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笑わず姫とハーブ水ージビレ①ー

王城の外堀のすぐ外で、その男は殺されていた。

黒味を帯びた血と肉片がそこらじゅうに飛び散り、まるで獣に食い荒らされたような惨たらしい有り様に、誰もが顔を背け口元を手で覆った。

「死んだのは若い頃に聖騎士団で従騎士をしていた男だってよ」

辺りを調べる聖騎士団の様子を見ていた野次馬の一人が、隣にいた友人に囁いた。

「聖騎士団の紋章と名前入りの指輪が……」

男は血にまみれた場所を指差す。

「ほら、あそこに落ちていたらしい」

友人は顔をしかめる。

「やっぱり魔族にやられたのか?」

「そうだろうな。魔族狩りに従軍したことを周りに自慢してたそうだし……こんな酷い殺し方、魔族くらいしか出来ないさ」

「そうだな。確かに」

男達は互いに頷き合う。その横で、衛兵の制服を身に付けた男が真っ青になってガタガタ震えていた。

「おい?あんた大丈夫か?」

「顔色悪いぞ?」

「……お、俺見ちまったんだ」

「見ちまったって……何を?」

尋ねると、衛兵は怯えたように声を潜める。

「昨日の夜。魔族を」

「本当か?」

「魔族を見たのか?」

男は頷いた。

「み、見た。俺は見張りを交代して、詰所で一眠りしようとしたんだ。そしたら銀髪の魔族と……」

「『と』?」

「他に誰かいたのか?」

「……いた」

衛兵は震えながらも、ハッキリと言った。

「お妃様が、いた」

男達は、目を瞬かせる。

「……お妃様?」

「お妃様って、あの?」

数年前、国王は新しい妃を迎えた。美しく若いその妃を国民の多くは祝福し、長く後継ぎに恵まれない国王に王子が生まれることを期待した。

「お妃様が魔族と通じてるって言うのか?そんな馬鹿な」

「……だが、言われてみれば……騎士団の関係者が相次いで殺されるようになったのは……」

国王が新しいお妃を迎えた時期と一致する。

この奇妙な偶然を、偶然だとやり過ごしていいものなのだろうか。

「……」

「……」

「……」

男達も衛兵も黙した。黙するよりなかった。

彼らの後ろを、煤色の外套を身に付けた背の高い男が通りすぎる。

背の高い男は角を曲がり路地を抜け、人目がないことを確認してから地下水路へと足を踏み入れた。

迷路のような地下水路に平行する暗い歩道を、男は歩き慣れた様子で進み、やがて立ち止まる。

壁に立て掛けられた木材を革手袋をはめた手で押しやると、扉があらわれた。

男は扉を開ける。そこにあったのは断頭台に続くかのような階段だった。

暗闇が踞る階段を、俺は灯りもなしに登る。

登りきった先は行き止まりだ。

「…………」

男は、壁を軽く叩いた。すると―――……。

「『鏡よ鏡。この世で一番美しいのは(だぁれ)?』」

壁を隔てたそこに男がいることを知っているかのように、若い女の鈴が鳴るような声が、壁の向こうから聞こえた。

「……『それはあなたです。お妃様』」

男が低く答える。

それは合言葉だった。男と女が二人で取り決めた、壁を開ける秘密の言葉。

壁が、いや、扉が軋みながら動いた。

現れた女は、既に太陽が高く昇っているというのにまだ真っ白い夜着姿だ。

赤みがかった金髪も、結うことなく背中に流している。

女は微笑んだ。

無邪気に、けれど妖艶に。

(スピーゲル)。待ってたのよ」

女に呼ばれ、男は……スピーゲルは顔を上げる。

そして、血が滴る小さな麻袋を、女に差し出した。




*****




「スピーゲル」

「……」

「スピーゲル?」

「……」

「スピーゲル!!」

「え?」

三度目で、ようやくスピーゲルはアルトゥールを振り向いた。

「えっと……すいません。何ですか?」

誤魔化すように薄く笑うスピーゲルに、アルトゥールはため息をつく。

(昨日からずっとこうですわ……)

