笑わず姫とハーブ水ージビレ③ー
スピーゲルを呼びに行った方がいい。
けれど同時に、今を逃しては『エゴン』を逃がしてしまうとも、アルトゥールは考えた。
対極の考えがアルトゥールを迷わせ、そして迷いがアルトゥールに判断を遅らせた。
その遅れのせいで、ジビレになかなか追い付けない。
「おばあちゃん!」
叫んだが、ジビレは止まってくれない。
アルトゥールは急いでジビレを追いかけて路地裏の角を曲がった。ところが、そこには誰もいない。
「おばあちゃん!?」
返事はない。
とにかく走って、幾つかの曲がり角を曲がったその先に、アルトゥールはようやくジビレの背中を見つけ、叫んだ。
「―――おばあちゃん!!」
『エゴン』が、短剣をジビレ目掛けて振り下すところだった。
アルトゥールの叫び声に、男は驚いたように手を止める。
アルトゥールは足元にあった小石を拾い上げると、『エゴン』めがけて投げつけた。
石は『エゴン』にあたりはしなかったが、彼の気を逸らせることには成功したようだ。
「……っ何しやがる!!」
「おばあちゃんから離れなさいですわ!」
アルトゥールはもう一つ小石を拾い、また男に投げつける。
石は『エゴン』の目の上に命中し、『エゴン』は呻いてよろめいた。
「おばあちゃん!」
アルトゥールは無我夢中でジビレに走り寄り、助け起こす。
「逃げますわよ!」
「わ、わかってるよ……っ」
アルトゥールに引っ張られ、ジビレは転びそうになりながらも立ち上がった。
「くそ!待ちやがれ!」
『エゴン』が追いかけてくる。
背後に男の狂気を感じながら、アルトゥールは必死にジビレを引っ張った。
ポツリと、頬に雨粒があたる。とうとう雨が降ってきたようだ。
雨はアルトゥールとジビレを叩くように降り注ぐ。
「おばあちゃん!もっと早く走れませんの!?」
「うるさいね!年寄りをいたわ……っ」
ジビレが、濡れた石畳に足を滑らせ泥濘に倒れこむ。
泥が飛び散り、アルトゥールの足を汚した。
「おばあちゃん……!」
助け起こそうと屈んだアルトゥールが顔を上げると、すぐそこに『エゴン』は既に追い付いていた。
『エゴン』が嬉しそうに目を光らせるのを見て、アルトゥールはジビレを守るように抱え込む。
『エゴン』が短剣を振り上げ―――――力をこめて振り降ろす。
「――…スピーゲル―――ッッッ!!」
声の限りに、アルトゥールは叫んだ。
痛みを覚悟し、目を閉じる。
けれどいつまでたっても、感じるのは肩を叩く雨粒の冷たさだけだ。
「……少しは慎重に行動して下さいと何度言ったら分かるんですか」
呆れたような、そして怒ったような、その声。
アルトゥールは目を開けた。
見上げる先にある、広い背中。
煤色の外套が、雨に濡れて重そうだ。
「あなたは魔法を無効化してしまう特異体質なんですからね。何かあっても魔法でどうにかすることが出来ないんですよ」
いつものお小言を口にするスピーゲルの手は、『エゴン』の手首をしっかり掴んでいる。手袋はしていない。
「スピーゲル!」
スピーゲルは肩越しにアルトゥールを振り返った。
「怪我はありませんね?」
「ありませんわ!」
アルトゥールは大きく頷き、ジビレを抱き寄せた。
「おばあちゃん!もう大丈夫ですわ!」
「あ……ああ」
ジビレは何度も頷く。
皺が寄った手は恐怖で細かく震えていた。さすがのジビレも恐ろしかったと見える。
「何だ?てめえ」
『エゴン』が、スピーゲルを睨み付ける。
まるで暗闇を固めたように暗い瞳の男だ。
古い切り傷が、『エゴン』の頬に目立つ。
「『エゴン』ですね?」
スピーゲルが静かに尋ねる。
