笑わず姫と“ブランシュ・ネーヴェ”
***
『スピーゲル!スピーゲル止まりなさい!まだ目が……』
師の、声が聞こえた。
けれど、スピーゲルは立ち止まらなかった。
弾むように森を駆ける体は、大人の半分ほどだ。
その目には、頭ごと包帯が巻かれている。
イザベラが家から出ていき、スピーゲルの目からは光が失われていた。
けれど不思議なことに、石に躓くことも木に激突することもない。
走るスピーゲルの足に、一切迷いはなかった。
(だって、聞こえるんだ)
ここから出してと。
暗いと。
狭いと。
助けて、と。
声が聞こえるのだ。
包帯が、解けて風に飛んでいく。
ぐちゃりと景色が混濁した。
「もう、帰っちゃうの?」
暖炉には温かな火が灯り、お茶のいい匂いがした。
榛色の瞳の女性が、お包みに包まれた赤ん坊を抱いてる。
女性は微笑み、屈みこんだ。小さなスピーゲルと、目線をあわせてくれたのだ。
「あなたが持ってる砂時計。同じものを私達も持っていくわ」
スピーゲルの首から下がる紐の先を、女性は指でつまんで示した。
「この砂時計の砂が落ちきったら……私の娘を迎えに来てね。優しい魔法使いさん」
穏やかに、女性は微笑んだ。
高い場所から落ちるような感覚で、スピーゲルは驚いて目を開けた。
目の前にはアヒムがいて、焦った様子で手を引っ込める。
「ご、ごめん、旦那。起こしちゃった?」
肩に毛布がかかっていた。アヒムがかけてくれたようだ。
(…………ゆ……め……?)
眠っていたのだろうか。
意識が混濁して、自分が眠っているのか起きているのか、それすらよく分からない。
瞬きを忘れた目を辺りに彷徨わせると、寝台に横たわるアルトゥールを見つけた。
刹那の内に、網膜に焼き付いた光景が脳裏を駆け巡る。
林檎をかじる赤い唇。
彼女の白い手から転げ落ちた林檎。
どす黒いまでに濃い血で染まった、衣服。
(……ああ、そうか)
アルトゥールは死んだのだ。
現実という名の絶望に、スピーゲルは項垂れる。
疲れ果てていた。
体が酷く重くて、指先を動かすことすらつらい。
(……このまま)
このまま呼吸が止まり、心臓が止まればいい。
そうしたら、アルトゥールがいる場所にいけるかもしれない。
もう一度、彼女に会えるかもしれない。
重い瞼に逆らうことなく目を閉じかけたスピーゲルに、アヒムが遠慮がちに声をかける。
「ねぇ、旦那。ちょっとでいいから何か腹に入れようよ。スープでも、何でもいいから」
その優しさが煩わしい。せっかくアルトゥールに会いに行こうとしたのに。
スピーゲルは顔を逸した。
「……ほっといてくれ」
アヒムは少し臆した様子を見せたが、すぐに強い意志を瞳に滲ませた。
「ほっとけるわけないじゃん!このままじゃ旦那まで死んじゃうよ!」
懸命に食い下がるアヒムを、スピーゲルは冷たくあしらう。
「だから……だからほっといてくれ」
もう、何もかもがどうでもいい。
アルトゥールは死んだ。
もう笑わない。話さない。食べることも走ることもない。
それなのに、何故自分は生きているのか。何故、生きなければならないのか。
意味が分からない。
理解出来ない。
「……ざけんな」
アヒムの声が、低く震える。
「ふざけんなよ!!スピーゲル!!」
大声で怒鳴ると、アヒムはスピーゲルの胸ぐらに乱暴に掴みかかる。
「死んだらお姫様に会えるとか妄想ぶっこいてんじゃあないだろうな!?死んだらおしまいなんだよ!お・し・ま・い!あんたが死のうが世界は終わろうがお姫様には会えないんだよ!!」
