笑わず姫とチーズパンー秋麗のち……②ー
***
「一発、ぶん殴ってやりますわ」
物騒な宣言をして、アルトゥールは外へと出て行った。
閉まった扉から視線をはずしたエラは、膝に手をつき俯くザシャに近づいた。そして、そっと震える肩に手をそえる。
「ザシャ……あなた、もしかしてスピーゲル様を……」
「だって仕方ないじゃん!」
弾かれたように、ザシャは喚く。
「あんなふうに助けてもらって、好きにならずにいられるわけないじゃん!!」
殴られ、蹴られ、痛みと絶望の中で死を覚悟したザシャを、抱き上げてくれた手。
優しい彼にとって、それは大したことではなかったのかもしれない。
けれど、ザシャが恋に堕ちるには十分だった。
ーーーー生まれて初めての恋。
女物の服を着て、髪を伸ばした。
『似合うよ』とスピーゲルが、笑ってくれた。
妹を慈しむように、頭を撫でてくれた。
それだけのことで、涙がでるほど幸せになれた。
でも……。
「でも、でも分かってたよ!初めて会った時から、スピーゲルが誰を見てるかなんてわかりきってた!」
スピーゲルの目は、耳は、心は、いつだってアルトゥールを追いかけてた。
アルトゥールは綺麗だ。
顔のことじゃない。内側、心、魂……どう言えば的確なのかはわからないが、とにかくアルトゥールは例えようがないくらい綺麗だ。
『魔族くずれ』のザシャに『施しではない』と言い張って靴を与えてくれるような変な女だけれど。
(スピーゲルが好きになるのも当然だ)
お似合いだ。
ただ並んでいるだけで、二人が想いあっているのがわかる。
嫉妬することすら馬鹿らしい。
二人の邪魔をする気はなかった。
けれどーーーある日何の拍子にか、スピーゲルとアルトゥールが、恋人同士ではないと知った。
出会ってからずっと、アルトゥールとスピーゲルが恋人同士なのだとばかり思い込んでいたザシャは、唖然とした。
そして、無性に腹がたった。
当然のように、スピーゲルの隣に立つアルトゥールの無邪気さ。
何の躊躇いもなく、スピーゲルに『好き』だと告げる素直さ。
あんなに愛されて大切にされて、『片思い』だと思いこんでいる鈍感さ。
「……気づけよ……っ」
床に、ポタポタと涙が滴る。
溢れる涙を、ザシャは拭いはしなかった。
お願いだから、気づいてあげて。
彼はきっと、言えないから。
何も言えないから。
「お願い……っ」
幸せになって。
二人とも、大好きだから。
***
日が落ちて急激に気温が下がった庭で、積み上がった林檎の麻袋を、スピーゲルとアヒムは二人で数えた。
「……単純計算だと、ざっと金貨が五袋かな」
指を曲げては伸ばし曲げては伸ばしと、四苦八苦してアヒムが出した計算結果に、スピーゲルは度肝を抜かれた。
「そんなに?」
「色づきとか形とか、そういうの気にして作るともっと高値がつくよ。果物は綺麗な方が高く売れるって商会の青果担当が言ってた」
「へぇ……」
そんなものかと、スピーゲルは麻袋を見上げた。
収穫した林檎は明日にでも街道の近くまでジギスヴァルトに運んでもらい、そこからはマドカ・カウパ商会に手配してもらった荷馬車に積まれる予定だ。自分の庭で育った林檎が国中で食べられるのだと思うと不思議な気がする。
「アヒム。色々ありがとう」
商談にしても出荷にしても、あまり表立てないスピーゲルの代わりに段どってくれたのはアヒムだ。
もはやスピーゲルはアヒムに足を向けて寝られない。
骨が折れただろうに、アヒムは疲れた顔も見せずにニカリと明るく笑う。
「いやいやー旦那のお役にたてて俺は嬉しいよー。それで、旦那。ちょっと訊きたいんだけど」
「何?」
スピーゲルが促した瞬間、アヒムの頬から、いつものふざけた様子が削げおちる。
「お姫様に好きって言った?」
「……」
誤魔化すことも出来ずに黙ったスピーゲルに、アヒムは「やっぱり」と溜め息をついた。
スピーゲルはアヒムから逃げるように背を向けると、井戸に向かって歩き出す。そのすぐ後を、アヒムがおいかけてくる。
「何で言わないわけ?せっかくお姫様から『好き』って言ってきたのに」
「アヒムには関係ないでしょう?」
きっぱりと拒絶し、スピーゲルは井戸の滑車に繋がる綱を握った。だが、その綱を追いついたアヒムが掴む。
「関係ないことない。旦那は俺の恩人なの。俺は旦那に幸せになって欲しいの。だから旦那とお姫様にくっついて欲しいのに……」
「余計なお世話です」
スピーゲルはアヒムを押し退けると、綱を結んだ桶を井戸に落とした。大した間を置かずに、暗い井戸の底から桶が着水した音が響く。
