笑わず姫と井戸の水ー月の光ー
そっと、アルトゥールは中を伺った。
「おい!肉が焦げちまうぞ!」
「誰か皮剝いた芋知らねぇか?」
料理人達が忙しなく行き交う厨房。
晩餐会が行われている大広間に運ばれるのを待つ数々の料理に、アルトゥールはゴクリと唾を飲み込んだ。
スピーゲルが捕らわれているのなら、それは地下牢しか考えられない。
そこへ続く扉を、アルトゥールは探している最中だった。
だが、目的の場所はまだ見つけることが出来ていない。
(盲点でしたわ……)
王城で知らない場所はないと自負していたアルトゥールだが、幼い頃の鬼ごっこでは、さすがに地下牢に逃げ込んだことはなかったのだ。
人に尋ねようにも『笑わず姫』だとバレる危険を犯してまで話しかける勇気もない。
どうしたものかと途方にくれていたところへ食欲を刺激する匂いが漂ってきた。その匂いに釣られて、ここまでやってきたアルトゥールだ。
ぐうう……とお腹が鳴る。
「……夫の生死が分からない非常事態なのに……」
我ながら呑気なものだ。
だが『空腹だと気持ちが塞いでしまいますから』と以前スピーゲルも言っていた。ここは一つ、食欲を満たしてスピーゲル捜索の効率化を図ろうではないか。
「おい!あんた!」
料理人が手を上げた。
「あんただよあんた!そこの物影でサボってるあんた!」
「……え?」
もしや自分のことかとアルトゥールが俯きがちに振り向くと、料理人は大きく頷いた。
「そうそう!あんたあんた!隠れてるつもりかもしれないけど見えてるから!サボってないで、これ大広間に運んでくれ!」
「わ、わたくしが?」
「あたりまえだろ!給金もらってんだから仕事しろ!」
料理人は、アルトゥールを侍女の一人だと完全に思い込んでいるようだ。
「早く!!」
「は、はいですわ!!」
勢いに飲まれて、アルトゥールは料理人が差し出す料理に手を伸ばす。
受け取った皿は、見た目よりずっと重い。
料理人が片手で持っていたので、軽いだろうと勝手に決めつけていたアルトゥールは、身構えることも出来ずに皿をとり落としてしまった。
美しく盛り付けられていた料理が飛び散り、厨房中に響きたる音をたてて皿が粉々に砕ける。
「何やってんだ!!」
料理人が怒鳴った。
丹精込めて作った料理を台無しにされたのだから、無理もない。
「ご、ごめんなさいですわ!!」
アルトゥールは青ざめてしゃがみこんだが、何をどうすればいいやらわからず、オロオロするばかりだ。
「ああ……このクソ忙しい時に……。仕方ねぇな。拾い集めて地下牢の囚人にでもやってこい」
料理人はため息をつきながら、そう言い捨てた。
アルトゥールは目を瞬かせる。
「地下牢の……囚人に?」
「落ちた料理を大広間に持ってけねえだろ!?かと言って捨てるのはもったいねえし、囚人にでも食わせてやればいいんだよ!……あれ?」
料理人がアルトゥールの顔を見る。
「あんた、べっぴんさんだな。『笑わず姫』に良く似てる」
アルトゥールは慌てて顔を逸した。
「よ、よく言われますわ」
「新入りかい?そうか。だったら地下牢に行かせるのは可哀想だな……。あそこは暗くて不気味だし、おまけに今は魔族が捕まってるっていうし。まぁ、どうせ衛兵の騙りだろうが」
「行きますわ!!」
アルトゥールは料理人に飛びつく勢いで身を乗り出した。
「地下牢!是非行かせて下さいですわ!でも新人なので場所がわかりませんの!新人だから!!」
「お、おお。じゃ、じゃあ場所教えるから……」
料理人はアルトゥールの圧に押し潰されかけながらも、地下牢へ続く扉の位置を教えてくれた。
「衛兵と鍵守りの爺さんはいるが、囚人の飯を持ってきたと言えば通れるはずだ」
「ありがとうですわ!」
脱兎のごとく走り出したアルトゥールを、料理人が呼び止める。
「お、おい!!料理!料理忘れてるぞ!!」
***
喉が乾いた。
