笑わず姫と悲しい呪いー解呪ー
温かい日差しに、雪がゆっくり溶けていく。
雪解けの水は小川を流れ、木々の芽は大きく膨らんでいた。
春というには、まだ早い。けれですぐそこまできている爛漫の季節を誰もが感じ、心は自然と軽やかに浮き立つ。
青い空を、一羽の烏が気持ちよさそうに滑空した。
その様子を、スピーゲルは目を細めて見上げる。
琥珀色の目と、鳶色の長い髪。
魔力を失って、既に数カ月。諸々の事情から、スピーゲルは今も王城で寝泊まりを続けている。
「エルヒ!」
そう呼ぶと、エルメンヒルデは一つ羽ばたいて高度を下げ、スピーゲルが差し出した腕へと降りてきた。
「もう心配いらないね」
スピーゲルが微笑むと、エルメンヒルデは漆黒の羽を誇るように広げる。
その様子に、スピーゲルは笑みを深めた。
痛めた羽根の状態を思えば、ここまで回復することができたのは奇跡としか言いようがない。以前のように長距離の使いは無理だろうが、彼女自身が自由に飛び回るのに不自由はないだろう。
「旦那ー!!」
その声に振り返ると、すぐに庭に面した回廊を大きく手を振りながら歩いてくる人物を見つけることが出来た。
「アヒム!」
「たーだいまー!」
相変わらずのアヒムの明るい笑顔に、スピーゲルは安堵する。
「お帰り。元気そうですね」
「元気だよー!旦那は?」
「元気」
「そりゃよかった!」
アヒムはこの数ヶ月、エメリッヒの使いとして国内のあちこちに行っており、こうして顔をあわせるのは久しぶりのことだ。
アヒムはスピーゲルの腕にとまるエルメンヒルデに気づき、破顔した。
「君も元気になってよかったねー」
「アヒムが保護してくれたおかげです」
スピーゲルがそう言うと、エルメンヒルデも感謝するかのように首を上下する。
「エルメンヒルデも、ありがとうって言っています」
「旦那わかるの?」
目を丸くしたアヒムに、スピーゲルは困って首を竦めた。
「何となく」
魔力がなくなったせいで、以前は簡単に出来たことが今では難しくなった。その一つが、動植物との意思疎通だ。
魔力を失った直後はかろうじて聞こえていた動植物の心の声も、今では殆ど聞こえない。向こうの方も、スピーゲルの言葉に興味を示さなくなった。以前なら、話しかければ聞き入ってくれたのに。
寂しいが、仕方がない代償だ。
けれど幸いなことに、ジギスヴァルトとエルメンヒルデとの意思疎通は今もすることが出来た。おそらくジギスヴァルトとエルメンヒルデ自身がもつ、魔力や知能が関係しているのだろう。
彼らはスピーゲルが魔力を失った今も、変わらず傍にいてくれる。
もう一周り空を散歩したいのか、ウズウズと落ち着きがないエルメンヒルデに、スピーゲルは優しく言った。
「行っておいで。夕暮れまでには帰ってくるんだよ」
その言葉に頷くように頭を下げると、エルメンヒルデは羽を広げて飛び立った。
それを見送ってから、スピーゲルとアヒムは連れ立って回廊を歩き始める。
「いつ戻ったんです?」
「さっき。公子様には挨拶してきたよー。あ、そうそう。これ、ベーゼンから」
アヒムは腰から下げていた革製の小さな鞄から、油紙に包んだ手紙をとり出した。
「『こっちのことは心配いらない』ってさ」
魔力を失ったスピーゲルは、当然ながらジギスヴァルトを魔法で巨大化させることも叶わなくなり、空を飛ぶ帰宅手段どころか、雪に閉ざされた家で待つベーゼンへの連絡手段すら失ってしまった。羽根を痛めたエルメンヒルデを使いに出すわけにもいかない。
予想以上に長期に渡って不在にしてしまう家のことが心配で、そして確かめたいことがあり、どうしたものかと思案していたスピーゲルに『俺が手紙届けようか?』と声をかけてくれたのがアヒムだった。
