071 東京都地下下水ダンジョン その15
この不思議な世界で生きていると時折、妙な郷愁のようなものを覚えることがある。
(不思議だな……コンクリートだの鉄橋だの下水だのと前世と少し違うが、似たものを見ているっていうのに)
違いもそう大きなものではない、壊れているか壊れていないか。でかいか小さいか。そんなものだ。
だがどうしてか無性に、夕日に照らされた、故郷のなんでもない道を駆け出したくなる瞬間がある。
並べられた夕食を、顔も思い出せない誰かと囲みたくなることがある。
どうでもいいテレビ番組を見て、熱い風呂に入って、ふかふかの布団に横になって、ああ、幸せだと――わかっているよ。わかっているよ私。
――ただのノスタルジーだ。
実際にそういったものを用意したところで、一口食べて満足する料理のような一瞬の満足感が私の胸を満たすだけだろう。
真に満たされることなどないのだ。こんなものかと思うだけなのだ。
この欲求は、ふとカレーが食べたくなってカレー屋に入るのとたいして変わらないのだ。
(いや、カレーは素直に食べたいが)
だが、人生というものはそういったものなのかもしれない。それこそが人生なのかもしれない。
一瞬の満足を積み重ねて、充実した人生にするのかもしれない。
――今の私にはそれらの全ては無意味だが。
やるべきことがある。やらなければならないことがある。
どこかから流れてくる郷愁を意識的に断ち切り、私は壁に手を当てる。
私がいるのは、昨日掘った二階層への階段だ。
この穴はまだ開通させていない。もしかしたら敵の正面に出てしまうここは陽動がなければ敵を一階層に引き込むだけ、殺されるだけだからだ。
(二階層は高レベルスライムが這い回るから覗き穴すら作っていない)
この先には何があるのか。
私は生きて帰れるのか。
兵を生きて帰せるのか。
(そう、ここまで大事になった以上、私だけの作戦じゃない)
私の背後には護衛の兵や使徒シザース様、磨羯宮様たちが。そのさらに先には神国の国民の命さえもあるのだ。
(キリルは無事だろうか)
心配になるが……いや、今は作戦に集中しよう。
すでに獅子宮様たちの陽動部隊は戦闘に突入しているのだ。
そして私たち偵察部隊もこの通路を開通させたら突入する。失敗は許されない。
「時間はどうなってますか?」
緊張しすぎておかしくなっているのだろう。一周して冷静になった思考で隣に控えている兵に問いかければ、時計を注視していた兵が答えを返してくる。
「はい。ユーリ様、あと一分です」
「わかりました。ありがとうございます」
息を吸う、吐く。心を落ち着ける。
偵察任務だが、状況次第では……いや、そこまでは考えなくていい。
まずはここに穴を開通することだけを。
そんな私の様子を不安に思ったのか。それとも七歳児を不憫に思ったのか磨羯宮様が声を掛けてくれる。
「ユーリ、何もお主がやらなくてもよいのではないか? それこそ他の人間でも同じことはできよう」
「磨羯宮様、ありがとうございます。ですが、私が一番早いので」
当然ながら還元にも個人差がある。人一人が通れる穴を瞬時に開けられる私のようなものもいれば、数分かけてようやく小さな穴を開けられるような人間がいる。
地下にいる生産スキル持ちで一番はやく、大きく穴を開けられるのは私だ。
今回は、前回の落とし穴のときのようにタイミングさえあっていればいいというわけではないので複数人の作業はできない。
(生死を分けるこの作業だからこそ、私がやるべきなのだ)
私もなるべくスキルエネルギーの理解ができるように気づきを与えたが、どうしてもこの個人差を縮めることはできなかった。
――おそらくは、皆、あの超常存在に対して怯えてしまったのだろう。
錬金術に限らずあらゆるスキルは、あの存在をうまく利用できるかで変わる、のだと思う。
「それに私も望んで死にたいわけではありません。保険は用意しています」
「うむ、それは、うむ」
磨羯宮様が私の傍で蠢いている巨大な液状生物を見て頷いた。
穴を開けたらまずは強酸スライムを突入させる。そのために大量のスライムたちを連れてきている。
それなりに通路は広く作ったが、背後に連なる兵たちは数多く、それこそ一階層にまで兵とスライムが待機していた。
この数の多さはわざわざスライム専用の育成班まで作って増産とレベリングに集中した結果だった。
陽動部隊を含めた四つの部隊に大量のスライムが配備されていた。
(今後の神国ではスライムの育成が活発になるだろうな)
頭は悪いが安価な戦力として使えるのだ。むしろ使わない手はなかった。
ちなみに、私が育てたスライムたちも連れてきている。私の傍に控えているのがそれだ。
「ユーリ様、残り十秒切りました」
九、八、七とカウントダウンを開始する兵の言葉に私と磨羯宮様は会話を打ち切った。
意識を壁に集中する。肉体のエネルギーをまとめ上げ、兵が数える数字とともに私は壁へ向かって錬金術を準備する。
「0」
