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鏡(スピーゲル)②

どうせなら食べられるものにしようとアーベルと話し合い、スピーゲルは庭に林檎の木を植えた。

「ツヴァイク」

最初に植えた苗に、スピーゲルはそう名付けて世話をした。

「ライス」

次に植えた木の名前だ。

「アスト」

三本目の苗は、少し弱かった。植えてすぐに病気になり枯れかけて、スピーゲルはひどく気を揉んだ。

弟妹のように世話をした林檎の苗は、ゆっくり、確実に育ち――――やがて、喋り始めた。

「スピー、ゲ、ル」

「スピー」

「……ル」

スピーゲルは喜んだ。

友達も兄弟もいないスピーゲルにとって、彼らはまたとない遊び相手となってくれると思ったのだ。

そんな無邪気なスピーゲルを前に、アーベルとベーゼンはまたしても口をあんぐりさせた。

「この子は……魔力が強い」

アーベルは複雑そうな顔だった。

「さすがマティアスの息子……いや、イザベラの息子と言うべきか……」

そんな、ある日。

「スピーゲル」

アーベルに呼ばれて、スピーゲルは庭に出た。

家の前の椚の木。

その枝から垂れ下がった二本の紐と、その先に結いつけられた板。

スピーゲルは大きな目を瞬かせた。

「なぁに?」

「ブランコだよ。乗ってごらん」

その遊具に、スピーゲルはすぐ夢中になった。空を飛んでいる気分になれる。

スピーゲルの笑い声が、庭に響く。

ブランコに乗るのが、スピーゲルの日課になった。

そしてその日も、スピーゲルはブランコに乗っていた。

ベーゼンは貯蔵庫の整理をしていて、アーベルは朝から市へと出かけていた。

扉の軋む音に、スピーゲルは振り返る。

イザベラが、そこに立っていた。

「お母……」

慌てて口を押える。『お母さん』と呼んではいけない。イザベラは、スピーゲルにそう呼ばれることを酷く嫌っているから。

「イ、イザベラ。起きて大丈夫なの?」

「……」

スピーゲルは窺ったが、イザベラは応えない。

彼女が部屋の外に出てくるのは、スピーゲルの知る中では初めてのことだ。

「イザベラ……?」

「……楽しそうね」

イザベラは呟いた。

掠れたその声に、スピーゲルは胸を弾ませる。

初めて罵り以外でイザベラに話しかけられたからだ。

「うん!あのね、お師匠様がつくってくれたんだ!イザベラもブランコのる?」

「……どうして」

「え?」

「どうして笑ってられるの?」

イザベラが靴を履いていないことに、スピーゲルはその時気が付いた。そして彼女がその手に、暖炉の補修用にと部屋のすみに置いてあった煉瓦を持っていることにも。

そんな物を、何に使うつもりなのだろう。

「私が……こんなに苦しいのに!!」

スピーゲルの視界の正面で、煉瓦を持つ手が振り上げられた。

次の瞬間。落ちてきた想像を絶する衝撃と、痛み。

声を上げることもできず、スピーゲルは蹲る。

抱えた頭にぬるりとした感触をおぼえ、出血を悟った。

ツヴァイク達が叫びだす。

まだスピーゲルの名前しか知らない彼らは、ただただ叫ぶ。

その叫びを聞いて、貯蔵庫からベーゼンが飛び出してきた。

「スピーゲル様!イザベラ様!」

ベーゼンが必死にイザベラを制止したが、イザベラは止まらない。

煉瓦は何度も振り下ろされた。

肩を、背中を打ち付けられ、スピーゲルは歯を食いしばる。

「あんたのせいでマティアスは死んだのに!!あんたのせいで私はすべて失ったのに!!」