他に手段もなく、スピーゲルはその厚意に甘えて手紙を託していたのだ。
アヒムは簡単に引き受けてくれたが、場所が場所だ。雪深い森の奥の奥。簡単に辿り着ける場所ではない。それでも文句一つ言わずに手紙を預かってくれたアヒムに、スピーゲルは心から感謝した。
「ありがとう。アヒム」
「どういたしましたー」
手紙を受け取り、それをそっと開く。
簡単な読み書きしか出来ないベーゼンが書いた手紙は、単語が羅列されただけのものだった。だが彼女が言わんとすることを理解するには十分だった。
手紙にざっと目をとおし、スピーゲルは小さく嘆息した。
(……ああ、やっぱり)
魔力が失われた影響は、やはり思ったより大きかったようだ。
「旦那のせいじゃないよ」
アヒムが隣で言った。
「ベーゼンも言ってた。『あなたのせいじゃありません』って」
「……うん」
スピーゲルは力なく頷く。
何をとり、何を捨てるか、選んだつもりはスピーゲルには全くなかった。そんな余裕なかった。ただただ無我夢中で、アルトゥールを蘇生させるための呪文を唱えただけ。
けれど結果として――――。
その時、角の影から一人の侍女が飛び出してきた。
先を急いでいたのか、彼女は勢いよくスピーゲルの胸にぶつかり、そして弾き飛ばされたように床に尻餅をつく。
「す、すみません!大丈夫ですか!?」
スピーゲルは慌てて膝をつき、侍女に手を貸した。
「わ、私の方こそ。ちゃんと前を見ていなくて、ごめんなさ……」
助け起こされながらスピーゲルを仰いだ侍女の表情が、ピタリと止まる。
かつてならここで『穢らわしい魔族』と罵られ睨まれていただろう。
けれど今や、スピーゲルが置かれた立場は大きく変化していた。
「……ま、魔法使い様……!」
侍女の顔はみるみるうちに紅潮していく。
彼女の目に滲むのは嫌悪でも侮蔑でもない。
「あ、いや僕はもう……」
「し、失礼しました!」
侍女は慌てふためいた様子で走り去る。
「……僕はもう、魔法は使えないので……」
だから『魔法使い』という呼称は正しくない、と言おうとしたのだが、侍女の姿はもう見えない。
長い回廊には彼女が逃げ去る際に発した黄色い悲鳴がしばらく反響していた。
啞然とするスピーゲルの隣で、アヒムがからかうように口笛を吹いた。
「隅におけないねー旦那」
「……」
実は、スピーゲルを見て顔を真っ赤にして逃げて行ったのは、今の侍女が初めてではない。
ここ数ヶ月で、スピーゲルは何度も同じような事態に遭遇していた。焼き菓子や手紙をもらったこともある。彼女達はスピーゲルにそれらを押し付けるとキャーキャー言いながら逃げてしまう。
スピーゲルとしては対応に困っていた。彼女達が何を求めているのかわからない。
彼女達はスピーゲルが振り返るだけで歓声を上げ、歩くとやはり歓声を上げる。
まるで東洋の国にいる白黒の熊になったようでいい気分ではない。石を投げられるよりはましだと、スピーゲルは自らに言い聞かせていたが、時折感じる脱力感にも似た疲労感はどうしようもない。
「色が変わっただけなのに……」
スピーゲルがボソリと呟くと、アヒムは腕を組んでため息をつく。
「わかってないなぁ、旦那」
「え?」
「旦那、元々の顔の作りいいもん。今までは色に気を取られて皆気付かなかったんだろうけどね。『よく見たらかっこいい!』ってやつだよ。その上あれだけド派手な恋愛劇を目の前で繰り広げられたら、女の子は夢見ちゃうのよ。恋に恋しちゃうのよ」
両手の指を組み気味悪いしなを作るアヒムに、スピーゲルは軽く引く。
「……恋に恋する?」
何だそれは。理解出来ない。
アヒムは笑った。
「つまりさ、みーんな欲しいんだよ。強い愛情っていうか、絶対的な絆っていうか。んで、旦那とお姫様の間にそれがあるって分かって羨ましいのさ」