一気にまくし立てたアヒムに煽られ、息絶えたかに思えたスピーゲルの感情が火山のように噴火した。
アヒムの衣服を掴み、怒鳴り返す。
「そんなことは分かってる!!何しようがアルトゥールに会えないことくらい百も承知だ!!だから好きにさせてくれ!こんな世界クソくらえだ!」
この大声のやりとりが聞こえたのか、エメリッヒが部屋に飛び込んできた。
「ど、どうしたんだ!?アヒム?スピーゲル?」
慌ててスピーゲルとアヒムの仲裁に入ろうと駆けつけたエメリッヒを無視し、当の二人は互いに声を荒げる。
「だったらさっさと舌でもかんで死んでくれ!目の前でじわじわ弱っていかれたんじゃこっちも寝覚めが悪いんだよ!」
「ああやってやるよ!今すぐに!!」
「待った待った待った待った――っっ!!」
青ざめたエメリッヒが強引に間に割り込み、二人を引き剥がした。
「アヒム!自殺志願者を煽るな!スピーゲル!とにかく落ち着……」
エメリッヒは言葉を失う。
アヒムも、黙り込んだ。
スピーゲルの双眸から、涙が一筋零れ落ちたからだ。
涙はスピーゲルの頬を伝い、顎からポタポタと床に落ち、そこに影のような染みをつくる。
「こんな、ことになるなら……」
喉から振り絞るような声は、震えて湿気を含んでいた。
スピーゲルはガクリと膝をつき、片手で顔を覆う。
こんなことになると分かっていたら、アルトゥールにもっと沢山、美味しいものを食べさせてあげたかった。もっと色んな場所に連れて行ってあげたかった。
「もっと色々してあげられたはずなのに……っ何もできなかった。何も……!」
あの時ああしていれば、こうしていれば。
そうすればアルトゥールは今も笑ってくれていたのではないか。
胸に迫るのは後悔ばかりだ。
エメリッヒが膝を折り、スピーゲルの肩に手を置いた。
「そんなことはない。姫はお前といると、よく笑っていたではないか。よく泣いてよく怒って、生き生きとしていた」
俯くスピーゲルに、エメリッヒは微笑みかける。
「お前といるだけで、姫は幸せだったんだ」
その微笑みは、どこかアルトゥールを思わせた。従兄だからだろうか。今まで一度も、似ていると思ったことはないのに。
「旦那」
アヒムが、ポンと肩を叩く。
「花嫁衣装、着せてあげようよ。お姫様に」
「……え?」
スピーゲルが目を瞬かせると、アヒムはニカリと笑った。
「縫ってたじゃん。お姫様自分で。俺、ジギスと一緒に行ってとってくるよ」
「ああ、いい考えだ。もしまだ途中ならお針子に仕上げさせよう」
エメリッヒも笑って同意する。
その二人の姿に、凍りついていたものが緩やかに、けれど確かに溶けていくのをスピーゲルは感じた。
目を上げると、アルトゥールが静かに横たわっている。
血を拭われて着替えさせてもらった彼女は、今にも目を覚ましそうだ。
新しい涙がこみ上げてくる。
それを押しとどめるように、スピーゲルは目を閉じた。
「……そう、ですね」
瞼を上げ、弱々しくも頷く。
「ちゃんと、埋葬してあげなきゃ……綺麗にして、棺に花も入れてあげて……」
そこまで言って、心配になった。
「…………花なんて……見つかるかな」
外は一面の雪景色だ。
すると、また肩を叩かれた。
顔を上げると、温かな二つの笑顔がスピーゲルを迎えてくれた。
「探すよ一緒に」
「そうだな。騎士達にも言って探させよう」
「……」
再度襲ってきた涙の波に、今度はスピーゲルは逆らえなかった。
床に蹲り、スピーゲルは声を堪えて泣いた。
アルトゥールを失った悲しみは元より、彼女がいないというのに生きている自分が恨めしかった。