重い瞼を、スピーゲルは押し上げる。
けれどあたりは真っ暗で、瞼を閉じていた時と大差ない。
光が差さない王城の地下牢。
何度かイザベラの手引で出入りしたその場所の独房に、スピーゲルは横たわっていた。
「……ゴホ……」
咳き込むと、脇のあたりに激痛が走る。
あまりの痛みに息も出来ない。
意識して浅い呼吸を繰り返す。そうすることで痛みが徐々に遠ざかることを、スピーゲルは知っていた。
(寒い……)
体の芯から凍えきっていて、それを自覚した途端に手が寒さで震え出す。
「…っゴホ、ケホ」
痛い。寒い。痛い。
(……ああ、まずいな)
この寒さは、気温のせいというわけではないかもしれない。
体が熱を持っている。
怪我のせいか、それともこの劣悪な環境のせいで風邪でもひいたか。
視界のすみで、何かが動いた。目線だけで気配を探ると、ジギスが大きな目にたっぷりと涙をためて、こちらを見ている。
「……ジギス」
ずっと、そこにいたのだろうか。
スピーゲルは微笑んだ。
「お腹が……すいただろう?」
フルフルと、ジギスは首を振る。
「……すまない。お前の妹分を……助けてやれなかった」
これにも、ジギスは首を振る。
ボタボタと、大粒の涙がジギスの目から零れ落ちた。
爬虫類も泣けるのかと、スピーゲルは呑気にも感心した。
「ジギス……」
優しく、語りかける。
「お行き……逃げるんだ。お前だけでも」
ジギスが、大きい目を更に大きく見開いた。
「さぁ、お行き」
もう一度笑って見せると、ジギスは小さな手で涙を拭い、羽を羽ばたかせて鉄格子の間から闇の中へ姿を消した。
「…………」
ぼんやりと、スピーゲルは暗い天井を眺める。
イザベラの部屋で意識を失ってから、どれくらい時間がたったのだろう。
何度かこうして目を覚ましたが、身動きすることも出来ずに再び瞼を閉じるしかなかった。
(眠るな。眠るな)
痛みと寒さに遠ざかろうとする意識を、スピーゲルは必死に揺り起す。
出血を伴う怪我と発熱。その上、飲まず食わずでこの極寒の環境。体力は限界まで落ちている。眠りに落ちて、次に目を覚ませる保証がない。
「……はぁ……」
定時の連絡がスピーゲルからはいらないことで、エメリッヒもアヒムも計画の破綻には気づいているはずだ。
万が一の時はとにかく逃げることを優先することと決めてあるから、きっと彼らはもう王都から脱出しているだろう。国境付近に身を隠している崖下の村人達も、エメリッヒの指示で国境を越えるはずだ。この雪の中では簡単なことではないが、きっとアヒムあたりが先頭に立って皆を引っ張って行ってくれる。
問題はアルトゥールだ。
この牢に入れられてから少なくとも一昼夜は経過したと推測すると、既にイザベラの手下がアルトゥールを王城に連れて来ているかもしれない。
「……っ」
歯を食いしばり、スピーゲルは身を起こした。
激痛に体が悲鳴を上げ、石の壁に背中を預けるのがやっとだ。一人では立ち上がることすら叶わない。
髪が、パラパラと視界を遮る。結い紐が切れたのがいつか、覚えていない。
「……っは……はぁ……くそ……っ」
これではアルトゥールを連れて逃げるなど到底無理だ。
せめて、アルトゥールだけでも脱出させられないだろうか。
(考えろ)
何か方法があるはずだ。
だが痛みのせいか、焦りのせいか、スピーゲルの頭はまともに働かない。
(魔法を使おうにも、あの子をイザベラから引き離さないことには……)
青いドレスの少女の姿が、瞼に過る。
『仰せの通り林檎を……』。そう言って林檎をイザベラに差し出した少女。
イザベラは林檎を一つ手にとり、笑った。『国王陛下に召し上がって頂くのが楽しみね』と。
スピーゲルは首を傾げた。
(何だろう。このひっかかりは……?)
イザベラが国王に果物を贈る。その行為の何に、自分は違和感を持ったのだろうか。
(――――何故、林檎なんだ?)
