鏡(スピーゲル)①
吐いた息が、闇の中で白く染まる。
太陽の光が差し込まない隠し通路の空気は、冬を迎えて鋭く尖り、スピーゲルの肌を刺した。
息を潜めて階段を登り、壁を叩く。
「鏡よ鏡。世界で一番美しいのは誰?」
壁の向こうから響いた声。
無垢で純心な少女のようなそれに、スピーゲルはゾクリと背筋を震わせた。
(……昔は)
スピーゲルにとって、イザベラが世界の中心だった。
殴られ蹴られ、罵られても、イザベラが慕わしくてたまらなかった。
まるで盲目的な恋だ。
でも、今は……。
(『世界で一番美しいのは』……)
瞼の裏で、檀の木のような黒髪が揺れる。
ブランコに笑う声。
それを握り締め、スピーゲルは心にもない言葉を口にした。
「……『それはあなたです。お妃様』」
すぐに扉が開く。
燭台の淡い光が揺れる中で、イザベラが花のように可憐に微笑んだ。
「待ちくたびれたわ。スピーゲル」
ピリ、とスピーゲルの身の内で警報が鳴る。
イザベラの機嫌が悪い。
こういう時、イザベラはちょっとしたきっかけでスピーゲルに手をあげる。
叩かれたり、頬を引っかかれるくらいならまだいい。
火掻き棒で殴られた時は、さすがにしばらく痛みと痕が残ってしまった。熱っした引掻き棒ではなかったのが幸いだったが、ようやく治りかけたところをアルトゥールに痕を見られ、強引に誤魔化したのはいつだっただろう。
アルトゥールには、知られたくない。
イザベラの背丈を追い越し、腕力も体力も勝るだろう今も、母親の暴力に抗えないなんて。
「……ごめん」
「そっちのすみにいるわ」
イザベラは目で隣の部屋を示すと、テーブルの葡萄酒の杯を手にして長椅子に腰を下ろす。
イザベラに近づきすぎないように注意しながら、スピーゲルは部屋を横切った。
王妃であるイザベラは、寝室と居室、衣装部屋の他にも幾つかの部屋が夫から与えられいた。
夫や熱烈な信奉者からの贈り物が詰め込まれた部屋の、更に奥。歴代の王妃はそこにお気に入りの侍女を寝起きさせ、呼べばすぐに来れるようにしていたそうだ。
だがイザベラが王妃になってからは、そこはずっと空き部屋になっている。
扉を開くと、暗く埃っぽい部屋の中に、膝を抱えて蹲る影があった。
影は小さく身動ぎ、顔を上げる。
スピーゲルは目を見張った。
(――――子供)
木の棒のような手足に、擦りきれた衣服。
大きな目が印象的なその少年は、十才にもとどかないように見えた。
「イザベラ!」
スピーゲルは居室に駆け戻る。
「子供じゃないか!」
長椅子で寛ぎながら、イザベラはトロンとした目でスピーゲルを見た。酔っているのかもしれない。
「そうよ?」
「そうよって……」
「その子の死んだお祖父様が、昔この王城で働いてたんですって。そうよね?」
イザベラが微笑みかけた先を振り返ると、スピーゲルのすぐ後ろに奥の部屋にいた少年が立っていた。スピーゲルについてきたらしい。
「うん」
少年は、ぼんやりした様子で頷く。
「死んだじーちゃんは昔、魔族を磔にして火をつける係だったんだ」
半歩、スピーゲルは思わず後ずさってしまった。
スピーゲルの父親は火炙りにされたーーー聖騎士団に捕まり王都まで連行され、多くの大衆の前で見せしめにされるように。
「じーちゃんが死ぬ前に『困ったら王城に行け』って言ったから来たんだ。俺、父ちゃんも母ちゃんもいないから」
「……っ」
薄汚れ痩せ細った少年の姿に、スピーゲルは奥歯を噛みしめる。
この小さな少年に何の罪があるのだ。魔族狩りの頃には生まれてさえいない。両親も祖父も亡くし、他に頼る先もなく、すがるような気持ちで王城に来たのだろうに。
「朝までには持ってきてね。朝食にお出ししたいの」
「――…っ母さん!」
