笑わず人と刹那と永遠
廊下の突き当たりにある螺旋状の階段を、アルトゥールは駆け上る。
階段の行き着く先は、戦時には弓兵が百人は並ぶであろう物見台が広がっていた。
煌々とした篝火が幾つもたかれたその中央へ、ジギスヴァルトが羽を広げて今降り立つ。
そして、その背からスピーゲルが飛び降りたのが見えた。
「……っスピーゲル!!」
アルトゥールの呼び掛けに、彼が振り返る。
夜風で、フードから白銀の髪が零れてなびいた。
篝火に照らされ、赤い目が紅玉のように輝く。
「――――はい?」
訊き返すような、返事。
たったそれだけで、アルトゥールの心は息を吹き返す。
心の爛漫を誇るように、頬が綻ぶ。
その笑顔のままにアルトゥールは駆け出し、勢いを緩めることなくスピーゲルの長身に抱き付いた。
「スピーゲルーーーーッ!!」
「うわあっ!?」
不意を突かれたスピーゲルはアルトゥールを支えきれず、二人は物見台の石の床に折り重なるようにして倒れこんだ。
「い、たたた……」
強打した後頭部に手をやり苦悶するスピーゲルの胸に、アルトゥールは両手をつきガバリと身を起こす。
「どうして……っ」
スピーゲルに馬乗りになったまま、アルトゥールは彼を怒鳴りつけた。
「どうしてわたくしを置いて行ったんですの!?」
「…………はい?」
スピーゲルは状況を把握しかねているのか、眉をしかめて目を瞬かせる。
アルトゥールは、スピーゲルの潤色の上着を鷲掴んだ。
「すっとぼけても無駄ですわよ!!わたくしを置いていくなんてーー……」
手元に大きな影が差し、アルトゥールは顔を上げる。
金剛石のような星が光り始めた夜空から、竜に酷似した羽蜥蜴達が次々と降りてくる。羽蜥蜴の背には、例の村人達が数人ずつ乗っていた。その中にはアヒムやエラ、ザシャ達の姿もある。
「たーだいまー!やー羽蜥蜴って便利だねー馬で往復5日の距離をたった1日!」
アヒムはヘラヘラと笑っている。
「足元に気をつけて」
「荷物を持ってこっちに」
エメリッヒの部下の騎士達が村人達を誘導し、村人達がそれに従って移動する。
スピーゲルしか見ていなかったアルトゥールはようやく周囲の状況に気が付き、目をパチクリさせた。篝火といい騎士達の無駄のない動きといい、事前に準備していたのは明白だ。
「……どういう、ことですの?」
「エメリッヒに相談して村の人達をこっちに移すことにしたんです。人目につかないように新月の夜移動しようって話になって……なので……」
スピーゲルは困惑を表情に滲ませ、戸惑いながら言った。
「そもそも今夜のこの時間には戻る予定だったんですが、エメリッヒから聞いてません?」
「…………」
アルトゥールは、目を見開き茫然とする。
置き去りにされたのだとばかり思い込んでいた。
(今夜戻る予定なんて……)
そんなことエメリッヒは言っていただろうか。
記憶の箱をひっくり返してみたが見当たらない。
「聞いてませんわーーーーっ!!」
スピーゲルの上着を乱暴に掴み、アルトゥールは苛立ちに任せて滅茶苦茶に揺すった。ガクガクと前後に揺れるスピーゲルの頭は、その度に後頭部が石の床に叩きつけられている。
「い、痛っ、そ、そそう言われても……っい、痛た」
「あーそれ。俺、俺」
羽蜥蜴の背から下りるザシャに手をかしながら、アヒムが申告する。
「公子様にも公子妃様にも『黙ってて』て言ったの俺」
これに反応したのはスピーゲルだった。
「何でそんなこと……っ」
「やーさすがにまどろっこしくて、やってられなくなってきてさー」
ニヤニヤと笑うアヒムは、妙に満足げだ。
「ちょっと焚き付ければお姫様がやる気出すんじゃないかな、て思って」
「……いや、意味わからないんだけど……」
スピーゲルは困惑しきりだが、アルトゥールにはわかった。
(『旦那とお姫様をさっさとくっつけようぜ同盟』!!)