昨日の朝早く……と言うよりまだ夜のうちにスピーゲルは出掛けたのだが、帰ってきてからずっと彼は上の空だ。

バサリ、と風が鳴る。

アルトゥールとスピーゲルを背中に乗せて、竜によく似たその生き物は骨ばった翼を広げて滑空した。

「ジギスが何処に着地したらいいのか分からず困っているみたいですわよ?」

アルトゥールが言うと、竜に良く似た生き物―――ジギスヴァルトはアルトゥールを支持するように咆哮した。

本来は掌ほどの大きさであるジギスヴァルトだが、スピーゲルの魔法で竜のように大きくなり、アルトゥール達を乗せて飛んでくれる。

彼のおかげで、アルトゥール達は馬なら数日かかる場所へも半刻足らずで飛んで行くことが出来るのだ。

今日もアルトゥールとスピーゲルは彼の背中に乗せてもらい移動していたのだが、目的地を目と鼻の先にしてスピーゲルが自分の世界に落ちてしまった。おかげでジギスヴァルトは先程からずっと同じ場所で何度も旋回している。

「あ……す、すみません。ジギス、あそこの林の陰に……」

ジギスヴァルトに指示するスピーゲルの横顔を、アルトゥールは密かに見つめた。

月に数回、スピーゲルはフラリと出掛ける。

一体どこで何をしているのか、アルトゥールには何となく察しがついていたが、見て見ぬふりをしていた。

アルトゥールが()()をしていることをスピーゲルは知っているが、彼もまた、アルトゥールに気づかれていることに気づいていない()()をしている。

お互いに知らないふりをすることで、二人は()()()()に触れるのを避けていた。

「……」

アルトゥールは手をのばし、スピーゲルの煤色の外套を握り締める。

「……姫?」

スピーゲルが、肩越しに振り向いた。

切れ長の赤い瞳を、アルトゥールはじっと見上げる。

(……この、優しい人が……)

どんな想いで、復讐に手を染めているのだろう。

復讐に駆られるほどの恨みを、どれほどその胸に抱えているのだろう。

「……わたくしの体質を変える方法。見つかりませんの?」

尋ねると、スピーゲルは凍りついたかのように一瞬固まり、そして顔を逸らすようにして前を向いてしまった。

「……そんなに死にたいんですか?」

呟くスピーゲルの表情は見えない。

「……そういうわけではありませんわ」

アルトゥールは目を伏せた。

スピーゲルは優しい。

だから、誰かを殺めることに、きっと心を痛めている。それが火炙りにされた一族の復讐の為なのだとしても。

(わたくしを殺せば……)

スピーゲルの心は少しでも晴れるかもしれない。

心が晴れれば、復讐をすることはなくなるはずだ。

そうすれば、誰かを殺めずにすむ。優しい彼の心が痛むこともなくなる。

(それくらいしか……)

