、ここまで……)
――差がついている。
相手はたかが七歳の子供で、それもユーリのスタート地点は奴隷も同じの農民の子供だ。
特別なスキルもなく、ただ生徒として学舎に閉じ込められていただけ。
対するアキラは、この世界で十年も過ごし、様々なアイテムに触れ、スキルも特別だった。
なのに、なのにアキラは、もはやユーリに何一つ勝てる気がしなかった。
「アキラさん、大丈夫ですか? さぁ、地面に蹲ってないで椅子に腰掛けて、楽にしてください」
「う、ぅう……」
兵士によって椅子に座らされたアキラはさらに驚く。あの状況にあったユーリがアキラの名前を知っているということに。
羽虫か何かと思われていなかったことに驚いている。わかっている。アキラが自分を卑下し過ぎかもしれないということは、だが、自分とユーリの間にはそれだけの差が明確に存在していた。
そして……――。
――こうして対峙することで理解する。ユーリから奇妙な圧力が発せられていることに。
正面にいられると竦んでしまうのだ。
風格というものだろうか、ユーリの物腰はとても丁寧に見えるが、奇妙な圧力があって、アキラはそれで萎縮してしまう。
まるで前世の教師や、OL時代の上司を前にしたときのような……。
(す、スキルとか? ユーリに、転生特典みたいなものが?)
――もちろんそんなものはない。
この圧力は、潜在意識でユーリを敵対視しているアキラが、レベル差による生物学的な恐怖を勝手に感じているのもあるが、根本的な問題は、ここに来るまでに自信を粉々に叩き壊されて、勝手にユーリを格上だと思いこんでいることだ。
ユーリは何も威圧しようとしていない。だから、意思を強く持てば解消される程度の劣等感だった。
だがアキラは完全にこの場の雰囲気に呑まれていた。
戦場による緊張感。いまだ続く小規模な戦闘音。血と煙と土と鉄の臭い。
そしてアキラがどう頼んでもお願い一つ聞いてくれない兵士を顎で使い、処女宮とキリルを背後に控えさせ、今など地面を叩くだけで椅子だの壁だのを作ってしまう強大な存在。
(ぼ、僕は、あの世界から逃げ出してきたのに……)
理想の世界だと思っていたのに。
「な、なんでだよぅ!! なんでお前ばっかり!!」
アキラが怒鳴れば兵士が武器を持ってアキラを威嚇しようとするが、ユーリが「やめてください。怯えていますよ」と止めてしまう。
ああ、ここで殺されればとても楽だったのに。この惨めな時間を終わらせられたのに。
そう思うもユーリはにこにこと不気味に笑って、アキラに優しく声を掛けてくる。
「落ち着いて。ほら、ポーションがあります。精神安定に効きますよ」
恐怖や混乱の状態異常にまでは達していないが、ある種の混乱を感じているアキラは、それが毒物のように見えて、嫌だ、とユーリに手渡されたポーションを振り払った。
ポーション瓶が金属の床に落ちればがしゃりと瓶が割れて中身が漏れ出る。
薄い緑色をしたハーブのような匂いの液体が床に広がった。
――場に殺気が満ちているのが、アキラにもわかった。
兵士たちが激怒している。処女宮も、キリルでさえアキラに激怒していた。
処女宮はユーリの好意を無下にしたから怒ったが、他の全員は、違う理由での怒りだ。
神国では物の所持が子供には禁止されている。つまり、ユーリが渡そうとしたポーションは神国アマチカのもの、ひいては女神アマチカのものだ。
それを破壊したというのはつまり、女神アマチカに対する叛意に他ならず、場合によっては裁判なしで殺しても良いとされ――「そうですか。わかりました、アキラさん」
場の空気が冷えかけるのは止めたのはユーリだ。
「では時間がないので、本題から入りましょう。あちらのアイテム、大切なものがあるなら私が一つか二つなんとかしましょう。それだけ教えてください。残りは残念ながらアキラさんに所有権がないものですので神国で没収させてもらいますが」
「え、あ」
思わずアキラの脳裏を宝瓶宮との契約のことが過ぎった。宝瓶宮の名前を使って、荷物の没収を――。
(い、いや、あれはダメだ。あれはこの場では効力がない。あれは処女宮に約束を履行させるためだけの契約だ。だから、むしろここで没収されたら僕が宝瓶宮に払うものがなくなって、処女宮に約束を履行させることができない。亡命できない。逃げられない)
