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鏡(スピーゲル)③

首から下げた砂時計を、スピーゲルは袋越しに握り締める。

(どうすれば……)

ここでエグモントをただ逃したとしても、意味はない。

スピーゲルが失敗したとみればイザベラはスピーゲルを簡単に切り捨て、他の者にエグモント殺害を命じるだろう。

ではイザベラには殺したと嘘をついて、エグモントは国外に逃してしまうのはどうか。

(だめだ)

エグモントを国内に入らせない魔法を使ったとしても、彼は宰相だ。国外にも知り合いはいる。何かの拍子に生存がイザベラに知れれば、やはりエグモントの命は危うい。

第一、切り刻んで心臓を持ち帰れと命じられたのだ。心臓がなければ『殺した』とスピーゲルが言ったところでイザベラは信じまい。

(心臓だけじゃない……)

切り刻んで殺したと、イザベラに信じさせるにはどうすればよいか。

ふと、ここに来るまでに通った、王城の地下水路を思い出す。

水路は、真っ赤に汚れていた。

きっとどこかの肉屋が、売れ残った血肉を水路に捨てたのだろう。食糧事情がよくないこの国では、家畜は内臓や血に至るまで、貴重な食料として売りに出される。

(……内臓や血……)

それらを手にいれるのは容易い。

それらを使えば、人が殺されたかのように見せかけることが出来るかもしれない。

(死んだように偽装すれば……)

エグモントの命を救うには、それしかない。

けれど、そんな偽りが本当に通用するだろうか。

それに、エグモント本人をどこかに隠さなければならない。家族にも知人にも二度と会えず、築いた地位も富も捨てて隠れて過ごす人生を、彼は許容出来るだろうか。

そこまでして、生きたいと思うだろうか。

それを『生』と言えるのか。

「……」

迷いながら、スピーゲルはエグモントを見下ろした。痛みに耐えながら、彼は死物狂いで床を這い、逃げようとしている。

人間の、生々しいまでの生への執着。

それを見て、スピーゲルは覚悟を決めた。

ただの独り善がりだとしても。

殺したくない。

生かしたい。

「……“眠れ”」

途端に、エグモントはその場に突っ伏す。ややあって、安らかな寝息が聞こえてきた。

彼の隣に膝をつき、スピーゲルは俯いた。司祭に懺悔する罪人のように。

「……すいません」

命だけしか、守れない。

けれど、命だけは必ず守るから。

スピーゲルは手を伸ばすと、エグモントの太い指から家紋入りの指輪を抜き取った。……それが、一人目。

二人目は、エグモントの息子ローベルトだった。

『魔族狩り』に一騎士として従軍し、騎士団長になるまでになったローベルトは、血溜まりに落ちていた家紋入りの指輪を見て父親が惨殺されたと信じ込み、それがイザベラの差し金によるものに違いないと声高に叫び、イザベラを罵った。

三人目は、自らの娘を新王妃にしようと画策していた高位貴族のヴォルフラム。

四人目はヴォルフラムの娘で、王妃になることを夢見ていたアロイジア。

霧の森にある崖下には、かつて金鉱を探していた鉱夫達が使い捨てた廃村がある。スピーゲルは、そこに彼らを魔法で次々と閉じ込めた。

エグモント達は、何度も脱走を試みた。ここにいてはいずれ魔族(スピーゲル)に殺される。だから逃げなくてはと、そう彼らが考えたとしても仕方がないことなのかもしれない。

それに村での暮らしは、人にかしずかれ、綺羅びやかな生活に慣れ切っていた彼らにとって、拷問に等しい屈辱だったらしい。

スピーゲルは、一般的に衣食住に必要とされるものはすべて十分に用意したが、彼らはそれでは満足できないようだった。

『ここから出せ!穢らわしい魔族め!』

『殺すなら殺せ!』

『もう耐えられないわ!』

彼らはスピーゲルを口々に罵った。

幾度も脱走を繰り返し、その度にスピーゲルがあらかじめかけておいた魔法に阻止され、村に連れ戻される。

ここから出ては命が危ないのだと、スピーゲルは説明しなかった。

説明しても、きっとエグモント達は信じはしないだろう。『殺す気はない』ということだけは何度も言ったのに、それすら彼らは聞こうともしなかったから。

エグモント達は、嘆き、喚いた。

けれどやがて、どんなに叫んだところで逃げ出せないことを悟り、助けが来ないことを理解し、絶望し、黙り込んだ。

火すらおこせなかった彼らが薪を割ることを覚え、煮炊きが出来るようになり、村での生活に渋々ながらも慣れ始めた頃。

イザベラは王妃になった。

婚礼の儀と戴冠を終えて、王城の露台に立った若く美しい新王妃を、民衆は歓迎した。

舞い散る花に、祝福の言葉。

妖精のように微笑むイザベラを、スピーゲルは、沸き立つ人々の中からぼんやりと見上げた。

もうすぐ終わる。後は、国王を殺すだけ。

(やっと……)