「…………」
分かるような、分からないような。
表情を曇らせるスピーゲルを、アヒムが声を上げて笑う。
「あはは。まぁ、旦那の功績を思えば当然の反応だと俺は思うよ」
けれどスピーゲルの顔は晴れなかった。
「僕がしたことは、ただの自己満足だから」
「それはあえて否定しないけど、ね!」
アヒムに軽く体当たりされ、スピーゲルはよろめいた。
「痛……」
「でもね、旦那がたくさんの人の命を守ったのは本当だからさ。いいじゃん。自己満足だろうが偽善だろうが。それで助かる人がいたってだけの話だよ」
「……」
スピーゲルが崖下に匿い、エメリッヒに保護されて国境近くに隠れていた人々が王都に帰ってきてから、スピーゲルに対する評価はこれまでとは大きく変わった。
彼らはスピーゲルに匿われていたことを再会した家族知人に語り、その家族知人がまたその家族と知人に聞いた話を語り、そうやってスピーゲルについての話は急激に、時には誇張されながら、王都――否、国中に広がっていった。
その話を疑う人は勿論数多くいたが、先んじてイザベラによる国王の殺害未遂が明らかになっていたことや、魔族を見たら通報する義務、および火刑に処すことを規定した法令をエメリッヒが撤廃したことが話の裏付けになり、『穢らわしい魔族』というスピーゲルに対する偏った先入観は塗り替えられていく。
『悪い王妃から人々を守った魔法使い』。
それが世間におけるスピーゲルの新しい位置づけだ。
全員が全員スピーゲルに好意的になったわけではないし、今まで通り汚らしいものを見るかのようにスピーゲルを見下してくる人も少なくない。それでも、露骨に嫌悪感をぶつけられることは劇的に減った。
多くの人々はスピーゲルを見るや笑顔で駆け寄り、中には泣きながら感謝を口にする者もいる。
好転と呼んでもかまわないだろう状況の変化に、スピーゲルは喜びよりも戸惑いを感じていた。
例の崖下の村人達は確かに自由にはなったが、だからといって何もかもが元通りと言うわけではないからだ。色々な意味で、帰る場所を失った人もいる。スピーゲルが守れたのは、本当に彼らの命だけなのだ。それなのに、英雄視されるのは居心地が悪い。
それに、スピーゲルに近づいてくるのは純粋な好意と感謝を抱く者ばかりではなかった。イザベラにおもねっていた貴族達などは、アルトゥールの夫でありエメリッヒの友人であるスピーゲルに利用価値があると思ったのだろう。『勲章を与えたい』やら、『一度我が屋敷に招待したい』やら、ここぞとすり寄ってきてうるさくてかなわない。
何より、石を投げられ蔑まれた日々は、綺麗さっぱり忘れるには長すぎた。結果としてスピーゲルは、アルトゥールの夫として王城に留まりながらも、人前に出ることも貴族達と交流を持つことも避けて暮らしている。
(……でも)
頬を撫でる風に促されて、スピーゲルは回廊の柱の合間から空を見上げた。
以前は当然のように視界の妨げになっていた外套のフード。それがないだけで、空は広く高く、青く見える。
誰の目を気にすることも怯えることなく、太陽の下で顔を上げることが出来る。
この変化だけは、本当に心の底から嬉しい。
「風、気持ちいいね」
スピーゲルと同じように空を見上げ、アヒムが言った。
「うん」
「お姫さまのおかげだねぇ」
「……」
スピーゲルは僅かながら顔を歪めた。
そんなスピーゲルを見て、アヒムは吹き出す。
「お姫さまが旦那に対する偏見に強烈な一発で風穴あけたんだよ?おかげで、俺達今こうしてのんびりしていられるわけじゃん」
「……そうだけど」
スピーゲルも理解はしているのだ。