イザベラが暴れだすと、すぐにアーベルが止めに入るのが常だ。だが今日、アーベルは留守だ。

ベーゼンの力では、イザベラは止められない。

「イザベラ様おやめください!」

煉瓦の端がスピーゲルの背中に食い込み、血が流れる。

「やめて!」

ベーゼンがイザベラの体に腕を回して押さえつけようとしたが、イザベラはベーゼンの腕を振り払い、またスピーゲルに煉瓦を振り下ろす。

「イザベラ様!おやめください!!やめて!!」

「笑うな人殺し!お前が笑うなんて許さない!幸せになるなんて許さない!!」

頭がクラクラする。体に力がはいらない。

「あんたのせいでマティアスは死んだのよ!!」

遠のく意識のなかで、イザベラが泣き叫ぶ声がした。

「あんたがあの時泣いたりするから!!」

目を覚ました時、スピーゲルは寝台の上だった。

夜なのか、あたりは暗い。鎧戸の隙間から月の光が漏れ入るのを、スピーゲルはぼんやり眺めた。

「……どうして」

ひそやかなベーゼンの声が扉の向こうから聞こえる。

「スピーゲル様がお可哀想です。……スピーゲル様のせいじゃありませんのに」

「ベーゼン……」

すすり泣くベーゼンを、アーベルが慰めているようだった。

アーベルの帰宅を悟り、スピーゲルは胸を撫で下ろした。

母親(イザベラ)は慕わしいが、暴力は恐ろしい。暴力(それ)から守ってくれるアーベルは絶対的な庇護者であり、その存在はスピーゲルを安心させてくれる。

安堵から訪れる眠気に抗えず、スピーゲルは瞼をおろす。

「……魔力だけじゃないんだ」

アーベルの低い声を、スピーゲルは微睡む意識の中で聞いた。

「聖騎士団が谷を襲った夜。イザベラは生まれたばかりのスピーゲルを抱いて、山へ逃げ込んだようだ。マティアスと共に」

マティアス。スピーゲルとそっくりな、亡き父親。

スピーゲルは時折思う。きっとイザベラは夫にそっくりでいて、けれど夫ではないスピーゲルが、だから許せないのだろうと。

「だが、イザベラはスピーゲルをうんだばかりで満足に動けない。迫る聖騎士を、イザベラ達は木の影に隠れてやり過ごそうとしたようだ」

続くアーベルとベーゼンのひそやかな会話に、スピーゲルの眠気は完全に吹き飛んだ。

マティアスは聖騎士団に捕まり、火炙りにされた――……スピーゲルは、アーベルから父親の最期をそんなふうに聞いていた。山に逃げ込んだという話は初めて聞く。

「……そこでスピーゲルが目を覚まし泣き出した』

スピーゲルは、息を飲んだ。

心臓が不穏な爆音をたてる中、アーベルの声だけが闇に染み入るようにスピーゲルの鼓膜に響く。

「生まれたばかりの赤ん坊は魂に名前が定着していないから魔法がかからない。だから魔法でスピーゲルを眠らせることも出来ず……」

アーベルの声が震えた。

「マティアスは……イザベラとスピーゲルを逃がすために囮になって、聖騎士の前にわざと飛び出した」


囮になって……。


優しく、穏やかだったという父親。

その父親を、心の底から愛していたイザベラ。

「勿論、スピーゲルに罪はない。しかしイザベラは、スピーゲルに夫を殺されたと本気で思っているんだ」

穏やかなアーベルの声は、けれどスピーゲルの心を締め上げ窒息させた。

喉の奥から溢れかけた悲鳴を、口を押さえてることで必死に堪える。

「……お、母さん……お父……さん」

涙が溢れる。

「……僕が……泣いた、から」

嗚咽を、スピーゲルは懸命に飲み込んだ。


“あんたのせいよ!”

“あんたがあの時泣いたりするから!!”


