『笑わず姫』
あれはいつのことだっただろう。
雨が降っていた。
確かアルトゥールは賞金首の男を追っていたのだ。街で出会った意地っ張りな老人の、孫娘の持参金を稼ぎたくて。
その過程で、彼は言った。
『――――……僕はまだ火炙りになるわけにはいかないので』
だから、捕まるわけにはいかない。
スピーゲルは、そう言って目を伏せた。
髪と同じ白銀色の睫毛から、透明な雨滴が滴っていたのを覚えている。
“まだ”火炙りになるわけにはいかない。
その言葉の端々に 自分にいつか天罰が下ることを許容するかのような覚悟が潜んでいるのを感じ、アルトゥールは怖かった。
いつかスピーゲルがいなくなってしまうのではないか。
アルトゥールの手が届かない場所に、一人で行ってしまうのではないか。
アルトゥールは、ずっとそれに怯えていた。
柔らかい寝台の上で、アルトゥールは目を覚ました。
見上げる天蓋からは、まるで光が降り注ぐように紗々の天幕が垂れ下がっている。
「……?」
目を擦りながら起き上がり、辺りを見回す。
白を基調にして要所に翡翠色を使った色使いの部屋は、おそらくコルネリアの趣味だろう。爽やかで明るく心地よい空間には、けれどアルトゥールの他には誰もいなかった。
「……スピーゲル?」
返事はない。
別の部屋で休んでいるのだろうか。
夫婦だという嘘はばれてしまったから、違う部屋をあてがわれたのかもしれない。
寝台から身を乗り出してみると、菱の紋様が織られた絨毯の上に、アルトゥールの靴が置かれていた。寝台から降りてその靴を履く。足音を忍ばせて辿り着いた扉を、アルトゥールはそっと押し開けた。
そこに横たわっていた石壁の廊下は部屋とは打ってかわって暗い雰囲気が漂っている。人影はない。
「……スピーゲル?」
遠慮がちに呼んでみたが、声は廊下に反響するだけだ。
(隣の部屋かしら?)
思いきって足を踏み出したアルトゥールは、隣の部屋の扉まで小走りした。
「スピーゲル?」
扉を叩いてみるが、部屋の中からは何の応えもない。
扉を開け、部屋の中を覗きこむ。客室らしい部屋は、綺麗に整えられ僅かな乱れもない。寝台にも、使った様子は見られなかった。
「……」
忍び寄ってくる不安を、アルトゥールは頭を振ることで追い払った。
スピーゲルがいないなんて、珍しいことではない。彼は必ずしもアルトゥールの傍にいるわけではないのだし、つい半年前までは彼の存在すら知らずにアルトゥールは生きていたのだ。
子供でもあるまいし、スピーゲル一人いないくらいどうということはない。
頭でそうわかっていても、散らしたはずの不安はすぐに寄ってたかってアルトゥールを苛む。
「どうかなさいましたか?」
背後から急に声をかけられ、アルトゥールは飛び上がるようにして振り向いた。そこにいたのは昨日コルネリアの傍にいた侍女だ。
アルトゥールより少し年上だろう侍女は、優しげに微笑んで言った。
「お食事でしたら下にご用意しておりますが、お部屋にお持ちいたしましょうか?」
「あ……えっと……」
確かにお腹はすいている。けれど今はそれよりスピーゲルがどこにいるか知りたい。
「スピーゲルは……あの、わたくしと一緒にここに来た者は今どこにいますの?」
昨夜食事をとった部屋で、また珈琲とかいう苦い飲み物を飲んでいるのだろうか。
それとも、コルネリアの具合が悪くないか診ているのだろうか。
侍女は意外そうに顔を歪める。
「……何も聞いていらっしゃらないのですか?」
「え?」
抱いていた不安が色濃く、そして大きく成長していく。
侍女は、少し気遣わしげに言った。
「煤色の外套の方とお連れの傭兵の方は、昨夜のうちに城から出ていかれましたよ?」
エメリッヒの政務室に、アルトゥールは飛び込んだ。
「エメリッヒ!!スピーゲルはどこですの!?」
部下と書簡を見て話し合っていたらしいエメリッヒは、アルトゥールの乱入に目を丸くする。
「ひ、姫。見れば分かるだろうが今執務中で……」
不自然に目をそらすエメリッヒの胸ぐらを、アルトゥールはかまわず鷲掴んだ。
「スピーゲルは!?」
「ひ、姫……っ」
「どーこーでーすーのー!?」
アルトゥールに乱暴に揺すられ、エメリッヒの首はガクガクと前後する。
「も、もうここにはいない!私はただ、姫を頼むと言われて……っ」
