笑わず姫の錯覚ーイザベラのことー
大挙して押し寄せる牛のような勢いで、アヒムとエメリッヒはスピーゲルに迫った。
「マジで!?母親!?今日イチだよ!!今日イチ!!」
「というより年は!?お前は……いや、イザベラ妃は一体幾つなのだ!?」
「え、ええっと……」
二人の勢いに押され、スピーゲルは額から冷や汗を流す。
「僕を生んだ時イザベラは二十歳くらいで、僕が今二十二だから……」
「四十二いぃーーーーーいッッッ!?」
アヒムとエメリッヒが、再び絶叫する。
「いや、俺お妃見たことないんだけどさ、噂じゃ二十代って聞いてるけど!?」
「いいや!見ようによっては十代でもいけるくらいだ!!」
「魔族こええーー!!ある意味こええーー!!」
二人が興奮するのも無理はないと、アルトゥールは思った。
(確かに……四十二歳には見えませんでしたわ)
義理の母でもあるイザベラと、アルトゥールは数度しか顔をあわせたことがない。
けれど、イザベラの美しさを知るにはその数度で十分だ。
可憐な微笑みに、妖精のような身のこなし。歌うように話す彼女に、アルトゥールの父親のみならず、宮廷に出入りする男性の多くが夢中だった。
イザベラの正確な年齢を聞いたことはない。だが、アルトゥールはイザベラは自分と年が近いものだとばかり思っていた。
(それにしても……)
アルトゥールはスピーゲルの横顔を見上げる。
顔立ちが似ていないのはともかくとして、髪の色も目の色も、スピーゲルとイザベラはまったく違う。イザベラの髪は金髪にも見える赤茶色で目は琥珀色だ。スピーゲルの一族の出身ではないのだろうか。
アヒムが頭を抱えて呻く。
「お母さんならお母さんって言ってよー。名前で呼んでるからてっきり……あ。隠してたとか?」
「いや、そういうわけじゃ……」
曖昧に、スピーゲルは微笑んだ。
その微笑みは、何かを誤魔化しているようにも、困ったようにも見えた。
「母親と呼ぶと……怒るので」
「……え?」
室内が、また静まり返る。
(怒るって……)
戸惑う一同の様子に、スピーゲルも少し躊躇しながらも話し始めた。
「僕の一族の女性は子供を生むと……特に難産を経験すると、それを機に魔力を失う傾向があったそうです。多分、出産に足りない体力や気力を魔力で補うんだと思います。魔力を失うと、髪と目の色が変わる」
スピーゲルは、目を伏せた。
「イザベラは強い魔力を持った魔法使いだったようです。でも僕を生んで、魔力を失い……そしてその夜。当時の聖騎士団が谷を急襲しました」
空気が、凍りつく。
スピーゲルの視線が、何もない空間にさ迷う。その先に、アルトゥールは幻が見える気がした。
家を焼く炎。逃げ惑う人々。
凄惨なその光景に、胸が苦しくなる。
「イザベラと父は……生まれたばかりの僕を抱いて森へ逃げ込んだそうです。けれど」
スピーゲルは言葉を区切り、俯いた。銀色の髪に、その表情が隠れる。
「……父は、僕とイザベラを逃がすために囮になって聖騎士に捕まり……結果として王宮前の広場で見せしめとして火炙りにされました」
コルネリアが涙ぐんで口元を覆い、エメリッヒがその肩を抱き寄せる。
赤ん坊をうんだばかりのコルネリアには、他人事には思えなかったのだろう。そしてエメリッヒも、聖騎士団の団長の職は退いているものの、責任を感じずにはいられないようだった。
「イザベラが息子を受け入れることが出来ないのは、仕方がないことなんです。魔力を失ったせいでイザベラは最愛の人を助けられたかったんですから」
アルトゥールは、ふと、スピーゲルの体に残っていた古傷のことを思い出した。子供の頃目を怪我して、失明しかけた話もきいたことがある。
(あれは……もしかして)
庭でブランコが揺れる、林檎の木々に囲まれた小さな家。
アルトゥールにとってそこは平和で安全で、心から安らぐことができる場所だった。
