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ユーディト②

少年は頷くと、ユーディトのお腹に頬ずりするように耳をつけた。

「聞こえる。苦しいから、早く出してだって」

「スピーゲル!!」

少年が飛び出してきた叢がまた揺れ、今度は成年の魔族が姿をあらわした。

ユーディトの母親と同じ年頃の魔族は、ユーディト達の姿にすぐさま警戒し、目を釣り上げた。

騎士達も警戒を新たにし、今にも争いが始まりかねない雰囲気に、ユーディトは息を飲む。

その時。また一人、その場に飛び込んできた者がいた。

「スピーゲルさ……っ」

茶色い髪と瞳。一見して魔族には見えない白い前掛けをした女は、場の緊迫した雰囲気をすぐに察し、成年の魔族の背後に身を寄せる

「アーベル様……」

不安気な女を背に庇い、『アーベル』と呼ばれた成年の魔族は騎士達を睨みながら、少年に向けて手を差し出した。

「スピーゲル。こっちにおいで」

少年――スピーゲルは、振り向いた。

「お師匠様。助けてあげてください」

その顔を見て、アーベルは焦ったように目を見開いた。

「スピーゲル!包帯が……」

「そんなことより、お師匠様」

スピーゲルはユーディトから離れると、とことことアーベルのもとへ歩み寄り、そしてキラキラと輝く紅玉のような目でアーベルを見上げた。

「苦しいって女の子が言っています。助けてあげて」

スピーゲルは、ユーディトのお腹を指差した。

(……女の子――――)

ユーディトは震えた。

お腹の子は、女なのだ。

後継ぎを望む夫の、怒りが目に見えるような気がした。

(でも……っ)

ユーディトにとっては、性別など関係ない。

暗い。狭い。苦しい――。

助けを求める我が子を、早く救ってあげなくては。

ユーディトはその場に跪いた。堰を切ったように涙が溢れ出る。

「た、助けてください!お願いです!」

「ど、どうか娘を……孫をお助け下さいませ」

ユーディトの母親も跪き、聖堂で祈るようにして両手の指を組んだ。

「産婆には匙を投げられました。このままでは娘も孫も死んでしまいます!どうか……っ」

その姿は哀れで、見る者の同情を誘う。けれどアーベルは眉をひそめてただけで、スピーゲルを自らの背後に押し出した。

白い前掛けをした女は、安堵した表情でスピーゲルを抱き寄せる。

「スピーゲル様……っ心配しましたよ。急に走っていかれるから」

「……ごめんねベーゼン」

スピーゲルがあどけなく謝る姿を見て、アーベルが微かに笑う。だが、彼がユーディト達に向けた目には、敵意がみなぎっていた。

「お帰り頂こう」

ユーディトは怯えた。

王城で沢山の嘲笑には晒されていたが、こんな剥き出しな敵意は初めてだ。

ユーディトの母親は、必死に言い募る。

「そんな……っお願いです!お金が必要ならお支払いします!どうか!」

「金の問題ではない。……そのお腹の子の父親が誰か、私が分からないとでも?」

ギクリと、ユーディトもユーディトの母親も身を硬くした。

アーベルは剣の柄を握ったままの騎士を一瞥する。

「緑の外套は国の訓練を終え、正式に叙任された証だ。そんな騎士が付き従うのが誰か。少し考えればわかることだ」

ユーディトは震えた。

アーベルは、ユーディトのお腹にいるのが国王の子供だとわかっているのだ。魔族を―アーベルの一族を滅ぼした仇の子供だと。

(殺される……!)

ユーディトは震えた。

アーベルにしてみれば仇が目の前にいるのも同然なのだ。

早く逃げなければ、殺される。

(でも……!)

このままでは、お腹の子はいずれにせよ死んでしまう。

ユーディトは大きなお腹を抱えて、必死に懇願した。

「お、お願いです!お腹の子に罪はありません!どうかご慈悲を……!」

けれどアーベルは、ユーディトを冷たく見下すのみ。

「……罪?それを言うなら、我が一族に何の罪があった?」

「そ、それは……」

ユーディトは口籠る。

国王が魔族を根絶やしにしたのは、魔族が魔法で雨雲を呼び、大洪水を起こしたからだ。

けれどそれをアーベルの前で口にするのは、さすがに憚られた。火に油を注ぐようなものだ。

アーベルは憎々しげに目を細め、背後にいたスピーゲルを抱き寄せた。

「この子は、生まれたその日に生まれた家ごと谷を焼かれた。父親は火炙りにされ、母親は心を病んだ。こんなに小さな子が、街に出れば『災厄を招くと』石を投げられる。――――何の罪があって、この子がそんなつらい思いばかりしなければならないか……!誰のせいか、あなた方はそれすらわからないのか!?」

