195 旧茨城領域征伐 その18
夜の闇が、戦場を覆っていた。
炎の魔法の照り返しが、氷壁に建てられた松明が、グレタを燃やす炎が戦場の明かりだった。
『なにが起きている……』
ヒデヤスは遠くに見えるシモウサ城塞の王の苦しみように、唖然と動きを止めてしまった。
自身に強力な炎や氷の魔法が当たり、血しぶきが舞うが、そのまま立ち尽くす。
――グレタの悲鳴が響くたびに、恐れが戦場に伝播していた。
オーガたちはじっと立ち尽くしていた。
オーガたちの戦意が消失していく。恐ろしい主すら打ち据えるあの氷の壁が、まるで魔王の城のように見えてしまう。
二万を超えるオーガたちが、魔法や矢の雨が降り注ぐ中、立ち尽くしていた。
――彼らの心にあるのは、ありえない、という感情だ。
自分たちの王であるグレタは、いつだって巨大で、偉大で、強靭で、人間などに負ける存在ではなかった。
『これは悪夢か?』
ヒデヤスは呟く。
なぜこんなことになっているのか。偉大なるオーガたちの王が、膝を着くどころでなく、地面を転げ回って痛みに呻いているなど。
『なんと……無様な』
ヒデヤスの胸の内には憤怒が巡っている。
王が、超常の武威でオーガたちを勇気づけるはずの王が、無様に倒れて苦痛の叫びを上げるなど。
グレタの暴虐が許されていたのは、その強さゆえのことだ。
それがあんなにも無様に負けている。人間一人殺せずに殺されようとしている。
ヒデヤスは身体を撃ち抜く炎の雨も、身体を凍らせる氷の嵐も気にならない。胸の内の憤怒が、赤々と熱を発している。
――『ああああああああ、ぎぇえええええええええええ』
王の、いや、もはや敗者の叫びだ。ヒデヤスは弓を片手に、歯を噛み締めた。
(もやは、この戦場に勝ち目はない……)
だがどうするというのか。人間がオーガを許すなどあり得ない。自分たちは皆殺しにされるだろう。
いや、それはいい。自分たちは勇猛なる戦士だ。戦いに負けた結果の死ならば受け入れられる。
――それが、まともな戦いであったなら……。
ぎしり、とヒデヤスの歯が軋る。
遠目に見えるかつてのオーガの王、グレタの姿を。
あの惰弱なる者の命令で多くの友が死んだのだ。
やるせない感情に襲われながら、ヒデヤスは、自身の魂に語りかけるものの存在に気づく。
『もはや、あれはダメだ。鬼眼将軍ヒデヤス、お前を次のボスに任命する』
圧倒的な気配。ヒデヤスがこの世界に生まれ落ちたときに聞いたことのある声。
鬼人種の、真の王の声だった。
◇◆◇◆◇
鬼人種の君主は暗い洞窟の中でインターフェースを表示していた。
人間側の君主と違い、モンスター側の君主はスマホ以外の、配下に対する監視方法を持っている。
鬼人種の場合、それは呪いだ。
オーガたちにはある種の、監視にも似た呪いが掛けられている。
それによってヒデヤスの視界を覗き見ていた鬼人種の王は、ため息にも似た声音で呟いた。
『やはり、人間……度し難き進歩だ』
グレタはけして弱くない。愚かだが、愚かな分だけ腕力や耐久力にステータスを振っていた。
そもそもグレーターサイクロプスという種族自体がとてもつもなく強いのだ。
人間のHPの限界が数千程度で終わるとすれば、鍛え上げたグレーターサイクロプスの基礎HPは万を超える。
これに『ボス特性』や『巨人種』などの種族特性が加わることで、グレタのHPは数万に達しているのだ。
加えて防御ステータスや『呪い』での強化を考えれば少なくとも、平均レベルがせいぜい50レベルの軍勢に倒せるモンスターではない。
グレタは傷を負おうとも、多重のHP回復パッシブスキルがその傷を癒やすのだから、苦戦しようとも負けることはないと主は考えていた。
彼がグレタを城塞の主に任じたのは教育のためもあったが、あれを殺せる人類が、この段階ではまだ存在しないと考えていたからだ。
『それともこの敵が特別なのか……』
彼は考える。
残るオーガを全て呪いの生贄として、グレタの強化に費やすべきかと……。
総勢二万を超えるオーガだ。兵糧もなく、寿命もコストとして払っている期限の短い者ども。
それを使えば一時的にグレタを本物の怪物にすることも可能だが。
『敵の勢力範囲に近すぎるか……解呪されるな』
洞窟内に嘆息が漏れる。失策だった。せめて冬の前にユニークオーガを主に据えておくべきだった。
――引き際だった。
『二万のうち、五千残ればいいだろう』
彼は権限の移行を即座に行った。グレタのボス特性を奪い、唯一残ったユニークオーガ、ヒデヤスをボスモンスターへと変じさせる。
グレタの忠誠が失われるが、どうでもいい。
今は、次の大規模襲撃のためにこのシモウサ城塞の敗残兵をできる限り回収するのが主の目的だった。
シモウサ城塞はどうせ落ちる。支配領域の減少に伴う『エーテル』の入手量低下は痛いが、次の大規模襲撃で取り返せばいい。
念話を繋ぐ。新たなボス個体へと。
『もはや、あれはダメだ。お前を次のボスに任命する』
敗残兵を率い、本領へと撤退せよ。主はそう命じるのだった。
◇◆◇◆◇
「……ユーリ様、オーガたちの様子が……」
隣に立っている兵が敵の様子を見て呆然と呟いた。
氷壁の下で苦痛に呻くグレーターサイクロプスを見下ろしながら私は嫌なことをされた、と直感した。
二万の兵が、人間との敗戦を経験したオーガたちが慌てたように逃げ出していく。
シモウサ城塞ではない。オーガたちの本拠地に向けてだ。
「撤退……なぜ――そんな」
私は呆然と呟いてしまう。周囲の兵も同様だった。逃走などモンスターにあらざる行動だ。
ダンジョンのモンスターも、殺人機械も絶対に逃げたりしない。全滅がわかっていても人間を殺すために突っ込んでくるというのに。
君主を殺したことで自由度が上がっているのか? オーガ特有の行動? それとも、もうそこまで制約が外れているのか? モンスターの知能個体はそこまでできるのか?
