笑わず姫と夕闇の林檎飴ー冬の夕闇ー
翌日。
城の一室に集まった面々は、イザベラを失脚させる計画についてああでもないこうでもないと話し合った。
「単純にさー。王様に魔法かけるってのはどうなの?」
磨かれた石のテーブルに頬杖をつき、アヒムが提案する。
「公子様のお供のふりすれば王城には入れるでしょ?で。『イザベラを追放しまーす。公子に王位を譲りまーす』て王様に言わせる魔法をかける。旦那できるでしょ?」
「出来ないことはありませんけど……」
言い淀むスピーゲルに代わり、アルトゥールが口を挟む。
「ダメですわ。だってお父様の名前は『エメリッヒ』ですもの。お父様に魔法をかけたら、傍にいるエメリッヒにも魔法がかかってしまいますわ」
「あ。そういう仕組みなんだ。魔法って」
アヒムが「へえ~」と感心して腕を組む。
アルトゥールは、少し得意になった。人が当然のように知っていることをアルトゥールが知らないことは多々あるが、その逆は稀である。
「スピーゲルがお父様と手を繋げば、魔法の効果をお父様に限定させることは出来ますわ。でも……」
その先を受けたのはエメリッヒだ。
「陛下に近づくのは容易ではない。周囲には護衛が多くいるからな」
難しい顔で、エメリッヒは仲間達に目を向ける。
「それに、陛下には魔法をかけたくはない。あの女の本性をその目で見て頂いて、ご自分で目をさましてほしいのだ」
「えー。公子様甘くなーい?」
アヒムは椅子の上に片膝を抱えあげると、顔をしかめる。
「おじさんも守りたい。国も守りたい。二兎を追って一兔も捕まえられなかったら、どうすんの?」
「何とでも言え。私は所詮陛下の……叔父上の実子ではない。後継ぎと目されてはいるが、立太子もされていない中途半端な立場の男だ」
不意にスピーゲルが立ち上がり、窓辺に寄る。
窓の外は晴れていたが、凍るように冷たい風が吹き、木々の枝から葉を取り上げていく。
難しい顔で庭を眺めるスピーゲルの横顔を、アルトゥールは見上げた。
(スピーゲル……?)
何を考えているのだろう。
その間にも、エメリッヒの話は続いていた。
「スピーゲルの魔法に頼ってことをすすめるは簡単だが、それをしてしまえば私が王位を継ぐ正統性が失われる。私は誰の目にも正統性を明らかにした形で王位を継ぎたいのだ。――――そしてこの国を富み栄えさせ民を幸せにしてみせる!」
輝かしい大志を掲げ、エメリッヒは胸を張る。
「はいはーい。頑張ってねー……ったく、面倒くせエな……」
「聞こえてるぞアヒム!!」
アヒムのこぼした一人言に、エメリッヒがいきりたつ。
そこに、スピーゲルが静かに言った。
「――当初の予定どおりいきましょう」
アヒムとエメリッヒが、窓辺のスピーゲルを見る。振り向いたスピーゲルは彼らを順々に見た。
「イザベラが国王暗殺を僕に命じて、僕がそれを実行に移す。その場にエメリッヒは踏み込んでください」
「それで旦那が捕まって裁判でイザベラに命令されたことをぶちまける――って、そしたら旦那も火炙りじゃん。本当に予定どおりじゃん!」
思わず立ち上がったアヒムに、スピーゲルは穏やかに笑いかけた。