「俺を知ってんのか?」
エゴンが応えた。
それは明確な『返事』だった。
スピーゲルが、呪文を唱える。
小さな光の粒が、スピーゲルとエゴンの周囲を舞うように飛び始めた。
「な、何だこの光は!?は、放せ!!」
エゴンが空いていた方の手を振り回す。
その手がスピーゲルの外套のフードを払い、雨を吸ったフードが肩に落ち、スピーゲルの目と髪が顕になる。
紅玉のように赤い瞳。雪のような白銀の髪。
エゴンが、そしてジビレが驚きに目を見開いた。
「ま、魔族!?」
スピーゲルは、返事をする代わりに呪文の続きを唱える。
「―――『おやすみ』」
途端に、エゴンがガクリと膝をつく。
スピーゲルが手を放すと、その体は地面に倒れ伏した。
深く眠りこんだエゴンは、大きな鼾をかいている。
スピーゲルの白銀の髪から、まるで光の粒のように雨が滴り落ちた。
「……あんた……」
ジビレの声は震えている。
「あんた、本当に魔族だったのかい……っ」
スピーゲルはジビレを横目で見ると、革手袋をはめ直した。
「……あなたに……捕まってはあげられません。僕はまだ火炙りになるわけにはいかないので」
その言い方に、アルトゥールは怯えるように身を硬くした。
(『まだ』って……)
まるで、いつかは火炙りになるのを覚悟しているような、そんな言い方だ。
(スピーゲルは……)
何かを隠している。
アルトゥールは唇を噛みしめた。
何を隠しているのか、尋ねる勇気はない。
尋ねたら、そしてその答えを聞いたら、どうなってしまうのだろう。
その時、アルトゥールは今と変わらずスピーゲルの隣を歩けるのだろうか。
スピーゲルが無言で屈みこみ、エゴンの外套のフードを剥ぎ取った。
「黒い目に頬に切り傷。人相も一致しますし……短剣を逆手に持つあたり、人を傷つけることに慣れている。間違いなさそうですね。手配書の男です」
雨脚が、弱まってきた。
明るい日の光の下。
純白のドレスに身を包んだテレーゼは、同じく白い衣装のアントンと並んで幸せそうに微笑んでいた。
「おめでとう!」
「お幸せに!」
人々が祝福の花弁を投げるなかを、ジビレはキョロキョロと周囲を見渡す。
「……あの馬鹿娘……」
ジビレはため息をもらすと、花婿と花嫁を囲む人々から離れて軽食が用意された一角へと杖をついて近づいた。
アントンの店自慢の焼き菓子が並ぶその円卓では、栗鼠のように頬袋を膨らませたアルトゥールが、次々と皿を空にしている。
ジビレは呆れて目を細めた。
「……まったく。あんたの胃袋はどんだけ立派なんだい」
「あら、おばあちゃん」
ゴクリと、アルトゥールは咥内の食べ物を一飲みにする。
「やっぱりアントンの店のルバーブと胡桃のタルトは絶品ですわね」
「とはいえ、食べ過ぎですよ」
アルトゥールの隣で、スピーゲルはいつものように呆れ果てていた。
外套をしっかりとかぶり、髪と目は隠している。
ジビレがエゴンに襲われた日から十日。
連続強盗殺人で手配されていたエゴンには金貨二袋もの懸賞金がかけられており、ジビレは街の自警団にエゴンを引き渡すことで、その大金を手にいれた。
そして、今日はアントンとテレーゼの結婚式だ。
遠くから様子を見るだけのつもりでまたこの街にやってきたアルトゥールとスピーゲルだが、まんまとジビレに見つかり、結婚式にひっぱりこまれてしまった。
タルトを口に頬張ったまま、アルトゥールは祝辞を述べる。
「おめれとうでふわ。よかったでふわね。持参金を用意でひて」
金貨二袋。一般的な庶民の持参金としては十分な額だ。
ところが、ジビレは眉を寄せて口を尖らせた。