振り向くと、見張り台の入り口の扉の前に、コルネリアとエメリッヒが並んで立っていた。
エメリッヒは不満げな渋い顔でそっぽを向いていたが、コルネリアはアヒムと同じように満足そうだ。
「……アヒム」
わなわなと込み上げる怒りのままに、アルトゥールは咆哮した。
「ハメましたわねーーッッッ!?」
つまり、すべては『旦那とお姫様をさっさとくっつけようぜ同盟』の盟主であるアヒムと盟友となったコルネリア、そして引っ張りこまれたのだろうエメリッヒによる策略だったのだ。
『置き去りにされた』とアルトゥールに思い込ませることで、何らかの行動を起こすとアヒムは考えたに違いない。
アヒムはアルトゥールの殺気など、どこ吹く風と楽しげだ。
「ハメたなんて人聞きが悪いなあ。言っとくけど、自覚がなかっただけでお姫様の中ではとっくの昔に始まってたと思うよ?俺はそれに気づくきっかけをつくっただけ」
「……っ」
アルトゥールは唇を噛み締めた。悔しくてたまらないが、アヒムが言うことは一理ある。
スピーゲルとキスがしたいと思ったのも、スピーゲルに憎まれているのが悲しかったのも、今思えばスピーゲルへの恋心に端を発していたのだ。そのことに気づけなかった自分の鈍さに嫌気がさす。アヒムがこうでもしなければ、アルトゥールはこの先も一生スピーゲルへの想いに気がつかなかったかもしれない。
とは言え、腹ただしいことこの上ないのは事実である。アルトゥールは歯軋りした。
「や、やり方が意地悪ですわ!!」
どれだけ落ち込んだと思うのだ。危うく餓死するところだったではないか。
アルトゥールの抗議に、アヒムはあっさり謝った。
「あ。それは認める。ごめんね?」
ペロリと舌を出したあざとい笑顔。間違いなく反省していない。この男、どうしてくれようか。
怒りの炎に包まれるアルトゥールに、アヒムは笑う。
「ねぇ、お姫様。あんた賢くないんだから色々難しいこと考えるのやめなって」
随分と失礼な物言いだが、それがアルトゥールを見下すものではないことは、アヒムの目を見ればわかる。
彼は今、アルトゥールの背中を押してくれているのだ。頑張れ、と。
「やりたいようにすればいい。本能の赴くままっ……てやつ?」
「……」
「あの……」
アルトゥールの下敷きになっていたスピーゲルが、おずおずと手を上げた。
「話がよく飲み込めないんですが……」
赤い瞳に松明の光が反射している。
(本能……)
ドクリ、とアルトゥールの心臓が大きく脈打った。
指先が、小さく震える。
「……姫?」
スピーゲルが、不思議そうに瞬いた。
わかってる。
これは、もはや本能だ。
呼吸をするために、心臓を動かすために、つまりは生きるために、アルトゥールにはスピーゲルが必要なのだ。
「……言われなくても、そうしますわ!!」
そう喚くと、スピーゲルの上着を掴んだ手に力を込める。
スピーゲルが驚いたように目を見開くのに反して、アルトゥールは目を閉じた。
そして、息が絶える。
それは刹那。けれど永遠。
いつか、と焦がれた憧れ。
ただ押し付けるように重ねた唇は、砂糖菓子のように甘いわけでもなく、雷のような衝撃もない。
ただただ――――……温かかった。
ゆっくり、アルトゥールはスピーゲルから身を離す。
見下ろしたスピーゲルは、目を剥いたまま、上体を中途半端に起こした不自然な体勢で固まっている。
「……」
「……」
無言で見つめ合うこと、三拍。
「な……何考えてるんですか!?」
ようやく我に返ったスピーゲルが、慌ててアルトゥールの肩を押しやった。
「アヒムが見てるのに……どういうつもりです!!」
「アヒムが見てるから何ですの?」
アルトゥールが口を尖らせると、スピーゲルは眉をしかめた。
「だ、だってまずいでしょう?あなたはアヒムと婚約して……」
「わたくしとアヒムが婚約?」
何だそれは。
アルトゥールが眉をしかめると、この反応にスピーゲルの表情がかたまる。
「え……してますよね?結婚の約束。アヒムと」
