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笑わず姫とロールキャベツーレオナ③ー

夜が明けて、爽やかな朝が訪れた。

アルトゥールとスピーゲルが階段を降りて行くと、朝食を用意してくれていたらしいレオナが凄まじい勢いでアルトゥールのもとに駆け寄ってきた。

その目は朝日のようにキラキラと輝いている。

「おはようベーゼン!どうだった!?」

「おはようですわレオナ。……『どうだった?』って?」

何のことだと、アルトゥールは訊き返す。

「もう!」

レオナは怒ったように頬を膨らませると、アルトゥールの後ろにいるスピーゲルをチラリと見上げた。

「……こっちきて!」

アルトゥールはレオナに肩を押されて、部屋のすみに追いやられた。

スピーゲルをチラチラ見ながら、レオナは声をひそめる。

「キスよ!したんでしょう!?確かに『向かい合え』とは言ったけれど、あんなに早く展開するなんて思わなかったわ!で?どうだった?憧れのキスをした感想は!?」

「……レオナ、一体何のことを……」

「まさかキスどころか、その先まで!?そうよね!寝台は一つだものね!!」

『寝台』という言葉に、アルトゥールは天啓を受けたかのように、身を震わせた。

そして唇を噛み、両手を握り締める。

「そうなんですわ、レオナ。わたくし、朝起きたら……寝台で寝ていましたの!」

「……は?」

「眠っているうちにスピーゲルに寝台に運ばれてしまったんですわ!悔しいー!やられましたわー!」

アルトゥールはその場で地団駄を踏む。地味な衝撃に、古い床板がミシミシと鳴った。

それをポカンと見ていたレオナは、やがて合点したかのように目を見開き、顔を赤面させる。

「やだ!つまり床で!?嘘!?痛くなかった!?」

「……痛いって?」

「だって床でしょう?」

「……確かに少し腰が痛いような……」

「きゃー!!」

噛み合っているようで噛み合っていない女性陣の会話は、もはや離れているスピーゲルにも筒抜けだった。

「……女の人って……」

頭を抱えたスピーゲルの頬を、滝のような汗が流れ落ちる

どこかの家の雌鳥が、高らかに朝を告げるのが聞こえた。

とにもかくにも朝である。





表通りを通り過ぎる人々のざわめきが、客がいない店内に寒々しく響く。

日は既に高く昇っているというのに、レオナの店を訪れる客はただの一人もいない。

「……」

「……」

「……」

沈黙があまりに重くて、椅子に座ったアルトゥールは身動ぎも出来なかった。

「……まだ昼食の時間には少し早いですから」

アルトゥールと同じく沈黙に耐えきれなかったらしい。隣に座っていたスピーゲルが、ボソリとこぼす。その膝の上では、ジギスがスピーゲルが食べきれなかった朝食のパンを頬袋を膨らまして咀嚼していた。

天の助け、とアルトゥールはスピーゲルの言葉にすがりつく。

「そ、そうですわ!これからですわ!レオナ!」

厨房の入り口で俯いていたレオナが、驚いたように顔を上げた。

「え?あ、そうだね。これからだよね」

レオナは笑って頷く。けれどすぐにまた俯いた。

「……でも、もしこのまま誰も来なかったら……」

「そんなはずありませんわ!」

アルトゥールは椅子から立ち上がると、飛びつくようにしてレオナの手をとった。

「レオナの料理は美味しいですもの!絶対に大丈夫ですわ!」

アルトゥールの言葉にレオナは目を丸くし、そして不安を滲ませながらも気丈に微笑んだ。

「うん。ありがとう」

けれどそれから数刻。

待てど暮らせど、客は来なかった。

昼食の頃合いが過ぎ、日が傾く。

ジギスが大きな口をあけて欠伸をした。

(……どうして?)

アルトゥールは手を握り締める。

(どうして誰も来ないんですの?)