彼女さえいればいいと思っていたはずなのに、現実にはアルトゥールがいなくても自分は生きている。生きていける。
それがアルトゥールに申し訳ない気がした。謝りたかった。
けれどそれを謝れば、きっとアルトゥールは『謝ることではありませんわ』と怒るに違いない。
そして笑うだろう。『良かった』と。
きっと、彼女は笑う。
スピーゲルが泣いている間、エメリッヒとアヒムは、ずっと背中を撫でていてくれた。
そしてスピーゲルが泣き止むと、立ち上がるのを手助けしてくれた。
よろめくスピーゲルを、アヒムが支える。
「おっと。大丈夫?旦那」
「うん……」
スピーゲルは、アヒムを見た。
「……アヒム。さっきはごめん。それから……ありがとう」
アヒムは少し驚いたように目を大きくしたが、すぐに破顔した。
「どういたしまして。俺もごめんね」
笑い合う二人を見て、エメリッヒが安堵したように胸をなでおろす。
スピーゲルは振り返り、アルトゥールに向き直った。
「……」
そっと、その黒髪を撫でた。
指先に感じる冷たさに、アルトゥールの命がそこにないことを改めて感じ、胸が締め付けられる。
涙が滲む目を、スピーゲルは優しく細めた。
「……花を摘んでくるので、待っていてくださいね」
アルトゥールは、もう答えない。
けれど、聞こえているはずだ。きっと、聞こえているはずだ。
グス、と背後で鼻を啜る音がした。多分アヒムだろう。彼は彼本人が思っているより、ずっと情に脆いから。
「さぁ、行こう」
エメリッヒに促され、スピーゲルは後ろ髪を引かれながらもアルトゥールに背を向けた。
部屋を出て扉を締めると、そこに侍女と騎士が控えている。
「頼むぞ」
エメリッヒの柔らかな命令に、侍女と騎士が頭を下げる。二人がアルトゥールの傍についていてくれるようだ。
「旦那。花も大事だけど、とりあえず着替えようよ」
廊下を並んで歩きながら、アヒムが言った。
スピーゲルは自らの格好を見下し、少しギョッとする。
「そう……だね」
血みどろで、なかなかの迫力だ。
けれど、この血もアルトゥールが生きていた証の一つなのだ。そう思うと着替えるのが惜しい気もする。
(……馬鹿だな)
こんなものに縋らなくても、瞼を閉じるだけでアルトゥールの笑顔を思い描けるのに。
スピーゲルの自嘲には、アヒムとエメリッヒは気づいていないようだ。
「お湯も用意してもらってさ、体あっためるといいよ」
「そうだな。すぐに用意しよう。それから少し何か食べて……ああ、そうだ。これなんだが」
エメリッヒが立ち止まり、衣服の返しから小さな小袋を取り出した。
つられるように立ち止まったスピーゲルとアヒムは、その袋を見て首を傾げる。
「なにそれ?」
アヒムが尋ねると、エメリッヒは少しバツが悪そうな顔をした。
「ずっと姫に返しそびれていてな。姫の母君の形見の品だ。今更だが棺におさめようと思ってな」
そう言って、エメリッヒはその小さなスピーゲルに手渡した。
重くはない。
母親の形見というからには、宝石か何かだろうか。
(そう言えば……アルトゥールから聞いたことがあったな)
エメリッヒに母親の形見をとられたと。あれはいつだっただろう。
アヒムが興味津々の様子で目を輝かせた。
「何々?何が入ってるの?」
促されるようにして、スピーゲルは袋の口を縛っていた紐を解いた。それから袋を逆さにして軽く振る。
「砂時計だ」
エメリッヒがそう答えたのと、スピーゲルの掌に砂時計が転がったのはほぼ同時だった。
青銅で作られた砂時計。
細かな意匠に、雪のように白い砂。
スピーゲルは目を疑った。
(……え?)