井戸の縁に体を預けたアヒムは、井戸の底を見下ろすスピーゲルの顔を覗き込んできた。
「ねぇ、旦那。何で好きだって言わないの?」
「言ってどうするんです」
スピーゲルは綱を引いた。滑車がカラカラと回り、水が満ちた桶が綱に引かれて上がってくる。
「どうするって……」
「僕はイザベラと一緒に断罪されるべきだ。火炙りか、国外追放か、いずれにせよ未来はない」
綱を手繰り寄せるスピーゲルの手を、アヒムが苛立ったように掴んだ。
桶が水ごと落下し、井戸の底で派手な水飛沫があがる。
「俺はさ、確かに『下手したら旦那も火炙りだよ』とは言ったよ?でも『下手したら』じゃん。俺も公子様も、そうならないようにしたいのに……旦那本人がそうなる気満々てどうなの?」
アヒムの手を、スピーゲルは振り払った。
「僕のことはほっといてください」
「ほっとけるわけないじゃん!」
泣きそうな子供のように、アヒムは声を振り絞る。
「イザベラのことは言い訳だ!あんた、それを理由にお姫様から逃げようとしてるよね!?何で!?お姫様のこと愛してるって言ってたじゃん!」
「……だから」
スピーゲルはアヒムから逃げるように目を伏せた。
「愛してるから、アルトゥールの傍にいちゃいけないんです。僕は」
イザベラに命を狙われる心配がなくなれば、アルトゥールは顔を隠すこともなく名前を偽ることもなく、自由に、広い世界を生きていける。けれど魔族が傍にいたらすべて台無しだ。
ただスピーゲルと一緒にいただけで、彼女は『魔女』だと決めつけられ火炙りにされかけたこともあった。
スピーゲルの傍にいれば、きっとこれからも同じようなことがあるだろう。歩いているだけで、魔族だと蔑まれ石を投げられることもある。
それがどんなにつらいことか、アルトゥールはわかっていない。スピーゲルの傍にいることで、どんな苦しみを味わうことになるか、アルトゥールは気づいていないのだ。
(だから、彼女は僕を『好き』だなんて言えるんだ)
世間知らずで、純粋で、『好き』に付随してくることなど、アルトゥールは考えもしないのだろう。
「意味わかんねえ……好きなら、傍にいりゃいいじゃん。抱きしめればいいじゃん!」
アヒムが、両手でスピーゲルの胸ぐらを掴む。
「旦那がいなくなったら、お姫様探すと思うよ?あの性格だもん。何年でも探し続けるよ?いいわけ?それでお姫様幸せ?」
前後に強く体を揺すられ、スピーゲルの首から下げた小袋が振り子のように動く。
「……時期がきたら……アルトゥールの記憶から僕を消します」
スピーゲルの呟きに、アヒムは顔をしかめる。
「は?何それ……っていうか、どうやって?魔法は無効化しちゃうんでしょ?」
違ったんです」
スピーゲルは、緩く首を振った。
「アルトゥールは魔法無効化体質なんかじゃない。名前が魂に定着していないだけで……定着さえすれば普通に魔法がかかるはずなんだ」
赤ん坊なら名前が魂に定着するのに一年近くかかるが、アルトゥールほどの年になれば一月も呼び続ければ十分なはずだ。
今は『アルトゥール』で呼んでも振り向かないことがあるが、根気よく呼び続ければそのうちに彼女も慣れてくるだろう。
(記憶を消せば……)
当然、スピーゲルへの想いも消える。
スピーゲルを探したり、待ったりすることで、アルトゥールが人生を棒にふることもないだろう。
アルトゥールのために、これが最善。
「……だから呼び方変わったんだ」
アヒムが、「信じらんねえ」と両手で顔を覆って星が輝き始めた天を仰いだ。
「うわー最悪。性格悪っ。チクッてやる。絶対お姫様にチクッてやる」
「それはちょっと……」
この計画を知れば、アルトゥールはきっと烈火のごとく怒り狂うだろう。
怒った彼女は何をするかわからないし、一緒にいられる残り僅かな時くらい、笑っている顔を見ていたい。
「頼みますから、黙ってて下さい」
「嫌だ」
スピーゲルの頼みに、両手を下ろしたアヒムの顔は悪役も真っ青なほどに剣呑だった。
「俺言うよ。絶対に言う。そんでイザベラとの心中計画なんてメチャメチャにしてやる」
「……それなら」
スピーゲルはアヒムを冷たく見つめた。そうするとスピーゲルの切れ長の目は大抵相手を威圧できるのだが、アヒムはそんな威圧感など微塵も通じていないかのようだ。
「『それなら』何?」
べ、と舌を出すアヒムに、スピーゲルは冷酷に告げた。
「僕もチクりますよ。エラに」
「……え」