優雅に葡萄酒を仰ぐイザベラの細い腕を、スピーゲルは掴んだ。
「母さん……っ!もうやめよう。こんなことしても……」
硝子の杯が床に落ち、粉々に砕け散る。飛び散った葡萄酒が、まるで血痕のようだった。
イザベラは、それをゆっくり見下ろす。
「……呼ばないで」
イザベラが、スピーゲルを仰ぐ。
その見開いた目の奥で闇に似た憎悪が底光りしたように見え、スピーゲルは息を飲んだ。
イザベラの頬に、もう微笑みはない。
(しまった)
近付きすぎた。
スピーゲルは急いでイザベラから離れようとしたが、もう遅い。
「そんなふうに呼ばないで!!」
金切り声とともに、イザベラがスピーゲルの側頭部を手で打つ。
身構えるのが遅かった分、衝撃は強烈だった。
耳の奥で、硝子板を爪で引っ掻いたような不快な高音が響く。
思わずよろめいたスピーゲルの前髪を、イザベラは鷲掴んで無茶苦茶に揺すった。
「……っ」
「呼ばないで呼ばないで呼ばないで!!『母さん』なんて呼ばないで!!」
狂気的に叫びながら、イザベラはスピーゲルの頭を何度も拳でなぶる。
「イザ……ベラ……っ」
「あんたを生んでよかったと思ったことなんて一度もないんだから!!」
イザベラは叫び、スピーゲルの背中を両手で突き飛ばした。スピーゲルは膝から崩れ、床に手をつく。
「さっさと連れていって」
吐き捨てるように言うと、イザベラは寝室へと姿を消した。扉がバタンと締まり、部屋は静まり返る。
けれどスピーゲルはその場をなかなか動けない。
心が委縮して、体が凍り付いていた。
大人と呼ばれる年齢になり、上背もイザベラを追い越した。それでも、イザベラの前ではスピーゲルは無力な子供と化してしまう。
抵抗すら出来ない。
それが情けなくて、悔しかった。
「……大……丈夫……?」
囁くような声に、スピーゲルは顔を上げた。
フードが肩に落ち、銀の髪がパラパラと視界の端で揺れる。
痩せた少年は先程いた場所と寸分変わらぬ所に立っていたが、スピーゲルの髪と目を見ると怯えて後ろずさった。
「……魔……族?」
痩けた頬を恐怖にひきつらせる彼をこれ以上怖がらせたくなくて、スピーゲルは努めて優しく微笑んだ。
「怖いかい?」
スピーゲルの問いかけに、少年は肯定も否定もしなかった。
「……俺を……食べるの?」
近頃、巷では『お城のお妃様は魔族を飼っていて邪魔な人間を魔族の餌にする』という噂が流れているらしい。
この少年も、その噂を聞いたのだろう。
そう言えばエメリッヒも、イザベラとスピーゲルが連れ立って歩いていたという目撃情報があったようなことを言っていた。イザベラが王妃になって以来、この部屋以外でイザベラと会ったのは数度しかないが、その数度を誰かに見られていたのだろうか。
「俺……やせっぽっちだから」
少年は自らの体を見下ろした。
「食べてもお腹いっぱいになれないかもしれないけど……いい?」
どこか心配そうにこちらを窺う様子に、スピーゲルの胸は痛んだ。
そして、革手袋をとると、少年の頭を撫でる。
「そうだね。確かに、君は少し痩せすぎだ。もっと食べないと」
「……太らせて食べるの?」
そういうおとぎ話があったなと、スピーゲルは口の端で笑った。
「名前を教えてもらってもいいかな?」
少年は、少し躊躇するように唇を引き結んだ。『魔族に名前を呼ばれても返事をしてはいけない』ーー……恐らく死んだ祖父や両親から聞かされたであろうそれを、少年も当然知っていたのだろう。名前を言えば、それを呼ばれる。彼が躊躇するのも仕方がない。
だが、彼は小さく答えた。
「……カミル」
「そう。カミル」
彼の小さな手に、スピーゲルは手を伸ばす。
カミルの手は傷だらけだった。爪の隙間に泥がつまり、かさついた関節にはひび割れが出来ている。
