135 二ヶ国防衛戦 その6
「おいおい嘘だろ……」
刃先のみが鋼鉄の槍を片手に、腰に鋼鉄の剣を下げ、鋼鉄の胴当てとモンスターの毛皮のズボンを身に着けたくじら王国の一般歩兵は走りながら空を見上げた。
――空が、赤く燃えている。
夕陽ではない、まだ昼だ。青空は彼方まで遠く。そして白い雲がまだらに見えた。
だがそれは数十秒前までだ。今は違う。丘の上の神国の陣地より放たれた炎の玉の呪文によって、まるで空が燃えたかのように、いや、炎の壁が落ちてくるかのように……――。
ああ、と隣を走る歩兵の誰かがうめき声を上げた。
くじら王国のエリート層、最上級の貴族の当主や、その子弟がつくとされるペガサスナイトたちが、無残にも地面へと墜落していくのが見えたからだ。
ある者は燃えながら、あるものは力尽きて。
ああ、ああ、畜生。畜生。
なんてことをするんだ、という気持ちだった。
自分はただの平民で、人に溢れる王国ではどこにいっても職につけないから体力さえあればなれるという王国の兵士になったのだ。
とはいえ、兵士の倍率も高かった。なんとか幼い頃から鍛え続けた剣術のスキルがあったから受かったけれど、そこからもまた大変だった。
兵学校に通って、モンスターの討伐にも出て、同期が騎兵たちによって捨て駒のように扱われる中でもなんとか生き残って、出世して、あの大将軍である武烈クロマグロ様の率いる遠征軍に参加できて。
――勝利確実の戦争だと、兵長からは言われていた。
報奨金が出たら、こんな危険な仕事は除隊して、今までコツコツと溜めた金を使って、小さくてもいいから店でもやろうと思っていたのに。
貴族でもなんでもないから、一生歩兵なのだと言われたから、そんな小さな夢を持って、今まで頑張ってきたのに。
ただの歩兵は槍を片手に駆ける。駆ける。駆ける。死地へ向かって。ペガサスナイトが全滅するなんて聞いていない。
異常事態だ。だが、立ち止まることはできない。
自分の背後には戦友たちが続いている。ここで棒立ちなんてしてみろ。そのまま後ろを走る戦友たちによって倒されて、踏まれて死ぬ。
前に出ても死ぬかもしれないが、下がれば確実に死ぬ。何より敵前逃亡は重罪だ。このまま突き進むことしかできない。
――だからもう、祈るしかない。
祈る相手は神ではない。歩兵たちのずっと先を神国の軍勢が陣取る丘の上へと駆けていくくじら王国の精鋭騎兵部隊だ。
いけすかない貴族やエリート兵士で構成された気に食わない連中だ。
だが奴らは本物の戦士だ。いけすかないだけの実力を備えている。
あらゆる敵をその馬蹄で轢き潰し、鋼鉄の槍で突き貫いてきた本物の戦士たちだ。
「いけ! いけ! いってくれ!! いけええええええええええ!!!」
槍を掲げてそのなんでもない兵士は叫んだ。周囲の戦友たちも同じ気持ちだったのか彼に呼応して大きく叫ぶ。
『浮遊』する巨大なバトルホースに乗った騎士たちが、太陽光の反射する鋼鉄のきらめきのままに駆けていく。
(かっけぇ。ああなりてぇって、俺も思ってたよずっと)
あのかっこいい騎士たちが、邪神アマチカを奉ずる悪魔みたいな神国の狂信者どもを殺してくれる。
王国の勇士たるペガサスナイトを無慈悲に撃ち落とした、悪魔どもを殺してくれる。
(さぁ、俺たちも気をつけなきゃな)
騎兵を応援するのもいいが、そろそろ自分のことを考えなければならない。
この先、今『浮遊』する騎兵部隊が駆け抜けたあたりに、神国のクソどもが何か罠を仕掛けているらしい。
落とし穴だかなんだかがあるらしいが、こういうときのために仲良くなってる偵察スキル持ちの傍にくっついて――「あ」と誰かが叫んだ。
あ、ってなんだよそんな気の抜けた声を上げて。
その一般兵士は地面から、戦友が見ている空へと視線を向けた。
――騎兵が空を飛んでいた。
「――は?」