昨日、レオナの料理を『美味しい』と言ってくれた人達は一体何をしているのだ。

アルトゥールがやきもきしていると、厨房の隅で椅子に座っていたレオナが音もなく立ち上がった。

「レオナ?」

「……」

アルトゥールの呼び掛けに応えることもなく、レオナは料理が入った鍋を持ち上げる。

(料理を……)

温め直すのだろうかと成り行きを見守るアルトゥールの前をレオナは横切り、裏口から外に出て行った。その思い詰めた横顔。

「……っレオナ!?」

アルトゥールは慌てて立ち上がり、レオナを追った。

裏庭で、レオナはアルトゥールに背を向けて、鍋の中の料理を穴に棄てようとしていた。

「ダメですわ!!」

レオナに飛びかかるようにして、アルトゥールは鍋をひったくる。

「こんなことしたら、お客さんに出す料理が……」

「客なんてどうせ来ないよ!!」

アルトゥールの言葉を遮るように、レオナが叫んだ。

そして、その場にへたりこむ。

「……やっぱりダメだったんだ!もう無理なんだよ!」

「そんなことありませんわ!そうですわ、もう一度料理を配って……」

「もう材料を揃えるお金もないんだよ!今日客が入らなきゃ終わりなんだ!!」

レオナの目に涙が浮かび、ポロポロとこぼれ落ちる。

「……もう、お仕舞いだよ。店は閉める」

力なく項垂れるレオナは、もう疲れきっているように見えた。店と母親を守ろうと、ずっと張り詰めていたものが崩れてしまったのかもしれない。

(……店を閉めるって……)

恋人と別れてまで守ろうとした店なのだ。ここで諦めたら、恋人との別れが無駄になってしまう。

それに、あんなに美味しいレオナの料理が食べられなくなるのは、間違いなくこの街の、いや、国の損失だ。

アルトゥールはレオナの横に膝をついた。

「レオナ。そんなこと言わないで、もう少し待ちましょう?きっとお客さんが来て……」

「もう放っておいて!!」

不意に、レオナがアルトゥールの肩を突き飛ばす。

後方に傾いだアルトゥールの体を支えてくれたのはスピーゲルだった。

「大丈夫ですか?」

「スピーゲル……」

「あんたはいいよね!」

レオナは立ち上がり、アルトゥールとスピーゲルを憎々しげに見下ろす。

「恋人がそばにいて、守ってくれて……!!あんたなんかに私の気持ちが分かるもんか!」

まるで親の仇を蔑むようなレオナの冷たく悲しい目に、アルトゥールは自分の心が軋むのを感じた。

「出て行って!もう出て行ってよ!!」

レオナが泣き叫ぶ声に、アルトゥールは張り手をされたような気分になる。

視界が……思考がグルグルと回る。

足に力が入らない。

今自分がどうするべきなのか、何をしなければならないのか、何一つ判断することが出来なかった。

「……姫、行きましょう」

アルトゥールを支えてくれていたスピーゲルが、耳元で囁く。

「……ええ」

返事をするのがやっとだった。

スピーゲルの手にすがって、アルトゥールはよろめきながらも立ち上がった。







大通りでは、夜も営業を続ける店が店先に灯りを灯し始めた。店仕舞いを始めている店もあるが、人通りはまだ多い。

レオナの店を出てから、どれくらい時間がたっただろう。

暗くなった街の片隅で、アルトゥールは膝を抱えて座り込んでいた。

「姫」

呼ばれて顔を上げると、目の前に艶やかな光沢を放つ林檎飴が差し出される。

更に顔を上げると、スピーゲルが小さく微笑んでいた。

「空腹だと気持ちが塞いでしまいますから」

そういえば、いつからか彼の姿を見なかった。アルトゥールが座り込んでからしばらく黙って隣に立っていたのはぼんやりと覚えているが、いつの間に林檎飴を買いに行ったのだろう。