アルトゥールがスピーゲルにしてあげられることはない。

「……早く」

アルトゥールは、スピーゲルの背中に額を寄せた。

「早くわたくしを殺せばよろしいのに」

そうして、楽になって欲しい。

スピーゲルは黙ったまま振り返らなかった。


季節は真夏。真っ青な空には、真っ白な入道雲が立ち上っている。







行き交う人々を眺めて、道の端に座り込んで四半刻。

自らの膝に肘をついて、アルトゥールは早くもやる気をなくしていた。

そんなアルトゥールの隣で、スピーゲルは深いため息をこぼす。

「……姫。ちゃんと探してください」

勿論、キスの相手である。

「……探しましたわ。探したけど見つかりませんでしたわ」

「いやいや、そんなあっさり諦めないで下さいよ。ほら、見て。あの人は?」

スピーゲルが指差した男を、アルトゥールは横目に確認する。

「……何か違いますわ」

「……その『何か』って何なんですか?」

そうは言われても、『何か』は『何か』だ。言葉にできるものならさっさとしている。

ぷく、とアルトゥールは頬を膨らませた。

「……林檎飴が食べたいですわ」

「……今日は誤魔化されませんよ」

「りーんーごーあーめー!」

アルトゥールは喚いたが、スピーゲルは両手で耳を塞ぐ。

「だから、誤魔化されませんからね!」

「お前、魔族だろう?」

スピーゲルの背後から突然かかった声に、アルトゥールもスピーゲルも身を凍らせた。

「魔族だね?」

もう一度言われ、スピーゲルとアルトゥールはその声の主へとゆっくりと視線を巡らす。

スピーゲルの背後に立っていたのは、背が低い、杖をついた老女だった。

白い髪を頭の後ろでお団子にまとめ、皺だらけの顔はいかにも偏屈そうだ。

彼女は濃い青い目で、屈んでいるスピーゲルを見下す。

「正体をあらわしな!穢らわしい魔族め!」

「……えっと……」

スピーゲルは戸惑いながら、外套のフードを押さえて立ち上がった。 そして二歩、三歩と後ろずさる。

スピーゲルの肩で、掌大に戻ったジギスが警戒するように二股の尻尾をたてている。

アルトゥールも立ち上がった。

(どうして……)

老女はスピーゲルの正体を知っているのだろう。

老女は背が低い。つまり目線が低い。

何気なく見上げた拍子に、外套の下のスピーゲルの目を含む顔と髪を見てしまったのだろうか。

「おばあちゃん!」

一人の女が、大慌てで駆け寄ってきた。

垂れ気味な目が優しげな印象の女だ。似てはいないが『おばあちゃん』と呼んでいるあたり、この老女の孫らしい。

「また失礼なことを言って……!」

女は老女を後ろに下がらせると、アルトゥールとスピーゲルに頭を下げる。

「祖母が失礼を言ってすみません……っ」

「死んだ爺さんが言ってたんだよ!魔族は目と髪を隠すために、夏でも外套を着込んでるって!」

老女は元気に声を張り上げる。

つまり、彼女はスピーゲルが魔族だと気付いて声を上げたわけではないらしい。

(びっくりしましたわ……)

アルトゥールはホッと安堵したが、事態は収拾するどころか、とんでもない方向へと転がった。

「違うなら外套を脱いで見せな!」

老女は孫娘とは正反対の吊り目がちな目でスピーゲルを睨み付ける。

「魔族じゃないなら脱げるはずだよ!髪と目を見せてごらん!」

「おばあちゃん!何てことを……」

孫娘は必死に祖母を黙らせようとしたが、老女の甲高い声は周囲の注目を引いていた。見ぬふりをしながら、多くの人間がアルトゥールとスピーゲル、そして老女のやりとりを注視している。

俯きがちに、スピーゲルが苦く笑った。

「……弱りましたね」

このまま外套を脱がずにいれば、疑いを招くかもしれない。かといって下手に逃げては、追ってくださいと言っているようなものだ。

(こんな街中で……)

人が多い昼間の街中で魔族だとばれたら、逃げきるのは難しい。この間は夜だったから逃げおおせたのだ。

「……スピーゲル……」

不安から、アルトゥールは無意識にスピーゲルの上衣の袖を握り締めた。すると、スピーゲルの手が、アルトゥールを自らの背中の陰に隠そうと動く。

この事態に、スピーゲルはまだ他人(アルトゥール)の心配をしている。

(わたくしが……)

アルトゥールは唇を噛み締めた。

(わたくしがスピーゲルを守らなくては!)