五百か、千か、正確な数はわからない。ただ、突然地面から現れた土色の壁によって、馬が上空に跳ね上げられていた。
馬の壁。足は止まらず歩兵部隊はそのままその落下してきた馬の壁に突っ込んでいく。
落ちてくる騎兵の騎士と目があった。歩兵部隊の方に吹っ飛ばされてくる騎兵部隊の騎士は、驚いた顔で自分を見ていた。
(いや、そりゃ誰だって驚く)
自分だって驚いているのだから。
っていうか、逃げ――無理、後ろには戦友が詰まっていた。
急に逃げるにも、ああ、嫌だ。やだ。やだやだやだ、こんな、こんなわけのわからない死に方は――
――歩兵部隊に、空から落ちてきた騎兵部隊が衝突した。
◇◆◇◆◇
スライム、というモンスターがいる。
粘液状の魔物で、知能が低い生物だ。
悪環境でも生き、よく増えるが、魔物の中でも下級の魔物で、生物として強いものの、軍として使うには少し力が足りない。
スライムが10匹いても同じレベルの有翼白馬(飛行・風魔法を覚える。騎乗可能)、一体を倒すのには力が不足するだろう。
というよりダンジョンのような密閉空間で相手にするならともかく、平地で相手にした場合、スライムはとても弱い。
自然発生するスライムは隠蔽能力や物理耐性が高いものの、攻撃手段が少なく知能は低い。スマホ魔法で焼いて終わり、そんな生物だ。
だからどんなに数を揃えても人間の正規軍にとっては手頃な経験値稼ぎの獲物でしかないのだ(とはいえ、一般人にとってはとてつもない脅威だ。軍隊規模のスライムの群れを相手にした場合、小さな街なら容易く滅びる)。
ゆえに総じて、軍には使えないという評価である。
隷属させてレベルを上げて、なんて手間を掛けるほどもないたいしたことのない生物。
なにより王国には人が溢れているのだから、使う理由はもっと少ない。
たとえ敵国が使ったとしても、魔法で蹂躙して終わり。
――ただそれも発見できれば、の話であるが。
例えばそれが『擬態』『チャージ』『ノックバック強化』『火炎無効』のスキルを持ったスライムだったらどうだろうか?
地面に掘られた溝状の穴に、予め液状のスライムが、地面に『擬態』して待ち構えていたらどうだろうか?
そこに熟練度の高い軍師スキルを持つ敵国の幹部が、『天恵の計』と呼ばれるスキル強化のアビリティを掛けていたなら?
『擬態』を強化されたスライムたちは、遠距離からの偵察ではわからなくなる。
――もっとも対処法は存在した。
予め平野を魔法で軽く焼いておくか、ペガサスによる爆撃を(火は効かないが、衝撃は通る)行っておけばスライムたちを殺せずとも発見はできたはずだ。
発見したならスライムごとき、神国の射程外から魔法で処理して終わった。それだけの話だ。
――戦争にもし、が許されるのならばであるが。
ニャンタジーランドでの攻城戦を想定していたくじら王国軍はスマホの電力と爆薬を温存した。
だからスライムは発見されなかった。
そして溝の中で地面に擬態していたスライムたちは神国兵の命令を忠実に実行した。
命令はたった一つだ。知能の低いスライムにも正確に実行できる単純な命令。
――スライムにできる全力攻撃を行う。それだけだ。
スライムたちが隠れる溝の傍に『築城』スキルで作られた、周囲から隠された地下室があった。
そこに兵士が百人ほど隠されていた。スライム四千体を戦場につれてきた『魔物使い』スキルの兵たちだ。
『魔物使い』は昔の神国では使い物にならないとされたスキルではあるが、近年の山賊との人員交換によって農作業からダンジョンでのスライム育成に回された兵たちである。
スライムをこの戦場につれてきて、この地下室に入っているように言われた兵たちは緊張しながら、丘の上の観測兵からの連絡を受け取った。
地面に擬態したスライムたちに全力攻撃を命じろ、そんな命令を。
――そして命令は実行される。