「………ありがとう、ですわ」

アルトゥールが林檎飴を受け取ると、スピーゲルは隣に腰を下ろす。

「……お客が来なかったのはあなたのせいじゃありませんよ」

スピーゲルの声はアルトゥールを甘やかすように優しかった。その優しさに、アルトゥールの心の螺が緩む。

「……わたくし……」

喉の奥が重くて、声が震える。

林檎飴の串を、アルトゥールは握り締めた。

「……わたくし、絶対お客さんは来るなんて言ってレオナを期待させて……」

アルトゥールがあんなこと言わなければ、レオナがあんなに傷つくことはなかったかもしれない。高い塔の上までレオナを連れ出し、そして突き落としたようなものだ

レオナはきっと酷く傷ついただろう。その痛みを思うと、アルトゥールは申し訳なくてたまらなかった。

「……姫」

隣に座っていたスピーゲルが腰を僅かに上げ、片膝をついてアルトゥールを正面から見据える。

「言ったでしょう?あなたのせいじゃありません」

「でも……」

「ひーめ」

ポンポンと軽く叩くようにして、スピーゲルはアルトゥールの頭を撫でる。

「そんなふうに小さくなって俯いているのは、あなたらしくありませんよ?」

スピーゲルの微笑みがあまりに優しくて、アルトゥールは目を逸らす。

レオナは今も傷つき涙を流しているかもしれないのに、自分だけが優しさを享受していいはずかない。

けれどスピーゲルの優しい手の感触は、アルトゥールの気持ちなんてお構いなしに心の奥で固まった何かをほぐして溶かしてしまう。

まるで雪を溶かす春の陽だまりのように。

「ほら。せっかく買ってきたんですから食べてください」 

スピーゲルに促され、アルトゥールはおずおずと舌先で林檎飴を舐めた。

優しい甘さが口内に広がり、甘味は血管を辿って身体中を巡る。

「……おいしい」

アルトゥールの青い瞳に輝きが戻り、白い頬には赤味がさした。

まるで人形に命が吹き込まれたかのような劇的な変化に、スピーゲルが安堵したように目元を緩める。

「おい」

砂利を踏み締める音に、アルトゥールとスピーゲルは視線を巡らせる。

店々の灯りを背にして男が三人、アルトゥールとスピーゲルを取り囲んでいた。

見覚えがある男達だ。記憶の引き出しを、アルトゥールはひっくり返す。

「確か……」

昨日、アルトゥールの南瓜パイを台無しにした牛男達だ。記憶が確かならフーゴとかいう名前だったか。

「姫」

アルトゥールはスピーゲルに腕を引かれ立ち上がり、彼の背に庇われた。

スピーゲルは慌てることもなく、落ち着いてフーゴ達に対峙する。

「何か御用ですか?」

フーゴ達が、スピーゲルを馬鹿にするようにせせら笑う。昨日、スピーゲルが逃げたことを自分達の都合の良いように解釈しているのだろう。

アルトゥールとスピーゲルを見下すように、フーゴは言った。

「レオナの店を手伝ってる奴ってのはお前らか?」

「だったら何です?」

「余計なことすんじゃねえって警告に来てやったんたよ」

これを言ったのは、フーゴの隣にいた髭面の男だ。

スピーゲルの肩から男達を覗くようにして、アルトゥールは尋ねる。

「余計なことって何のことですの?」

「余計なことは余計なことだ。痛い目見たくなきゃレオナの店から手を引いてさっさとお(うち)に帰りな」

そう言い捨てると、男達は互いに顔を見合わせて大きな声で笑い合う。

スピーゲルとアルトゥールを馬鹿にしているのは明白だ。

(何なんですの?この男達は!)

何て失礼な輩供だ。

指図される筋合いはない、と文句を言おうとしたアルトゥールよりも先に、スピーゲルが口を開く。

「あなた方の言うことに従う義務は僕達にはありません。手をひけと言うなら言うで正当な理由を示すべきだとは思いませんか?」

「そうですわ!」

毅然としたスピーゲルの態度に、アルトゥールは同調して声を上げた。

「理由を述べなさい!理由を!」

「なんだと?」

髭面の男が顔をしかめ、拳を握り合わせて関節を鳴らす。だが、それをフーゴが片手で制した。

「いいさ、教えてやるよ。そうした方がレオナは幸せになれるからさ」

「……どういうことですの?」

アルトゥールは訳が分からず、訊き返した。

フーゴは街角で説法をする賢者のように、自分の言うことは正しいことだと自信満々に話し続ける。

「抵当に入ってるようなオンボロな店と病気の母親に縛られて、レオナが可哀想だとは思わないか?店の切り盛りと母親の看病で、若い娘らしく着飾ることも出歩くことも出来ない。挙げ句には恋人と別れなきゃならなかった」

アルトゥールの脳裏に、昨日のレオナとの会話がよぎった。

『恋人がいたんだ』『牛に似て』―――。

「……もしかして……」

アルトゥールはフーゴを人差し指で指差した。

「レオナを置いて王都に行ったっきり手紙も寄越さない薄情な恋人!?」

アルトゥールの指摘に、フーゴは直ぐ様反論する。

「誰が薄情だ!俺は字が書けないんだよ!」

目の前に突然現れたレオナの恋人に、アルトゥールは唖然とした。

(……何だか……思っていた感じと違いますわ……)