アルトゥールが毒林檎を食べることで、国王や貴族をはじめとする多くの人々の前でスピーゲルの言葉が真実だと証明しなければ、エメリッヒによる政権交代はこれほど順調かつ穏便には進まなかっただろう。スピーゲルも一歩間違えば火炙りになり、今頃は炭になっていたかもしれない。
だからと言って、感謝などできない。
アルトゥールの行動はスピーゲルにとっては愚かな暴挙以外の何物でもないのだ。
アルトゥールを失った絶望は、太陽を見上げる感動と比べるべくもない。
「いいじゃん、愛されてて。しかも命懸けで」
「……懸けられても嬉しくありません」
スピーゲルは眉間に深い皺を刻んだ。
どうもアルトゥールは、いまだに自分を軽んじる。
自分がスピーゲルにとってどんな存在なのか、まるで理解していない。
そこら辺をじっくりと話し合う機会が、必要なのかもしれない。
「確かにあんなこと何度もされちゃ寿命が縮まる……ってか、実際に多少縮んでるんだろうし俺達」
スピーゲルの肩に腕を回して、アヒムがしみじみ言った。
「でも、俺も所詮凡人だからさ。やっぱ憧れないでもないなぁ」
「はい?」
「さっきの侍女と同じ。俺も欲しいなと思っちゃうの。絶対的なものってやつが」
冬の間に少し伸びた赤い髪を揺らして、アヒムは笑う。
その笑いは、いつもの軽薄なものとは少し違った。
「命懸けで愛されてみたいし、命懸けで愛してみたい」
そう言うアヒムの横顔は、スピーゲルが知っている彼とは別人のように見える。
「……アヒムは、いないんですか?恋人」
尋ねてはみたものの、いないのだろうなとスピーゲルは予想していた。
出会ってから1年に満たない付き合いではあるが、彼から恋人がいる気配がしたことは一度もない。
「いないねー」
予想通りである。
「つくればいいのに」
アヒムは軽薄に見えて真面目で、思慮深く、それに人当たりもいい。彼の恋人になりたいという女性はすくなっくないだろう。
スピーゲルの提案に、アヒムは口を尖らせた。
「簡単に言ってくれるね。……まぁ、今は色々忙しいし……それに成長待ちっていうか」
「成長待ち?」
「三年……いや四年くらい待ったら、絶対イイ感じになると思うんだよね」
「……何の話です?」
よく分からず、スピーゲルは首を捻る。
アヒムは片手で頭を搔き、もう片方の手を扇のようにパタパタと振った。
「あははー、気にしないでよ」
回廊の分かれ道に差し掛かり、二人はどちらともなく歩みを止めた。
「俺こっち行くけど、旦那は?」
「あ……」
アヒムが指し示した先とは、別の道をスピーゲルは目で見た。
「僕はこっちなので……」
太陽が雲に隠れたのか、回廊に差し込んでいた日が微かに陰る。
何処からか聞こえてきた小鳥の囀りに、スピーゲルは聞き入った。
「旦那、大丈夫?」
「え?」
スピーゲルは目を瞬かせて、アヒムを見た。
アヒムの目は真剣だ。その頬に、笑みはない。
「俺、付いてこうか?」
これからスピーゲルがどこに行くか、話していないにも関わらず彼は知っているかのようだった。
アヒムの申し出に、スピーゲルは一瞬迷う。
本音を言えば、これから行く場所へ一人で行くのはひどく恐ろしかった。
(だけど……)
結局、緩やかにスピーゲルは首を振った。
「大丈夫です。一人で行きます」
「……そっか」
アヒムが笑った。
スピーゲルも笑った。
「じゃ、また後で」
「ええ、また後で」
軽く手を上げ、二人はそこで別れた。
暗い通路は湿っていて、あちこち苔むしていた。
日の光が届かない地下牢。
数日過ごしただけで生きる気力を根こそぎ奪われるような場所だ。
夜目がきいた以前なら何の躊躇いもなく歩けただろうその通路を、スピーゲルは燭台の灯りに頼ってゆっくり歩いた。
突き当りにいた衛兵が、スピーゲルに気づき姿勢を正す。