けれど、スピーゲルにとっては必ずしもそうではなかったのかもしれない。
ベーゼンやアーベルはきっとスピーゲルを守ろうとしてくれたに違いないが、常に彼らが傍にいられるわけではなかっただろう。
アルトゥールは目を閉じ、父親から罵られ蔑まれ、高い塔に閉じ込められるように過した日々を思い出す。
あの例えようのない痛み、悲しみ、そして孤独。
心が凍りつくほどに寂しい夜を、スピーゲルも過ごしたことがあったのかもしれない。
アルトゥールはスピーゲルの腕に両腕を絡ませた。
スピーゲルはそれに照れるでもなく、振り払おうとするでもなく、顔を上げる。
そしてアルトゥールに向け、そっと笑った。
それはとても優しい笑顔で、アルトゥールは何故か泣きそうになり、奥歯を噛み締める。
(泣いちゃダメですわ)
本当はスピーゲルこそが、一番泣きたいのだから。我慢しているのだから。
アヒムも、エメリッヒもコルネリアも、固唾を飲んでスピーゲルの話に聞き入っている。
彼らにも、スピーゲルは滲むように笑いかけた。
「僕が5歳の時に、イザベラは師匠の家から出ていきました。……師匠が追い出したんです。それ以来ずっと音沙汰なしで、僕はてっきりイザベラは死んでしまったのだとばかり思っていた」
アヒムが、ようやく口を開いた。
「イザベラが帰ってきたのは?」
「師匠が病気で死んだ後です。今から二年、いや三年前かな……。イザベラは何をどうしたのか貴族の奥方になっていて……そして僕に言いました。『王妃になるために力をかせ』と」
スピーゲルが目を細めた。苦痛に耐えるその仕草に、アルトゥールの胸も痛む。
『償いたかった』と、以前スピーゲルは言った。イザベラから大切なものを奪った罪を、償える機会を得たのだと嬉しかった、と。
けれどそれは、スピーゲルの新たな苦しみの始まりだったのだ。
優しさ故にスピーゲルはイザベラの命令を拒否できず、けれどやはり優しさ故に、誰一人殺せず崖下の村に隠し匿った。
誰に頼ることも理解されることもなく、イザベラに秘密が露見することを恐れ、人々を閉じ込める罪悪感に苦しみ……。
アルトゥールは手を伸ばす。
そして、スピーゲルの頭を抱えこむようにして抱き締めた。
「スピーゲルは悪くありませんわ」
イザベラから『奪ってしまった』とスピーゲルは言うけれど、彼は何も奪ってなどいない。
ただ生まれてきただけだ。
何をしたわけでも、何ができたわけでもない。
それなのに、何故それを責められなければならないのだ。何を償わなければならないのだ。
「絶っ対に!悪くありませんわ!」
アルトゥールの頬に、耐えきれなかった涙が溢れた。
泣きたくないのに、目から涙が勝手にあふれてくる。
「……何で」
スピーゲルが、不思議そうに呟いた。
「何であなたが泣くんです?」
「だって……!」
どうして、この世界はこんなに残酷になれるのだろう。
これほど優しい人が、何故こんなに苦しまなければならないのだ。
それが悔しくて悔しくてたまらない。
スピーゲルが腕を伸ばし、アルトゥールの頭を撫でる。その優しさに、アルトゥールの涙の堰は完全に崩壊した。
「うっ、うええ、ふええええん」
子供のように泣き出したアルトゥールを、スピーゲルが腕を引いて抱き寄せられる。
髪をすくようにして、彼はアルトゥールの頭を撫でてくれた。
「泣かないでください。僕なら大丈夫ですから」
「う、っええん」
スピーゲルを慰めたかったのに、逆に慰められているのが情けない。
(わたくし、どうして何もできないのかしら)
以前ーー自分はいらない子供で、名前すらないのだと告げたアルトゥールを、スピーゲルは抱きしめてくれた。
いらなくなんてない、愛されていたはずだと、彼はアルトゥールの存在を肯定してくれた。
彼の言葉に、抱きしめてくれた腕の強さに、どれだけ救われただろう。