けれど、数日後。

呼び出されたスピーゲルは、イザベラから『五人目』の名を告げられた。

「ルイトポルト。『魔族狩り』を支持した王族よ」

足元が崩れるような感覚を、スピーゲルは味わった。

「……国王を、殺すんじゃないんですか?国王を殺したいんでしょう?そのために王妃になったんじゃ……」

白い夜着をなびかせて、イザベラは振り向いた。

その美しい顔には、ゾッとするほど可憐な微笑みが張り付いている。

「大切なものも、そうではないものも、すべてあの男から奪ってやりたいの」

琥珀色の目が、大きく見開かれる。

狂気を妊んだその目に見据えられ、スピーゲルは身動ぎも出来ない。

「手のうちに何一つない絶望のなかで殺してやるのよ」

そう言って、イザベラは笑った。

それは楽しそうに、声を上げて。




二年、三年と、日々は過ぎていった。

王城で起こる惨殺事件は国王により箝口令がひかれたが、人の口に戸は建てられない。人々はまともに死体が残らない残虐な事件を恐れ、『魔族の仕業に違いない』と噂しあった。

毎年冬に風邪が流行るのも、狼に羊が食べられるのも、都合が悪いことは何でも『魔族の仕業』。

いつもそれを苦々しく思っていたのに、今回に限っては間違いなく『魔族の仕業』だなんて、皮肉な話だとスピーゲルは思った。

イザベラに呼び出される頻度は増え、崖下の住人も増え続けている。

当初は『魔族狩り』を指導した権力者層や直接手を下した元聖騎士などが標的だったが、そのうちに殆ど関係ない関係者まで、イザベラは標的にし始めた。

「庭に侍女をいかせるわ。名前はエラ」

弦楽器による優雅な調べが遠く聞こえる中。

豪華な調度品が並ぶ王妃の居室で、イザベラは言った。

鏡を模した秘密の扉から室内にはいったスピーゲルは、眉を潜める。

「……侍女?」

「父親がね、聖騎士だったんですって」

イザベラの頭には、大きな宝石がついた冠が乗っていた。

国王の寵愛は深く、それを後ろ盾とした王妃としての権勢は揺らぎない。

サラリと赤みがかった金髪をなびかせ、イザベラは琥珀色の瞳を細めた。

その瞳に宿るのは、底冷えするような狂気。

「魔族狩りで、火矢を最初に射かけたことを死ぬまで自慢にしていたそうよ」

「……」

スピーゲルは、顔を伏せた。

『死ぬまで』ということは、谷に最初に火矢を放った聖騎士本人は死んでいるのだ。

魔族狩りから二十二年。

そう寿命が長くないこの時代。二十二年ともなれば世代交代は否めない。

その侍女に何の罪があるというのだ。魔族狩りが起きた際には、生まれてさえいなかったかもしれないのに。

けれどそれをイザベラに説いたところでどうにもならないことを、もうスピーゲルは分かっていた。

獣の血肉で人の死を偽装し続けた歳月の中で、投槍な気持ちにもなってもいた。どうにでもなれ、と。

「ああ、それからね。笑わず姫も片づけてしまってちょうだい」

自らの白い耳に耳飾りをつけるイザベラを、スピーゲルは鏡越しに見る。

「……笑わず姫を?」

国王の唯一の実子である傲慢で高飛車な絶世の美女。その美しさを鼻にかけ、笑うことすらしないことから、『笑わず姫』と呼ばれている。

イザベラは以前に彼女を『殺す価値もない』と評していた。それが何故、評価がひっくり返ったのか。

「大国との縁談が纏まったの。莫大な結納金がもらえると、あの男は大喜び」

赤味がかったイザベラの金髪の狭間で、重そうな耳飾りが輝いた。

今つけたばかりのそれを、イザベラは何故か片方だけむしり取り、部屋の壁に投げつける。

「……喜ばせてなるものですか」

低い呟きからは、底知れぬ憎悪が感じられた。

鏡の中の琥珀色の瞳が闇をまとうのを、スピーゲルは静かに見つめる。

いつか、この復讐という名の殺戮は遠くない未来に終わる。イザベラの悪行が露見するのが先か。それともイザベラが国王を殺すのが先か。どちらにせよ、スピーゲルに待ち受ける結末は大して変わりはしない。