労るように、スピーゲルはそれを優しく握った。
「……食べたりなんかしないよ『カミル』」
目を見てスピーゲルが呼ぶと、カミルは疑わしげに眉尻を下げる。
「……本当?」
「うん」
握った手から光がこぼれる。
カミルの目が、トロリと焦点を失った。
「痛いことは何にもないよ」
スピーゲルがそう言うと同時にカミルは意識を失い、フラリと体が傾ぐ。均衡を失ったその体を、スピーゲルは抱き締めた。
カミルを連れ、スピーゲルは隠し通路を通って地下水路に降りた。
「アヒム。エメリッヒ。いますか?」
暗闇に呼びかけると、すぐに答えが返ってきた。
「いるよ」
「ここだ」
夕刻、月が顔を見せたころ、エメリッヒの城にエルメンヒルデが飛び込んできた。
イザベラが復讐の最終段階――国王の殺害に踏み切るのは雪が降り積もってからだろうと踏んでいたスピーゲル達に、緊張が走った。
まさか、予想よりイザベラの動きが早まったか。それとも計画に気づかれたか。
そこで、イザベラの動き如何で、そのまま計画を実行に移そうと、エメリッヒとアヒムがここまで同行したわけだ。
「イザベラの様子は?」
「国王については何も言われなかったし、計画についても勘づいている様子はありませんでした」
計画を実行に移すのは、もう少し先になりそうだ。
「……単純に、この子を殺すために僕を呼んだみたいです」
歩み寄ってきたエメリッヒは、スピーゲルの腕の中のカミルを見るや声を荒げる。
「まだ子供ではないか!」
どこかで聞いたー……いや、言った覚えがある言葉だ。
小さな子供に対する無条件の愛憐。それを抱く自分こそが異常なのではないかとイザベラの前では思えたが、同じ感覚を持つ人間が自分の他にもいたことに、スピーゲルはひどく安心した。
「死んだお祖父さんが王城で働いていたそうです」
「だからって、こんな小さな子供まで殺そうとするとは、イザベラは何を考えているのだ。なんと非道な……!」
エメリッヒは苦々しく顔をしかめる。隣にいたアヒムが、一歩進み出た。
「復讐なんて考えるあたり、もう正気じゃないでしょ」
そう言うと、アヒムはスピーゲルの腕からカミルを受け取り、抱き直す。
「エラに世話を頼むよ。ヨナタンが喜ぶんじゃないかな。同じ年頃の男の子はあそこにいないから」
「うん……」
魔法で眠るカミルの顔を、スピーゲルは見つめた。
柔らかな髪を、そっと撫でる。
「……昔は、優しい人だったらしいんです……」
それが、夫と魔力を失い一族を滅ぼされ、変わってしまった。
スピーゲルが誰のことを言っているのか察したエメリッヒが、慌てて謝る。
「……ッ、す、すまん」
一瞬、エメリッヒが何を謝っているのかスピーゲルには分からなかった。
だが、どうやら彼がスピーゲルの母親であるイザベラを悪く言ったことを謝っているのだと気づき、スピーゲルも慌てて謝る。
「いえ、すいません。僕こそ……っ 」
「いいや!お前が謝る必要はない。スピーゲル。私が無神経だった」
「そうじゃありません。あなたに頭を下げさせるつもりじゃ……」
互いに謝り合うスピーゲルとエメリッヒに、アヒムが割り込んだ。
「はいはい。おしまい、おしまい。二人とも本当に呆れるほど善人だね」
アヒムは呆れ顔でため息をつく。
「旦那がイザベラを庇う必要も、公子様がイザベラに対して遠慮する必要もないと思うね。昔はともかく、今は自分の息子に自分の復讐の手伝いをさせてるわけじゃん。やるなら自分でやりゃいいのに、自分の手は汚さないあたりが俺は一番気にくわない」
「でも……」
スピーゲルが口を挟むのを、アヒムは許さなかった。
「悪いのはイザベラ!旦那は悪くないの!!」
まるで獣の咆哮のように喚くと、アヒムは鼻息も荒く、カミルを抱えて踵を返す。