レオナの恋人というからもっと爽やかな好青年を想像していたのに、随分と想像と違うではないか。

いや、人の好みをとやかく言ってはいけない。こう見えて性格がすこぶるいいのかもしれない。

フーゴはと言うと、舞台役者さながらな大仰な仕草で胸を押さえた。

「確かに……俺はレオナを置いていった。一緒には行けないとレオナに断られた傷心を抱えて、王都でもっといい女を捕まえてやろうと思った。けれど……王都の女がどんなに華やかだろうとレオナには敵わない!」

舞台なら紙の花弁でも舞い散りそうな熱弁だったが、アルトゥールは容赦しなかった。

「つまり相手にされなかったんですわね?」

「お気の毒に」

アルトゥールからの駄目だしとスピーゲルからの上辺だけの同情に、フーゴはいきり立つ。

「てめえら失礼だぞ!!と、とにかく!店と母親さえいなきゃレオナは自由だ!俺がレオナを自由に……幸せにしてやるんだ!!」

妙だと、アルトゥールは思った。

フーゴの話を聞いていると、まるでレオナが不幸であるようだ。

(でも……)

昨日、料理を笑顔で配り、来るであろう客を待つレオナは生き生きとしていた。

(確かに、恋人と別れたことは寂しそうだったけれど)

だから不幸せというのはおかしい。

レオナは誰かに幸せにしてもらうのを座って待っているような人ではない。

自分の手で幸せを作り出せる人間だ。 誰かを幸せに出来る人間だ。

「……店から客足が遠のいたのは……」

スピーゲルが、静かに口を開く。

「あなたが追い払っていたんですね?フーゴ」

アルトゥールは驚いてスピーゲルの横顔を見上げた。

「……それ、どういうことですの?スピーゲル」

「レオナさんの店は大通りから少し奥まっています。道は一本。そこで待ち伏せして、やって来たお客さんを追い返していた。違いますか?」

スピーゲルが確認するように問うと、フーゴはニヤリと口角を上げる。

「そうさ。客が入らなければ店は潰れるからな。レオナの母親も相当弱ってきたし、もう少しでレオナは晴れて自由の身だ」

フーゴのその言い方に、アルトゥールは違和感を覚える。嫌な違和感だ。

「まさか……アガーテに、何かしたんですの?」

フーゴは、ニヤニヤと笑ったまま答えない。

「アガーテに何をしたんですの!?」

問い詰めると、フーゴは小さく肩を竦めた。まるで、ちょっとした悪戯が見つかってしまったかのように。

「べつに?大したことはしてないさ。ちょうどよく肺炎になってくれたからな、少々強い薬を渡しただけだ」

「強い、薬?」

アルトゥールは拍子抜けした。

薬を都合してくれるなんて、良いところもあるではないかと素直に感心する。

だが、そんなアルトゥールとは対照的に、スピーゲルが声に怒りを滲ませた。

「もともと呼吸器系統が弱いアガーテさんに、強い薬はかえってよくないと知っていて渡したんですね?」

その質問に、フーゴは明確には答えなかった。けれどアルトゥールとスピーゲルを馬鹿にするような笑いが、全てを物語っている。

「高価な薬だと知ってレオナは喜んでたぜ?可愛かったなあ、いつも勝ち気なレオナが涙ぐんで」

フーゴとフーゴの仲間達の下品な笑い声が、薄暗い街に不気味に響いた。

恋人を信じきっていたレオナの純粋な恋心が踏みにじられていく。

「最低ですわ……」

アルトゥールは怒りで身が震える思いだった。

レオナがどれほど店を大切にしていたか、母親を大切にしていたか、どうしてフーゴには分からないのだろう。

どうしてレオナが大切にしているものを、一緒に大切にしてくれないのだろう。

(恋人がこんな男だったと知ったら、レオナはどれほど傷つくか……!)

悔しくて悔しくて、アルトゥールはたまらない。

「姫。少し下がっていてください」

スピーゲルが言った。

怒りが滲んだ声は低く、冷たい。

「スピーゲル……」

「言って分からない馬鹿は、黙らせるより他にありません」

体を低くして、スピーゲルが駆け出した。

まるで山野を駆ける牡鹿のように素早くしなやかに、スピーゲルは男達に迫る。

「う、うわ!?」

身構えたフーゴの仲間の一人の目前で、スピーゲルは不意に体を屈ませ、肘で男の鳩尾を打った。

男は悲鳴をあげることもなく、泡を噴いてその場に仰向けに倒れる。

「て、てめぇ!!」

髭面の男が、岩のような拳を振り下ろす。スピーゲルはそれを首を傾げるようにして軽々避けると、そのまま上体を傾げ、その反動を使って髭面の男の顎を蹴り上げた。男は勢いよく吹っ飛ばされ、民家の壁に叩きつけられるようにして地面に崩れ落ちる。