イザベラと共に、闇に落ちる。

そんな形でしか、イザベラに償えないのだ。

覚悟と言うよりは、諦めだった。

世界はあまりに残酷で、無慈悲で、それに抗うなど無駄以外の何ものでもない。

生きることが、怖かった。

怯えながら歩くことに疲れていた。

だからもう、終わりにしたかったのかもしれない。

けれど、運命は動いた。

深い闇に包まれた王宮の庭。

風が夜色の雲を押し流し、顔を出した月が地上を照らし出す。

山茶花の濃い緑の葉。その枝越しに、目があった。

雪のように白い肌。林檎のように赤い唇。壇の木のように黒々とした巻き髪。

そして、晴れた日の泉のように青く美しい瞳。

絶世の美女、と称えられるに相応しい容貌。

初めての邂逅だった。

けれどスピーゲルは確信した。

ああ、これが『笑わず姫』かーー……と。





トン、と背中に重みを感じたスピーゲルは、驚いて首だけ回して振り向いた。

アルトゥールが、スピーゲルの背中にもたれ掛かっている。

「……姫?」

侍女のエラを殺すその現場を『笑わず姫』に見られたのは昨夜のこと。

その瞬間、凄まじい勢いで運命がうねった。

その余波で、何故かアルトゥールを自宅に連れ帰るはめになり、夜空を滑空するジギスヴァルトの背で、先程握手を交わした。

それから会話という会話もなく、やがて静寂が訪れた。

そこへアルトゥールがもたれかかってきたのだ。

「具合でも……」

悪いのかと聞こうとしたところでアルトゥールの体が傾ぐ。あわててスピーゲルは体を反転させて、アルトゥールの体を抱き止めた。

「……っあぶな……」

鱗に覆われた翼の下の景色を見て、スピーゲルは冷や汗を拭う。この高さから落ちれば、間違いなく命はない。

「危ないじゃないですか、落ちるところ…………」

腕の中のアルトゥールを覗きこんだスピーゲルは、驚愕に目を見張る。

すやすやと寝息も安らかに、アルトゥールがぐっすりと眠り込んでいたからだ。

(ーーーえええええええ!?)

十数枚の陶器の皿を石の床に叩きつけたような音を響かせて、スピーゲルの心の内に闇を切り裂く(いかずち)が落ちた。

(普通寝るか!?飛んでる羽蜥蜴の背で!?さっき殺されかけたのに!?殺そうとした僕にもたれかかって!?)

どう考えてもおかしいだろう。

「ちょ、ちょっと……」

軽く揺すってみるが、アルトゥールが起きる様子はない。彼女は母猫の傍で安心しきった仔猫のように熟睡している。

確かに『安心していい』と言ったけれど、だからってここまで信用するのもどうだろう。

「……ん……」

腕のなかで、アルトゥールが身じろぎする。寒いのだろうか。

冷たい夜風があたらないよう、スピーゲルは彼女の体を抱えなおした。

ーー『高飛車で傲慢な笑わず姫』。

人形のように笑いもしなければ泣きもしない、高飛車で傲慢なお姫様の噂を、時折立ち寄る市場や村でスピーゲルは耳にしたことがある。

(確かに、人形みたいだ……)

人間とは思えないほどに完璧に整った顔立ちは、針金か何かで固定されているのではないかというほどに動かない。まるで美しい陶器の仮面でもつけているみたいだ。

「…………」

『話をするときは、相手の顔を見てするものでしょう?』

――……初めてだった。

あんなふうにまっすぐスピーゲルを見つめる人間、今は亡き師以外に、スピーゲルは知らない。

『魔族は人間の生き血をすする』。

『獲物を生きたまま喰らう』。

だから目が赤いのだと、人々はスピーゲルの一族を怖れ、蔑み、まともに目など見ようとしない。そしてスピーゲルも、いつの間にか人の目を見て話をすることをやめていた。

それなのに、彼女はまっすぐスピーゲルを見る。

垣根ごしに出会った泉のような瞳。

その瞳のなかには、恐怖も侮蔑も、月も星も夜空すらも、何も存在しなかった。

『……怖くないんですか?僕と……その……向かい合って』

『怖い?何故?』

ただただ、スピーゲル一人を映した、澄んだ眼差し。

吸い込まれるかと思った。

(――いいや)