エメリッヒが、指先で頬を掻く。
「姫は袋に何が入っているか知らなかったようだ。母君からは『お守りは中身を見たら効力がなくなる』と言われていたようだからな」
「え。それなのに公子様、中見ちゃったの?」
アヒムに軽蔑の眼差しで突き刺され、エメリッヒは痛む良心を手で抑えて顔を背けた。
「う……。そ、それは……」
「うわぁ。やだ、最低ぇ。最悪ぅ」
新しい玩具を見つけた子供のように、アヒムは嬉しそうにエメリッヒを責め立てる。
けれどスピーゲルは、戯れ合う二人を見てはいなかった。
砂時計の硝子の信管を、白い砂が滑り落ちていく。微かに、少しずつ。
(これ……は)
スピーゲルは砂時計を握り締め、走り出した。
「って、あれ?旦那!?」
「スピーゲル!?どうした!?」
アヒム達を残し、スピーゲルは廊下を駆け戻る。
扉を守っていた騎士が、スピーゲルの形相に仰天して後退った。
「あ、あの。どうかなさったので?」
その質問には答えず、スピーゲルは彼を押しやり扉を開けた。
寝台の横で椅子に座っていた侍女も、驚いて立ち上がる。
だがスピーゲルは彼女にも目をくれなかった。
脇腹が痛い。
息があがる。
目眩で目の前がクラクラして、スピーゲルはアルトゥールが横たわる寝台の縁を掴んだ。
(まさか……)
動かぬアルトゥールに縋るようにして、その顔を覗き込む。
ドクドクと、心臓が脈打った。
(まさか、そんな……)
あり得ない。
可能性を否定しつつも、スピーゲルの心は早くも期待に弾けそうだった。
緊張で震える指先で、アルトゥールの首から下がる紐を手繰り寄せる。
追いかけてきたアヒムとエメリッヒが、スピーゲルの背後で息を弾ませている。
「何々?どうしたの?」
「スピーゲル?」
「……」
アルトゥールの服の下から出てきた小さな小袋の中から、スピーゲルは砂時計を取り出した。
スピーゲルの父親が、スピーゲルの母親と結婚する際に、結納金代わりに贈った揃いの砂時計。
そう、砂時計は元々は二つあったのだ。
死を覚悟したマティアスは生まれたばかりの息子に自らが身につけていた砂時計を形見として残し、夫の死に絶望したイザベラは、自らの砂時計を窓から外へ投げ捨てた。
草の影に転がったその砂時計をアーベルが拾い上げ、やがてそれはスピーゲルの許嫁の手に渡った。婚約の証として。
だが許嫁の行方は知れない。もはや、もう一つの砂時計は失われたものと、スピーゲルは思いこんでいたのだ。それはそれで仕方がない、と。
(それなのに、何故……)
アルトゥールの母親がこれを持っていたのか。
アヒムが、スピーゲルが持つ二つの砂時計を見て目を丸くする。
「二つ?え?何で?」
「……」
スピーゲルは答えなかった。
『あなたが持ってる砂時計。同じものを私達も持っていくわ。この砂時計の砂が落ちきったら』
何故、ここに砂時計が二つ揃ったか。
考えられることは一つだけだ。
『私の娘を、迎えに来てね。優しい魔法使いさん』
まさかそんな。
そんなことが。
でも、そうとしか考えられない。
掠れた声で、スピーゲルはアルトゥールに呼びかけた。
「……ブランシュ?」
名前をつけてあげなさいと師に促されて、赤ん坊に贈った名前。
「白雪?」
雪のように白くて純粋な存在。
(こんなに近くにいたなんて……)
当然、本人に自覚はなかっただろうが、彼女は自ら来てくれたのだ。スピーゲルのもとへ。
『十』さえ待てず『七』でスピーゲルの腕の中に飛び込んでくるような彼女に、砂時計の砂が落ちきるまで大人しく待っているなんて無理だったのかもしれない。
アヒムとエメリッヒは困惑顔だ。
「旦那?どうしたのさ?」
「スピーゲル。何とか言え」
「……名前が、違ったんだ」
「は?」
「え?」
「名前が違った!」
スピーゲルは勢いよく二人を振り返った。
「名前が違ったから、だからアルトゥールには魔法がかからなかったんだ!」