「何だ何だ?」

「ケンカか?」

騒ぎに気付いた人々が集まり始め、スピーゲルの意識が一瞬逸れる。

その一瞬を、髭面の男は見逃さなかった。

「く、くそ!」

髭面の男はよろめきながらも立ち上がり、隠し持っていた短剣をスピーゲルに向けて振り回す。

スピーゲルは咄嗟に身構えたが、外套のフードが短剣に裂かれて肩に落ちた。

「お、おい!!」

「嘘だろう!?まさか……っ」

遠巻きに見ていた人々がどよめいた。

夜目でも分かる、銀の髪。赤い目。

「ま、魔族だーーっっっ!!」

誰かが悲鳴じみた大声をあげ、それが大通りに響く。

「誰か!自警団を呼べ!」

「それより騎士団に……!」

幾人かの通行人が走り出したのが見えた。

「スピーゲル!」

アルトゥールは叫んだ。

自警団や騎士団が来る前に、早く逃げなくては。もしも騎士団に囲まれては、いくらスピーゲルでも敵わない。

「スピーゲル!まずいですわ!」

「わかって……ます!!」

スピーゲルは髭面男をもう一度蹴り飛ばす。髭面男は、今度こそ地面に伏して動かなくなった。

「ひ、ひいい!ま、魔族だあ!」

フーゴが、足を縺れさせながら逃げ出した。

「逃がしませんわ!!」

アルトゥールは、フーゴが逃げる先に両手を広げて立ち塞がった。

「邪魔だ!どけ!」

まさに牛のように、フーゴが突進してくる。アルトゥールは歯を食い縛った。衝撃と痛みを覚悟して目を閉じる。

だが―――……。

「ぎゃああ!」

情けない悲鳴をあげて石畳に転がったのはフーゴの方だった。

フーゴを殴り倒したスピーゲルは、倒れたフーゴにそのまま馬乗りになり、その頭を林檎を掴むように鷲掴む。

革手袋は、既に外している。

「ひ、ひいいい!た、助けてくれ!許してくれえ!」

ガタガタと震えて、フーゴは許しを乞う。

その鼻は妙な形に折れ曲がり、流れる鼻血が歯を赤く染め上げている。

スピーゲルはそんなフーゴを冷たく見下(みおろ)した。

「……確かに……店を一人で維持するのは楽じゃない」

低い声だった。

『冷酷な魔族』と呼ばれるに相応しいその声で、スピーゲルは淡々と続ける。

「母親の看病を投げ出したくなる日もあるだろう。疲れて投げ槍になる日もあるだろう。そんな生活から、レオナさんを自由にしてやりたいと思うお前は間違ってない」

フーゴが、媚びるように笑った。

「そ、そうだろう?お、俺は間違ってな……ないよな?」

「だから、レオナさんを幸せにしたいというお前の願いを叶えてやる」

アルトゥールは耳を疑った。

「スピーゲル?」

まさか、フーゴを許してやるつもりなのだろうか。

フーゴが期待に満ちた目でスピーゲルを見上げた。

「ほ、本当か?」

「ああ」

銀髪の隙間に僅かに覗く赤い目が、妖しく揺らめく。

「お前はレオナさんの人生に二度と関わるな。それで彼女は幸せになる。―――……『フーゴ』」

「な、何を……」

慌てるフーゴの頭を石畳に強く押し付け、スピーゲルは呪文を唱え始めた。

員を踏むような、独特の発音。

昔話を語るような静かな口調。

やがて、蛍のような小さな光がスピーゲルの体を取り巻き始める

「や、やめてくれ!許してくれ!」

フーゴは必死に抵抗するが、光は紐状になって、蔦の蔓のようにフーゴの体に巻き付いていく。

「助けてくれ!!だ、誰かっ!」

フーゴが情けない声で助けを呼ぶ。

すると、フーゴに絡み付いていた光の紐も消え失せた。

スピーゲルがフーゴから手を離し、無言で立ち上がる。

「ひいい!」 

途端に、這って逃げ出すフーゴを、赤い瞳が冷たく見下ろした。

「……失せろ。下衆(げす)が」

その一言が合図だったのだろうか。四つん這いになっていたフーゴが、見えない手につまみ上げられたかのように立ち上がる。その顔面は蒼白で、冷や汗が顎から滴っていた。

「か、体が……!」

まるで行進する衛兵のように姿勢よく、フーゴはアルトゥールの脇を通り過ぎる。

「体が勝手に……!だ、誰か!誰か助けてくれ!止めてくれ!」

けれど止める者はいない。

フーゴの背中は、唖然と道をあける人々を通り過ぎ、大通りの闇のなかに消えていく。

革手袋を嵌め直すスピーゲルに、アルトゥールは駆け寄った。

「どんな魔法をかけましたの?」

「川に沿って五昼夜歩き続けます」

スピーゲルは、どこかスッキリしたような表情だ。

(五昼夜……)

