笑わず姫の帰還
『 』
誰かが呼んでいる。
『可愛い 』
優しい声。
泣きたくなるほど、懐かしい声。
『大丈夫よ。大丈夫』
『いつか』
『いつか――――』
「姫君様?お風邪を召されますよ?」
ベーゼンに声をかけられ、暖炉の前でうたた寝をしていたアルトゥールは、重い瞼をこすりながら身を起こした。
「……夢を見ていましたわ」
「まぁ。どのような?」
ベーゼンは手元の茶器から器にお茶を注ぎ、それをアルトゥールに差し出してくれた。
微かに花の香りが薫る。
そこから立ち上る湯気を眺めながら、アルトゥールは答えた。
「お母様の夢ですわ」
優しかった母。大好きな母。
けれどその記憶は、残念ながら朧気だ。
どんなに必死に握り締めているつもりでも、思い出はいつの間にかポロポロとこぼれ落ちていく。
母から呼ばれていた愛称すら、もう遠い記憶だ。
アルトゥールはお茶が注がれた器を両手で包むように持つ。
知らず知らず冷えていた指先が、じわりと温まった。
「姫君様のお母様はどのような方だったのですか?」
テーブルを挟んで向かい側に、ベーゼンが腰を下ろした。
お茶を一口飲んで、アルトゥールは答える。
「優しい人でしたわ。いつも笑顔で……でも可哀想な人でしたわ」
「可哀想?」
「王妃ではあったけれど、宮廷ではいないかのように扱われていて……」
諸外国からの使者との謁見にも臨席することもなく、晩餐会も舞踏会も、アルトゥールの母は公的な場に出席することが全くなかった。
夫である国王が『後継ぎも産めん役立たずなど顔も見たくない』とアルトゥールの母を遠ざけていたからだ。
アルトゥールを生んだ際の難産が元で、母は二度と子を授かれない体になっていた。けれどアルトゥールの国では『離婚』が認められない。後継ぎを生まず、けれど『王妃』の座に居座り続ける母は、父からすればまさに『役立たず』の厄介者だったのだろう。
もともと、アルトゥールの母はあまり高い身分の生まれではなかったのだという。
親族に多産の女性が多いことから、後継ぎを望むアルトゥールの父に乞われ、高位貴族の養女になって王妃になったのだそうだ。けれど彼女が生んだのは女だった。それが、彼女の人生の分岐点になった。
(わたくしがもし男なら……)
アルトゥールはそう考えずにはいられない。
アルトゥールがもし男として生まれていれば、母の立場は全く違っただろう。
父は後継ぎを生んだ母を大切にしただろうし、そうなれば宮廷の面々も母を王妃として敬ったはずだ。
母があんなふうに寂しく、ひっそりと、人生を終えることもなかっただろうに。
(……でも)
男として生まれていたなら、スピーゲルに出会うこともなかった。
そう思うと、母には申し訳ないが女に生まれてよかったと心から思う。
もし生まれる前に戻って人生を選べる機会が訪れたとしても、アルトゥールは今の人生を選ぶ。スピーゲルと出会い、共に歩む人生を選ぶ。
そんなふうに考えることが出来るのが嬉しい。
風が吹けば消えてしまいそうな自らの存在価値を、必死に握り締めていたアルトゥールはもういないのだ。
アルトゥールが、もう一口お茶を飲んだ、その時。
「開けて!!」
締め切った鎧戸の向こうから、ライスの切羽詰まった声が聞こえた。
アルトゥールは驚いて立ち上がる。
「ライス?どうしたんですの?」
「お姫様!!開けてくれ!!」
「大変よ!!大変なの!!」
「……開けて!」
ツヴァイク達が鎧戸をけたたましく叩いている。
ベーゼンが閂をはずし、鎧戸を押し開いた。途端に暖かい室内に冷気がはいりこみ、暖炉の火が揺れる。
「一体何です?騒々しい」
怒ったようにベーゼンが言ったが、ツヴァイク達はそれどころではないというようにまくし立てた。
「足音が近づいてくる!」
「聖騎士団かも!」
「……逃げないと!」
アルトゥールは急いで窓に飛びついた。
庭中の林檎の木々は、葉と無駄な枝を切り落とし、どれも夏より一回り小さく見える。雪の重みで枝が下手に割れては病気になってしまうからと、スピーゲルが冬になる前に剪定して回ったからだ。枝を切りたがらない木々を、スピーゲルは一本一本優しく宥めすかせていた。
スピーゲルが、大切に大切に育ててきた林檎の木々。
その彼らが、ザワザワと不安を訴えている。
――くる。
――知らない。
――人間。
――怖い。
――くる。
――くるよ。
「……っどういうことですの?」
そこらへんの村人が迷い込んだり『客』が訪れる程度では、木々はこれほどざわつかない。それは、アルトゥールももうわかっている。
これだけ騒ぐということは、尋常ではない。
アルトゥールは唇を噛み締めた。
ツヴァイク達は雪の庭を右往左往する。
「あああ!何で毎回毎回スピーゲルがいない時に限って!」
「と、とととにかく逃げなきゃ」
「……でも雪で道が」
雪の庭を狼狽えながら右往左往するツヴァイク達に、アルトゥールは冷静に、そしてきっぱりと言った。
「わたくし、逃げませんわ」
「えええ!?」
ツヴァイク達が口々に異論を唱えた。
「な、何でだよ!?」
「逃げた方がいいわ!」
「……それか隠れるとか」
「ツヴァイク達の言う通りです。どうかお逃げください、姫君様」
そう言ったベーゼンを、アルトゥールは振り返る。
「多分だけれど……スピーゲルがいない時に限って、ではありませんわ」
ベーゼンが顔をしかめる。
「それはどういうことです?」
「前回はともかく、今回の侵入者はスピーゲルがいないことをわかっていてやって来たんだと思いますわ」
イザベラを失脚させるための計画が動き始めてすぐのこの事態が、何の関係もないとは思えなかった。
スピーゲルが出かけていったのは朝方だ。
彼に何かあったのかもしれない。
(スピーゲル……っ!)