「『還元』!!」
――そして穴が開く。
大人一人が悠々と通れるだけの穴が、私の目の前に出現する。思わず地面の断面を見た。土壁と円筒形の通路がぴたりと揃った断面。二階層だ。
何かの足音が聞こえた。どくりと私の心臓が高鳴る。恐怖か、興奮か。指示を――出さなければ。
「いけ! スライムども!!」
私の叫びに呼応してスライムどもが穴に向かって殺到し、すぐさま銃撃の激しい音が響く。
「まずい! 兵ども行け!! 行け!! 使徒シザース! 貴様もだ!!」
銃声に顔色を変えた磨羯宮様が兵に指示をする。私も慌てて視界が通るように穴を広げていく。ただしうかつに開ければ敵の侵入口を広げると同じだ。
だからあくまで人が通れるような穴ではなく、敵の様子がわかる程度の、またスマホ魔法で援護ができるように銃眼のような細い穴を作ることになる。
「何が、何が起きてる?」
私の呟きに答えはない。ただ次々とスライムが二階層に向けて飛び込んでいくだけだ。
銃声が響いている。戦っている。何かがこの先にいる。薄暗くて二階層の様子はわからない。
だが、そうだ。戦いが始まった、ということはこの先に敵がいるということだ。
もちろんこれを予想していなかったわけではない。
だが、敵が予め集まっている正規な階層階段と違って私たちは不正に穴を掘って、通路に穴を開けたのだ。
自衛隊員ゾンビの巡回とかち合うにしてもそれは少数だと思うのに、この激しい銃撃戦はなんだ。
「照明! 打ち上げます!!」
銃眼にスマホを突っ込んだ兵の一人が照明魔法を二階層の通路に向けて打ち出した。
打ち上げ花火のように、光が飛んでいき、私たちの視線の先でぱっと激しく光を放った。
「あれが、まさか」
私の視線の先に見えるのは、獅子宮様の報告にあった巨大な建物状の不気味な肉の塊だった。
どくりどくりと脈動する巨大な施設。それはまさしく不吉の象徴に見える。
磨羯宮様が銃眼の前にいる兵を押しのけて敵の生産拠点をじっと見た。やがて決断をしたのか背後で指示を待つ兵たちに向けて大きく叫んだ。
「あれが生産拠点か! おい! ユーリ、作戦通りに拙僧が指揮を変わるぞ! おい! 我が魔法兵! 早くこい!! 使徒シザース! 貴様は前衛だ! 崩れないようにスライムと兵の指揮をしろ!! 好機だ! ここで敵の生産拠点を潰すぞ!!」
磨羯宮様の指示に、兵たちが大きな声で了解と叫び、スライムたちと一緒に、次々と私が開けた穴から二階層へ向けて飛び出していく。
その中には準備期間の間に新しく生産した機動鎧を来た神国の精兵も混じっていた。
――ここからは指揮を磨羯宮様がとることになる。
磨羯宮様が偵察部隊へ参加すると聞いた巨蟹宮様は、作戦を一つ追加した。
即ち、開けた穴の先にちょうど敵の生産拠点があった場合についてだ。
本来は私が偵察し、敵の拠点を見つけたら位置を記録して帰還し、次に攻撃作戦を練る予定だった。
宝瓶宮様もおらず、磨羯宮様が作戦に参加するとは思っていなかったからだ。
だが磨羯宮様が偵察に参加するとなればとれる戦術も増える。
敵拠点が侵入口の傍にあった場合、陽動部隊はそのまま強襲部隊へと移行する。
そのために偵察部隊に配備するスライムを増強した。
磨羯宮様もまた本腰を入れるために地上より新しく兵を呼び出した。
その際に性急すぎるという意見もあったが、内外に問題を抱える我々によって、時間は敵でしかないのだ。
叩けるならば、叩かなければならない。
「神国の強兵どもよ! 十二天座たる磨羯宮が命じる! 女神アマチカの威光に従わぬ神敵をここで叩くぞ!!」
磨羯宮様が叫ぶ中、私もまた作戦通りに磨羯宮様の補助に徹することになる。
◇◆◇◆◇
「大人たちは勝手すぎる」
十二天座たる双児宮はぶつぶつと呟きながら人馬宮が学舎の敷地に巨大な穴を掘るのを眺めていた。
この下に宝瓶宮たちがいる、らしい。
――どうせユーリを探しにきたのだろう。
双児宮から隠れ、錬金術を使って地中を掘り進めているというのはそういうことだ。
許可なく学舎の敷地に侵入されている。その事実に双児宮は腸が煮えくり返る気持ちだった。
(正式な許可をとればいいものを。こそこそと、下劣な奴らだわ)
双児宮はすでに先日の処女宮の訪問は忘れていた。自身で会うことなく帰らせたことも含めて。
「生徒たちの避難は終了しました。神官たちも。今の学舎には誰にもいません」
「そうですか。ご苦労さまです」
自らの使徒フィールの言葉に双児宮は満足そうに頷く。
この廃都東京の地下にはダンジョンが広がっている。地下を掘るならば、何が飛び出してきてもおかしくないのだ。
だから双児宮は学舎の隣に宝瓶宮が作った巨大倉庫に生徒たちを避難させていた。
「くだらないことで授業が一日潰れました。この報いをどう受けさせてやりましょうか」
そんなことを呟きながら、彼女たちは人馬宮の兵たちが農具で地面を掘るのをだらだらと眺めていた。
空には太陽が浮かび、暖かな日差しを浴びせていた。