「行くよー!この子が死んだ偽装工作しなきゃなんないんだから!」
その後ろ姿に、エメリッヒとスピーゲルは顔を見合わせて笑った。
「行こう。我が友よ。早く帰らなければ」
「そうですね」
スピーゲルは頷いた。
雪が降らないのが不思議なほど寒いこの夜に、きっとアルトゥールは眠らずにスピーゲルを待っている。
外套の襟元を、スピーゲルは口元まで引き寄せた。
幼いスピーゲルは、いつもそっと扉の隙間から中を窺った。
部屋の中ではベーゼンが鎧戸を開けている。
差し込む日の光が眩しくて、スピーゲルは目を細めた。
『いい天気ですよ。後で散歩にいきませんか?』
『……』
『お食事はどうしましょう?粥ならお食べになれますか?』
『……』
ベーゼンが何を話しかけても、彼女は答えない。
寝台の上に身を起こし、イザベラはぼんやりと視線を宙に漂わせる。その様はまるで魂が抜けてしまったかのようだった。
アーベルが話しかけても、ベーゼンが話しかけても、イザベラが答えないのはいつものこと。彼女が反応を示すのは、ただ一つ――――……。
ミシリ、とスピーゲルの靴の下で床が鳴った。
イザベラの暗い色の瞳がそれに反応して揺れ、そしてスピーゲルの姿を扉の影に捉える。
途端に、イザベラはカッと目を見開いた。
「あんたのせいよ!!スピーゲル!」
金切り声に、幼いスピーゲルは身を凍らせる。
イザベラは寝台から飛び降りると、裸足のままスピーゲルに掴みかかった。
「見なさい!あんたのせいで私の髪も目も、こんなにみすぼらしくなってしまったわ!あんたのせいで、私は簡単な魔法一つ使えやしない!!魔法さえ使えたら……っ!」
「イザベラ様!」
宥めようとするベーゼンを突き飛ばし、イザベラはスピーゲルの髪を掴み上げる。
「魔法さえ使えたら、マティアスを助けられたのに!」
イザベラは涙を流し、顔を歪ませる。
「ご、ごめんな、さい」
スピーゲルは、必死に謝罪を絞り出した。けれどイザベラはそんなものには耳をかさず、スピーゲルの頬を掌で打つ。
「イザベラ!やめなさい!!」
外にいたはずのアーベルが、階段を駆け登ってくる。
彼は暴れるイザベラを背後から抱えるように押さえ込んだ。
「ベーゼン!スピーゲルを連れて行くんだ!」
「は、はい!」
ベーゼンに連れられて、スピーゲルは部屋から出た。
「スピーゲル様。大丈夫ですか?」
「……大丈夫」
「すぐに頬を冷やしましょうね」
項垂れながら、スピーゲルはベーゼンと連れ立って階段を降りた。
その背中に、イザベラの怨嗟の声が届く。
「人殺し!人殺し!人殺し!あんたのせいでマティアスは死んだのよ!!」
イザベラがスピーゲルに手を上げるのは、その時が初めてではなかった。
普段はまるで亡霊のようなイザベラは、幼い息子を目にすると人が変わったかのように狂暴性を剥き出しにする。
叩かれ、蹴られ、骨を折られたこともある。それでもスピーゲルはイザベラに近づくことをやめられなかった。
『永遠』。
そう名付けてくれたのは亡き父とイザベラなのだと、アーベルから聞いていたからだ。
どんなに殴られても、罵られても、与えられたその名に込められた想いを思うと、スピーゲルはイザベラを慕わずにはいられなかった。
今日は憎まれていても、もしかしたら明日は笑ってくれるかもしれない。明日がだめでも、もしかしたらその次は……。まるで、盲目的な恋だ。
「人殺し――――っ!!」
スピーゲルの赤い目から、透明な涙が一粒零れ落ちた。
スピーゲルの一族の女性は、子供を生むと魔力を失うことがあったそうだ。
おそらく出産するために足りない体力や気力を魔力で補うためなのだろう。そうして魔力を失った女達は、髪や目の色が変わる。