想像して、アルトゥールは少しだけフーゴが気の毒になる。

「……地味にけっこう堪えますわね……」

アルトゥールはフーゴが歩いて行った先を眺めた。

助けてくれ、と喚き声だけが遠く聞こえた気がする。

(でも……)

これでもう、フーゴはレオナに近付こうとは思わないだろう。スピーゲルの言うとおり、フーゴはレオナの人生に必要ない。

「さ、急ぎましょう」

外套のフードをかぶりなおし、スピーゲルは人だかりができている大通りとは逆に歩き始めた。裂けたフードは、もうスピーゲルの珍しい容姿を隠してはくれない。

アルトゥールはスピーゲルを追いかける。

「でもスピーゲル。そっちは……」

ここは地方駐在の騎士団の詰め所が近い。急いで街から出なければならないのに、スピーゲルが向かっているのは街の中心部の方だ。

「逃げるならこっちではなくて?」

逃げる(その)前に、やることがあります」

穏やかに微笑むスピーゲルに、アルトゥールは首を傾げた。





*****






酷いことを言ってしまった。

レオナは暗い店内で一人落ち込んでいた。

(アルトゥール(ベーゼン)。あんなに一生懸命手伝ってくれたのに……)

外套姿の背の高い恋人を連れた、無愛想な美女。

笑いこそしないが、不器用ながらレオナを手伝おうと必死だった。

(それなのに私は……)

親身になってくれたあの子に八つ当たりしてしまった。

重い溜め息を、レオナは床に落とす。

(謝らなきゃ……)

早く探しに行かないと、この街の住人ではないアルトゥール(ベーゼン)とはもしかしたら二度と会えないかもしれない。

けれど、万が一お客さんが来たらと思うと、店を離れるのは躊躇われた。

(……万が一?)

諦めたのではなかったのか、とレオナは自らを問いただす。

(店をたたんで借金を返すんでしょう?)

そして、アガーテと二人でどこかに小さな家を借りて暮らすのだ。レオナは健康だし、選ばなければ仕事は見つかる。親子二人食べていくくらいなら何とかなる。

(……でも……)

鍋を、レオナは見つめた。

アルトゥール(ベーゼン)が、守った料理だ。

『美味しい』と言ってくれた料理だ。

店の扉が、飛ばされるような勢いで開いた。

(お客さん!?)

期待をこめてレオナは振り返ったが、そこにいたのは………。

「あ……お、おかえり……」

アルトゥール(ベーゼン)とその恋人(スピーゲル)

帰ってきた二人の姿に、レオナは目を剥いた。

「あ、あんた……!」

外套のフードが裂け、そこからスピーゲルの素顔が覗いていた。

白銀の髪に、真っ赤な目。

死んだ父親によく言われたものだ。『いい子にしないと魔族に名前を呼ばれるぞ』と。

「魔族!?」

幼い頃から刷り込まれた魔族に対する恐怖心で、レオナは後ずさる。

スピーゲルが、隣のアルトゥール(ベーゼン)に目配せした。

「お願いします」

「了解ですわ」

アルトゥール(ベーゼン)が大きく頷くと、 スピーゲルは店を突っ切り二階へとつづく階段を駆け上がる。

「ちょ、ちょっと!」

「ダメですわ!行かせませんわ!」

アルトゥール(ベーゼン)が、レオナの腕を掴まえる。

(友達だと思ってたのに、魔族の手下だったなんて!)