アーベルのあまりに激しい怒りに、ユーディトは身を竦ませた。

「……っう」

訪れた陣痛の波に、ユーディトは蹲る。

痛みを逃そうと必死に呼吸するユーディトの背中を、小さな手が撫でる。

「……大丈夫?」 

スピーゲルだ。

「あ……あなた……」

「痛いの痛いのとんでいけー」

誰もが知っているお(まじな)い。

「痛いの痛いのとんでいけー」

スピーゲルは、それを繰り返す。

その健気な様子に、ユーディトの目に熱いものが込み上げる。

「ごめ……ごめんなさい……」

魔族狩りなんて、自分には関係ないと思っていた。

魔族が本当に洪水を起こしたのか、それすら興味がなかった。

けれど……。

(こんな小さな子が……)

どんなつらい思いをして生きてきたのだろう。そしてこれから、生きていくのだろう。

「痛い?かわいそうにね」

スピーゲルは、しゃくりあげるユーディトを覗き込む。

その丸い赤い目を見て、ユーディトは微笑んだ。

「……もう、大丈夫。あなたがお呪いをしてくれたから」

「本当?よかった!」

嬉しそうなスピーゲルに、ユーディトの心は慰められた。

(優しい子……)

お腹の子も、こんな優しい子に育ってほしい。

微かな胎動に、ユーディトはお腹を撫でた。

(ああ、でも……)

頼みの綱だったアーベルには、治療を断られてしまった。

どうすれば、このお腹の子を救うことが出来るのだろう。

すると、黙っていたアーベルが口を開いた。

「一つ条件がある」

「え?」

ユーディトは顔を上げる。

アーベルは、ユーディトの前に片膝をついた。

「生まれた子を、スピーゲルの花嫁にすること」

ユーディトは息を飲んだ。

(娘を、魔族に嫁がせるなんて……っ)

抵抗感は否めなかった。

健気なスピーゲルを通じて魔族への偏見が多少緩んだとはいえ、魔族は穢らわしい血に濡れた一族なのだとこれまで信じて生きてきたせいだ。

(それに……)

お腹の子は王の娘、王女だ。

ユーディトの一存で嫁ぎ先を決めるなど、出来ようはずがない。

だが、ここで決断しなくては、お腹の子は死んでしまうかもしれない。

「お師匠さま。はなよめってなぁに?」

「結婚する相手のことだよ」

「けっこん?」

「……一生大切にするって約束することだ」

「僕、約束できるよ」

スピーゲルは無邪気に笑って、ユーディトを見た。

「約束するよ?大切にするよ?」

――――どこまで分かって言っているのか。

けれど、ユーディトを決断させるのに、スピーゲルの言葉はあどけなくとも十分なものだった。

「……お願いします」

ユーディトは頭を垂れた。

アーベルが言っていたように、スピーゲルにとって生まれてくる子は親の仇の娘だ。

けれど彼なら……きっと、娘を大切にしてくれる。愛してくれる。

「この子を……助けてください」

「条件を飲むということか?」

アーベルの問いに、ユーディトは深く頷いた。

その後、アーベルはユーディトの母親と騎士達を先に帰し、ユーディトだけを更に森の奥の小さな家に連れて行った。

「名前は?」

「ユーディトです……」

アーベルはユーディトの手を握り、名前を呼び、魔法をかけた。

光が溢れて――――その後のことは、ユーディトはあまり覚えていない。

今まで『痛い』と思っていた痛みなど、まさに序の口。のたうちまわるような激痛の末に、ユーディトは念願叶って娘をその腕に抱くことが出来た。

産湯で体を清めた娘は、『赤ん坊』とは呼ぶのを躊躇うほどに白い。

「可愛らしい赤ん坊ですこと」

ベーゼンがニコニコとそう言った。

確かに、生まれたばかりだというのに娘の目鼻立ちははっきりとしている。

(父親似なのね……)