「スピーゲル殿」
「お待ちしておりました」
まるで貴族に対するような態度に居心地の悪さを感じつつも、スピーゲルはそれを表情には出さなかった。
「入ってもかまいませんか?」
「はい!国王陛下からお話は窺っております!」
「どうぞ!」
衛兵は鍵を錠前に差し込み、扉を開けてくれた。
衛兵が言う『国王陛下』とは、アルトゥールの父親ではなく、エメリッヒのことだ。
アルトゥールの父親はイザベラに殺されかけたことがよっぽど衝撃だったのか、深く気落ちし、今でも鬱々と日々を過ごしているらしい。だが新しく即位したエメリッヒのもと、人々は既に気難しい前王のことなど思い出すこともなくなっていた。
開かれた扉を前に尻込みしたスピーゲルは、けれど深呼吸をして足を踏み出した。
「一度鍵を閉めさせて頂きます」
「出るときにお声がけください」
衛兵はそう言うと、扉を閉めた。
背後で鍵がかかる音がする。
「…………」
スピーゲルは、無言で数歩足を進めた。
その独房は特別仕様で、衛兵の守る扉の中にも鍵がかかった鉄格子がある。
冷たい鉄格子ごしに、スピーゲルは独房の中の囚人に声をかけた。
「…………イザベラ」
返事はない。
牢獄の苔むした石壁に向かうイザベラは、振り返りもしなかった。
薄汚れた囚人服に身を包む痩せ細った姿は亡霊のようで、かつての妖精のような美しさなど見る影もない。
汚れた枕を抱きしめブツブツと何かを呟き、時折笑い声をあげるイザベラは、もはや正気を失っていた。
王族の殺害は未遂でも極刑。
だがイザベラのこの状態を哀れんだエメリッヒは、終生地下牢に幽閉することをイザベラへの断罪とした。
彼がスピーゲルの気持ちを慮ってくれたのは、言うまでもないだろう。
背を向けたままのイザベラに、スピーゲルは話しかけた。
「ずっと……来なくてごめん」
今日この日まで、ここに立つ勇気がなかった。
どんな顔をすればいいのか、何を言えばいいのか、わからなかった。
イザベラは、振り返らない。
腕の中の枕を優しく揺らし、何か語りかけている。
「……本当は、わかってたんだ。あなたが……楽になりたがってるって」
イザベラは、死にたがっていた。
スピーゲルに……愛した夫に瓜二つの姿を持つ息子に、殺されたがっていた。
スピーゲルは、それを感じていた。
感じていたのに……。
手を握り締め、スピーゲルは俯いた。
(殺して、あげられなかった…………)
せめてもの償いにとイザベラの命令に従うはずが、それすらも出来ずにイザベラを欺き続け、結局こんな場所にイザベラをおいやってしまった。
イザベラを前にして、心に押し寄せるのは苦い後悔ばかりだ。
殺してやることはおろか、一緒に堕ちることすらしてやれなかった。
「……母さん」
涙を飲み込んで、スピーゲルは顔を上げた。
振り返らない背中。
小さくて痩せ細った背中。
振り向かせたくて、必死だった頃もあった。
「……生んでくれて、ありがとう」
絞り出すように言うと、スピーゲルは鉄格子に背を向ける。
感謝を――それだけを伝えるためにここに来た。
(この世界に、生まれたから……)
だからアルトゥールと出会えた。
ベーゼンやアーベル、アヒムやエメリッヒ、ツヴァイク達。
彼らに会えたのも、イザベラのおかげだ。
愛してはもらえなかったが、母親とは呼ばせてもらえなかったが、それでも、生んでもらえたことは感謝している。
感謝できるほどに自分が恵まれているという自覚が、今のスピーゲルにはあった。
「ルラスィオン」
――――驚いて、スピーゲルは振り返る。
鉄格子の向こうでスピーゲルに背を向けていたはずのイザベラが、真っ直ぐにこちらを向いていた。
優しく、穏やかに微笑んで。