彼に守られている場合ではない。今彼を守れるのはアルトゥールだけなのだ。

アルトゥールはスピーゲルを押し退けるようにして前へ出た。

「姫!?」

「スピーゲルは魔族ではありませんわ!」

雛を外敵から庇う親鳥のように、アルトゥールは両腕を広げ、老女に立ちはだかる。

「変な言いがかりはよしていただけませんこと!?」

「言いがかりなもんか!正体をあらわしな!穢らわしい魔族め!」

その言い方が、アルトゥールは大嫌いだ。

『穢らわしい魔族』。

自分がどれだけ綺麗だと思い上がっているのだ。

「スピーゲルは……っ!」

アルトゥールは怒りに任せて怒鳴った。

「スピーゲルはちゃんと毎日水浴びしてますわ!!」

「……いや、姫。今の『穢らわしい』はそういう意味じゃなくて……」

背後から入ったスピーゲルの突っ込みを、アルトゥールは受け付けない。

「服だって同じように見えても毎日ちゃんと着替えて洗ってますわ!」

「そんなこと言ってるんじゃないよ!頭の弱い娘だね!」

老女も負けずに声を張り上げる。

「だいたい、何だい!?その口のきき方は!老人を敬えと親に教わらなかったのかい!?」

「敬って欲しければそれなりのふるまいというものがあるのではなくて!?」

「き――!何て娘だい!」

老女が顔を真っ赤にして叫んだ。

ギャーギャー言い合うその姿は、まさに子供の喧嘩である。

こちらを注視していた人々が、呆れながらも笑って徐々に散って行く。

それを横目にしたスピーゲルは、安堵したように息をついた。

「姫、もういいですよ」

「スピーゲルなんて苦いピーマンも食べられますわよ!」

「じゃあセロリは食べれるのかい!?死んだ爺さんは食べれたよ!」

当初の論題はどこへやら。謎の張り合いを続けるアルトゥールと老女の口喧嘩は勢いを増し、もはや違う意味で収拾不可能だ。

「テレーゼ」

その声に反応したのは、老女の孫娘だった。

孫娘は振り返る前に声の主が誰かを分かっていたらしい。頬が桃色に染まっている。

「アントン様!」

嬉しそうにテレーゼが駆け寄ったその男は、太鼓のような立派なお腹を揺らしてニッコリ笑った。

横長な体は柔らかそうで、つぶらな瞳は目尻に向かって垂れている。髪は少しばかり寂しい様子だが、とにかく人の良さは疑いようがないほどに優しげな顔をしていた。

「どうかしたのかい?」

「それがおばあちゃんが……」

親しげな二人の様子に、アルトゥールは横にいた老女に尋ねた。

「息子さんですの?」

つまり、アルトゥールはアントンをテレーゼの父親だと思ったのだ。垂れ目なあたりが、アントンとテレーゼはよく似ている。

老女はフンッとそっぽを向いた。

「そんなわけあるかい。あの太鼓腹は二十二だよ」

「二十二!?」

「二十二!?」

アルトゥールとスピーゲルは、テレーゼと話し込むアントンを思わず凝視する。

「………スピーゲルと同じ年だなんて……」

「失礼ですが五十代にしか見えませんね……」

「そうだろう!?」

老女が拳を握り締めた。

「あんなデブでハゲで老けてて気が弱い太鼓腹!どこがいいんだか!」

どうやら、アントンはテレーゼの恋人であるようだ。

老女のあまりの言い様に、アルトゥールはアントンを擁護してやりたくなった。

腹周りのふくよかさはともかく、頭が寂しいのも老け顔なのも、アントンに責任はない。

「でも……優しそうな方ですわ」

「わかってるよ!そんなことは!」

老女が目を吊り上げて怒鳴る。

その背後に、テレーゼを伴ったアントンが歩み寄った。

「あの……申し訳ありません」

途端に老女は口を閉ざし、そっぽを向いてしまう。

アントンとテレーゼは二人でぺこりと礼儀正しく頭を下げた。その姿は、既に夫婦の様だ。

「アントンと申します。祖母がご迷惑をかけたようで、本当に申し訳ありませ……」

「まだ結婚してないのに孫面するんじゃないよ!」

