215 暗躍する者たち
――神国アマチカ。某所にて
「『鷹の目』が神国側にいる」
神国にある、とあるバーの地下、ワインや食料を保管する食料庫の壁奥にそれはあった。
様々な探知妨害用の機材が巧妙に配置された、隠し部屋だ。
そして今この場に地図を広げ、机を囲む帝国諜報兵たちがいる。
「鷹の目だと……師匠が敵側にいるのか?」
男が女に問いかければ、うむ、と女は頷いた。
「私が確認した。いくつかの地点に現れ、我々の符号を確認していた」
別の男が声を上げる。驚きに満ちた声だ。
「あの男が神国に降ることなど考えられんが……鷹の目ならば、生きていてもおかしくはなかったな。だが奴が現役だったときと今は符号が違う。奴がどれだけ優れていようと我々の真の目的はわからんだろう」
いや、と何人かが声を上げた。危険だ、と。自分たちの目的がバレている、と。鷹の目ならば解読ぐらい容易だろうと口々に言う。
最初に発言した女。諜報兵『蛇の鱗』は腕を組みながら口角を釣り上げた。そうこなくては、といった雰囲気だ。
「帝国が動くことに関しては神国にバレているだろうさ。兵は動いているし、兵糧の流れも漏れている。隠しきれるものじゃない」
そう、動きが大規模すぎれば流石に外に漏れる。
それは防げるものではない。要は重要な一点さえ漏れなければいいのだと女は言う。
「心配することはない。神国の諜報はお世辞にも動きが良いとは言えない。奴らの諜報は内緒話を聞くことに特化している。破壊工作を行ったり、阻止するための技術は低い。鷹の目が協力しようとそういった技術を一朝一夕に伸ばすことはできない」
女がそう言えば、周囲の者たちも納得したように頷く。
今は積極的に防ぐように頑張っているが、かつて神国は防諜に関しては政治システムをメインにしていた。
女神アマチカに関する信仰を利用した神官制度によって、潜入した諜報員を取り込む仕組みを作っていたのだ。
ゆえに忠誠度や練度の低い諜報兵が軽々に女神信仰を装おうとすれば、力のなさゆえに『教化』の影響を受け、女神を崇めてしまうようになる。
――神国に限らず、教化のリスクがある宗教国家への潜入は命がけだ。
また七龍帝国に隣接するアップルスターキングダムのようにそもそも種族人間の潜入に向かない国もある。
現地に協力者を作ることでしか情報を得ることができない国もあるのだ。
それに比べれば、まだ神国への諜報は楽な部類になる。
練度の高い諜報員ならば鋼の忠誠心を用いて教化による被害を防ぐこともできるのだ。
とはいえ、神国国内の重要箇所に立ち入るためには神官位の取得などの関門が立ちはだかる。
諜報兵もまた、女神を信仰しなければならないのだ。
教化の誘惑に耐えなければならない。そして、だ。
より確度の高い情報を得るためには内部で出世する必要がある(姿を隠して盗み聞きするだけでは得られない情報を得るためにだ)。
だから司祭位やそれらの位を得る必要があるのだが、そのためには神国人さえも騙せるレベルの強烈な信仰心を手に入れなければならないのだ。
しかしそれを成功させるためには、強烈な帝国への忠誠心が必要になる。
でなければ演技が真実へと変わるのにそう時間はかからない。
鋼の忠誠心すら歪むほどに、女神信仰はとろけるような甘さを諜報兵に齎してくる。
――諜報兵は過酷な任務に従事するがゆえに、人を崇めるよりも、神を崇めたくなる。
周囲全てを疑ってしまうからこそ、彼らは絶対なる女神と呼ばれる者への信仰を篤くしてしまう。
それこそ、本物の神国人以上に。
ゆえにこの場にいるのは、その誘惑に耐え、帝国への忠誠を保った本物の精鋭たちだった。
「我々は、帝国の未来を作るためにここにいる」
女諜報兵『蛇の鱗』の言葉に全員が頷いた。
アップルスターキングダムに敗北した帝国は岐路に立たされていた。こんな無茶な作戦を行うのもそのためだ。
「我々がなぜここにいるのか。皆も考えてくれ」
連合軍が敗れたあとのことを全員が思いだす。
神国への諜報を強化するために帝国はニャンタジーランド教区の山賊の中に諜報兵を紛れ込ませ、神国兵にわざわざ捕まり、そして教化を受け、神国の内部に入り込んだ。
もちろん全員が成功したわけではない。野生のモンスターに殺されたものもいれば、冬のニャンタジーランドに耐えきれず凍死したものもいる。
――彼らは仲間の犠牲を払って、ここにいる。
その中では当然、諜報系スキルが持つアビリティ『鑑定偽装』によって、ステータスの偽装も行っている。
それぞれが戦士や文官などスキルを諜報アビリティで『模倣』することで農民にするにはもったいないと思わせることで、神国内部で活動できるようにもした。
だが中には偽装を『看破』され、教化を受けることで仲間を売る危険を感じ、自殺した者もいる。