「僕は裁判でイザベラのやろうとしたことを明らかにしたら、逃げ出します。いくら何でも自分が殺されかければ国王も目がさめるでしょうし、殺されかけた人の中には僕に殺害を示唆するイザベラの姿を見た人もいる。その人がそれを証言すればイザベラを裁くための証拠は十分だと思います」
「それは確かに……」
エメリッヒは頷いたが、アヒムは納得しかねる顔だ。
「……逃げたってことは、やましいことがあるんだ」
アヒムの呟きに、アルトゥールは眉を寄せて抗議した。
「やましいこと!?スピーゲルは何も悪いことはしてませんわ!」
アルトゥールの剣幕に、アヒムは降参するように両手をあげた。
「わ、わかってるよ!俺が言いたいのは、そう考える奴もいるだろうなってこと!裁判の途中で逃げ出すってことは、暗に自分の犯した罪を認めたって思われても仕方がないことなんだ」
「そんな……!」
アルトゥールは絶句する。
不本意な様子で、アヒムは頭を乱暴に掻いた。
「ただでさえ旦那の一族に対する差別感情は根強いんだ。公子様が正統性にこだわるのも、そういう『魔族』を敵扱いする奴ら連中が多数派だからだろう?旦那の魔法に頼ってイザベラを断罪して即位しても、それが露見したら足元すくわれるもんね?」
アルトゥールはエメリッヒを見た。エメリッヒは心苦しげに唇を引き結ぶ。
「否定はせん」
「それじゃあ……スピーゲルは悪く思われたままということですの?イザベラに命じられていただけなのに?皆を守ったのに?」
そんなのおかしい。納得いかない。
けれど当の本人は何でもないかのように静かに笑う。
「僕が沢山の人に死の恐怖を与えたのも彼らの人生を奪ったのも紛れもない事実です。……死んだことになったせいで大切なものを失った人もいるはずだ。それらの罪を償わずに逃げるんですから、卑怯者と思われるのは仕方がないことだと思います」
「でも……っ!」
悔しさに声が震え、こみ上げる涙を堪えるために、アルトゥールは唇を噛み締めた。
それに気づいたスピーゲルが、手を伸ばす。
「アルトゥール」
軽く叩くようにして、彼はアルトゥールの頭を撫でた。
「あなたさえいてくれれば、僕はそれでいい」
それは自分も同じだと、言うことは出来なかった。一言でも発したら、涙を堰き止める何かが決壊しそうだったからだ。
スピーゲルは毅然と顔を上げた。
「他に策はありません。例年どおりなら、あと十日もすれば雪が積もる。そうしたら実行に移しましょう」
「……すまん。スピーゲル」
「……仕方ないか」
エメリッヒとアヒムは、不承不承のながらも頷いた。
もはやアルトゥールに何か言う余地はない。
(……イザベラを追放したら……)
イザベラに殺されかけた人々は隠れる必要もなくなり、自由になる。
アルトゥールも、顔を隠す必要も名前を偽ることもなく、堂々と出歩けるようになれる。
(それなのにスピーゲルは……)
彼はこれからもその髪と目を隠して生きていくのだ。
悪い王妃に力を貸した悪い魔法使いだと、汚らわしい魔族だと、人々に蔑まれたまま。
(そんなのって……!)