ユーディトは安堵した。望まない娘だとしても父親(じぶん)に似ているとなれば、あの夫も可愛がってくれるかもしれない。

アーベルに連れられ、部屋にスピーゲルが入ってきた。

ユーディトの抱く赤ん坊を見て、スピーゲルは目をキラキラさせる。

「赤ちゃん……っかわいい!」

おそらく、森の奥に隠れ住む彼にとって、生まれて初めて見る赤ん坊だ。

アーベルが、スピーゲルの肩に手を置いた。

「名前をつけておあげ。スピーゲル」

「僕が?」

「お前の花嫁だ」

スピーゲルは、困ったようにユーディトに目を向ける。

ユーディトが微笑んで頷くと、スピーゲルは安堵したように頷き返し、また赤ん坊を眺める。

「白いねぇ。白くて、まるで雪みたい……」

考え込んだスピーゲルは、やがてパッと顔をあげてユーディトを見た。

「ブランシュ・ネーヴェ!」

それは耳慣れない発音だった。スピーゲル達の一族の言葉なのかもしれない。

美しいその響きを、ユーディトは気に入った。

「いい名前ね。ありがとう、スピーゲル」

スピーゲルは、照れて頬を染める。

「えへへ」

はにかむスピーゲルは本当に可愛くて、彼の髪や目の色など、もうまったく気になりはしない。むしろその色を、ユーディトは美しいと思うようになっていた。

「ブランシュ。ブランシュ」

優しい顔で、スピーゲルは揺り籠を揺らす。

「大きくなったら、僕のお嫁さんになってね」

産後の体が落ち着くまでアーベルの家に滞在したユーディトだったが、やがて屋敷に帰る日がやってきた。

「この砂時計の砂がおちたら」

アーベルは、ユーディトの手に砂時計を渡した。

「その時が約束の日だ。ブランシュを迎えにいく」

「砂時計……?」

ユーディトはその美しい砂時計をまじまじと見た。

硝子の信管のくびれより上に、白い砂は山になっている。にもかかわらず、砂はまったく落ちてこない。壊れているのではないだろうか。

それに砂時計は、ひっくり返せばそれまで計っていた時間は当然ながら無に帰してしまう。年単位で先になる『約束』の日を測るのは不可能ではないだろうか。

ユーディトの抱いた不安や疑問を、アーベルは察っしたようだった。

「心配いらない。この砂時計には不思議な力が宿っているからな」

「不思議な力が?」

「その時を必ず教えてくれる。ひっくり返そうが横倒しになろうが、必ずだ」

「……」

どうにも納得しかねるユーディトだったが、アーベルの言うことをとりあえず信じることにした。彼はいい加減なことは言う人ではないと、ユーディトは既に知っていたからだ。

後ろから袖を引かれて振り向く。すると、スピーゲルがやや俯きがちにそこにいた。

「もう帰っちゃうの?」

今にも泣きそうな声のスピーゲルの首からは、ユーディトが持つ砂時計と同じものが小さな麻袋に入って垂れ下がっている。

ユーディトは屈み、スピーゲルと目線を合わせた。

「あなたが持ってる砂時計。同じものを私達も持っていくわ」

ユーディトは微笑んだ。

「この砂時計の砂が落ちきったら、私の娘を、迎えに来てね。優しい魔法使いさん」

「……うん」

泣くまいと唇を噛み締めるスピーゲルが、ユーディトはいじらしくて、愛しくてたまらなかった。

アーベルに屋敷まで送ってもらったユーディトを待っていたのは、父親からの冷遇だった。

「女など産みおって!しかも魔族と婚約!?勝手なことを!!」

ユーディトの父親は、王子の祖父として権力と財力が手に入ると勝手に思い込んでいたらしい。

「さっさと王城に帰れ!そして次こそ男を生むのだ!良いな!?」

母親は庇ってくれたが、ユーディトはまるで追い出されるようにして王城に送り出された。

そして王城で、ユーディトは更に酷い仕打ちに耐えなければならなかった。

「女!?男ではなく女だと!?」

ユーディトを出迎えるなり、国王は頭を抱えて叫んだ。

「ああ!何たることだ!ようやく後継ぎを得られたと思ったのに!」

悪阻とお産で痩せ衰えたユーディトに一言の労いもない。

おくるみに包まれて眠るブランシュを抱えたまま、ユーディトは涙を飲み込んだ。

母親になったのだ。泣いてはいけないと自分に言い聞かせる。

「あ……あの。この子の名前なのですが……」

「名前はアルトゥールだ!アルトゥールとでも呼んでおけ!」

吐き捨てるように言うと、国王はユーディトに背を向ける。

ユーディトは慌てて国王を追いすがった。

「お、お待ちくださたい!陛下!アルトゥールだなんて……男の子の名前ではないですか!」

それは、男児の名前としては定番のもので、国王が『生まれた息子に』とあらかじめ考えていた名前だった。

健やかな成長を願って娘に男児の名前をわざわざつける風習はあるが、国王がそれを踏まえたわけではないことは明らかだ。

生まれたのが望んでいた男の子ではないからと、まさかあてつけのようにその名前をつけるなんて。

(とんでもないわ!)