「それがね。せっかくの懸賞金をテレーゼは孤児院に全部寄付しちまったのさ」
「え!?」
アルトゥールは驚いて声をあげた。
「寄付!?全部ですの!?」
「アントンが持参金なんかいらないって受け取ってくれなくてね。テレーゼさえ嫁にきてくれたらそれでいいって……文句いう奴とは縁を切るって親戚の奴等を黙らせたのさ」
アルトゥールとスピーゲルは顔を見合わせた。
あの気弱なほどに優しげなアントンも、テレーゼのためならそんなふうに強くなれるのか。
スピーゲルが微笑んだ。
「よかったですね、ジビレさん。もう心配いらないようだ」
「まあね……」
ジビレは面白くなさそうな顔をしていたが、内心は嬉しいのだろう。素直に頷いた。
「そういえば……」
ジビレが、スピーゲルを見上げる。
「スピーゲル。あんた背ぇ高いね」
「……は?」
スピーゲルが、面食らったように動きを止める。
「それに肩幅も広いし、手も大きいし髪も長い」
「……そう……ですか?」
スピーゲルはジビレが一体何を言いたいのか分からず、困惑している。
ジビレはタルトを頬張るアルトゥールに、少し意地悪そうにニヤリと笑った。
「あんたもそう思うだろ?アルトゥール」
「……ふぇ?」
突然水を向けられたアルトゥールは驚いて、タルトを充分に噛み砕くことなく飲み込んでしまった。
当然、タルトは喉にひっかかり、アルトゥールは激しく咳き込んだ。
「ちょ……大丈夫ですか?」
スピーゲルが背中をさすって、お茶を差し出してくれる。それを口のなかに流し入れ、アルトゥールはようやく一息ついた。
「ケホ……えっと……わたくしが何ですって?」
一体何の話をしていたんだったか。
そんなアルトゥールに、ジビレは肩を竦めて天を仰いだ。
「……ああ、もういいよ。とにかく、スピーゲル。頑張んなよ」
ポンポン、とジビレはスピーゲルの腕を叩く。
「は?」
「私の見たところ、あんたが腹をくくるかどうかにかかってるからね」
スピーゲルは、わけがわからない様子だ。
「いや、だから何の話です?」
「悪かったね」
「……え?」
ジビレはすこし気まずそうに、けれどスピーゲルの目をきちんと見て言った。
「魔族を捕まえて金稼ごうなんて……気分が悪かっただろう?すまなかったね」
「……」
スピーゲルが、驚いたように口を閉ざす。
けれど、やがてその唇が柔らかい弧を描いた。
「……いいえ。もう、いいんです」
「色々世話になったね。ありがとうよ……おや、テレーゼ」
ジビレの後ろに、いつの間にかテレーゼが立っていた。
「今日は来てくださってありがとうございます」
テレーゼは結い上げた髪に花を飾り、滑らかな絹の白いドレスを身に付けている。
その美しさを、アルトゥールは称賛した。
「とっても綺麗ですわ、テレーゼ。お幸せに」
「ありがとうございます」
頬を染め、テレーゼは微笑んだ。
「あの……これ」
テレーゼは、手にしていた花束をアルトゥールに差し出す。
鮮やかな季節の花々はとても美しい。
「え……でも……」
受け取っていいものだろうか。アルトゥールは迷った。
これはただの花束ではない。
花嫁の花束を贈られた未婚女性は次の花嫁になれる―――そんな言い伝えにより、未婚女性間で花束の壮絶な争奪戦が繰り広げられることは珍しくない。
今日も花束欲しさにそわそわしている若い娘が何人もいた。
柄にもなく遠慮するアルトゥールに、テレーゼはなおも花束を差し出す。
「色々とお世話になったと祖母に聞きました。お礼と言ってはなんですけれど……」
チラリと、テレーゼがスピーゲルを見た。
(もしかして……知ってる?)