『マティアスも林檎が……』
抱いた疑問とイザベラの言葉が、頭の中で交錯する。
(まさ……か)
スピーゲルは瞠目した。
「……まさか、イザベラは……」
「スピーゲル?」
その声は、まるで闇夜に差した月の光のようだった。
突然聞こえたアルトゥールの声に驚いたスピーゲルは、体の痛みを忘れて咄嗟に立ち上がりかけた。
「い……っ!?」
走った劇痛に、鉄格子を掴んで蹲る。
「スピーゲル!!」
同じ鉄格子を、反対側から掴む手。
小さな、愛しい手。
「スピーゲル!怪我してますの!?」
荒い呼吸を整えながら見上げると、そこにいたのは王城の侍女の格好をしたアルトゥールだった。
「アル……トゥール……」
「ひどい怪我ですわ!大変……」
暗闇の中で、美しい顔が狼狽えている。
(ああ……)
鉄格子の間から腕を伸ばし、スピーゲルはアルトゥールを抱き締めた。
痛みも、寒さも、黒髪の柔らかさに消えていく。
冷たい鉄格子が邪魔だったが、贅沢は言っていられない。
スピーゲルの肩に回されたアルトゥールの手が震えている。
「スピーゲル。あなた熱がありますの?」
「……もう……会えないかと思った……っ」
絶望的な本音が、唇から漏れる。
逃げ出さなくてはと焦る一方で、この地下牢から逃げ出すすべがないことに、スピーゲルは気づき始めていた。
(最後に、会えてよかった……)
もう、これでいい。悔いはない。
鉄格子ごしに抱擁を交わしたまま、スピーゲルはアルトゥールに耳打ちした。
「アルトゥール。聞いて下さい。大事なことです」
「え?」
「イザベラは僕が裏切っていることに気づいていました。だから、自分の手で国王を殺すつもりです」
「自分の手で?」
僅かに、アルトゥールが身を起す。
睫毛が触れそうなほどに近い距離。
アルトゥールの瞳に、涙の膜が張っているのがよくわかる。
温かな頬をスピーゲルは掌で包んだ。
「林檎です。イザベラは林檎に……多分毒を仕込んで国王に食べさせて殺すつもりなんです」
「林檎?」
「国王に林檎を食べさせちゃいけません」
「そんな……」
アルトゥールの声が潤む。
父親に迫る死に怯えたのかと思いきや、そうではなかった。
「そんなこと心配してる場合ですの?こんなひどい怪我をして……っ、お、お父様なんてどうでもいいですわっ!」
懸命に泣くまいとしているようだったが、アルトゥールの長い睫毛からは真珠のような涙が今にも落ちそうだ。
「お、お父様はあなたの一族を滅ぼしたんですのよ?自分の失政の責任を……あ、あなたの一族のせいだと転嫁して……っ、あなたのお父様を火炙りにしたのも」
「そうだとしても、あなたの父親だ」
アルトゥールの目を見て、スピーゲルは微笑んだ。
「僕にとって、あの男を案じる理由はそれで十分です」
ーーーー憎いと、思ったことはある。
一族の滅亡も、父親の死も、イザベラに愛されないことすらも、すべてがあの国王のせいだと考えた日もある。
けれど、彼はアルトゥールの父親だ。
彼がいなければ、この世界にアルトゥールは存在しなかった。
それだけは、感謝してもしきれない。
「ば、馬鹿みたいですわ。スピーゲル。あなた…っ」
アルトゥールの睫毛から、とうとう真珠が零れ落ちた。
それを拭った指先をそのままアルトゥールの顎に添え、スピーゲルは顔を傾ける。
重なるだけの口づけでは足りなかった。
深く。
刻むように。
唇が切れているせいで血の味がしたが、それすらもアルトゥールに覚えていて欲しい。
「……行ってください。手遅れになる前に」
唇を離し、スピーゲルは囁いた。
「国王にすべて話して、林檎を調べればイザベラのしようとしたことは立証できる……はず……」
体が、傾ぐ。
鉄格子に寄りかかるが、それでももう自重を支えきることが出来ない。
「スピーゲル!!」
氷のように冷たい床に、スピーゲルは倒れ込んだ。
「スピーゲル!スピーゲル!」
アルトゥールが必死に助け起こそうとするが、鉄格子ごしではどうにもならない。元よりアルトゥールの細い腕では、スピーゲルを支えることは難しいだろう。
「スピーゲル!しっかりしてですわ!」
「……行って」
自分の命を救ってくれた娘を、さすがの国王も無下にすることはないだろう。
アルトゥールが娘として、王女として、父親から大切にされることを、スピーゲルは心から願った。
「こ、殺すんじゃないんですの?」
アルトゥールがしゃくり上げる。
「傍を離れるなら、わたくしを殺すと……っい、言ったではないの!」
視界がぼやけた。
(ああ……頼む)
神というものが存在するなら、もう少し待って欲しい。もう少し、アルトゥールの顔を見せてくれ。
「スピーゲル……!」
「……ベーゼン……達を、お願いしま……す……」
視界が暗くなっていく。
「スピーゲル!?ダメですわ!!目を開けて!!」
アルトゥールの泣き叫ぶ声が、聞こえる。
「起きるんですわ!!スピーゲル!!起きて!!」
肩を揺する小さな手を、握り返したい。
けれど、もう本当に限界だった。
寒さも痛みも、もう感じない。
ただ体が重い。
意識が、闇に沈んでいくーーーー。
「旦那ーー!!生きてるーー!?」
近づいてくる足音に、遠ざかりかけた意識が足踏みする。
(……アヒム?)
