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慟哭の魔法使い


パタリと、アルトゥールの手が床に落ちた。


腕の中のアルトゥールが重みを増した気がして、スピーゲルは瞠目する。

「………アルトゥール?」

返事はない。

アルトゥールは瞼を閉じ、まるで眠っているようだ。

「アルトゥール?」

腕の中の愛しい人を、スピーゲルは揺らす。そうして、彼女の瞼がもう一度開くのを待った。

けれど、アルトゥールの瞼はかたく閉じたままだ。

長くて質量のある睫毛は、ピクリともしない。

「……ア……ル……?」

声が、掠れた。

何故、彼女は動かないのだろう。

何故、返事をしないのだろう。

スピーゲルの頭の中は、真っ白だった。

現実に、理解力が追いつかない。

「あはははははははは!!」

静まり返る大広間に、高い笑い声がこだます。

イザベラがそれは楽しそうに笑っていた。

「あははは!可哀想にスピーゲル!あんたの愛しいお姫様はもう目を覚まさないわよ!あはは!いい気味だわ!これでわかったでしょう?()()()を奪われた私の気持ちが!あははは!」

天に向かって笑うイザベラを、スピーゲルは呆然と眺める。

何故、イザベラは笑っているんだろう。

何故、『お姫様はもう目を覚まさない』のだろう。

(何故……)

それは……それは――――……。

理解力が――徐々に残酷な現実に追いつき始める。

けれどスピーゲルは、それを拒絶した。

ゆっくり、首を振る。

「う……そ、だ……」

理解したくない。

理解してはいけない。

理解してしまったら……。

「あはははっ!!!あーはははは!!」

狂ったように笑い続けるイザベラを、エメリッヒが憎々しげに指差した。

「国王を毒殺しようとした大罪人だ!捕えろ!!」

「はっ!」

エメリッヒの命令に、配下の者が頭を下げて従った。

衛兵や貴族達は無言で凍りつき、成り行きを見守っている。

「イ、イザベラ!!」

連行されていくイザベラに、国王がすがりついた。

「う、嘘だろう?余を殺そうとしたなど、嘘だろう!?」

そこには、王としての威厳は微塵もない。

かつて凛々しく優美だった顔には多くの深い皺が刻まれ、ただ頑迷なだけの老人に成り下がった姿はいっそ痛々しかった。

それまで笑い続けていたイザベラが、すっと黙る。

イザベラは老いさらばえた国王を氷よりも冷たい目で見下し、吐き捨てるように言った。

「触るな。おいぼれ」

「……!」

国王はヘナヘナと座り込み、その場に手をついた。

「……フ、ふふふ」

再び、イザベラは笑いだす。

国王の哀れな姿が、嬉しくて嬉しくてたまらないといった様子だ。

「あははははは!あははははははは!!」

不気味な笑い声に、人々は怯えて身を寄せ合う。

だがスピーゲルの耳には、その笑い声は届いていない。

ゆっくりと消えていく温もりをかき集めるように、スピーゲルはアルトゥールの体を抱える腕に力を込める。

(嘘だ……)