「こんなお母さんで、ごめんね」
今にも泣き出しそうな切ない微笑みに、スピーゲルは瞠目する。
「母さ……っ」
駆け寄り、鉄格子を掴む。
けれどその時には既に、イザベラの口元には狂気的な笑みが滲んでいた。
「……ね、いい子ね……フフ。ねんねよ……」
枕を抱き締めクスクスと笑うその姿に、スピーゲルは言葉を失った。
呆然としながら地下牢を後にし、明るい日差しの下に立つ。
一瞬の、幻だったのだろうか。
地下牢で見たイザベラの儚い微笑みを思い出し、スピーゲルはゆっくり瞬いた。
「……」
雪溶け水が雨樋を落ちる音がする。
仰いだ光が、目にしみた。
「スピーゲル」
振り向くと、光が降り注ぐ庭にアルトゥールが立っていた。
「……アルトゥール」
一度死に、スピーゲルの魔法で息を吹き返したアルトゥールは、実は生き返った直後は満足に体を動かすことも出来なかった。
一時は生涯このままかと危惧もしたが幸い日が経つにつれ症状は徐々に改善し、今では以前と同様に走り回れるまでになっている。
アルトゥールは、腕に赤ん坊を抱いていた。
エメリッヒとコルネリアの息子のユリウスだ。
名前をつけたのはスピーゲルだ。エメリッヒに名付けを頼まれ、スピーゲルはその栄誉をありがたく引き受けた。
「どこに行っていましたの?探しましたのよ?」
少し頬を膨らませたご機嫌斜めのアルトゥールに、スピーゲルは弱々しく微笑んだ。
「……すいません。ちょっと」
「……」
スピーゲルの声から何かしらを察したのか、アルトゥールの青い瞳が戸惑うように揺れる。
イザベラに会いに行くと、スピーゲルはアルトゥールに話していない。言い出しづらかったのだ。正直に言えば、後ろめたさを感じていた。
アルトゥールは今も、父親と会おうとしない。
蘇生後、父親に謝らせようかとエメリッヒに問われたアルトゥールは『もういい』と目を閉じて一言呟いた。その心情を思うとやるせなくなる。
だから自分だけ親と顔をあわせることが、何となくアルトゥールに申し訳なかった。
誤魔化すように、スピーゲルは明るく笑う。
「ユリウスと散歩してたんですか?」
スピーゲルが近づいてみると、ユリウスはスヤスヤと気持ちよさそうに眠っていた。
アルトゥールが、優しく目を細める。
「コルネリア様がさすがに寝不足で、しばらく交代したんですわ」
コルネリアとユリウスが、王城に移ってきたのは十日ほど前だ。
それまでは夜泣きすることも滅多になかったらしいユリウスだが、環境が変わったせいかコルネリアが抱いていないと昼夜問わず泣き喚くようになった。
乳母や侍女、父親であるエメリッヒが抱いても泣き止まず、かと言って新王妃として公務もあるコルネリアはずっとあやしているわけにもいかず、ほとほと困っていたところに試しにアルトゥールが抱いてみると、これが何とピタリと泣き止んだ。
以来、コルネリアの手が離せないときなど、アルトゥールはユリウスを抱いて城のなかを散歩するようになった。
「不器用なわたくしにも出来ることがあると思うと嬉しいですわ」
そう言い、アルトゥールは軽く揺らすようにしてユリウスをあやしつける。
最初はどこか危なっかしい印象だった抱っこも、いつの間にかさまになっている。
スピーゲルはふと思った。
不器用だ不器用だとアルトゥール本人は言っているが、実はそうではないのかもしれない。
赤ん坊の世話も今では一通りこなせるし、裁縫だって最初は散々だったがすぐに上達した。
確かに失敗は多いかもしれないが、けれどそれは父親に怯えていたせいだったのではないだろうか。
アルトゥールは幼い頃から父親に『役立たず』と存在を否定され、極度の緊張の中で生きてきた。そんな緊張の中ではできることもできなくなるだろう。彼女はきっと自分で自分に呪いをかけてしまったのだ。『役立たず』と。