顔色が変わったアヒムへ、スピーゲルは容赦なく畳み掛ける。
「エトムントが話しかけてこなくなったのは、アヒムに頼まれて僕がエトムントにエラに近づけなくなる魔法をかけたからだって、エラに言……」
「ひ、ひどいよーーーッッッ!!」
アヒムは絶叫し、スピーゲルにすがりつく。
「エラにバレたら怒られちゃうじゃーーん!」
「じゃあアルトゥールに……」
「言わない!言わないからエラにも言わないで!!」
ーーー取引成立、である。
「くそー!卑怯だー!鬼ー!」
悔しげに地団駄を踏むアヒムに、スピーゲルは謝った。
「ごめん。アヒム」
本当ならアヒムにこんな脅しめいたことはしたくはない。
これまで深い人間関係を築くことが出来なかったスピーゲルにとって、アヒムは生まれて初めて『友人』と呼べる存在だ。
アルトゥールとも、アーベルやベーゼンやツヴァイクとも違う。軽口を叩いて、喧嘩をして、肩を並べられる相手。
(……まぁ、アヒムにしたら『友人』なんて迷惑かもしれないけど……)
それでも、きっと彼はスピーゲルのために口をつぐんでくれるに違いない。
「……違う」
ピタリと、アヒムが止まる。
「え?」
「『ごめん』じゃない」
「……」
不機嫌そうに腕を組むアヒムに、スピーゲルは少しぎこちなくも笑いかけた。
「……ありがとう。アヒム」
すると、アヒムは人指し指でスピーゲルをビシリと指差す。
「俺は諦めないから!絶対に旦那にギャフンと言わせるから!」
鼻息も荒く、アヒムは踵を返して歩き始める。
スピーゲルに幸せになって欲しいと言いながら『ギャフンと言わせる』とは矛盾になりはしないか。
矛盾を指摘しようとしたところ、不意にアヒムが立ち止まる。
「……ねぇ、旦那」
その声音が強張っているのを感じ、スピーゲルは首を傾げた。
「どうかした?」
「こういう場合は……俺は免責だよね?」
ゆっくり、アヒムが振り返る。
アヒムのすぐ向こう側には食糧を備蓄する納屋があり、その壁の陰にーーーー……。
サアア……と、全身の血の気がひけていく音がする。
「ア、アルトゥール……!」
暗闇の中。そこに立っていたのはアルトゥールだった。
一体いつからそこにいて、どこから話を聞いていたのか。
「……」
「……あの……きいて、ました?」
「……」
俯いたままアルトゥールは答えない。
地鳴りのように深く凄まじいアルトゥールの怒りを感じ、スピーゲルは青ざめた。
アルトゥールの影から、黒く禍々しい無数の物体が揺らめいてたちのぼるように見えるのは、目の錯覚だろうか。錯覚であれ。
アヒムが、口元を引つらせた。
「……お、俺今日……エラ達連れて久しぶりに崖下の家に泊まろうかなぁ……」
不自然な笑顔で後ずさるアヒムの腕を素早く鷲掴み、スピーゲルは冷や汗を大量に流しながらも懸命に笑った。
「い、いや、ジギスヴァルトでエメリッヒの城まで送りますよ!」
本来、そのつもりだったのだから。
本音を言えば、今アルトゥールと二人きりにされたくない。
けれどアヒムは青ざめた顔を、左右に勢いよく振った。
「いやいやいやー!おかまいなくー!旦那は命を守る行動を第一に……じゃなくてじっくりお姫様と話し合って!」
「置いてかないでください!」
「身から出た錆じゃん旦那!自分でどうにかしなよ!」
「崖下の家なんてもう埃だらけで寝られたものじゃありませんよ!?」
「いやいや、この状況から逃げ出せるなら野宿でもいいくらいだから俺!」
スピーゲルとアヒムの醜い言い争いに、それまで黙っていたアルトゥールが口を出す。
「野宿なんてダメですわアヒム。冷えてきましたもの。ザシャ達が凍死でもしたらどうしますの」
アルトゥールにしては的確な指摘が不気味だが、思わぬ援軍にスピーゲルは安堵した。
「そ、そうですよね!じゃ、じゃあこれからジギスヴァルトでエメリッヒの城まで……」
「その必要はありませんわ、スピーゲル」
アルトゥールが顔を上げる。
にぃぃぃぃィィィィッこりと、凄みがある歪な笑顔。
「ジギスヴァルトをアヒムに貸してあげてくださる?」
スピーゲルとアヒムは手をとりあい震え上がった。
「ひ……っ!」
「ひいぃっ」
壮絶な笑顔で、アルトゥールはアヒムに笑いかけた。
「アヒム。もう何度も乗っているから、スピーゲルがいなくても大丈夫ですわよね?」
唇を真っ直ぐに引き結ぶスピーゲルの隣で、コクコクとアヒムは頷いた。
その後。
四半刻足らずで、アヒムはエラやザシャ達をジギスヴァルトの背に押し上げ、エメリッヒの城に向けて出立した。