スピーゲルは首を振る。

だからと言って彼女に気を許すのはあまりに危険だ。

アルトゥールが何を考えてスピーゲルについてきたのかはわからないが、彼女はもしかしたらスピーゲルの喉元に刃をつきつける存在かもしれないのだから。

(それにしても……)

随分な騒ぎになってしまった。

(どう誤魔化したものかな)

随分な騒ぎになってしまったので、アルトゥールのいた部屋には戻れない。

そうなると別の場所に彼女の『殺害現場』を作らなければならないだろう。

何故部屋で殺さなかったのかと、イザベラに怪しまれはしないだろうか。

怪しまれた場合、どう言い訳をするか。

(引っ掻かれるか、ぶたれるか……)

そのくらいは覚悟しておいた方がいいかもしれない。事が思い通りにならない時、イザベラはすぐに手を上げるから。

「…………」

スピーゲルは首から下げた小袋を手探りで見つけ、握り締める、

硬いその感触に、いつものスピーゲルは心を落ち着けることが出来るのだが、今日はそれがうまく出来なかった。

腕のなかに抱き締める異質な温もりのせいかもしれない。

空を見上げる。

そこには星の海が変わらず横たわっていた。








目を開けると、鎧戸の隙間から差し込む白い光が見えた。

夜はとっくに明けているのだろう。

見慣れた天井をぼんやり眺めているうちに、夢の余韻が薄れていく。

(ああ、そうか……帰ってきたんだったな)

エメリッヒの城にカミルを連れ帰った翌日、スピーゲルとアルトゥールはベーゼンが待つ家に帰ってきた。

アルトゥールが『エメリッヒの城(ここ)の皆は親切だしコルネリア様とのおしゃべりは楽しいけれど、わたくし達の家はあの家ですもの』と帰りたがったからだ。

スピーゲルは寝台の上にノロノロと起き上がり、落ちてきた髪をかきあげる。

(……夢を、見てたな……)