イザベラの言葉は本当だった。スピーゲルが彼女から全てを奪ったのだ。スピーゲルが、マティアスを殺したのだ。

「僕が……」

魔力を、愛する人を、未来を、イザベラはスピーゲルのせいで失った。

彼女がスピーゲルを憎むのも恨むのも、当然なのだ。

「僕が……生まれたから……」





その日、イザベラは姿を消した。アーベルが追い出したのだ。

彼は帰ってくるや、血まみれのスピーゲルとスピーゲルを抱き締めて泣いて狼狽するベーゼンを見つけ、激高したそうだ。

血濡れた煉瓦を手に、呆然と座り込むイザベラを『出ていけ』と、怒鳴りつけた。

イザベラはフラリと立ち上がり、森へと歩き出したそうだ。

どこに行くとも言わず、何も持たず、彼女は消えた。

スピーゲルの手当を終え、アーベルは冷静になったものの、イザベラを探すことはしなかった。探した末に、イザベラの死体を見つけてしまうことを恐れていたのだろう。

マティアスが死んで以来、イザベラはスピーゲルを叩くよりも多く、『死にたい』とこぼしていたから。

そして翌朝。

太陽が山から顔を出しても、スピーゲルは暗闇に閉じ込められたままだった。

目が、見えなくなっていたのだ。

煉瓦で殴られたせいなのか、それとも精神的な問題だったのかは定かではない。

アーベルの治癒魔法も薬も、どうしたことかまったく効かなかった。

目が見えなくなった代わりに、スピーゲルの世界はとんでもなく煩くなった。

風の囁きが、まるで台風の暴風のように耳にとどく。

虫の音が、自分を嘲笑っているかのように聞こえる。

うるさくてうるさくて、気が狂いそうだった。

何よりスピーゲルが恐れたのは、ベーゼンが煮炊きする時に聞こえる食材の悲鳴だ。

耳を塞ぎ、目を背けても聞こえてくる。

痛い、熱い、痛い――……。

それは、聞いたことがないはずの父親の断末魔のように思えた。

やがて、スピーゲルは料理を目の前にすると吐き気をもよおし、一口も食べられなくなった。

自分のせいで、父親(マティアス)が死んだ――――。

他の命を犠牲にして成り立つほどの価値が、果たして自分の命のあるのか。

あるとは、どうしても思えなかった。

みるみる痩せ細るスピーゲルを、ベーゼンとアーベルが押さえつけるようにして口の中に粥を流し込む。

そうしなければスピーゲルが餓死してしまうと、彼らは思ったのだろう。そして彼らの考えは、おそらく正しかった。

“あんたのせいよ。あんたのせいで、マティアスが……。”

母親の恨み言と父親の断末魔の幻聴に苦しむスピーゲルの耳に、ある日小さな声が届いた。


“暗い”


“苦しい”


“助けて”


“ここから出して”



弱々しい小さな声。

見えない目で、スピーゲルは森の中を走った。

アーベルが危ないと叫びながら追いかけてくる。

けれど、スピーゲルは走り続けた。

目を庇う為に頭ごと巻いた包帯が、枝に引っかかり乱れて緩んでもかまわずに、小さな声だけを頼りに、走り続けた、

不思議なことに一度も転倒することなく、木や岩にぶつかることもなく、スピーゲルは辿り着く。

そこにいたのは、大きなお腹を抱えた一人の女性だった。

小さな声は、彼女の腹部から聞こえてくる。

とは言え、目が見えなかったスピーゲルはその女性の顔を見たわけではない。

彼女の様子と声からは、彼女が若く、妊娠していて、そして切迫した状態だということしか察することが出来なかった。

彼女はお腹の赤ん坊を助けようと、医療魔法を使うアーベルの噂を聞き、森をさ迷っていたのだろう。

スピーゲルは、追いついたアーベルに乞うた。

「お師匠様。助けてあげてください」

アーベルが、焦ったように瞠目する。

「スピーゲル!包帯が……」

「そんなことより師匠」

スピーゲルは、女性の大きなお腹を指差した

「苦しいって女の子が言っています。助けてあげて」




珍しく治療を拒むアーベルに、スピーゲルは懸命に乞うた。苦しがってい声が聞こえる。可哀想だ、と。

その説得が功を奏し、若い妊婦にある条件を出した上でアーベルは出産を手伝うことにしたようだった。

「スピーゲル様のおかげですね」

「え?」

お湯を沸かしながら、ベーゼンが言った。

「スピーゲル様がアーベル様にお願いなさったから、あの女性もお腹のお子も助かるんです。スピーゲル様のおかげで、赤ん坊は生まれてくるんですよ」

暗闇に差した、一筋の光。

母親から魔力を奪って生まれ、父親から命を奪って生き長らえた。

不幸をばら蒔くように生きてきた自分が『助けた』命。

響いた赤ん坊の産声を、スピーゲルは仰いだ。

光が満ちていく。

春の訪れのように温かい涙が、スピーゲルの目にかかっていた闇を押し流してくれた。

生きていても、いいだろうか。

小さな小さな赤ん坊。

彼女が生まれたから、生まれてくれたから。

自分も生きる価値があったと、生まれてきた甲斐があったと、自惚れてもいいだろうかーー……。



その赤ん坊は、スピーゲルにとって救いだった。

彼女の存在だけが、スピーゲルの生を肯定してくれる。

彼女の消息が途絶えた時。心配はしたが、落胆はしなかった。

その頃にはもうスピーゲルは自分がこの世界で疎まれ蔑まれる存在であることを痛いほど理解していて、本気で彼女を花嫁として迎えにいくつもりなどさらさらなかったのだ。

彼女の母親が、難産の末に授かった我が子を魔族に嫁がせたくないと思ったとしても仕方がない。

(ただ、幸せに……)