イザベラも、例外ではなかった。
「あの子は人一倍魔力が強い娘だったから」
アーベルは、そう言って膝にのせたスピーゲルの頭を撫でた。
「だから、魔力を失ったことがこたえているんだろう」
彼はイザベラの叔父で、イザベラの真名の名付け親でもあった。一族が住んでいた谷を離れ、『霧の森』と呼ばれる森の奥深くにベーゼンと住んでいた彼は、聖騎士団が谷を襲ったことを知り、駆けつけ、そして生まれたばかりのスピーゲルを抱いたまま山中を彷徨うイザベラを見つけて連れ帰った。
それ以来、スピーゲルとイザベラは彼の庇護下にある。
「けれどスピーゲル。お前のせいじゃない。お前は悪くない。わかるね?」
「……うん」
叔父の赤い目から、スピーゲルは目を逸した。
アーベルもベーゼンも、いつもスピーゲルを庇ってくれる。慰めてくれる。
けれどスピーゲルは分かっていた。母親が魔力を失ったのも、そのせいで父を助けられなかったのも、自分のせいに違いないと。
そんなスピーゲルの心情を分かっているのだろう。アーベルは悲しげに顔を歪める。
「……お前は死んだお前の父親にそっくりだ」
スピーゲルは努めて笑顔をつくり、アーベルを見た。
「知ってる。だから僕を『鏡』と呼んでいるんでしょう?」
鏡に映ったようにそっくりだから、『鏡』。
「そうだ。生まれたばかりのお前は、お前の父親が赤ん坊だった頃にそっくりだった。そして、今も」
アーベルが、優しく目を細める。
「お前のなかで、あれは生きているのだな……」
スピーゲルの父マティアスは、優しい人だったのだという。
気が弱いほどに優しかったその人は、アーベルのもとで医療魔法の修行をしていた頃もあったそうだ。けれど優しさゆえに、彼はすべての患者を助けられないことを深く嘆いた。魔法の『限界』に絶望した。そして、医療魔法を学ぶことを止めてしまったらしい。
マティアスはその後、手先の器用さを活かして小物を作る職人になった。頼まれれば、大抵の物は作ったそうだ。耳飾りや、鏡。絨毯。そして砂時計。
マティアスの優しさは、無機質な物に命を吹き込んだ。
耳飾りはたとえ失くしても持ち主のところへひとりでに戻り、鏡は持ち主に未来を教えてくれた。絨毯は踏みつけられることに嫌気がさして、飛んで逃げたきり戻らなかったという。
そして砂時計は、特別な『時』を刻んだ。
かつて、父から母へ渡された揃いの砂時計。
父が身に着けていたそれをスピーゲルは受け継ぎ、いつも大切に持ち歩いている。
顔も声も、記憶にない父。
けれど砂時計の繊細な造りを見ていると、父親の優しさに触れられる気になれた。
「お師匠様……」
「何だい?」
「前に、一族の話をしてくれたでしょう?雨がたくさん降って川があふれて、それが僕達の一族のせいだって思われたんだよね?」
アーベルは悲しげに頷く。
「……そうだよ」
洪水と、洪水による飢饉。人々の悲しみ、怒り。それらがスピーゲルやアーベルの一族へと向けられた。
一族の生き残りとして知っておけと、アーベルが語ってくれた一族の末路を、スピーゲルはきちんと覚えていた。
話の最後に『誰が悪かったわけでもない。だから恨むな憎むな』とアーベルが付け加えた一言も。
恨んではいけない。
憎んではいけない。
「だから、木を植えたい」
「木?」
アーベルは、怪訝な顔だった。
いつもスピーゲルの思いを手に取るように汲み取ってくれるアーベルも、さすがにこの時のスピーゲルの考えは理解できなかったようだ。
「木を植えたら、洪水がなくなるから」
木が増えれば、木が地中の水分を吸う。結果として洪水は起きにくくなる。
ようやく5歳になる子供の考えとは思えぬ高度な発想に、アーベルも、横で話を聞いていたベーゼンも、口をあんぐりさせた。