神国では躓いてしまったが、他国ならきっとうまくいくかもしれない、という希望が絶たれることになる。
「はい。10,9――」
ユーリが始めたカウントに、あ、とアキラは木箱に走っていく。大事な、大事なアイテム、ぜ、全部大事だ。何もかも僕のもので、どれか何か一つでもとられては今後が、未来が……。
椅子から降りたアキラは、ふらふらと歩いて木箱に縋り付いて、アキラはユーリを縋るように見つめた。
「ぜ、全部、僕の、だよ?」
「はい。ですが神国にあるアイテムは全て女神アマチカのものです。子供のアキラさんには所有権はなく――」
悩んだ様子のアキラは、ユーリが奇妙な怒りのような表情を一瞬だけ浮かべたことに気づく。
アキラにはわからなかったが、それはアキラへの配慮だった。
あまりに優位な立場に立ちすぎているユーリは、舌戦によってアキラが持っている情報を無条件にいくらでも引き出せてしまうことにユーリは気づいてしまったのだ。
それはつまり、弱っているアキラをユーリは攻めることができることに気づいたがゆえの苛立ちだったが、アキラは気づかずに慌てて助けを周囲に助けを求め、自分をつまらなそうに見ている女を見つけた。
「処女宮! や、約束は守ってくれるんだろうな!!」
「まぁ、ユーリくん見つかったし捕まえたから守るけどさ。これは没収するよ?」
自分が抱きしめている木箱を指差され、アキラは唇をきつく噛みしめる。
これらを失うのは惜しい。貴重なアイテムもあるが、換金物も多いからだ。
だが、自分のスキルは『運命天秤』だ。
1%でも手に入る確率があるなら、どんなアイテムでも選択して引き寄せることができる最強の能力。
ある種の運に左右されるが、このスキルがあればどこでだって自分は立て直せる。
「処女宮様、約束ですか?」
「うん。この国から出たいからってなんか約束されたの。でも、ユーリくんはずっとここにいるもんね?」
「ええ、まぁ、はい。ですが、出たいんですか?」
出る、という言葉に兵士たちの殺気が膨れ上がっていく。亡命もまた神国では罪だ。宗教国家の恐ろしさをひしひしと感じるものの、言質がとれたのだ。アキラはほっとした気分で、のたのたとユーリの作った金属質の椅子によじ登って、だらりと背を預けた。
ユーリは何かを考えているようで、だが、まさか、と呟いている。
ああ、と察しのいいアキラは「僕も転生者だよ、ユーリくん」と手をひらひらとさせてみた。
驚愕の表情を浮かべるユーリ。
――ざまぁみろ、とアキラは思った。
「う、うそだろ……」
ユーリの驚愕にアキラは気分がよくなってくる。
(どうせ自分だけが特別、とか思ってたんだろうけどさ。世の中こんなものだよ。特別なんかないさ)
ユーリを見てアキラも学んだ。自分は特別じゃなかった。だから今度は少しぐらい本気を出そう。せめて頼れるコネを作って、今度こそのんびり生きたい。
そんなことを考えていたものだから、その言葉を聞いて今度はアキラが驚愕することになる。
「わ、私以外に日本人が二人もいて、このレベル、か……?」
(ふたり……? もう一人いる、じゃ、そうじゃない……このレベル? このレベルってこいつ)
何かを問おうとしたアキラより先に反応した人物は処女宮だった。
「もー! ひどい! だからユーリくんに任せるって言ってるんじゃん!」
「あ、は、はい。すみません。わかってます。やります。やりますよ」
「で、なんだっけ? まぁいいや。アキラくんちゃんは出ていくんだよね。じゃあね」
手をひらひらと振った処女宮の様子に、アキラは奇妙な悪意を感じ、黙り込む。
処女宮の様子にアキラは自分が見落としをしていると思った。いや、今判明した事実が重要だ。さすがに説明されなくても見ればわかる。
――処女宮は転生者だった?
それは、それは、どういうことだ?
まずいと思った。とんでもない見落としをしている感覚がある。何か、とてつもなく、そうじゃない。
処女宮はアキラを手放すことを損ではないと思っている? どうでもいいと? アキラに価値がないと? 他国に流れてもいいと?
アキラは現代日本人だぞ。それをわかってても損ではない? どういう? わからない? どういう意味だ。
――つまり自分を殺すつもりなのか?