丁度良かった。アルトゥールを連れて行ってくれ……と口にしたかったが、唇が動かない。
アルトゥールの涙声が聞こえた。
「アヒム!」
「遅くなってごめん!鍵を手に入れるのに手こずった!」
錠前がガチャガチャと鳴る音がして、牢の扉が開く。
そして、その直後ーー。
「旦那寝るなーー!寝たら死ぬぞーー!!」
頬に強烈な張り手を受けて、スピーゲルは強引に覚醒させられた。
「い………っ」
痛い。凄まじく痛い。咥内の切り傷の存在を、嫌でも強く意識させられる。
感じなくなっていた痛みと寒さが急に戻ってきて、スピーゲルは苦しさに喘いだ。
それなのに……。
「旦那ーー!起きろーー!」
アヒムがまた手を振り上げるのが見えて、スピーゲルは仰天して制止する。
「お、起きてる!!起きてるから!!」
だから、もう勘弁してくれ。
見下ろしてくるアルトゥールとアヒムの顔に、安堵が滲む。 「スピーゲル……!」
「旦那……!」
その顔を見て、スピーゲルも安心した。
(限界だと……思ったのに)
案外、限界はまだ先だったようだ。
すると、急激に喉の乾きが強くなる。
「……水、欲しい」
ボソリと言うとアルトゥールがパッと立ち上がった。
「持ってきますわ!」
走る足音を聞きながら、スピーゲルはアヒムを見た。
「アヒム。どうして……?」
何故ここにアヒムがいるのだ。
計画が失敗したら各自逃げることを最優先する約束のはず。
アヒムは笑った。
「旦那にだけリスクを背負わせて失敗したら知らんぷりで逃げるなんて、するわけないじゃん」
「でも……」
「言っていなかったけど、万が一不測の事態があれば武装蜂起するつもりで公子様は用意してあったんだよ」
自分の外套を脱ぎ、アヒムはそれをスピーゲルに掛けてくれた。
「今まではさ、他国に隙をつけいられるのが目に見えていたから、内乱起こすにも起こせなかったんだって。でも今は雪で他国は攻めてこれないし。『必要最低限の武力で王位をもぎ取ってみせる』て公子様言ってたよ」
「内乱て……っ」
国王が殺害されかけている現場に踏み込むのとは、もはや次元が違う。
スピーゲルは眉を潜めた。
「せ、正統性がどうのって言ってませんでしたか?」
「『有るにこしたことはないけど、それより友の命が大事だ』って。暑苦しいけど、時々痺れるほどカッコいいよね。公子様」
パタパタと、軽い羽音がした。
逃したはずのジギスが、スピーゲルの肩に着地する。
「ジギス?」
「俺をここまで案内してくれたよ。暗いし、助かった」
アヒムが指先でジギスの頭を撫でた。
「そうか……」
逃げたのではなく、助けを呼びに行ったのか。
「ありがとう。ジギス」
微笑むと、ジギスは前足で頭を掻く。照れているようだ。
「あ。それからね。旦那の使い魔の烏」
「エルメンヒルデ!?」
スピーゲルは思わず身を乗り出した。途端に体中に痛みが走り、歯を食いしばる。
「い……たたた……」
「だいじょぶー?じっとしてなって。とにかくそのエル……?貴族みたいな名前だな……その烏だけど、衛兵が庭に投げ捨てたから拾っといた。羽の骨折れてるからしばらく飛べないけど、大丈夫だから安心してよ」
よかった、とスピーゲルは安堵する。
「ありがとうアヒム……」
「お安い御用よー」
アヒムの明るい笑顔に、スピーゲルも弱々しいながらも笑みを返した。
聞こえなくなっていたアルトゥールの足音が近づいてくる。
「スピーゲル!お水ですわ!」
水を満たした器を手にアルトゥールが跪く。スピーゲルはアヒムに支えられて、何とか上体を起こした。
器に唇をつけて水を口に含むが、何故か上手く飲めない。
「ゴホ……っゲホ……ッ!」
これを見て、アルトゥールが迷わず自らの口に水を含んだ。
そして、スピーゲルに口づける。
口移しに与えられた水はゆっくりとスピーゲルの喉を潤し、渇きを癒やす。
「……きゃー」
アヒムがわざとらしく恥じらう。
「もう、あれでしょ?世界で一番美味しい水飲んだ気分でしょ?」
「……うるさいな」
スピーゲルは顔を赤くして舌打ちした。
アルトゥールはスピーゲルの濡れた顎を裾で拭った。
「食べ物も一応ありますわよ?一度落としてしまったから形は汚いけれど……」
「……水」
「え?」
戸惑うアルトゥールの腕を、スピーゲルは引いた。
「水。ください」
キョトンと目を丸くしたアルトゥールは、すぐに笑って頷いた。