同じように、スピーゲルの心を楽にしてやりたい。
スピーゲルがアルトゥールにとってそうであるように、彼の支えになりたい。
それなのに実際には何も出来ず、泣くだけだ。
(スピーゲルのために、何も出来ない……)
泣き続けるアルトゥールを、スピーゲルは宥め続けてくれた。
それを見守っていたアヒムが、エメリッヒに目を向ける。
「ね。イザベラって、王妃になる前にも結婚してたの?俺初めてきいたんだけど」
この質問に、エメリッヒは苦い顔をした。
「イザベラの過去について語ることは宮廷では暗黙のうちにご法度になっているからな。民衆まで噂が回らなかっただけで、色々と噂はあった」
エメリッヒは足を組み、長椅子に座り直す。
「私が聞いた噂だと、イザベラ妃はそもそも娼館にいてそこで大商人に見初められて身請けされその大商人の正妻が急死したので正式な妻になったが大商人が急死して未亡人になったところに下級貴族から求婚されて結婚しその下級貴族もまた急死したので今度は王族筋の大貴族の後妻におさまったがこの大貴族も急死して……」
「ま、待って待って待って待って!長い!複雑!そしてやたらと急死多くない?」
アヒムが顔をひきつらせる。
「それってまさか……イザベラが?」
「証拠はない。確かなのは王妃になる前にイザベラが三人の男と結婚し、その三人がいずれも確かに死んでいるということだけだ。ちなみに、書類上における最初の結婚以前にイザベラがどこで何をしていたか、公的な記録は一切ない」
そう言うと、エメリッヒは肩を竦めるように上下させた。
「まぁ、この点は珍しいことではないな。地方の農村では字が書けないからと子供の出生届を出さん親も多い」
おそらく、イザベラは国王に近づく手段として歴代の夫達ーーイザベラは『夫』とは思っていないだろうーーを利用したのだろう。多くの財産を、より高い身分を求めて結婚を繰り返し、そして遂に王妃の座を手にいれた。
「やーでも、結婚歴がある上に身元が不確かでも王妃になれるんだねー」
アヒムが感心したように言うと、エメリッヒは「そんなわけがあるか」と、苦々しく言い捨てた。
「叔父上がイザベラを王妃にすると言い出した時、周囲は大反対した。三人目の夫が存命中から、イザベラは叔父上の寝所に侍っていたからな。イザベラをふしだらな娼婦と声高に糾弾する者も多かった。特に当時の宰相は断固認めんと強硬な姿勢をとっていて…………だが、ある日彼は殺された」
「ヒイッ」
アヒムがわざとらしく身震いすると、エメリッヒは肩を竦めた。
「王城の執務室で惨殺死体がみつかったんだ。部屋は血まみれ。遺体は原型を留めておらず、残っていた家紋いり指輪から宰相は死んだものとされた。……さっきまではな」
「どういうことですの?」
アルトゥールは尋ねた。泣いたせいで、声が掠れている。
「僕です」
答えたのは、エメリッヒではなくスピーゲルだった。
「イザベラに命令されて僕が一番最初に手にかけたのは、その宰相でした」
まるで本当に宰相を殺したかのような言い方だが、つまり、スピーゲルが崖下の村に一番最初に隠したのが件の宰相らしい。
どうやら、エメリッヒはスピーゲルが崖下の村から連れてきた人々の中に、宰相の姿を見つけようだ。
エメリッヒが、スピーゲルの言葉を補足するように言う。
「国王の寵愛を受ける身にもなれば、周囲の注目は避けられんからな。その注目の中で宰相に手を出すような危険はさすがにイザベラもためらたったのだろう」
「そこで代わりに旦那にやらせることにしたわけねー」
アヒムが腕組みをしながら何度も頷く。
宰相が殺された後は、説明されずともアルトゥールも知っていた。
宰相をはじめとする反対派の重鎮が次々と惨殺されたことで、イザベラは王妃になった。