「処女宮。ぼ、僕に危害を加えないことを約束してほしい。殺さないでほしい。安全に国境まで……いや、て、帝国まで送り届けて欲しい」
神国が外交や貿易用に使っている聖道というものを使えば、安全に移動できることはわかっている。
そして他国は神国ほど危険ではないから、一人旅をしてもある程度は大丈夫だという情報もある。
出ていくときにアイテムを換金して馬車なりなんなりをアキラは調達しようと考えていたが(アキラは神国の動物事情を知らない。馬ぐらいいるだろうと考えている)、全てのアイテムを失った以上、こういった交渉は必要だろうとアキラは考えた。
もちろん図々しい願いだと思っている。ダメ元の交渉だ。それでも食らいつけば、多少なりとも温情を、とアキラは考えていた。
処女宮はにこりと笑った。
「いいよ。今、すっごく機嫌がいいからアキラくんちゃんのお願いを叶えてあげる。ね? ユーリくん。私、えらいでしょ?」
「え、は、はい。えらいですね。ああ、そうだ。アキラさん。聞きたいことがあったんですが」
すんなりとダメ元の願いを受け入れられ、考えすぎだったかと混乱するアキラ。処女宮は親切なのか? と勘違いしてしまう。
もちろん処女宮が優しいわけではない。どうでもよかったからだ。
処女宮がアキラの要求を受け入れたのは、アキラにゴネられてこのどうでもいい交渉が長引くことを疎んだからだ。
「え、ええと、ユーリくんの聞きたいことっていうのは」
「ああ、はい。アキラさん、私の聞きたいことというのは――」
――ユーリが聞きたがったのは、アキラが発見した、大人になることを避ける方法だ。
それは神国における子供ユニットがどうなって大人ユニットとしてシステムに認識されているかの話だった。
ユーリに問われ、アキラは自分がどうやってその認識を避けたかを語る。合間に処女宮への恨み言を混ぜつつだったが。
「――も、もちろん、一定以上の年齢じゃないとなれない可能性もあるけど、フラグ管理はそこだと僕は考えてた。実際、こうやって避けたわけだし」
「ふらぐってのはよくわかんないけど、亡命に双児宮が必要なのはそれが理由だったんだ。ふーん」
「システム理解もなしによくわかりましたね。へぇ、すごいな。アキラさん」
ユーリと処女宮が、アキラの説明に、へぇ、と素直に感心していた。
貴重な情報を提供したことで二人の顔面に一発入れてやった気分になって、アキラもまた少しだけいい気分になれた。
もちろんアキラは無料で情報を吐いたわけではない。処女宮が気にいっているらしいユーリに、処女宮の言葉を保証させる条件をアキラはつけた。
ユーリはアキラの条件を呑み、周囲の兵を立会人に、魔術契約もしてくれた。
――これでアキラは、神国から亡命先に到着するまで、神国に害されなくなった。
だというのに、処女宮はなんのアクションも起こさなかった。
他国で神国による殺人は起こせないはずだが、アキラは処女宮の様子を不審がってしまう。
「考えすぎ、だったかな……」
ユーリも見つかったし、目障りだから、と負傷兵たちと一緒によってアキラは地上に送られていく。
――数日後の話だ。
帝国に亡命したアキラは、そこで処女宮がなぜアキラをこうもすんなり手放したかを理解することになる。
神国から出る直前に双児宮によって、アキラは大人になった。
護送されて傷一つなく帝国に到着できた。
神国はご丁寧に入国手続きまで行ってくれた。
国籍も白紙にされた。アキラは知らなかったが処女宮がその操作を行った。
そして、アキラはそこで、とても大事なものが失われていることに気づくことになる。
◇◆◇◆◇
「処女宮様、よろしかったのですか?」
ついてきていた位の高い武官に問われて処女宮はその武官に「なにが?」と問いかけた。
彼らはまだダンジョンにいる。
ユーリが三階層に向けて掘削蚯蚓が掘り進めた穴を覗いていたからだ。
それを眺めながら処女宮は武官の話を聞いている。
神国において、高位の武官は高位の神官であることが多い。
そして神官は政治に関わる立場だからこそ、国のトップである処女宮がなんの処罰もアキラに与えなかったことに驚いたのだ。
「いくつか国法を犯しておりますが、あの娘」
アキラが犯したのは、不敬罪や危険物や財物の不法所持などの様々な法だ。
だが処女宮は気にした様子もなく楽しそうに、武官に言う。
「いいのいいの。ユーリくんにそっちの方が好印象残せたでしょ?」
「は、はぁ……ユーリ様が優秀なのはわかりますが、法は法です。女神アマチカに対する信仰心の――」
「罰なら下すよ。まぁ罰というか、返してもらうだけだけど」
「ええと?」
「わかりやすく言うと、びっくりさせたいから後で落とすけど、罰なら落とすの。だからもうあれ、どこでも価値ないよ。ステータスも低いしね」
処女宮の顔に浮かんでいるのは、猫が戯れに鼠を引き裂くときのような笑みだ。
「ふふ、いいもの手に入るね。今度は真面目な子にあげることにするよ。ああ、でもユーリくんは欲しがるかなぁ。聞いてみたいね」
処女宮が何を言っているのか、武官にはわからなかった。
ふと、思い出す。おとぎ話のような聖書の一節だ。
「ぶ、豚に、変わるのですか? あの娘は」
「豚? う、うん? ああ、聖書の? うーん、豚の方がマシじゃないかな。ご飯になるし。アキラは誰も欲しがらないと思うなぁ」
豚の方がマシ……その言葉に兵は慄きながらユーリを追って三階層に向かう処女宮についていく。
どうやら彼女は、とても恐ろしいことをされるらしかった。