何の夢だったのか思い出せない。

けれど長くて長くて、ひたすら長い夢だった……ような気がする。

「……」

首を巡らせて見ると、隣に寝ていたはずのアルトゥールがいなかった。

階下から人が活動する気配がすることから察するに、アルトゥールは既に起き出したらしい。

朝は、どうにも苦手だ。頭がボーっとして、珈琲を飲まないといつまでも目がさめない。

スピーゲルは寝台から降り、ブーツを履いて立ち上がった。

少しよろめきながら扉を開けると、丁度階段の下の前にいたアルトゥールがこちらを振り仰ぐ。

「おはようですわ。スピーゲル」

その明るい笑顔に、スピーゲルは呆けた。

この世界は、こんなに美しかっただろうか。

スピーゲルにとって世界はあまりに残酷で、無慈悲で、歩くことすら億劫だったはずだ。

それなのに、目の前に広がるのは、スピーゲルが知る世界とは随分と様相が違う。

ゆっくり、スピーゲルは階段を降りた。

そうして、そこにいたアルトゥールを腕の中に閉じ込める。

クスクスと笑いながら、アルトゥールの手がスピーゲルの背に回る。

「スピーゲル?まだ寝てますの?」

「……おはよう、ございます」

噛み締めるように、スピーゲルは微笑んだ。





起き抜けに珈琲。目を覚ますにはそれが一番。

長年の信条を、けれど改めるべきかもしれないとスピーゲルは思った。

「…………」

固唾を飲んで、アルトゥールの手元を見守る。

彼女は今、コルネリア経由で手に入れた最高級の白い絹に、細い針をあてていた。

絹に針を刺し、裏からその針を表に向けてまた指す。

裁縫の基本たる波縫いをするその手元の、何と危なっかしいこと。見ているこちらも、おちおちしていられない。

もはや珈琲どころの話ではなかった。寝起きにアルトゥールの裁縫。目を覚ますにはこれが間違いなく一番だ。

ベーゼンが掃除のために開けた窓から、ツヴァイク達が中を覗く。

「おいおい。何始めたんだ?」

「綺麗な布ねー」

「……もしかして、ドレス?」

アストを振り返り、スピーゲルは頷いた。

「あたり」

例の花嫁衣裳だ。

すぐに音を上げて公子妃専属のお針子に頼むのだとばかり思っていたが、アルトゥールはまだ諦めていない。

真剣な表情で一針一針、絹を縫っていく。

「ドレスって、結婚式の衣装かよ!?」

「えええ!?雑巾も縫えないのに!?」

「……無茶。無理。無謀」

彼らの言動に苛ついたのか、アルトゥールが顔を上げる。

「うるさいですわよーーーって痛っ!!」

「アルトゥール!?」

指を押さえたアルトゥールに、スピーゲルが血相を変える。

「ささささ刺したんですか!?だだだ大丈夫ですか!?」

「このくらい大丈夫ですわ」

アルトゥールはニコニコしているが、その指は小さな刺し傷だらけだ。

スピーゲルは青くなった。いつのまにか、昨日より明らかに傷が増えてる。

「あ、諦めましょう!コルネリアさんのお針子さんにお願いしましょう!」

「嫌ですわ。自分で縫うんですの!」

プイッとスピーゲルから顔を背け、アルトゥールはまたすべらかな絹に針を刺す。……途端に、また顔を顰めた。

「痛っ!!」

「あああ!!」

スピーゲルは頭を抱える。

(ダメだ!見ていられない!)

ドレスが出来上がる前に、スピーゲルの心臓が不整脈でぽっくり逝く。

「手かしてください!!」

スピーゲルはアルトゥールの手をとった。

「魔法で治します!」

「え?でも」

小さな傷は魔法で治すより自然治癒を待った方が良い、とスピーゲルに教えてくれたのはアーベルだ。それは体本来の回復力を損なわない為だということも、スピーゲルはきちんと覚えている。ーーーーそれがどうした。

目の前でアルトゥールが怪我をしているのだ。怪我の大小など関係ない。

「返事してください!『アルトゥール』!」

「はい。ですわ」

アルトゥールは素直に返事をし、スピーゲルは呪文を唱えた。

繋いだ手から光が溢れる。その光はアルトゥールの指先に集まりーーーー。


パンッッッ!!


ーー光が、消えた。

「……え?」

スピーゲルはキョトンと瞬いた。

様子を見ていたベーゼンも、ツヴァイク達も、驚いた様子だ。

何が起こったか、すぐには誰にも分からなかった。

(失敗?いや、まさか)

手順も呪文も、間違っているはずない。

こんな簡単な魔法。詠唱すらしなくてもいいくらいだ。

アルトゥールも不思議顔だ。

「治ってませんわね」

「……そうですね」

アルトゥールの手を握ったまま、スピーゲルは考え込んだ。

何故だ。まだ名前が魂に定着していないのだろうか。

(いや、十分な時間はたったはずだ)

では、何故アルトゥールに魔法がかからないのか。

(もしかして……)

スピーゲルの頭に浮かんだ考えを、言葉にしたのはアルトゥールだった。

「わたくし、やっぱり魔法無効化体質なんじゃありませんの?」

「…………そう、なのかもしれませんね」

歯切れ悪く、スピーゲルは同意する。

(そうとしか……説明がつかない)

アルトゥールは、何故か少し残念そうだ。

「ガッカリですわー。魔法がかかるようになっなら胃もたれを心配せずに暴飲暴食が出来ると思いましたのに」

「……そんなことに魔法をあてにしないでください」

ガクリと肩を落とすスピーゲルを、ベーゼンが苦笑いで慰めた。

「まぁ、魔法がかからないところで、大して困ることはありませんから。大きな病気や怪我には気をつけましょうね」

「本当に魔法無効にしちゃうんだなー」

「初めて見たわー」

「……珍しいね」

ツヴァイク達が口々に感想を言う中、アルトゥールは再び最高級の絹を相手に針を持つ。

「さて、頑張りますわよー!」

けれどすぐに、また手が止まる。

「痛っ!」

「ア、アルトゥール!!」

その日一日、スピーゲルはアルトゥールの周りで終始ハラハラウロウロと、肝を冷やして過ごした。





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