あの純粋で美しい生命が、どこかで幸せに生きていることを想像するだけで、スピーゲルの孤独は慰められた。




アーベルが病に倒れたのは、スピーゲルが十七才になった頃だ。

魔法も、薬も効かず、日に日に衰える養い親の姿に、スピーゲルは憔悴をつのらせた。

自分が『最後の一人』。

分かっていたはずの現実が、実感を伴いスピーゲルの眼の前に現れた気がした。

「寿命なのだろう」

アーベルはそう言ったが、スピーゲルは勿論、素直に頷きはしなかった。

「そんなこと言わないでください。あなたは元気になる。僕が治してみせます」

「私より強い魔力をもつお前の魔法でも駄目なのだ。『限界』なのだよ」

「……」

すべて悟ったふうなアーベルから、スピーゲルは目を反らす。

怖かった。

ただただ、アーベルを失うのか怖かった。

「お前のせいではないよ。スピーゲル」

小さな子どもにするように、アーベルはスピーゲルの頭を撫でた。軽く叩くように。

『いい子にしておいで』と出かけていくアーベルを、何度見送っただろう。

けれど、彼はもう帰ってはこないのだ。

帰って、来ない。

「……死なないで」

震える声で、スピーゲルは懇願した。

「死なないで下さい。師匠」

両手に顔を伏せ、涙を隠す。

アーベルの手が暖かくて、軽かった。それが悲しくて、寂しくて、涙が止まらない。

「お前が心配だ、スピーゲル。だから一つ。念の為に言い残しておきたい」

「やめてください。言い残すだなんて……」

「いいから、聞きなさい」

仕方なく、スピーゲルは顔をあげた。

痩せこけた頬を穏やかに緩ませ、アーベルは優しく微笑んだ。

「よく覚えておおき。もし…………」



アーベルが息を引き取ったのは、三日後だった。






アーベルの死から数ヶ月。

秋になる頃だ。

庭先にいる人影にスピーゲルは気づいた。

黒い糸で刺繍した真っ赤なドレスをきた女性。少し離れて待つお付きの従者らしき人達もいる。

(貴族?)