「してませんわ」
フルフルと、アルトゥールは左右に首を振る。
再び、二人の時間が止まった。
スピーゲルは額に手をあて、何かを探すように視線を辺りに泳がせる。
「……え?あれ?でも……」
「アヒムと結婚なんてするわけありませんわ。だって、わたくしが好きなのはスピーゲルですもの!」
高らかに、アルトゥールは告げた。
スピーゲルが本心ではアルトゥールを疎んでいることは、承知している。彼には大切に想う人がいることも。
それでもスピーゲルが好きだ。
報われない恋でもいいとまでは達観出来ないが、自分に嘘をついたり、想いをおし殺すなんて器用な芸当がアルトゥールにできっこない。
スピーゲルが好きで、彼の傍にいたい。
アルトゥールの宣言を聞いたスピーゲルはといえば、アルトゥールが何を言ったのか理解できない様子だった。
点になった目を何度か瞬かせ、彼はアルトゥールに訊き返す。
「……何ですって?」
「だから!」
一度言葉を切り、アルトゥールは胸いっぱいに夜の空気を吸い込んだ。
「わたくし、あなたが好きですわ!スピーゲル!」
「……」
唖然としたスピーゲルは、やがて眉をひそめて溜息をつく。
「あなたはまたそんなことを……」
そしてアルトゥールを軽く押すようにして追いやると、さっさと立ち上がった。
「アヒムに何を吹き込まれたか知りませんが、そういうことをやたらに言うもんじゃありません」
突如始まったお説教に、今度はアルトゥールの方が唖然とした。
「……スピーゲル。わたくし、あなたが好きだと言いましたのよ?」
そう言う類の告白には、何かしらの返答があるものではないのだろうか。
けれどスピーゲルは、アルトゥールを嫌いと言わないかわりに、好きだとも言ってくれない。
「だから、そういうことをやたらに言っちゃいけません」
スピーゲルは怒ったように顔をしかめたまま、アルトゥールの手をとり引っ張り起こしてくれた。
「それからキスも、相手かまわずやたらとするものじゃありません」
「そんなのわかってますわ!」
アルトゥールは口を尖らせる。
「スピーゲルだからしたんですわ!スピーゲルが好きだから……」
「姫」
スピーゲルの低い声に、アルトゥールはドキリとして黙りこむ。
そんなアルトゥールを、スピーゲルは子供にするようにして窘めた。
「今日は聞かなかったことにしてあげます。二度とそんなこと言っちゃいけませんよ」
「…………」
何だそれ。
アルトゥールが愕然としている間にスピーゲルは身を翻し歩き始めた。その先にはエメリッヒや騎士達がいて、スピーゲルは彼らと何かしら言葉を交わしている。
アヒムとコルネリアが、気の毒そうにアルトゥールに歩み寄った。
「これは予想外の展開だねー」
「思った以上に手強いですわね」
「……」
まさか、迷惑がられるどころか恋を恋とも認めてもらえないとは。
「……負けるもんかですわ」
アルトゥールは両手を痛いくらい握り締める。
元より、色よい返事など期待していない。極端に言ってしまえば返事などなくてもかまわないのだ。
返事がどうであろうと、アルトゥールの今後の方針に変更はないのだから。
スピーゲルから離れない。
それがアルトゥールの唯一にして最優先の基本方針だ。
「覚悟しなさいですわ。スピーゲル」
本能に生きる女の本気を見るがいい。
アルトゥールは腕を組み、ニヤリと笑った。
ゴホン、とエメリッヒが咳払いする。
「スピーゲルが連れてきた者達だが……前任の領主が課税を免れようと森の中に隠していた土地があってな。国王陛下にもまだ御報告していないし、身を隠すには絶好の場所だ。今夜のうちに部下に案内させて移動を……」
「離れてください!!」
「嫌ですわ!!」
アルトゥールはスピーゲルの体に回した両腕に、力をこめた。
「わたくし、決めたんですわ!もうスピーゲルから離れないって!嫌がられようが迷惑がられようが、あなたの優しさにつけこんで傍に居座りますの!!」