鉄の結束のなせる技だった。
――その理由は、この場の全員が、自分たちが帝国を、祖国を救うのだと信じているからだ。
そして、それは諜報兵にこの隠れ家を提供しているバーの店主も同じだ。
第二次大規模襲撃、その際に撤退する帝国諜報兵の中で、このバーの店主だけが神国に残った。
下手をしなくとも肉の盾にされる可能性がある中で、店主はもし神国が生き残った場合に備え、神国に拠点を用意していたのだ。
「絶対に成功させる。そのためには我らは――」
◇◆◇◆◇
「――などと奴らは考えています」
神国に降った元帝国諜報兵『鷹の目』バリーは、女神アマチカに祈りを捧げてから、大通りにある移動式の軽食販売店で購入した、串に差した腸詰め肉にかぶりついた。
そこは神国にいくつかある広場の一つだ。穏やかな春の陽気に満ちた、暖かな場所だ。
暖かい陽の光がバリーに降り注ぐ。
設置されたベンチに座り、同じく販売店で購入したフルーツジュースをストローで飲むバリーの目にはボールを追いかけて遊ぶ学舎に入る前の子供の姿が見える。傍には母親が立っていた。神国では学舎に入れられる六歳以前の子供は親元で育てられる。
十二歳になるまでは人間として扱われないが、かといって母親が愛情を持たないわけではない。平和そのものの風景だった。
「なるほど……」
バリーの隣には神官服を来たふくよかな女性が座っていた。神国内の諜報を司る天蠍宮の使徒だ。
まるで一般人の神官のような女はバリーの言葉に頷くと「では阻止します」と彼に言う。主婦が夕食を用意するというようななんでもない口調でだ。
だが色黒の大男はその言葉にゆっくりと首を横に振った。
「いえ、やらせた方がいいですね。奴らの目的は派手に動くことで我々の注意を引き、本命を隠すことですから」
バリーの報告は、神国で勢いを増しているユーリ派の暴走に見せかけた小神殿占拠事件を、帝国諜報兵が当日に起こそうとしている、という情報だった。
教皇にユーリが座るべき、というユーリ派の過激な主張をするために立てこもるのだ。
使徒ユーリと、教皇である天秤宮の権威を傷つけるための行動である。
そして、この情報の情報元はユーリ派である帝国諜報兵の隠れ家を運営するバーの店主だ。
――バリーはもともと帝国の諜報兵だ。
そのときの記憶から神国に残った諜報兵を虱潰しに探しだした彼は極秘に彼らと連絡を取り、帝国から離れ続けたことで信仰心を持ってしまった彼らの一部を懐柔し、情報を提供させることに成功していた。
天蝎宮の使徒はバリーに問いかける。疑問に満ちた目だ。
「しかし事件が起きれば教皇の権威に傷がつくのでは?」
「いえ、計画を阻止し、女帝の気が変わる方が危ないでしょう。何をするのかわからなくなる。くわえて小神殿の占拠を未然に防げば私の弟子たちは姿を隠します。当日の動きがわからなくなります」
諜報兵が厄介な部分は、隠れられると見つけるのに苦労するという点だ。
活発に動いている今の状態の方がバリーにとっては捕捉がしやすく、計画もわかっているのなら、それを叩けば良い今の状況の方が楽だった。
「自分の弟子だというのに冷たいですね」
使徒の言葉にバリーはサングラスに隠れる目元を歪めた。
「一度諜報兵になると決めたのなら、親兄弟であろうと信頼するなと奴らに教えたのは私です。その私が奴らに温情を与えたところで彼らは私に感謝などしないでしょう」
言いながら女神への祈りをバリーは口の中で唱える。手には半分ほど食べられた腸詰め肉が串に残っていた。
すでに食欲が失せているバリーだが、残った肉を口に放り込み、ジュースで押し流す。そうしてから紙コップを手の中で握りつぶした。
沈黙。先に口を開いたのは使徒の方だった。
「ユーリ派ですか」
使徒の言葉には憂慮の色があった。バリーはそれに同意する。
「ユーリ派のせいで国内は割れかけていますからね。帝国兵もそうですが、王国兵などもユーリ派を入り口として神国に入り込もうとしています――大半は、熱狂にそそのかされてそのまま本当にユーリ派になりますが」
『教化』とは長く続く夢のようなものだ、とバリーは思う。
『教化』を受けると、自分がいつからか夢の中にいると錯覚させられる。
そして現実に戻っても、その夢の続きのように振る舞ってしまう。やがて夢が現実を乗っ取る。自分が生まれながらの神国人だと思うようになる。
「これが終わったらユーリ派についての調査を頼むことになりそうですね」
使徒の言葉にバリーは「わかりました」と頷いた。
特に感慨はない。恐怖もない。
バリーはユーリを知っている。
あの怪物のような少年と、ユーリ派は繋がっていないのだから、恐れるようなことは何もない。