時々、魔法をほどこして欲しいと人が訪れることがある。きっとそんな『客』の一人なのだろう。

「何かご用で……」

戸口から出て、スピーゲルは『客』に声をかけた。

改めて見た女性の、その顔。

朧気な記憶が、一気に鮮やかに色を吹き返す。

「か、母……さん?」

一歩、歩み寄る。

「母さん?生きて……」

「そんなふうに呼ばないで」

パシリと、叩くようにイザベラは冷たく言った。

スピーゲルは息を飲む。

そうだ。()()呼んではいけないんだった。

けれど、再会の喜びは薄れなかった。

「ご、ごめん。イザベラ。生きてたんですね。てっきり……」

「死んだと思ってた?」

イザベラは、嫌味と共に微笑んだ。

優しい微笑みではなかった。

それでも、生まれて初めて母親から向けられた微笑みに、スピーゲルは歓喜する。

「す、すみません。でも、よかった。生きててくれて……っ」

「スピーゲル。私、王妃になるの」

美しく微笑みながら、イザベラは言った。

その言葉の意味を、スピーゲルはすぐに理解できない。

王妃。国王の妻。

意味を咀嚼し、ようやく理解しても、理解が感情に追いつかない。

スピーゲルは、顔を歪めた。

「何を言ってるんですか?国王は父さんを……」

「でもね、反対する人がたくさんいるの。酷いでしょう?」

イザベラはスピーゲルの言ったことなど耳に入っていないようだった。

彼女は腕を広げ、スピーゲルを抱きしめた。

細くしなやかなイザベラの腕。

スピーゲルは体を強張らせる。

何故だろう。母親に抱擁されているのに、蜘蛛に絡め取られた蝶の気分がする。

「ねえ、私を助けてくれるわよね?」

「で、でも」

「どうしても、王妃になりたいの」

まるで睦言のように、イザベラは息子の耳元で囁いた。

「王妃になって、あの男を八つ裂きにしてやりたいの」

恐ろしい憎しみと殺意。

そこに同時に滲む女の艶がおぞましくて、スピーゲルの全身に鳥肌が立つ。

スピーゲルは母親を見下ろした。

彼女はこんなに小さかっただろうか。

けれどその存在は昔と変わらず、いや、むしろ昔に増して強大だ。

「助けてくれるでしょう?『ルラシィオン』」

永遠を意味する、その名前。

イザベラに、もう魔力はない。彼女は魔法をつかえない。

それなのに、まるで魔法をかけられたかのようにスピーゲルは逆らえない。

「……わかった」

償えるなら。

許してくれるなら。

何でもする。

だから……だから――――……。





夜の王城は不気味なほどに静まり返っていた。

暗い廊下にはスピーゲルとイザベラ以外には誰もいない。衛兵も侍女も、貴人の護衛を任務とする騎士も。

この廊下の先の扉の向こうに、宰相がいるのだという。

イザベラが王妃となるために、邪魔な男。

「名前はエグモント」

宰相の名前を告げたイザベラに、スピーゲルは頷いた。

「わかった」

「最初に喉を潰して。助けを呼ばれないように」

「……わかった」

「それから足の骨を折って。逃げられたら面倒でしょう?」

「……わかった」

「そのあとに全身を切り裂いて。(はらわた)を引きちぎって。でも意識は最後まで保たせるのよ。自分の体がただの肉片になっていくのをその目にちゃんと焼き付けてやって」

「……」

楽しそうに指示を出すイザベラに、スピーゲルは『わかった』とは言えなかった。恐怖に歯の根が噛み合わない。

力をかせと言われ、頷いた。

何をさせられるのかは分からなかったが、それが償いになるのなら何でもしようと思った。

けれど、まさか人を殺すなんて。

「……なにも、殺さなくても」

怯えた声は、我ながら小さな子供のようだった。

上背もとっくに母親であるイザベラを抜き、世間では大人として扱われる年齢に達している。

けれどスピーゲルは、今にも泣いて逃げ出してしまいたかった。

「何言ってるの?」

イザベラは、無垢な少女のように清らかな表情でスピーゲルを見た。

()()()を殺した人間の一人なのよ?」

「……イザベラ?」

「殺しても殺し足りないわ」

そう言って、イザベラはスピーゲルの胸元に顔を埋めた。

イザベラが自分と誰を見間違えているのか、スピーゲルにはすぐに理解した。

幸せそうな表情でスピーゲルの背中に腕を回すイザベラに、間違いを指摘するべきか逡巡するうちに、彼女は爪先立って唇を寄せてくる。

「待……っ」

制止するより先に唇が重なる。

そしてすぐに痛みが走り、突き飛ばされた。

「……っ」

「マティアスじゃない」

イザベラが、低く唸るように呟いた。

「そんなにそっくりなのに、どうしてマティアスじゃないの?」

かつてはスピーゲルと同じように(あか)かっただろう琥珀色の瞳は、狂気に塗り潰されて虚ろに揺れている。

歯をたてられ切れた唇を、スピーゲルは手の甲で拭った。

「……イザベラ」

「……じゃあ、よろしくね」

イザベラは一つ瞬いてみせた。そうすると、狂気は驚くほどに見事に鳴りを潜める。

妖精のように可憐に微笑むと、イザベラは豪奢なレースのドレスをなびかせて踵をかえす。