そんな名前よりずっといい名前が、ブランシュには既にある。スピーゲルがブランシュを想って、優しい気持ちでつけてくれた素敵な名前が。

「この子の名前はブラン……」

「黙れ黙れ黙れーーッッッ!!」

国王は美しい顔を歪めて怒鳴った。

「この役立たずが!!」

ユーディトを突き飛ばすように振り払うと、国王は大股で部屋から出ていった。一度も振り返らずに。

その場に、ユーディトは膝から崩れ落ちた。堪えていた涙が溢れ出る。

ブランシュを抱き上げるどころか、顔すら見てくれなかった。

それまで大人しく眠っていたブランシュがか細い声で泣き始める。父親に愛されない我が身を、理解したように。

「……っ大丈夫。大丈夫よ。ブランシュ・ネーヴェ」

切なげに泣く我が子が可哀想で可哀想で、ユーディトは仕方がなかった。

「いつかーー優しい魔法使いがあなたを迎えに来てくれますからね。可愛いブランシュ・ネーヴェ」





暗い湖の底に差したような一筋の青い光のもと、アルトゥールの意識は唐突に覚醒した。




ブランシュ。

ブランシュ。

可愛いブランシュ・ネーヴェ。



――――それは、二人きりのときにだけ母から呼ばれていた秘密の名前。

てっきり、愛称なのだとばかり思っていた。

でも、違ったのだ。

それは、贈り物。

生まれてきた命への祝福。

「お母……様……」

過去が――――赤ん坊を抱えるその人の姿が、急激に遠ざかる。

アルトゥールは無我夢中で叫んだ。  



お母様……っ!!





涙でぼやける視界は、まるで雪の原のように白く、眩しかった。

誰かがこちらを覗きこんでいる。

「……っ……」

声が、うまくでない。

体が、おかしかった。自分の体だというのに、どう動かせばよいのか思い出せない。まるで、()()()()()かのようだ。

瞬きを何度か繰り返す。

そうすると視界が徐々にはっきりしだし、アルトゥールは驚きに目を見張る。

「……ス…………ピ?」

アルトゥールを覗き込んでいたのは、スピーゲルだった。

切れ長な目。精悍な顔立ち。見間違えるはずもない。

けれどその髪は、(とび)色になっていた。

紅玉のように赤かった目もすっかり色がぬけて、まるで琥珀のようだ。

「……か、み……目も……?」

何故、色が違うのだ。何があったのだ。

「……っ」

スピーゲルはくしゃりと顔を歪ませると、それを隠すかのようにアルトゥールに覆いかぶさった。そしてアルトゥールを強く抱き締める。

その腕から暖かな陽だまりの匂いがして、アルトゥールは安堵した。

(スピーゲルですわ……)

髪と目の色が違ったとしても、間違いなく、彼はスピーゲルだ。

アルトゥールの、最愛の(ひと)

彼の肩越しに、鼻水をすすりながら笑うアヒムとエメリッヒが見えた。泣くほど嬉しいことがあったように見えるが、それが何なのか、アルトゥールには分からない。

抱き締めてくれるスピーゲルを抱きしめ返そうとしたアルトゥールは、自分の手の中にある物に気がついた。

あの砂時計だ。

砂は、完全に落ちきっていた。

『その時を()()教えてくれる。ひっくり返そうが横倒しになろうが、()()だ』

――――アーベルが、言った通りだった。

一度は、失われた約束。

アルトゥールとスピーゲルは、不規則に展開する運命の中で、完全に互いを見失った。

それでも、巡り逢った。

見つけ出した。

たった一人を。

「……スピー……ゲル」

涙が零れたが、悲しいわけではなかった。

嬉しくて、愛しくて、アルトゥールは微笑んだ。

「わたくし、待って…………ましたのよ」

ずっと、待っていたのだ。

ずっと。

ずっと。

ずっと。

この時を、待っていた。


あなたに抱き締められる、この瞬間(とき)をーーーー。


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