アルトゥールは思った。
ジビレには、スピーゲルの素性について特に口止めはしていない。ベラベラ吹聴して回るような人ではないと思ったのだが、もしかしたらジビレは、テレーゼにだけは話したのかもしれない。
テレーゼは、アルトゥールとスピーゲルを交互に見て、そして言った。
「幸せになってくださいね」
「え」
「え」
「それじゃあ……」
やや強引にアルトゥールの手に花束を持たせ、テレーゼは新妻を待つアントンのもとへと戻って行く。
「……」
「……」
残されたアルトゥールとスピーゲルは、無言で花束を見下ろした。
『次の花嫁』
『幸せになってくださいね』
………………。
「……ち、違っ……違いますから!違いますからね!?」
スピーゲルは慌てて喚いたが、もはやその訴えはテレーゼには届かない。
またしてもアルトゥールとスピーゲルは恋人同士だと勘違いされていたらしい。
どうしていつも恋人やら夫婦やらに間違われるのだろう。兄妹や友人や、男女二人連れにも色々とあるのに。
「まぁ、ありがたくもらっておきな。さて。私ももう行くよ。達者でね。またこの街に来ることがあったら顔を出すんだよ」
ジビレも、テレーゼの後をゆっくり追いかけて行く。
その先で、アントンが笑ってジビレを迎えるのが見えた。ジビレも、それに笑顔を返している。
おそらく、またこの街を訪れたとしても、あの小さな家にジビレはいないだろう。
何だかんだと文句を言いながらも、孫夫婦と仲良く暮らすテレーゼを思い浮かべアルトゥールは胸を温めた。
「……綺麗ですわね」
鮮やかな花束を見つめ、アルトゥールはその香りを吸い込んだ。
爽やかな夏の香りがする。
「……せっかくだけれど……わたくしが花嫁になんてなれるはずありませんのにね」
遠くない未来に、アルトゥールはスピーゲルに殺されるのだから。
それが二人の約束なのだ。
アルトゥールの隣で、スピーゲルが表情を堅くする。けれど外套のフードに隠れたその微かな変化に、アルトゥールは気付かない。
ヒラリ、とアルトゥールの視界を蝶が一匹横切った。
「あ……蝶……」
夏の濃緑の木々のなかを、淡い太陽の色をした蝶は舞うようにさまよう。
儚いその動きは頼りなく、けれど可憐で目が離せない。
不意に、スピーゲルが手を伸ばした。
いつのまにか革手袋をはずした白い指先に、蝶が音もなくとまる。
「スピーゲル?」
何をするつもりかと、アルトゥールは首を傾げた。
スピーゲルは蝶に口づけするように近づき、何事かを囁いている。
やがて、蝶がスピーゲルの指から飛び立った。
「……何の魔法をかけたんですの?」
「まあ、見ててください」
蝶が去って行った先を、スピーゲルが眩しげに見つめる。
その横顔を見て、アルトゥールは大人しく待つことにした。
ヒラヒラと、蝶が舞う。
やがて風が吹き、何処からか鮮やかな色とりどりの花弁が舞い散った。
「……あ」
アルトゥールは空を見上げ、一歩を踏み出す。
花弁ではない。蝶だ。
無数の蝶が、アントンとテレーゼの結婚を祝うかのようにあたりに集まって来たのだ。
青い空を背景に舞う様々な色の蝶達の姿は、鮮やかで幻想的だった。
「わあ!」
「綺麗ねえ」
招待客が、歓声をあげて蝶を見上げる。
アルトゥールもその光景に見とれた。
「すごいですわ……」
何て綺麗な光景だろう。
ヒラリと、空色の蝶がアルトゥールの髪にとまった。
「まるで髪飾りだ」
スピーゲルの声に、アルトゥールは振り向いた。
穏やかに、スピーゲルは笑んでまた言う。
「似合ってますよ」
この優しい目には敵わない。
思考がトロトロに溶けて、アルトゥールの頭の中はもはやからっぽだ。
(……何だか……)
不思議な感覚だ。
まるで大好物をお腹一杯食べたかのように満たされた気分がする。
胸が暖かくて、心が浮き立つ。
もしかしたらこれを、『幸せ』と、人は言うのかもしれない。
花の蜜を求め、蝶が舞い踊る。
美しいその光景を、アルトゥールとスピーゲルは長いこと並んで眺めていた。