しがみついてくる腕を、レオナは振り払おうと必死だった。

「離してよ!母さん!!母さん逃げて!!」

レオナは叫んだ。




*****




暗い廊下を、スピーゲルは走った。そして、扉を開ける。

寝台の上に起き上がっていたアガーテが、笑顔でスピーゲルを迎えてくれた。

「まぁ、スピーゲルさん。どうしたの?」

走ったために少し息が切れていたスピーゲルは、呼吸を調えるために深く息を吸った。

「……驚かないんですね」

スピーゲルの髪も目も(あらわ)になっている。それなのに、アガーテに怖れる様子はない。

アガーテは、優しく微笑んだ。

「昨日、あなたが私を介抱してくれた時に、少し髪が見えたの」

「……気づいてたんですか?」

スピーゲルは困惑して眉尻を下げた。

魔族だと気付いていながら、騒がず、黙っていてくれたというのか。何故だ。

少し懐かしそうに、アガーテは目を伏せる。

「子供の頃に会ったことがあるの。あなたの一族の人に。私が住んでいた村や、その近辺を定期的に回って、魔法で病気を治してくれたり困ったことがあると助けてくれたの」

コホ、と軽くアガーテは咳き込んだ。

スピーゲルは急いでアガーテに近寄り、その背中を摩る。

「……ありがとう。大丈夫よ。……大人達は『彼』を見下して、まるで召し使いのように都合よく『彼』を使ってお礼すら言わなかったけど私は……苦い薬を飲む御褒美に『彼』がこっそりくれる飴玉が大好きだったわ」

フフフ、とアガーテは笑った。少女のように、軽やかに。

「……僕らの一族は危険じゃない」

「え?」

スピーゲルは床にひざまずき、アガーテを見上げた。

「いつか、そう理解してもらいたいと、方々を歩き回ったと師匠は言っていました」

「じゃあ……あれはあなたのお師匠様?」

アガーテが嬉しそうに頷いた。

「そう……よく似てると思ったわ。似てると言っても顔ではなくて、雰囲気というか……佇まいが」

アガーテは両手を伸ばし、優しくスピーゲルの頬を包む。

「柔らかい物腰に優しくて丁寧な口調。強い眼差し。ああ、それからその煤色の外套。あなたの一族は皆そういう外套をかぶっているの?」

「……どうでしょう?僕は自分と師匠くらいしか一族の人間を知らないので」

スピーゲルが曖昧に微笑むと、アガーテの顔が曇った。

子供にするようにスピーゲルの頬を撫でていた手が、寝台の上に落ちる。

「……そうね。魔族狩りなんてひどいことがあって……あなたのお師匠様がやっていたことは結局無駄になってしまったのね……」

スピーゲルは、答えなかった。答える代わりに、革手袋を手から外し、アガーテの左手をとる。

「『アガーテ』。あなたの病気を治させてください」

アガーテは目を見開き、首を左右にゆっくり振った。

「……まさか、ダメよ。私はあなたの一族が酷い目にあった時にも、何も出来なかったのよ。あなた達が何も悪くないと知っていたのに」

目を閉じ、アガーテは懺悔するように俯く。

「夫がレオナに『いい子にしないと魔族に名前を呼ばれるぞ』なんてと言うことを、止めることすらしなかった。なのに、病気だけは治してもらうなんて……」

「無駄と、言いましたね。でも僕はそうは思わない」

スピーゲルはアガーテの手を握る手に、力を込めた。

アガーテが、顔を上げる。それを逃すまいと、スピーゲルは目を細めて微笑む。

「あなたは、僕の髪の色を見ても怯えずにいてくれた。手を握っても振り払わずにいてくれる。師匠がやっていたことは、決して無駄ではなかった」

誰もがスピーゲルを怖れ、侮るなかで、アガーテはスピーゲルを同じ人間として扱ってくれる。その尊厳を認めてくれる。

(……彼女も)

階下でレオナを引き留めようと奮闘しているだろうアルトゥールを思い、スピーゲルの笑みは深くなる。

スピーゲルを恐れないでいてくれる。それがどれだけ貴重で、ありがたいか、彼女達にはわからないかもしれない。

我知らず優しく綻ぶスピーゲルの顔に、アガーテは涙ぐむ。

「……ありがとう……それから、ごめんなさい」

アガーテの手を握るスピーゲルの手に、アガーテは更に自分の手を重ねた。

「私達を許さなくていいの。でも、どうか謝らせてね……」

亡きスピーゲルの一族を、そして一人残されたスピーゲルを、憐れみ、悼むその言葉に、スピーゲルは頭を下げて感謝した。

(……どうか)

この心優しい人の体が癒えますように。

心ない者のせいで苦しむ彼女が、もう一度レオナと一緒に働けるように。笑えるように。

スピーゲルは呪文を紡いだ。

手から光が零れ、アガーテの体の中へと吸い込まれていく。

(どうか……)