老女はアントンに向かって憎まれ口を叩くと、クルリと踵を返し、スタスタと行ってしまった。杖など必要ない、しっかりした足取りで。

「おばあちゃん!」

テレーゼの声にも老女は振り返る様子もない。

テレーゼはため息をつくとアルトゥール達に向き直り、また頭を下げた。

「すみません。祖母ったら謝りもしないで……年のせいか最近頑固で……」

「やっぱり……本当は僕らの結婚に反対なんじゃないかな」

テレーゼの隣で、アントンが意気消沈という様子で肩を落とす。

「おばあ様が結婚に反対するのも無理ないよ。僕は太ってるし髪も薄いし老けてるし性格も情けないし……」

「まあ!アントン様何を言うんです!」

とんでもない、という風に、テレーゼは首を振った。

「あなたはすばらしい方です!あなたに求婚されて、私がどれだけ嬉しかったか!」

「テレーゼ!僕も君が『はい』と言ってくれて天にも昇る気分だったよ!」

アントンとテレーゼはひしと手を取り、見つめ合う。

気のせいか彼らの周囲には花が咲き乱れ、石鹸の泡のような浮遊体が飛んでいる。

完全に二人の世界だ。

「……じゃあ、僕らはこれで」

スピーゲルが立ち去ろうとするのに、アルトゥールも大人しく従った。後は蜜月な二人で好きにしてくれ。

けれどアントンは我に返り、慌ててアルトゥールとスピーゲルを呼び止める。

「お待ちください!ご迷惑をかけたお詫びをしていません!」

「いえ、おかまいなく……」

「いいえ!お詫びさせてください!そこに僕の店があります!」

アントンが手で示した先を目で追うと、そこには白い漆喰の壁に緑の柱も鮮やかな可愛らしい焼き菓子店があった。

あたりには甘い香りが漂い、女性客が列を作って入店の順番を待っている。

「食べて行って下さい。自分で言うのもなんですが、うちの店の焼き菓子は絶品ですよ」

「今の時期は杏と無花果のパイがおすすめです。甘いクリームもつけて食べると本当に舌がとろけそうになるんです。さぁ、どうぞ」

テレーゼも笑顔で勧めてきたが、スピーゲルは軽く手を上げ、首を振って固辞した。

「本当におかまいなく。気にしていませんか……ら」

背後から、ボタボタと水が滴る音がする。

雨だろうかとスピーゲルは何気なく振り返り、絶句した。

アルトゥールの鋼鉄の仮面の口から、まさに滝のように涎が滴っていたのだ。

「スピーゲル、折角のお誘いですわ。ありがたく御馳走になりましょう」

「……姫。涎」

指摘に、アルトゥールは涎を手で拭った。





アントンの店のパイは、本当に美味しかった。

テレーゼお勧めの杏と無花果のパイは言うまでもなく、黄苺のパイ、ジューンベリーのクリームパイ、そしてルバーブと胡桃のタルトは甘さ控えめで、これもまた絶品だった。

このルバーブと胡桃のタルトは、お茶だけ飲んでいるスピーゲルを見たテレーゼが、彼が甘いものが苦手なのだと思いこんで『もしよろしければ……』と、スピーゲルのために出してくれたものだ。

小食で必要最低限の食事しかしないスピーゲルだが、さすがの彼もテレーゼの好意を無下には出来なかったらしい。外套の下に隠れているジギスにヴァルトにこっそり分け与えながらも、スピーゲルもタルトを味わっていた。

珍しい、とアルトゥールが横からスピーゲルを見ていると、それに気づいたアントンが『召し上がられますか?』と、アルトゥールにも同じタルトを出してくれた。

そして口に運んだタルトの美味しかったこと。

甘酸っぱいルバーブと香ばしい胡桃の共同作業は、まさに革命ものだ。

周りにいた客に聞いたのだが、アントンは父親から経営が傾いた干物の店を数年前に若くして引き継いだそうだ。

顧客層を広げるため、従来の肉や魚の干物の他に、果物を干して売ってみたところ、これが女性客にうけて店は大繁盛。アントンは干し果物を飴や焼き菓子に活用するなどして、店舗を増やすまでになったという。今では本業の干物屋に加え、干し果物の専門店、焼き菓子専門店など、全部で五軒の店を持つ地元では有名な資産家らしい。