こんなことありえない。

あっていいはずがない。

すぐ隣にいたアヒムが、遠慮がちに口を開く。

「旦那……」

スピーゲルをいたわろうとするその声は、聞こえてはいた。けれど、そのいたわりを受け取るわけにはいかない。

こんな現実を、認めるわけにはいかないのだ。

返事をすることなく、スピーゲルは立ち上がる。アルトゥールを両腕に抱いたまま。

アヒムも、慌てて立ち上がった。

「旦那!?どこいくの!?」

「……帰る」

「帰るって……無茶だよ!そんな体で……」

アヒムの制止に、スピーゲルは聞く耳を持たなかった。

引きずるようにして、足を踏み出す。

地下牢の泥とアルトゥールの血に汚れた長い白銀色(しろがねいろ)の髪が、視界を幾つかに分断していた。

一歩進むごとに、体中に痛みがはしる。

呼吸が苦しくて、意識を保っているのもやっとだ。

それでも、アルトゥールを抱える腕から力を抜こうとは思わなかった。

生者の世界を彷徨う亡霊のようなスピーゲルに、人々は無言で道を開けた。

大理石の廊下を抜け、石の回廊から雪に覆われた庭に降りる。

東から、光が差した。

夜明けだ。

世界が、太陽に照らされて色を取り戻していく。

「……」

山茶花(さざんか)の花が咲いていた。

寒い冬にも、美しく咲き誇る花。

けれど可哀想なことに、一輪だけ白い雪の中に落ちている。

雪の重みに耐えきれなかったか、誰かに手折られたか。

薔薇によく似たその赤い花弁が、無残に散り、風に吹かれて飛んでいく。

それを見た瞬間。

スピーゲルは、ガクリと膝をついた。

力が入らない。

もう、立ち上がれない。


『スピーゲル』


スピーゲルの手の中にすっぽりおさまってしまう小さな手。


「……あ」


ブランコに揺れて、弾む黒髪、


『春になったら』


「あ……ああ、あ」


林檎飴を食べるときの、嬉しそうな顔。

豆の莢剥きをする、真剣な目。


『スピーゲル』


声。


『スピーゲル』


眼差し。



そのすべてが、失われてしまった。


「ああああ……っ」


冷たくなっていくアルトゥールを抱き締め、スピーゲルは天を仰いだ。



「うわああああああああああああ――――ッッッ!!」



喉を切り裂かんばかりの慟哭が、朝焼けの空にとけていった。









***







灰雪が、ヒラヒラと舞い降りる。

朝方は顔を見せていた太陽は今は厚い雲に隠れ、降り始めた雪がスピーゲルの頭や肩、そしてアルトゥールの黒髪に、早くもつもりつつあった。

山茶花(さざんか)が散る庭に、スピーゲルは座り込んでいる。

冷たくなったアルトゥールを抱き締めたまま、ずっと。

俯く顔は長い髪に覆われ、表情は見えない。

痛々しいその姿に、誰も声をかけられなかった。

スピーゲルがそうしている間、アヒムは数歩ほど後ろでずっと立ち竦んでいた。

けれどやがて意を決したように足を踏み出し、スピーゲルの隣に膝をつく。

「……旦那」

スピーゲルは応えない。

「旦那ったら。ねぇ」

アヒムはスピーゲルの肩に手を起き、優しく揺らす。

「怪我の手当てしよう?体も冷え切ってるじゃん。お姫様も棺に入れてあげなきゃ」

ピクリと、スピーゲルが身動いだ。

ゆっくりと顔を上げ、アヒムを見る。

「……ひつ、ぎ?」

長い髪の間から見える、どこか焦点が合わない赤い瞳。

泣いているわけでも怒っているわけでもない、感情が死に絶えたようなスピーゲルの表情に、アヒムは声をつまらせた。

「……ごめん。そうだよね、俺無神経すぎた」

けれど、スピーゲルにはその謝罪は聞こえないようだった。

「さわ……るな」

アルトゥールを抱え、スピーゲルはよろめきながら立ち上がる。

温もりを失ったアルトゥールの手が、ぶらんと宙に揺れた。

「旦那……っ」

「アルトゥールに触るな!」

目には見えない大きな力の波が、スピーゲルを中心にして一気に爆ぜた。

雪が舞い上がり、雷鳴のような光の筋が、空気を切り裂いていく。

「うわあ!?」

「きゃああ!」

周囲にいた召し使い達が、衝撃に耐えきれずに吹き飛ばされる。

アヒムも同じように転がりかけたが、身を低め自らの腕を盾にして、何とか踏み留まった。

「旦那!!ごめんってば!!」

必死に喚くが、吹き荒れる魔力の嵐の中心にいるスピーゲルには届かない。

「旦那――!」

ひどい怪我を負った上に、地下牢に飲まず食わずで閉じ込められたスピーゲルに、もはや体力など残っていないはずだ。

その上こんなふうに力を暴走させては、命に関わらないとも限らない。

アヒムは懸命に声を張り上げた。

「旦那落ち着いて!!大丈夫だから!!中に入ろう!!こんな雪の中じゃお姫様が凍えちゃうよ!?」

その訴えは、凍てついたスピーゲルの心をかろうじて撫でることができたようだ。

「…………」

まるで蝋燭の火を吹き消したように、魔力の嵐は静まった。

立ち尽くすスピーゲルに、アヒムは恐る恐る声をかける。

「旦那……?」

「……」

スピーゲルの体が傾ぎ、アヒムは慌てて駆け寄った。

「旦那!」

抱きとめるも、アルトゥールを抱えたスピーゲルを支えきれずに、結局その場に一緒になって倒れ込む。

「旦那?旦那!?しっかり!!」

スピーゲルは応えない。

アヒムの腕にぐったりと身を預け、スピーゲルは意識を失っていた。





王妃イザベラが夫である国王を毒殺しようとした件は、瞬く間に王城中に知れ渡った。

騒動の際に大広間にいた侍女が、事件の詳細を仲間達に話して回ったからだ。

「聖騎士団の関係者が惨殺される事件もお妃様が魔族にやらせていたんですって」

「お妃様が?」

「嘘でしょう!?」

信じられないという顔をする同僚に、侍女は「本当よ」とまくしたてる。

「それからね。殺されたと言われてた人達は魔族に匿われて生きてるそうよ」

「魔族が助けてくれたの?」

「そうなの。びっくりでしょ?」

この報せは、家族や友人を魔族に殺されたと思い込んでいた人々を大いに喜ばせた。

イザベラの裏切りに意気消沈した国王は退位することを承諾。王室の系譜に他に男子がいないこともあり、エメリッヒが王位を継ぐことは確実だ。とは言え、国王の退位と新国王の即位には様々な煩雑な手続きが必要になる。それらを経て正式に即位するまでは、摂政としてエメリッヒは政務をとることになった。