光が、部屋を包んだ。




*****




「母さん!」

レオナは階段を駆け上がった。

廊下を走り、アガーテの寝室に飛び込む。

「母さん!?」

アガーテは寝台で横になっている。

その脇に、スピーゲルが跪いていた。

「どいて!!」

スピーゲルを突き飛ばし、レオナはアガーテにすがる。

「母さん!母さん大丈夫?母さん?」

「ス、スピーゲル……」

レオナを追いかけて、息をきらせたアルトゥール(ベーゼン)が部屋に入ってきた。

「ご、ごめんなさい。レオナを止めておくように頼まれましたのに……わ、腕力の差が……」

「いえ、今終わったところです。ありがとうございました」

スピーゲルが立ち上がる。

「母さん?母さん!?」

レオナは眠るアガーテを強く揺する。アガーテの頬には血色が戻っていたが、彼女は目を覚まさない。

レオナは目を吊り上げてスピーゲルを睨んだ。

「終わったって……母さんに何をしたのよ!!この穢らわしい魔族!」

スピーゲルに掴みかかろうとしたレオナを止めたのは、階下から聞こえた声だった。

「すいませーん?」

「あれ?誰もいないのかな?」

その声にレオナは戸惑ったように顔をしかめる。

「……え。お客さん?」

「忙しくなりますよ」

スピーゲルが外套のフードをかぶり直し、革手袋をはめる。レオナは訳がわからず、彼を見上げた。

「え?」

「アガーテさんが起きたら、手伝ってもらうといい」

「手伝ってって、母さんはそんな……」

「体が急速な治癒に驚いただけなので、すぐに目を覚まします。――……姫。行きましょう」

「ええ!」

スピーゲルが差し出した手に、『姫』と呼ばれたアルトゥール(ベーゼン)が迷わず自らの手を伸ばす。けれど、彼女は思い出したように顔だけレオナを振り返った。

「レオナ。わたくしの名前、本当は『アルトゥール』と言いますの」

「……え?」

「秘密ですわよ?」

アルトゥールは人差し指を唇にあてた。

レオナは盛大に顔をしかめる。

その()()()()()()のお姫様を知らない者は、魔族を知らない者同様にこの国には滅多にいない。

「ア、『アルトゥール』って……『笑わず姫』の?……え!?でも『笑わず姫』って確か魔族に殺されたって噂で……え!?どういうこと!?」

混乱するレオナに追い討ちをかけるように、また下から扉を開ける鈴の音が聞こえた。

「昨日の肉団子の野菜巻きあるかーい?」

「麦酒も欲しいなあ」

レオナは慌てて階下に向けて叫ぶ。

「は、はーい!ただいまー!」

背後から、強い風が吹く。

レオナが振り向くと両開きの窓が全開になって、夜風が吹き込んでいる。

そしてそこには、眠るアガーテ以外には誰もいなかった。




*****




銀色の甲冑を身に付けた騎士達が、暗い路地裏を走り抜ける。

「こちらにはいません」

「向こうを探せ」

騎士団の物々しい雰囲気に、夜の街角には多くの人が不安げに肩を寄せ合った。

「魔族ですって」

「怖いねえ」

いかつい騎士達相手に、一人の男が必死に言いつのる。

「本当なんです!本当なんですって!老人みたいな白い髪に血みたいな真っ赤な目!見間違うわけないじゃないですか!」

「わかった、わかった」

若い騎士が男を宥める隙に、上役の騎士はその場をそっと離れた。

そして、少し離れた場所で白馬に乗ったまま辺りを見回す一人の騎士に声をかける。

「とりあえず周辺を捜索させますが、よろしいですか?エメリッヒ様」

エメリッヒ、と呼ばれた白馬の騎士が、視線を巡らせた。

明るい栗色の髪と、端正な顔の美丈夫だ。

銀色の甲冑の肩には、獅子を象った王家の紋章。

地方の要所に駐在し治安維持を目的として活動する騎士団とは一線を画す、国王直属の聖騎士団の証だ。

「……ああ、そうしてくれ」

騎士が頭を下げて行ってしまうと、エメリッヒはまた辺りを見渡す。

「……魔族め……」

苦々しげに、エメリッヒは言った。

闇を睨みつけ、殺意を滲ませる。

「我が妹アルトゥールを殺した恨み。必ずや晴らしてやる」

夜空に星が瞬いた。


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