客はクスクスと笑って言った。

『本当は七軒あったのよ』

『でも人が良くて、騙されて二軒潰しちゃったらしいわ』

テレーゼはその潰れた店で働いていたそうだ。落ち込むアントンを慰めたのが、二人の馴れ初めなのだとも、客は言っていた。

『テレーゼは両親を早くに亡くしてお祖母さんに育てられたんだけど』

『気立てが良くて働き者で、あの頑固なお婆さんに育てられたとは思えないほどいい娘さんよ』

アントンとテレーゼ。まさにお似合いの二人だ。誰もが二人の結婚を祝福している。

「美味しかったですわね!」

アントンとテレーゼに別れを告げ、街を歩きながら、アルトゥールは膨らんだ自らのお腹をさする。

「あなたは少しは遠慮というものをしましょうよ」

呆れたように呟くスピーゲルを、アルトゥールは振り返った。

「アントンもテレーゼも遠慮するなと言いましたわ」

「そう言われて全力で遠慮しないのは世界広しといえどあなたくらいです。店の商品を食べ尽くす気かとヒヤヒヤし……」

「お前、魔族だろう?」

その声に、アルトゥールとスピーゲルは肩を揺らして立ち止まる。

「……」

「……」

そっと声の方を窺うと、テレーゼの祖母が外套姿の男にまた言いがかりをつけていた。

絡まれた男が立ち止まる。

「誰が何だって?」

「違うなら外套を脱いで髪を見せな!」

「何だ?ババア」

「脱ぎな!」

テレーゼの祖母は男の外套を掴む。その手を、男は乱暴に振り払った。テレーゼの祖母は石畳に尻餅をつき、顔をしかめる。

「このババア!」

男は拳の関節を鳴らしながら、テレーゼの祖母に近づく。

「……大変ですわ!」

助けなければと、思わず走り出そうとしたアルトゥールの腕を、スピーゲルが掴む。

「どうして……」

止めるのか、とアルトゥールは振り向いた。

けれどスピーゲルは、それに答えてはくれなかった。

「そう……いい名前だね『ディートリンデ』」

いつの間にか足元にいた野良猫に、彼は話しかけ、そしてその頭をなでる。

スピーゲルの唇が、小さく動いた。

周囲の誰も、その小さな声には気付かない。

「……おいき」

スピーゲルがそう声をかけると、猫は走り出した。

猫はテレーゼの祖母に迫る男めがけて跳躍し、体重を感じさせない動きで男の肩に着地する。

「う、うわ!?何だ!?」

ニャーと、猫が鳴き、男の動きが止まる。

「ニャア」

甘えるように、猫がまた鳴いた。

男は無言だ。身動き一つしない。

どうなることかと誰もが見守るなかで、男が動いた。

男は猫をやや乱暴に両手で掴み、太陽にかざすように高く持ち上げる。

「……っかっっっわいい猫たんでしゅねえ!!」

外套の下からあらわれた少し厳つい顔は、紅潮して目尻を下げ、完全に猫に恋していた。

潤んだように輝くその目は黒い。どう見てもスピーゲルの同族ではなかった。

「どうちたんですかあ?おなかしゅいたのぉ?」

スリスリと、男は猫に頬擦りする。

アルトゥールはその異様な光景から目が離せない。

「……いったいどういう魔法をつかいましたの?」

「『目があった相手を虜にする』魔法をかけたんです。……でもあの様子だと、そもそもあの男性、猫好きなんだと思いますよ」

スピーゲルが、少し楽しげに首を竦める。

男は猫の頭に口づけすると、テレーゼの祖母に見向きもせず、猫を抱いて上機嫌で去って行った。

尻餅をついたまま呆然と男を見送るテレーゼの祖母の隣に、アルトゥールは膝を抱えて屈みこむ。

「運が良かったですわね。これに懲りてもう魔族探しなんて……」

「手をかしな。気が利かない娘だね」

その尊大な言い方に、アルトゥールの頭のなかで太い血管がぶち切れた。