――まずい、という直感が働く。
こちらの戦術の多くを覚えられたオーガに逃げられてはまずい。
せめて敵将を仕留めなければ――直感のままに望遠鏡を取り出すが鬼眼将軍ヒデヤスは遠くに離れすぎている。
(円環法は……ダメだ。届かない。奴らの動きが早すぎる)
円環法による落とし穴の弱点として、素早く動く対象に命中させることができない、というものがある。
地面にSPの浸透を行わなければならないので、どうしてもレベルの高い敵が本気で動くと捕らえきれないのだ。
何か因縁でもあるのか炎魔様が必死に、その背後をバーディが追いかけているがヒデヤスを殺せるかは微妙だった。
「……ユーリ様、どうしますか?」
「氷壁があったから勝てたんですよ? 今の兵数で平地でオーガを相手にできるわけがないでしょう。バーディの鳥人部隊を追撃に回すように命令します」
そして私はシモウサ城塞を見た。
城塞の入り口からメスのオーガや子供のオーガたちが逃げ出すオーガの軍勢を追いかけて逃げていくのが見える。
家財道具らしきものを背負ったオーガたちもいる。特徴的な装いのオーガもいた。望遠鏡の鑑定機能で種族を確認する。
(呪術師に……あれは鍛冶師か? 生産技能を持った個体もいるのか。いや、そうだな。攻城兵器が出てきたんだ。そういう技能はある……なら優先的に狙うように鳥人兵に命じよう)
獣人たちの生産スキルの抽選率が低いように、魔法王国で戦士系スキルの抽選率が低いように、勢力で生産スキル持ちの割合は決まっている、と私は考えている。
オーガたちはスキルの抽選はないが、種族特性を考えれば生産スキル持ちは少ないだろうと思われた。
バーディがすぐに指示を出したようで、鳥人たちが追撃のために飛んでいく。
ひとまず今はこれでいい。これ以上の兵は出せない。
――そして私は氷壁の下を眺めた。
オーガの撤退と同時に、状態異常が効くようになったグレーターサイクロプスが様々な状態異常魔法を食らって、動けなくなっている。
さすがにレベル差があるので即死は効かないが、耐久力が急激に減少したのでこのグレーターサイクロプスは雷神スライムの到着前に死ぬだろう。
今も攻撃を続けるマジックターミナルによって殺されるのだ。
私はボスを見下ろしながら呟いた。
「なんだか拍子抜けでしたね。あまり怯えなくてもよかったみたいです」
「いえ、我々では対処できませんでした。流石です、ユーリ様。あのような円環法の使い方をするとは……」
「いろいろと考えていましたが、痛みで止まってくれて助かりましたね」
愚かなボスだった。お前が一番最初に出てきたならば……もしかしたら勝っていたかもしれないのに。
(敵を侮り、教育などということをする時点で、お前は終わっていた)
せめて最初に出てきて私たちを十分に弱らせてから配下の経験にすればよかったものを。
この敵が最初に出てきたならば、解呪に手間取り、神殿の建築をしていないときに出てきたならば、私の対処能力を越えていたかも知れなかった。
雷神スライムを投入しただろうが、真正面からこれと戦って勝てるとは私も思っていない。オーガの強さは今回の戦いで十分に思い知った。
(私も今回は失敗をしたし、あまり敵を見くびらないようにしなくてはな)
冷たくなっていくボスを見下ろしながら思う。
一歩間違えれば、私があのような姿になっていたのだと。
さて、と私は氷壁の内側を見る。まだ勝利を実感していない兵たちに向けて私は言う。
「勝ちました。勝ち鬨をあげてください」
氷壁の上に建てられた篝火が赤々と兵たちを照らしていた。
誰も彼もが疲れている。しかし勝利の喜びがその疲労を拭い去っていく。
『うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!』
『勝った! 勝ったぞおおおおおおおおお!!』
兵の叫びが、未だに勝利を信じきれていなかった兵たちの間にも伝播していく。
喜びの声が、勝利の熱狂が広がっていく。
こうして旧茨城領域征伐はニャンタジーランド教区軍の勝利に終わるのだった。