そして、スピーゲルの背中に顔を埋めて深呼吸を繰り返す。
「2日ぶりのスピーゲルの匂いですわ~」
「何やってんですかー!!」
悲鳴じみた声をあげ、スピーゲルはアルトゥールを引き剥がそうと躍起になる。
このちょっとした喜劇のような光景に、アヒムが腹を抱えて大笑いした。
「あははは!お姫様変態じゃーん!」
「ホホホ。大胆な姫君様も素敵ですわ」
椅子に座っていたコルネリアも、上品ながら声をあげて笑った。ちなみに、赤ん坊はよく寝ていたので乳母に預けてきたようだ。
「笑ってないで、どうにかしてくださいよ!」
スピーゲルは喚きながらアヒムを睨む。
「アヒムが何か姫に吹き込んだからこんなことになってんですよね!?」
「何のことかわかりませーん。旦那こそ、いい加減腹くくりなってー。焼いたパンを食わぬは男の恥って言うじゃん」
「何わけわからないこと言ってんですか!!」
「って、話を聞かんかお前らーー!!」
エメリッヒの怒れる叫びは、室内だけに留まらず暗い廊下にもこだました。
冷たい夜風が吹く物見台を後にしたアルトゥール達は、エメリッヒの私室の一つに落ち着いている。
崖下の村から来た人々は、アルトゥール達とは別に大広間で一時休息をとっているようだ。巨大化した羽蜥蜴の背に乗り、更にはこれから新しい隠れ場所に向かう彼らだが、不思議とその顔は明るく、疲れの色は見えない。この城にやってきてエメリッヒの顔を見たことで、自分達の未来に希望をもったようだ。アヒムからは『閉じ込められてんじゃなくて、匿われてる』と説明を受けていたはずだが、半信半疑だったのだろう。
「そもそもだな!!」
怒りに震えながら叫ぶと、エメリッヒはスピーゲルをビシリと指差した。
「我が友にして恩人スピーゲルよ!我が義妹アルトゥールとの恋の成就、本来なら心から祝福するところだが、姫の肉親として一言物申す!そなた許嫁がいるらしいな!」
「いや何も成就してませんから!」
スピーゲルが目を剥き反論するその横で、アヒムが「あー」とげんなりした顔を見せる。
「だから、許嫁の件は散々説明したじゃん、公子様。旦那はイザベラの許嫁だったけど、あっちは旦那じゃなくて国王と結婚したから、もう完全に破談してるって。元々双方に恋愛感情もないみたいだし」
「とは言え男たるものケジメをつけるべきだ!姫と恋仲になったからには、イザベラとは断固決別して……」
スピーゲルが「恋仲なんてなってませんからね!?」と叫んだが、エメリッヒもアヒムも聞き耳を持たない。
「だーかーらー!イザベラを告発するために俺達手を組んだんじゃん!?イザベラと決別するのは大前提なの!話ちゃんと頭に入ってる!?」
イライラとした様子を隠そうともせず、アヒムは声を荒げた。
知り合ってから間もないというのに、二人のそれは早くも長年の友人のようなやり取りだ。
ギャーギャー言い争うアヒムとエメリッヒに、まともに口も挟めずもはや脱力していたスピーゲルだが、やがて何かに気づいたように手を上げた。
「ところで、何か勘違いしてるみたいだけど…………イザベラは僕の許嫁じゃありませんよ?」
この発言に、部屋の中の時間が止まる。
アルトゥールは、抱きついたままスピーゲルを見上げた。
「……今、何て?」
「だから、イザベラは僕の許嫁じゃありません」
キッパリと、スピーゲルは否定する。
「そもそもイザベラが許嫁だなんて言った覚えはありませんけど。どうしてそんな勘違いしてるんです?」
「どうしてって、それは……」
アルトゥールは記憶の糸を手繰り寄せる。スピーゲルの許嫁の存在は、スピーゲル自身から聞いた。どんな経緯で婚約に至ったかを話してくれたのはベーゼンで、許嫁がイザベラだと教えてくれたのは……。
無言で、アルトゥールはアヒムを見た。
「……アヒム」
「ごめん!間違えたっぽい!」
てへ!と舌を出して謝るアヒムを、後で思いっきり蹴飛ばしてやろうとアルトゥールは固く心に決めた。
「で、では許嫁は他にいるのだな!?」