首から下げた砂時計がはいった小袋を、アルトゥールは強く握り締めた。
「……あの。何か怒ってます?」
前を歩いていたスピーゲルが、おずおずと振り返る。
長い石畳の廊下には夕日が差し込んでいた。冬の夕日は赤味が強い。
昼間は良い陽気だったのだが、日が傾き始めた頃から急激に気温が落ちてきて、アルトゥールが吐いた息は白く染まった。
「怒ってませんわ」
けれど、眉間に深い皺を刻んだ不機嫌丸出しのアルトゥールの表情は『怒ってない』と言い張るにはあまりに説得力がない。
その自覚があるアルトゥールは、しぶしぶ白状した。
「……怒ってるんじゃなくて、悔しいんですの」
「悔しい?」
「わたくしは、あなたに何もしてあげられないんだなって……」
それが悔しくてたまらない。
そもそも、どうしてスピーゲルはアルトゥールを選んでくれたのだろう。
アルトゥールが『顔だけ』ということは、彼が誰より知っているはずなのに。
「あなたはわたくしさえいればいいなんて言うけれど……」
アルトゥールが傍にいたところで、スピーゲルには何の得もない。
せめて、もっと賢ければよかった。
そうでないなら、剣をもって一緒に戦えるほど強ければ良かった。
そうしたら、スピーゲルの役に立てたのに。
けれどアルトゥールは何も出来ない。
本当に、傍にいることしかできない。
「わたくしなんて……わたくしなんて傍にいたって……」
「こら」
スピーゲルの長い指に額を小突かれて、アルトゥールは目を上げる。
眉間に皺を寄せて、スピーゲルはアルトゥールを睨めつけていた。
「いくらあなたでも、僕の妻を卑下するのは許しませんよ」
「……っ」
額に、アルトゥールは手をあてた。
「だって……」
アルトゥールだって、好きで自己嫌悪に陥っているわけではない。
でも、嫌なのだ。
スピーゲルに幸せにしてもらうだけではなくて、アルトゥールだってスピーゲルを幸せにしたい。
彼のために何かがしたい。
それなのに何も出来ない自分が、恨めしくて情けない。
鼻の奥が痛い。このままでは泣いてしまう。
この上、スピーゲルを困らせたくないのに。
「……アルトゥール」
スピーゲルが、アルトゥールの手をとる。
「ちょっと行きましょうか」
「え?」
アルトゥールが目を瞬かせる間に、スピーゲルは歩き始めた。
「ど、どこに行くんですの?」
「街です」
スピーゲルの答えは、端的且つ大雑把だ。
(街に?)
いったい何をしに行くのだろう。
外套のフードに隠れて、スピーゲルの表情は見えない。
引っ張られるように歩きながら、アルトゥールは目を伏せた。
(……せめて)
昼間の明るい太陽の下でも、彼が外套のフードをかぶらずに歩けるようにはならないだろうか。
全ての人にスピーゲルを理解してもらった上で仲良くしてもらいたいなんて、そんな贅沢は言わない。
けれどせめて、彼が危険ではないことくらいは分かって欲しい。そうすれば、スピーゲルが街中を歩いても、石を投げられたりなんてことはなくなるだろうに。
途中で出くわしたエラに出かけることを言いおいて、スピーゲルとアルトゥールは城を出た。
冷たい風が吹く街は、以前訪れた際より幾分か寂しいように見える。積雪を間近に控え、他国から来ていた商人達が故郷へ引き上げて行ったのだろう。
それでも、通りは多くの人がまだ行きかっていた。
「ちょっと待ってて下さい」
そう言ってスピーゲルは道を渡ると、店じまいを始めている小さな店に入っていった。
しばらくして出てきた彼が、手に持っていたのは林檎飴だ。
「どうぞ」
渡されたそれを見つめ、アルトゥールは少し口を尖らせた。
「……わたくし、お腹がすいて機嫌が悪かったわけじゃなくてよ?」
「じゃあ要りませんか?」
「要りますわ!!」
スピーゲルの手から引ったくるようにして林檎飴を奪うと、勢いそのままにかぶりつく。
薄い飴が割れる触感がした直後、林檎の甘酸っぱい果汁が舌の上に溢れ出る。
(……美味しい)
そういえば、林檎飴を食べるのは随分と久しぶりな気がする。
「……ずっと、怖かったんです」
林檎飴を咥えたまま、アルトゥールは人通りを眺めるスピーゲルの横顔を見上げた。
「何がですの?」
「……歩くことが」
「歩くことって……」