今まで国王の専横に抑圧されていた者は歓喜にわき、逆に隠れて私腹を肥やしていた者は断罪されることを恐れ、早々に逃亡する者もいた。

「笑わず姫。結局死んでしまったんでしょう?」

「国王陛下に毒林檎を食べさせられたって……」

「お気の毒ね……」

魔族である夫に抱き締められて息を引き取った憐れな王女を、人々は悼み、囁き合う。

ともかく、エメリッヒのもとに王城は早くも落ち着きを取り戻しつつあった。





そっと、エメリッヒは扉を叩く。

扉はすぐに開き、アヒムが顔を覗かせた。

「公子様」

「どうだ?スピーゲルは」

「どうもこうも……」

アヒムは身を引き、部屋の中を示す。

部屋の中は冷え切っていた。暖炉はあるが、火の気はない。寝台にアルトゥールが横たえられているからだ。

スピーゲルはその寝台に寄りかかるようにして、床に座り込んでいた。手や服は、アルトゥールの血で汚れたままだ。

「ずっとあんな状態だよ」

この部屋に運び込まれたアルトゥールは、エメリッヒの侍女達によって血に濡れた顔を拭われ、清潔な衣服を着せられた。そこで意識を失っていたスピーゲルが目を覚まし、それから彼は誰一人アルトゥールに近づくのを許さない。

自らの怪我の手当も食事も着替えすらも頑なに拒絶して俯き続けるスピーゲルは、まるでアルトゥールが目を覚ますのを待っているかのようにも見えた。

ピクリとも動かないスピーゲルを見て、エメリッヒは小声でアヒムに尋ねた。

「眠っているのか?」

「意識が朦朧としてるんだと思う。体力も気力も限界だからさ」

「……」

エメリッヒはアヒムの脇を通り過ぎ、スピーゲルにゆっくり歩み寄った。

まるで眠っているようなアルトゥールの姿に、胸を痛めながら、片膝をつく。

「スピーゲル」

エメリッヒは、長い銀髪に隠れる顔を覗き込んだ。

スピーゲルはぼんやりと目を開けてはいたが、エメリッヒを見ようとはしない。

その頬はアルトゥールの手のあとが、血でくっきりと残っている。

「スピーゲル……伯父上には退位して頂くことになった。それからイザベラのことだが、今は地下牢に幽閉してある。……精神的に混乱しているらしくて話がまともにできない状態らしい」

「……」

スピーゲルはうんともすんとも言わず、視線すら動かさない。

エメリッヒの話も、聞こえていないのかもしれない。

エメリッヒはしばらくスピーゲルの反応を待っていたが、やがてそれがないことを悟り、小さくため息をついた。

「すぐにもイザベラの裁判を開くつもりだが、お前はどうしたい?本来であれば王族に害を与えた者は未遂であろうと極刑。だがイザベラはお前の母親だ。もし命だけは助けたいとお前が言うなら……」

「殺してくれ」

殆ど唇を動かすことなく、スピーゲルは言葉を紡いだ。

「……え?」

エメリッヒも、そして後ろで様子を窺っていたアヒムも、耳を疑った。まさかそんな言葉がスピーゲルの口から出るとは思ってもいなかったのだ。

しかし、次にスピーゲルが呟いた言葉は、エメリッヒとアヒムを更に動揺させた。

「僕を……殺してくれ」

「……な、何言ってんだよ!旦那!」

アヒムはスピーゲルの肩を掴み、乱暴に揺すった。

だがスピーゲルは、ぼんやりとした視線を床に注ぐだけでアヒムと目を合わそうとすらしない。

「…………旦那」

呆然とするアヒムの腕を、エメリッヒが引く。

「アヒム」

「……」

スピーゲルをその場に残し、エメリッヒとアヒムは一度部屋から出た。

扉を閉め、エメリッヒは低い声で囁いた。

「もしものことがあってはならん。スピーゲルから目を離すなよ。アヒム」

「分かってる」

アヒムは硬い表情で頷いた。だが、その目は涙に潤んでいる。

「……でも、正直俺見てらんないよ。あんな旦那」

グスリと、アヒムは鼻をすする。

エメリッヒは慰めるように、アヒムの肩に手をおいた。




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