呆気にとられていたエメリッヒが、我に返ったようにまたスピーゲルに迫る。
「そちらとは勿論きちんと手切れするのだな!?スピーゲル!どうなのだ!?」
「え、えっと……」
エメリッヒの圧に、スピーゲルはやや仰け反りながら答えた。
「手切れも何も、僕の許嫁は行方知れずで……」
予想もしなかった答えに、アルトゥールをはじめとして一同困惑する。
「行方知れず?」
「は、はい」
スピーゲルの首から下げた紐の先で、小さな小袋が微かに揺れた。
その小袋には砂時計がはいっている。砂が落ちきったら迎えに行く、それがスピーゲルと許嫁との取り決めだ。
それなのに、行方しれずとはどういうことなのだ。
アルトゥールは口をとがらせた。
「それなら、前にわたくしがキスをねだった時に『許嫁がいる』って拒んだのは何だったんですの?」
許嫁が行方知れずなら、もはや婚約などあってないようなものだ。
(そんなものを盾にしてでも拒みたいほどに……)
そこまでスピーゲルに嫌われていたのかと、アルトゥールは泣きたくなった。
「あ、あれは、あなたが身近にいる相手で適当に事をすまそうとしてることに腹がたって……」
スピーゲルが気まずげに言い訳するのに、アルトゥールは食ってかかる。
「適当なんじゃありませんわ!わたくしはスピーゲルが好きだからスピーゲルとキスしたいんですわ!」
「だから、そういうことはやたらと言うもんじゃありませんと言ったでしょう?」
また窘められ、アルトゥールは頬を膨らました。
この男、何をどう言ってもアルトゥールの気持ちを素通りするつもりなのではないだろうか。
スピーゲルを睨むアルトゥールを、アヒムが宥める。
「まあまあまあ。で?旦那。行方知れずってどゆこと?相手が住んでる場所は知ってたんだよね?」
「えっと、はい……。実は一度だけこっそり様子を見に行ったことがあるんです。元気にしているか確かめたくて」
スピーゲルは困ったように首を掻いた。
「でも師匠から聞いていた彼女の親族が住んでいるという屋敷は、もぬけのからでした。近くの村で聞いたところ、彼女とその母親は屋敷を出ていって、親族もその後不幸があったり領地替えがあったそうで、どこにいるのか……」
「……それって……」
アヒムは一度言葉を詰まらせ、そして遠慮がちに確認する。
「逃げられたってこと?いや、ある意味踏み倒し?」
「そういうことなんでしょうね」
頓着なく、スピーゲルは頷いた。
「娘を魔族なんかに嫁がせたくないって思うのは当然だし、だから僕も探しはしませんでした。婚約と言っても結納金や持参金のやり取りがあったわけでも、互いに交流があったわけでもないし……どこかで元気にしていてくれれば、僕はそれで……」
そう言うスピーゲルの頬には、優しい微笑みが滲んでいた。
魔法を利用されるだけされて約束を反故にされたのだから、腹をたてて当然なのに微塵もそんな様子はない。
(スピーゲルらしいですわね)
優しくて、自分のことはいつも後回し。
泣きそうだったことも忘れて、アルトゥールはスピーゲルを仰ぎ見た。
視線を感じたのか、スピーゲルが見返してくる。
「な、何です?」
「スピーゲルのそういうとこ、好きですわ」
ニッコリ笑って言うと、スピーゲルは驚いたように表情を固まらせ、そしてまた顔を逸した。
「だから……」
表情は怒っていたが、耳が微かに赤い。
「じゃあさ、結局イザベラは旦那の何なの?」
この何の婉曲もない単刀直入なアヒムの質問に、スピーゲルも単的に答えた。
「イザベラは僕を産んだ人ですけど」
あまりにあっさり返ってきた答えに、アルトゥール達は目を点にする。
「……え」
「産んだ人……って」
「母親?」
スピーゲルはコクリと頷く。
「そうなりますね」
室内は静まりかえる。
テーブルの上で焼き菓子を頬張るジギスヴァルトの、ボリボリという咀嚼音が響くほどだ。
スピーゲルを除いた、その場にいた全員が顔を見合わせ、そして絶叫した。
「「「ええええーーーーーーーッッッ!?」」」