「人の話は最後まで聞くものですわ!」

「立ち上がる老人に手を貸すことも出来ないのかい!?」

「貸したら貸したで老人扱いするなとでも言うのではなくて!?この偏屈婆(へんくつババア)!」

「何だって!?この馬鹿娘!」

まさかの第二回戦勃発である。

顔を突き合わせていがみ合う二人に、スピーゲルが慌てて割って入った。

「ちょ、ちょっと落ち着いて!」

アルトゥールの肩を押さえ、スピーゲルは囁く。

「いいこにしてたら、林檎飴買ってあげますから」

完全に子供騙しであるが、アルトゥールはコロリと騙された。

人指し指と中指を二本立てて、スピーゲルに示す。

「二本ですわ」

「……わかりました」

ため息と共にスピーゲルは了承し、老女に向き合うと跪いた。

「失礼しました。手をどうぞ、お婆さん」

スピーゲルの騎士的な態度が、老女はまんざらでもなかったらしい。

少しばかり頬を染めて満足そうだ。

「フン。お婆さんなんてよしとくれ。私にはジビレという立派な名前があるんだよ」

「ジビレさん?」

「そうさ。死んだ爺さんには『可愛いジジ』と口説かれたもんさね」

ジビレは頬に手をあて、幸せそうに過去を夢想している。

誰もあんたのノロケなど訊いていない、と口から出かかった言葉を、アルトゥールはゴクリと飲み込んだ。林檎飴二本のためである。

「えっと……ジジさんとお呼びすれば?」

尋ねたスピーゲルに向けて、ジビレは掌をひらひらと泳がせた

「よしとくれよ。そう呼んでいいのは爺さんだけさ」

「す、すみません……」

熟女の扱いに、スピーゲルは困惑しきりである。

アルトゥールは、足元に目を落とした。

(……『可愛いジジ』……か……)

かつてアルトゥールにも、愛称があった。

死んだ母はアルトゥールと二人きりのときにだけ、アルトゥールをその名前で呼んでくれた。その名前で呼ばれると、アルトゥールは満たされた気分になれたものだ。

(……きっと……)

もう二度と、誰もあの名前では呼んでくれないだろう。あんな幸せな気分になることもない。

寂しいことだが、仕方がないことだ。

スピーゲルに支えられてようやく立ち上がったジビレは、やれやれ、と腰を叩いた。

「はあ、まったく。腰が痛くてたまらないよ。ちょっと、兄さん。家までおぶっとくれ」

ジビレの奔放な言動にアルトゥールの頭の血管がまたブチ切れる。

「ちょっと!スピーゲルはあなたの下僕ではなくてよ!?」

「姫」

スピーゲルの制止に、アルトゥールは素直に従えなかった。

「でも!だって!」

スピーゲルを顎でつかうジビレの態度がどうしても許せない。

無論、アルトゥールは自分が普段スピーゲルを散々振り回していることは山より高い棚に上げている。

スピーゲルが、無言でアルトゥールの目の前に手を突き出す。

人指し指と中指、そして薬指の三本の指が立っていた。

(……林檎飴、三本!!)

スピーゲルの言わんとするところを察し、アルトゥールの心に落雷のような衝撃が走る。

歯に悪いから林檎飴は一日一本と常々スピーゲルに徹底されているというのに、それが三本。

アルトゥールは見えない針と糸で自らの口を縫い付けた。

世界の終末が訪れようと、口は開くまい。

「どうぞ」

「はあ、やれやれ」

ジビレはスピーゲルの背に負ぶわれ、一心地という様子だ。

けれどすぐに、ギョロリとアルトゥールを睨んだ。

「お前は杖を持つんだよ。本当に気の利かない娘だね」

「……っ」

アルトゥールの口を縫い付けた糸が、早くも綻び始めた。


2021.4.28 齟齬修正

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