まだ何者にも踏みいられていない雪の庭を、アルトゥールは睨む。
「姫君様…!」
「お姫様……っ」
不安げなベーゼンやツヴァイク達を安心させるために、アルトゥールは笑った。
けれど、実を言えばアルトゥールも不安で泣き出しそうだった。
(でも、スピーゲルならこんな時にこそ笑いますわ)
だから、笑う。無理にでも。
「わたくしの外套をとってくださる?ベーゼン」
「どう……どうなさるつもりなのです?」
泣きそうな顔のベーゼンの手を、アルトゥールは握った。
「ベーゼンは箒に戻って、しばらくどこかに隠れていてですわ」
「姫君様」
「ツヴァイク達も、動いちゃダメですわよ?喋るのも禁止。普通の木は動いたり喋ったりしないものですもの」
「でも……」
何か言いたげな面々を笑顔で見渡し、アルトゥールは自らの胸を叩いた。
「大丈夫ですわ。スピーゲルと一緒に帰って来ますわね!」
***
森の奥のそのまた奥の奥に魔族の家があるのだそうだ。
そこに『笑わず姫』が囚われているから、助け出してくるように――――そう彼は王妃イザベラに命じられていた。
(ここが……魔族の家?)
煉瓦を積んだ煙突。丁寧に漆喰が塗られた壁に、茅葺き屋根。
随分古いようだったが、修繕を繰り返しながら大事に住んでいることが見てわかる。
懐かしい気分にさせる、温もりがある家だ。
魔族の家というから、雲の巣がはびこり、蝙蝠が飛び交うような、そんなおどろおどろしい家を想像していたのに。
(故郷で住んでた家みたいだな……)
その家は、もうないのだが。
彼は傭兵だった。
両親が病で死んで、故郷から王都に出てきたのはまだ十代の頃だ。
商隊の護衛や貴人の家の警備をして食いつないできたが、少し前に傭兵仲間に誘われて、王妃イザベラに雇われ始めた。
割のいい仕事だと思った。
特にやることもなく、王城の一角に設けられた詰所で酒を飲んで過ごす毎日。それで日当が銀貨一袋。
時折、イザベラの命令で小間使いのような仕事をする。例えば『シャンタル』という名前の子供を探して連れてきたり、そんな程度の簡単な仕事だ。
けれどもう少し金を貯めたら、彼はこの仕事を辞めようと思っていた。
妖精のように可憐な王妃イザベラ。
その美しさに心酔する仲間もいるが、彼はイザベラの微笑みに得体の知れない不気味さを感じていたのだ。
「……本当にここが魔族の家なのか?」
「お妃様がそう言うんだからそうなんだろうぜ」
仲間の一人が井戸端にあった桶を蹴り飛ばす。 桶は雪が積もる庭に転がり、雪の上にその痕が残った。
「魔族はいないはずだ。今のうちに『笑わず姫』を探せ。雪がまた降り出す前にさっさと帰るぞ」
年嵩の傭兵の指示に、他の傭兵達はしぶしぶながら動き始める。
「『笑わず姫』は魔族に殺されたんじゃなかったのかよ?」
「だいたい俺ら『笑わず姫』の顔知らねえじゃねえかよ」
「あ!おい。見ろよ!ここ食糧庫みたいだぞ」
納屋を覗いだ仲間の一人が声をあげたその時。
家の扉が開いた。
傭兵達は一斉にそちらを向く。
はためく濃紅の外套。
フードから零れる壇の木のような黒髪は、艷やかに波打っている。
雪のように白い肌。林檎のように赤い唇。
太陽の下の泉のように輝く青い目。
現れたその美女に、傭兵達はポカンと口をあけたまま停止した。
(……『笑わず姫』だ)
実物は見たことがない。だが、目の前のその美女がそうであろうことを、その場にいた傭兵の誰もが確信した。
国王の唯一の実子にして、絶世の美女。
その美しさを鼻にかけて笑うことすらしない高飛車で傲慢な姫なのだと、噂には聞いていた。その傲慢さを国王に疎まれ塔に閉じ込められているとも。
目の前の彼女は、ニコリともしない。
魔族に囚われている姫君を救出にきた勇者達を出迎えたのだから、嬉し泣くとまではいかなくとも、せめてもう少し愛想よくしてもいいだろうに。
彼女はまるで盗賊を見るような目で、居並ぶ傭兵を見渡す。そして、口を開いた。
「納屋の扉を閉めなさいですわ」
「え?あ、はい!!」
納屋を覗いていた者が、慌ててその扉を閉める。
『笑わず姫』は、井戸端にいた傭兵も一瞥した。
「桶を拾って、元どおりの場所に戻しなさいですわ」
「は、はい!!」
オタオタと、その傭兵も桶を拾いに走り、戻ってきた。
それを見届けると、『笑わず姫』は雪の中にしずしずと進み出た。
(あ、あれ……?)