「ど、どこに行くんです?」

思わずスピーゲルが呼び止めると、イザベラは肩越しに振り向いた。

「決まってるでしょう?部屋に戻るのよ」

「でも……」

てっきり、スピーゲルが宰相を殺すその場に立ち会うとばかり思っていたのに。

そんな心情が顔にでていたらしい。イザベラはドレスの襞を指先で軽く持ち上げた。

「だって、汚したくないの」

それは『ドレスを』という意味なのか。

それとも自らの手を、という意味なのか。

「ああ、心臓は持ってきてちょうだい」

まるで花をつんできてと頼むような調子でイザベラは言うと、靴音を響かせて行ってしまった。一度も振り返ることなく。

「……」

靴音が聞こえなくなった後も、スピーゲルはしばらくそこにいた。

イザベラが帰って来ないかと、期待したのだ。帰ってきて『やっぱりやめましょう』と言うのではないか、と。

けれど、幾ら待ってもイザベラは帰って来ない。

仕方なく、イザベラが行ってしまった方とは反対に、スピーゲルは歩を進めた。

足音を忍ばせ、息を殺す。

扉の前に、見張りはいない。普段からそうなのか、イザベラがそう取り計らったのかは分からなかった。

どうであれ、スピーゲルを阻んでくれるものはない。

扉の前で、スピーゲルは深呼吸した。

「……『エグモント』」

返事は、扉の向こうからすぐに帰ってきた。

「誰だ?」

扉の取っ手を押し開ける。

大きな机を前に、座っていた男が顔を上げた。

五十代半ば。黒い髪には、耳の上だけわざと染めたかのように白髪が混じっている。

国王の近習として仕え、宰相になってからは国王に次ぐ権力者として利権を貪っていた男。その地位を脅かされることを恐れて、あらゆる手でイザベラが王妃になるのを阻止しようとしているらしい。

「無礼者め。宰相たる私を呼び捨てにするか」

剣呑な目で、エグモントはスピーゲルを見やった。

『最初に喉を潰して。助けを呼ばれないように』

震えを抑え、呪文を詠唱する。

呪文はすぐに光になり、空気を伝ってエグモントに巻き付いた。

「何だ!?誰か……っぐっ!」

喉に巻き付いた光が、エグモントの声帯を押し潰す。

『それから足の骨を折って。逃げられたら面倒でしょう』

光が、エグモントの足を這う。

エグモントは必死に身を捩ったが、無駄だった。

広くはない部屋に鈍い音が響き、スピーゲルは身を縮めた。

骨が折れる音を聞くのは初めてだ。

何て気味が悪い音だろう。寒気が止まらない。

「……った……っす」

床に倒れ込んだエグモントは、痛みに喘ぎながらも必死に助けを求める。けれどその声は掠れ、誰に届くこともない。

哀れだった。

そして良心が悲鳴をあげた。

こんなことは許されない。

人を傷つけるなんて。殺すなんて。

けれどその感情を、スピーゲルは必死に無視する。

(父さんを、殺した)

直接的ではないにしろ、この男はマティアスを火炙りにした人間の一人だ。

他にも数多の同族が、この男によって火炙りにされた。

その痛みを、苦しみを思えば、イザベラが言ったとおり殺しても殺し足りない。

『そのあとに全身を切り裂いて。(はらわた)を引きちぎって。でも意識は最後まで保たせるのよ。自分の体がただの肉片になっていくのをその目にちゃんと焼き付けてやって』

唇を、スピーゲルは動かした。

「“切……り裂”……」

呪文の最後が、発音出来ない。

煤色の外套の裾から、ジギスヴァルトが顔をだす。

チロリと、赤い舌を出した彼の目を見て、スピーゲルの鼓膜に死んだ師の声が、蘇る。

『誰が悪かったわけでもない。だから恨むな。憎むな』

彼は、どうだったのだろう。

愛する一族を根絶やしにされて、懐かしい故郷を灰にされて、国王を恨みはしなかったのだろうか。復讐を、考えなかったのだろうか。

そんなはずはない。

愛していたからこそ恨んだはずだ。憎んだはずだ。考えたはずだ、復讐を。

それを実行に移す移さないは別として、アーベルの心のうちには間違いなく殺意が宿ったはずだ。

では、何故アーベルはそれを押し殺したのか。彼は一言も、スピーゲルに恨み言を漏らさなかった。

答えは決まっている。

スピーゲルのためだ。

スピーゲルの人生を、憎悪や復讐なんかで台無しにしないためだ。

だからスピーゲルは、恨む代わりに憎む代わりに、木を植えた。

ツヴァイク、ライス、アスト。

喋るどころか歩くようになった彼らと、庭を駆け回った日々が思い出された。

それを見守っていたベーゼンの優しい眼差し。

イザベラに呼び出されたスピーゲルを必死に止めてくれたのに、その手を振り切ってスピーゲルはここに来てしまった。

彼らが願っていたのは、何だったのか。

必死に守り育ててくれたのは、スピーゲルにこんなことさせるためではないはずだ。

(でき、ない)

償うと決めたのに。

(殺せない)

何でもすると、誓ったばかりなのに。



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