スピーゲルの言葉に、エメリッヒは眉を寄せる。
「ど、どういうことだ?姫の名前が違う?」
「ちょ、ちょっと!旦那!」
アヒムが顔色を変えてスピーゲルの肩を掴んだ。
「何する気!?ま、まさか……」
アヒムを見返す目に、スピーゲルは力をこめた。
「魔法で、アルトゥールを生き返らせる」
「ま、待て!生き返らせる魔法は確か命と引き換えなのだろう!?」
エメリッヒも、アヒムと同じように顔を青くし、スピーゲルの肩を掴んだ。
「姫を生き返らせたところでお前が死ねば意味はないではないか!」
「そうだよ!お姫様喜ばないって!!」
アヒムとエメリッヒに反対されても、スピーゲルの決意は変わらなかった。
二人を見つめ、スピーゲルは断言する。
「死なない」
「いや、根性論でどうにかなることじゃないよね?」
「そもそも、体調も万全ではないというのに」
アヒムもエメリッヒも、顔を引つらせている。けれどスピーゲルは、一切引くつもりはなかった。
アヒムとエメリッヒの肩を、スピーゲルは掴み返す。
「絶対に、死なない」
「……」
「……」
二人は無言で、何か思案するように俯いた。
そして、いくらもたたないうちに、アヒムが両手で髪を搔き乱し天を仰ぐ。
「あああ!!もう!!仕方ないな!」
彼はそう喚くと、左手をスピーゲルに差し出した。
「はい!」
これに困惑したのはスピーゲルの方だ。
「……え?」
アヒムの意図がわからない。
するとアヒムは険しい顔をしながら、また手をスピーゲルに押し付けてきた。
「俺の……なんて言うの?命?寿命?ちょっとだけ足しにしてよ!ちょっとだけね!そしたら旦那死なずにすむんじゃないの?」
驚いて絶句するスピーゲルの横で、エメリッヒが俯いたまま唸る。
「わ、私は王になる身だ。妻子もいる。おいそれと命をかけるわけには……」
悩むエメリッヒに、アヒムが軽い口調で頷いた。
「うん。無理しなくていいよ!」
「コラ待て――!」
すぐさま反論の声を上げたエメリッヒは、迷いを振り切るようにスピーゲルに手を差し出した。
「スピーゲルは我が恩人にしてかけがえのない友!私にも友の為に命をかけさせろ!」
二人の手を、スピーゲルは見た。
重い剣を振り慣れている二人の掌は、皮が厚い。
「……アヒム。エメリッヒ……」
信じられないという思いで、スピーゲルは二人の顔を見る。
返ってきた笑顔に、もういない養父の言葉が甦る。
『スピーゲル。憎んではいけないよ。呪ってはいけないよ』
かつて、彼はそう言った。
『この世界のどこかにいるのかもしれないのだから。お前の白い髪も赤い目も魔力も、丸ごと受け止めてくれる誰かがいるかもしれないのだから』
熱い想いが胸を満たす。
おそるおそる出した手で二人の手を握ると、彼らは強く握り返してくれた。
込み上げる涙を、スピーゲルは目をとじて飲みこんだ。
(いつのまに……僕の周りには、こんなに人がいてくれるようになったんだろう)
罵られることを、蔑まれることを恐れ、人に関わらないように、人と目をあわせないように俯いて生きてきた日々。
それが、今は遠い。
スピーゲルは目を開け、もう一度アヒムとエメリッヒを見た。
3人で頷き合い、それからアルトゥールに向き治る。
(……全ての人に、受け入れてもらわなくてもかまわないんだ)
彼らがいる。そしてアルトゥールがいれば、それでスピーゲルの世界は満たされる。
(だから、どうか……)
アルトゥールの冷たい手を、スピーゲルは両手で握った。そこへアヒムとエメリッヒが、それぞれの手を重ねる。
(だからどうか戻ってきて)
大きく息を吸い、吐く。
(残酷で美しいこの世界へーー……)
呼吸を整え、神経を研ぎ澄ます。
「『ブランシュ』」
美しい音の連なりを、はっきりと発音した。
それは、白く無垢な魂の名前。
「『ブランシュ・ネーヴェ』」
重ねた手に、光が宿る。
その光は、やがて部屋を覆い尽くした。