彼は訝しんだ。
(囚われているんじゃなかったのか?)
歩むその足にも手にも、拘束具も、その痕もない。よくよく考えてみれば、囚われの姫君がこんなに自由に外に出てこれるものなのだろうか。
『笑わず姫』はピタリと止まる。
「わたくしを連れて行くなら連れていきなさい」
傭兵達を睨みつけるようにして、『笑わず姫』は言った。
「ただし!ここはわたくしの夫の家です!指一本触れることは許しませんわ!!」
決して笑わない世にも美しい姫君――――。
その横顔は高飛車と言うよりは気高く、傲慢と呼ぶにはいじらし過ぎる。
(……噂って、あてにならないんだな……)
傭兵は、心密かにそう思った。
***
傭兵達は終始アルトゥールに対して腫物を触るような態度だった。
途中泊まった安宿でも、立ち寄った食堂でも、アルトゥールと一定の距離をあけて詰めようとしない。
アルトゥールにしてみれば好都合だ。イザベラの手下と仲良くなるつもりはない。
そして、ジギスヴァルトなら半刻程ですむ距離を馬の背に揺られて約二日。
傭兵達に連れられて、アルトゥールは随分と久しぶりに王城の門をくぐった。
馬から降り、堅牢な石造りの城を見上げて目を細める。
(ここに来ることはもうないと思っていたけれど)
生まれ育った場所なのだから少しは懐かしさを感じても良いだろうに、そういった暖かい感情は驚くほどに湧いてこない。
自分が帰るべき家は、もはや森の奥の林檎の木に囲まれた小さなあの家なのだと、アルトゥールは改めて確信した。
アルトゥールは傭兵達にかまうことなく王城の主居館に足を踏み入れると、鏡のように磨かれた大理石の廊下を大股で歩き始めた。
「あ、あの」
「笑わず姫……っいや、王女様!お、お待ちください!」
傭兵達が慌てて後ろを追いかけてきたが、知るものか。
案内も先導も必要ない。長い引きこもり期間は経ているものの、幼い頃にエメリッヒと鬼ごっこをして駆け回った王城の中は、知らない場所はなかったからだ。
誰に遠慮することもなく胸を張って進むアルトゥールの姿を見て、侍従や侍女達が目を剝いて驚く。
「わ、『笑わず姫』?」
「え?まさか……っ」
無理もない反応だ。魔族に殺されたはずの王女が、スタスタと歩いているのだから。
だが、これにもアルトゥールはかまわなかった。『ただいま』と挨拶してまわるほど彼らと親密だったことはないし、親切にされた覚えもない。
玉座の間の扉の前で、ようやくアルトゥールは立ち止まる。
扉を守る衛兵達が、アルトゥールの姿にやはり驚いた顔をした。
「『笑わず姫』!?あ、いや……お、王女殿下」
「い、生きて……?」
「ここを開けなさいですわ」
アルトゥールは衛兵の顔を見ずに言った。
衛兵達はそれぞれの顔を見合わせ、戸惑いながらも首を振る。
「で、出来ません。陛下の許可がない方はお通しできないことになっています」
「その……陛下にお伺いを立てますので少々お待ちを」
アルトゥールは顔をしかめて舌打ちした。
「まだるっこしいですわね」
「……え」
「お、王女殿下……?」
アルトゥールの凶悪な顔に、衛兵達のみならず、追いついてきた傭兵達も顔を青くした。
「もういいですわ。自分で開けますわ」
大きくて重い両開きの扉に両手をつき、アルトゥールは目を閉じた。
この部屋に入るのは初めてだ。
(さすがに……緊張しますわね)
深く息を吸い、長く吐く。
瞼を上げると、前を見据えるようにしてアルトゥールは腕に力を込めた。
重い扉が軋みながら開く。
中にいた人々が、誰が入ってきたのかと振り向き、アルトゥールを見て凍りついた。
「え……?」
「ま、まさか」
「死んだはずじゃ……」
ザワザワと、どよめきが広がっていく。
アルトゥールはもう一度深呼吸すると、そのざわめきの中へ踏み出した。