魔族の仕業だと人々が囁く裏で、美しい新王妃に異を唱える者は次々と投獄され、あるいはスピーゲルにより死んだものとして姿を消し、今の王城に残っているのは私利私欲のためにイザベラに媚びへつらう者だけだ。
「……『大切なものも、そうではないものも』」
スピーゲルが、遠くを見るように呟いた。
「『すべて奪ってやる』とイザベラは言っていました。手のうちに何一つない絶望のなかで国王を殺してやりたいのだと」
「……」
イザベラの壮絶な憎しみを感じ、アルトゥールは震える手を握りしめた。
(それだけイザベラは夫を……スピーゲルのお父様を愛してましたのね)
失って復讐したいと思うほどに大切な誰かがいることを、いつだったかアルトゥールは羨ましいと感じたことがある。
けれど今、そうは思えなかった。
憎しみに囚われ、イザベラは他の何も見えなくなっている。
その姿は醜く、恐ろしく、そして切ないほどに哀れだった。
「……イザベラが可哀想ですわ」
アルトゥールがそう言うと、アヒムは顔を顰めた。
「同情する相手間違えてない?可哀想なのは母親に振り回されてる旦那じゃん」
「それは勿論、イザベラがスピーゲルにした仕打ちは許せませんわ。絶対に。でも……」
アルトゥールは俯いた。
「わたくしのお父様がスピーゲルの一族を根絶やしになんてしなければ……」
国王さえその決断を下さなければ、今もイザベラとその夫は、共にあれただろう。スピーゲルも、母親を母親と呼べただろうに。
(でも、きっとそうしたら……)
アルトゥールとスピーゲルは出会えなかった。
それを考えるとゾッとする。
スピーゲルに出会えない人生なんて考えなくない。
恐ろしい考えを、アルトゥールは首を振って霧散させた。
「スピーゲル。お父様を魔法で生き返らせることはできませんの?」
一瞬でも、最愛の人に再会することが出来たなら、憎しみに囚われたイザベラの心を開放させてあげられるかもしれない。
スピーゲルは、考え込むように目線を床に落とす。
「……理論上は……死者の蘇生は可能です」
彼はそう言い、目線を上げた。
「『死』は何らかの原因で肉体と魂が離れてしまうことなので、その原因を取り除いて肉体と魂を結び直すことができれば」
「って、できんの!?」
驚愕するアヒムに、スピーゲルは曖昧に頷いた。
「確実とは言えません。ですが、命と引き換えにする覚悟でならばおそらく。けれど、父の肉体は既に燃えて消滅してしまった。魔法ではどうしようもない『限界』です。父を蘇らせることは出来ません」
「そうですの……」
アルトゥールは肩を落とした。
(いい考えだと思いましたのに……)
けれど『限界』なら仕方がない。それにスピーゲルの命が引き換えになるなんてとんでもない話だ。
「ありがとう」
肩にスピーゲルの手の重みを感じ、アルトゥールは顔を上げた。
スピーゲルは、滲むように微笑んでいた。
「イザベラをおもいやってくれて、ありがとうございます。でも、いいんです。イザベラは罪をおかした。それは紛れもない事実ですから」
「スピーゲル……」
どこか憂いを秘めたスピーゲルの微笑みに、アルトゥールの胸は引きちぎられそうになった。
夜も更け、アルトゥール達はそれぞれの部屋に引き上げることにした。
暗い廊下を、アルトゥールはスピーゲルの背中を見つめながら歩いた。
会話はなく、二人が歩く音だけがやけに響き、ほどなくしてアルトゥールに寝室としてあてがわれた部屋についた。
「それじゃあ、おやすみなさい」
それだけ言うと、スピーゲルは顔もろくに見ずに去っていこうとする。
「ス、スピーゲル!」
思わず、アルトゥールは呼びかける。
スピーゲルはピタリと立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。
アルトゥールは両手の指を絡ませ、視線を伏せる。