土色のスライム、それはきっと背後から走っていた歩兵部隊には土の壁に見えたことだろう。
目の前に突如出現した擬態スライムは騎士の乗ったバトルホースを、腹の下から跳ね上げた。
力を溜めて、全力攻撃。強化されたふっ飛ばしによって、跳ね上げられた騎兵の集団は、そのまま背後を走っていた歩兵部隊に直撃した。距離があってなお、そこまで飛んだのだ。
もちろん三千名の騎兵部隊が引っかかったわけではない。
神国がこのとき動員したスライム部隊は四千体ほどだが、敵騎兵全てを罠に掛けられるほど敵はちょうどよく罠の上を走ってはくれなかった。
だが罠に引っかからなかった兵も、正体を現したスライムの壁に直撃したり、スライムに動揺して棒立ちになって動けなくなったことで騎兵部隊三千は完全に機能停止するしかなくなった。
そして最悪なのは――
――神国が容赦を与えなかったことだ。
スライムと騎兵部隊が混戦した位置は丘陵地帯に布陣する神国の魔法の射程内だった。
ペガサスナイトを全滅させ、一時中断した炎の玉が再び神国の陣地から発射された。
それは騎兵部隊とスライムを同時に焼いていく、ように王国の兵には見えた。
◇◆◇◆◇
「う、嘘だろ……」
運良く飛んできた騎兵の直撃コースがそれていた王国歩兵は呟いた。
突然現れたあのスライムは神国の操る魔物なのか? その魔物たちは騎兵たちを拘束するも神国の炎の玉で一緒に焼かれていく。
いや、問題はそうじゃない。スライムはどうでもいい。問題はあの輝かしき王国のエリート騎兵部隊が次々と倒されていくことだ。
(に、逃げるべきでは……?)
一般兵はがくがくと震える膝で、槍を支えに立ち上がる。
――もうどうやっても勝てないだろう。
なぜか神国の魔法は終わりが見えないし、騎兵が壊滅した以上、もはやあの馬防柵を越えることはできない。
そもそも作戦は、騎兵が馬防柵を破壊することが前提だ。
丘陵地帯をえっちらおっちら走ったところで自分たち歩兵も全滅するのが関の山。
そう考えて兵長の方を見れば、兵長も同じ顔をしていたが、背後から聞こえてきた声に呆然とした顔をする。
兵士もそれを聞いて、呆然とするしかなかった。
「友軍を助けよ! 前進!! 騎兵を一人でも多く回収する!! 前進!! 前進!! 駆け足!!」
将軍や副将たちが怒鳴り立てていた。
――理屈はわかった。
(て、点数稼ぎかよ……!!)
友軍救助は、このまま何もできずに帰ったら武烈クロマグロ総大将に叱責を受けるからだろう。
作戦自体が破綻していたとはいえ、槍を一回も振るうことなく帰ったら歩兵将軍も降格を免れない。
歩兵は消耗するだろうが、仕方がない。
騎兵はエリートで、貴族や高級官僚の子息だ。一兵卒の命より、騎兵一人の命の方がずっとずっと大事だからだ。
――だが、あそこに突撃するのか……!!
歯を食いしばる。隣では飛んできた騎兵に潰された歩兵仲間の死体が転がっていた。
その飛んできた騎兵はいない。さすがに一撃では死ななかった騎兵は倒れたバトルホースを立ち上がらせ、離れた場所で陣形を組み直している。
とはいえ馬が動揺しているのか、彼らは陣形を組むのに四苦八苦していた。きっと立て直すために、そのまま本陣に戻ってしまうだろう。
――涙が流れてきた。
ここで自分は死ぬのか?
将軍たちの声に押されて足が動いていく。兵隊として躾けられた身体が自然と戦友たちと歩調をあわせて進み始めていた。
一人でも助けなければならない。一人でも騎兵を助けなければならない。
――自分の命を犠牲にしてか?
そうして王国歩兵は炎の玉の中に踏み込み、どうしてか炎の雨の中でも無傷だったスライムたちに襲われて、炎と魔物で全滅した。
不思議なことに、王国騎兵も、王国歩兵も、神国の魔法の射程内ではなぜか足が重くなって、途中から一歩歩くのにとてつもなく時間がかかっていたことが、とてもとても不思議だった。