けれど、父親から開放され、その呪いも薄れつつあるのかもしれない。
「いい子ですわねーユリウス」
小さな王子様に、アルトゥールは夢中だ。
スピーゲルは微かに眉を寄せた。
(何だか…………面白くない)
赤ん坊相手に大人気ないと呆れる理性に、アルトゥールを独り占めしたがる子供じみた感情が僅かに勝る。
赤ん坊の丸い頬を、スピーゲルは指先でつついた。
「スピーゲル!?」
「……あ」
アルトゥールが目を剥き、スピーゲルの理性が急いで感情を殴り倒した時には、既に時遅し。
眠っていたユリウスはパッチリと、その大きな目を開けた。
その目は母親を探して彷徨い、けれど彼女がいないことを悟り――――……。
「び、ぇええええええええええええええええええッッッッ!!」
鼓膜を引き裂くような泣き声に、スピーゲルは両手で耳を塞いでたじろいだ。
「す、すみません!!」
記憶の中にある赤ん坊の泣き声は……つまりアルトゥールの泣き声は、もっと弱々しくてか細かった気がするのに。性別の違いか、それとも月齢の差か。
取り乱すスピーゲルに反して、意外にもアルトゥールは笑った。
「慌てなくても大丈夫ですわ。赤ん坊が泣くのはあたりまえですもの」
その言葉に、スピーゲルの心臓が大きく脈打った。
幼い頃。
イザベラが出ていった夜。
光を見失った闇のなか。
赤ん坊だった自分が泣いたことで、父親が死んだことをスピーゲルは知った。
『僕が……生まれたから……』
生まれてはいけなかった。
生きていること自体が罪なのだ。
それは、アルトゥールがアルトゥール自身に呪いをかけたように、スピーゲルがスピーゲル自身に呪いをかけた瞬間だった。
「……赤ん坊が泣くのは……当たり前、ですか?」
スピーゲルの声がかすかに震えるのに、アルトゥールは幸い気づいてはいないようだった。
何食わぬ顔でアルトゥールはユリウスをあやしている。
「そうですわ。でも寝てるのを起こすのはもうダメですわよ?可哀想でしょう?」
「…………」
「ほら、ユリウス。大丈夫ですわ」
ゆっくりと、繰り返し、アルトゥールはユリウスを揺らし、語りかけた。
「いい子ですわね、ユリウス。いい子いい子」
地下牢で聞いた、イザベラの声を思い出す。
イザベラが愛しげに抱いていた、汚れた枕。
あれは、きっとスピーゲルだ。
生まれたばかりのスピーゲルを、イザベラは虚ろの中であやし、抱きしめている。
呪いが、呆気ないほどに綻びていった。
まるで銀食器の錆が落ちていくように。
『こんなお母さんで、ごめんね』
(違う。謝るのは僕の方だ)
イザベラから、すべてを奪った。
魔力も愛する人も、未来も。
(だけど、イザベラ……)
あなたは許してくれたと、そう思ってもいいだろうか。
(僕は幸せになっても、いいだろうか?)
アルトゥールは、すでに寝息をたてはじめたユリウスにかまわずあやし続ける。
「いい子ね、いい子いい子」
輝く光が差し込んで、アルトゥール達の姿を照らし出した。
それが、スピーゲルの目にはとても神聖なものに映る。
こんな光景が当たり前にあった過去が、もしかしたら有り得たかもしれない。
それを思うと、やはり悔しかった。やるせなかった。
風が吹き、髪が揺れる。
まるでスピーゲルの頭を撫でるかのようだった。
さざ波のように波立つ熱い感情が、そっと目から押し出される。
「スピーゲル?」
スピーゲルの頬を静かに滑り落ちていく涙に、アルトゥールはすぐに気が付いた。
「どうしたんですの?何かありましたの」
「ち、違うんです。ちょっと……目にゴミが」
慌てて頬を拭い、スピーゲルは笑う。
まだ肌寒い、早春の日のことだった。