「あの……わたくし、ただスピーゲルの傍にいられればいいんですの。スピーゲルに好きになって欲しいとか、そんな贅沢は言いませんわ。スピーゲルがわたくしを嫌っているのは当然のことだし」
「どうしてです?」
「……え?」
アルトゥールは目を瞬かせて、スピーゲルの顔を伺った。スピーゲルは少し困ったような、不思議そうな、そんな表情だ。
「どうして、僕があなたを嫌うんです?」
スピーゲルのこの反応に、アルトゥールは戸惑ってしまった。
(どうして……って)
スピーゲルがアルトゥールを嫌う理由は、たくさんある。
最たるものは、アルトゥールの父親がスピーゲルの一族を滅ぼした件だろう。
他にもアルトゥールのせいで食費がやたらかかることであったり、理由を挙げればきりがないはずだ。
「僕があなたを嫌う理由がどこにあるんですか?」
その言い方は、何だかアルトゥールにとって都合よく聞こえる。
アルトゥールがおそるおそる尋ねた。
「……理由、ないんですの?」
「あるわけないじゃないですか」
間髪入れずに返ってきた返事に、アルトゥールは呆気にとられる。
(……嫌われて、ない)
良かったと、安堵すると自分の心臓の音が聞こえた。
その音を聞いているうちに、アルトゥールはもう一歩踏み出してみたくなる。
「……じゃあ」
声が掠れた。
一度言葉を切ると、アルトゥールはコクリと喉を鳴らす。
「それじゃあ……好き?」
スピーゲルの切れ長の瞳が、限界まで見開かれる。
自分はなんて欲張りなのだろうーーそう、アルトゥールは思った。
ついさっき、贅沢は言わないと言ったばかりなのに、スピーゲルに嫌われていないと察するや、さらに『もっと』を欲しがるなんて。
本当は、スピーゲルが欲しい。
その目も、髪も、手も、心も。
スピーゲルの何もかもを独占したい。
アルトゥールはスピーゲルから目を少しも逸らさず、もう一度言った。
「スピーゲルはわたくしのこと、好き?」
スピーゲルが息を飲んだのが、夜の静寂のなかでもわかった。
緊張に、体が細かく震える。
「……」
彫像のように動かなかったスピーゲルが、動いた。
彼は着ていた外套の釦をはずすと、それを脱いでアルトゥールの肩にかけてくれた。
フワリと、お日様に似た匂いがする。
その暖かな匂いに、心が溶けた。
「……今夜は冷えますから、暖かくして休んでくださいね。アルトゥール」
「……え?」
見上げたスピーゲルは、柔らかく笑っていた。
(今、名前……)
聞き間違いだっただろうかと、アルトゥールは自らの耳を疑った。
戸惑うアルトゥールに対して、スピーゲルはこれ以上ないというほどに落ち着いている。
「あなたは自分の名前ではないと言いましたけど、間違いなくあなたに相応しい名前だと僕は思います。アルトゥール」
「そう、かしら?」
「そうです。腹立たしいほどに意思が強くて、向こう見ずなほどに勇敢で」
「……貶してますの?」
「まさか」
スピーゲルはクスリと笑った。
「勇猛果敢な英雄の名前。あなたにピッタリだ。アルトゥール」
スピーゲルの白くて長い指が、アルトゥールの黒髪を撫でた。
優しく優しく。
その優しさに、アルトゥールは頬を染める。
「……何だか……照れますわ」
誰かに名前で呼ばれたことがないアルトゥールは、正直言えばその名で呼ばれることに違和感がある。
けれど、嬉しくないわけではない。
スピーゲルとの距離が縮まったような気がする。
ーーーー実際、それは『錯覚』だった。
この時アルトゥールとスピーゲルの間に横たわっていた三歩の距離は、実は1万歩にも等しく二人の心を隔てるものだったのだ。
だが、アルトゥールにそれを知るすべはない。
スピーゲルに上手く誤魔化されてしまったことすら、この時のアルトゥールは気づいていなかった。
「おやすみなさい。アルトゥール」
「おやすみなさいですわ。スピーゲル」
二人は笑った。
秋の終わり。
吐いた息は、微かに白く染まった。