街を歩くことだろうか。
確かに、不意に人にぶつかって髪や目を見られれば大騒ぎになる。下手をすれば騎士団や自警団に捕まり、そのまま火炙りだ。怖いのも当たり前だろう。
「でも、歩かないわけにはいきませんから、髪を見られないように外套を深くかぶって、誰とも目をあわせない様に俯いて、そうやっていつも歩いてました。ずっと……」
風が吹き、スピーゲルの外套が大きく揺れる。
「ずっと、そうやって生きていくんだと思ってた」
行商人が曳く荷車が、スピーゲルのすぐ隣を通りぬけていく。
その車輪が、にわかに道にできた轍の痕にはまる。
「うわ!?」
荷台に引っ張られるようにして、行商人が仰け反った。
そこへスピーゲルがすかさず手を出し、荷台を押し出す。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ。ありがとうよ」
轍を抜けた車輪はまた回りだし、行商人は笑顔で礼を言うとまた歩き出した。
その後ろ姿を見送りながら、スピーゲルは先程の続きを口にする。
「それなのにあなたときたら、金銭のやり取りを知らないどころか道を渡る時の安全確認すらしない。目を離せばすぐ迷子になって人買いに攫われたり、妙な男に付いて言って面倒事に巻き込まれたり」
「……」
返す言葉がない。
(本当に、どうしてわたくしは……)
思い返せば面倒事ばかりだ。
落ち込むアルトゥールを、スピーゲルが振り返る。
「だからいつのまにか、僕は怖がるような余裕なくしていました」
スピーゲルは笑っていた。
いつもの滲むような微笑みではなくて、快活な、本当に明るい笑顔。
彼がそんなふうに笑うのは初めてな気がする。
彼の微笑みはいつも穏やかで、理知的で、そしてどこか悲しげだった。
そんな彼が見せた年相応の若者の顔に、アルトゥールは思わず見とれた。
その手を、スピーゲルの長い指が包み込む。
そうして彼は、頭を下げるようにして、アルトゥールの爪に口づけた。
優しいその感触に、体中が甘く痺れて蕩けていく。
「あなたがいてくれるから、僕は、もう怖くないんです」
囁きは、甘いようでいて切実な響きだった。
アルトゥールの心臓が、僅かに軋んだ。
「スピーゲル……?」
「……せっかくですから、もう少し歩きましょうか」
顔を上げたスピーゲルは、もういつもの彼だ。
アルトゥールの手を引き、スピーゲルは雑踏を歩き始める。
「……」
そっと、アルトゥールはスピーゲルの腕に身を寄せた。
そうすると、冷たい風が気にならない。
(わたくし達って……少し似ているのかもしれませんわね)
だから、彼が何を言っているのかがわかる気がした。
多分、彼が言う『歩く』は、ただ足を交互に踏み出す動作のことではないのだろう。
歩くことが、怖かったスピーゲル。
アルトゥールは、歩き続けた先で立ち止まることが怖かった。
立ち止まったその時に、一人寂しく凍えながら朽ちていく。それを思って眠れない夜を過ごした日もあった。
でも、もう怖くない。
互いに、互いを見つけたから。
(よかった……)
アルトゥールは、胸を撫で下ろす。すると、唇が自然と笑んだ。
スピーゲルに、与えられてばかりだと思っていた。スピーゲルに、何一つ与えられないと思っていた。
けれど、そうではなかったのだ。
スピーゲルが傍にいてくれるだけでアルトゥールが安心できるように、アルトゥールが傍にいることでスピーゲルの何かを救うことが出来る。
スピーゲルにとって自分がそういう存在だと言うことが、たまらなく嬉しかった。
(でも……)
アルトゥールはスピーゲルと絡めた指に、力を込める。
(わたくし、諦めませんわ)
いつかきっと、スピーゲルから邪魔くさい外套をはぎ取ってみせる。
髪をなびかせたスピーゲルが、人込みの中を堂々と顔を上げて歩けるようにしてみせる。
何をどうすれば、そんなことが出来るのかは分からない。
けれどもし、そんな好機がいつか訪れたら……。
アルトゥールの目に、強い光が宿る。
(絶対に、逃しはしないわ)
この命を、投げ出すことになったとしても。
「……アルトゥール。手。ちょっと…痛いです」
「え?あ!?ご、ごめんなさいですわ!!」
それは、冬の夕闇のこと。