欲しい答えは得られないと察したアルトゥールは、もう用はないとエメリッヒを突き飛ばした。
「うわああ!?」
「こ、公子!」
「エメリッヒ殿下!」
椅子から転がり落ちたエメリッヒを、部下達がよってたかって助けようとする。けれどアルトゥールの視界にはそんな光景は映っていない。
「スピーゲルーー!!」
エメリッヒの政務室を飛び出し、アルトゥールは城内を探し回った。
何十とある部屋を一つ残らず覗き、馬小屋から薪置き小屋まで見たが、どこにもスピーゲルはいない。
それならばとアルトゥールは城を飛び出し、街の中にスピーゲルの姿を探した。
スピーゲルと同じような背格好の男性を見かけては、その外套をつかんでひき止めたが、振り向いたその顔はスピーゲルとは似ても似つかない。その落胆を何度も何度も繰り返し、やがてふと思いついた。
あそこなら、スピーベルの居所が分かるに違いない。
「アヒム?……ああ、テオバルトのことかい?」
先日言葉を交わした差配役の男は、書類から目を上げた。
アヒムが働くマトカ・カウパ商店。
アヒムはきっとスピーゲルと一緒だ。アヒムの居場所がわかれば、スピーゲルを見つけることも出来るに違いない。
「そうですわ。テオバルトはどこにいますの?」
「テオなら今朝暗いうちに出ていったよ。何やらかす気か知らないが、迷惑かけるといけないからって。ああ、こないだあんたと一緒だった背の高い男も一緒だったな」
「どこに!?」
アルトゥールは男にすがった。
「スピーゲルとアヒムはどこに行ったんですの!?」
「さぁな。それは聞いてない」
男は眉を寄せる。
「そういや、あんたは何でここにいるんだ?一緒に行かなかったのか?」
「……」
男の問いに、アルトゥールは答えられなかった。
よろめくようにしてその場を後にし、人ごみの中をあてもなく歩く。
急激に疲れが襲ってきた。足が痛くて重い。
「あの……」
護衛兼、道案内としてついてきてくれた騎士が、遠慮がちに声をかけてくる。
「お疲れでしょう?城に戻られてはいかがですか?」
「……どうして」
アルトゥールはボソリと呟いた。
「どうして、スピーゲルはわたくしを置いていったんですの……?」
「……それは……」
騎士は困り果て、黙りこむ。
悪いことをしたな、とアルトゥールは思った。彼が答えを持ち得ないことなど分かりきっているのに。それでも疑問を口にしなければいられなかった。
人々が行き交う通りを、アルトゥールはボンヤリと眺める。
(……アヒムが帰ってきたら……)
元々アルトゥールはアヒムが出稼ぎから帰ってきたら、スピーゲルの家を出る予定だった。
予定調和と言えば予定調和だ。居を移す先が、アヒムの家からエメリッヒの館に変更しただけである。
(もしかして……)
スピーゲルは、最初からアルトゥールをエメリッヒに任せるつもりでここにきたのかもしれない。
アヒムはスピーゲルがアルトゥールのためにイザベラを裏切るつもりだと言っていたが、つまりはアルトゥールがいると行動をとりにくいから、厄介払いをしたかったのではないか。
(わたくしがいると食費もかかるし……!!)
『これで食費が節約できる』と胸を撫で下ろすスピーゲルの虚像が、アルトゥールの頭の中に浮かぶ。
(そ、そうならそうと言ってくれれば……)
そうしたら、アルトゥールだって聞き分ける。ちゃんと今まで世話になったお礼を言って、別れを言って、笑顔でスピーゲルを見送れたのに。
鼻が痛むように熱くなる。目頭に涙がたまり、今にも零れ―――……。
(……あ、れ?)
アルトゥールは指先で頬に触れた。
何だろう、この違和感。
泣き喚きたい気持ちはあるのに、涙が出てこない。
「きゃあ!?」
「!?」
どん、と腰のあたりに衝撃を感じてアルトゥールはつんのめり、そのまま地面に手と膝をつく。
「姫君!」
騎士が慌てて駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫ですわ……」
一体何があったのかと視線を巡らせれば、苺色の髪の女の子が立ち竦んでいる。どうやら彼女がぶつかってきたらしい。
女の子は、みるみる瞳に涙をためこんでいく。
「……お、落ちちゃっ……た」
見れば、彼女の足元に林檎飴が落ちている。アルトゥールにぶつかった事で落としてしまったらしい。
「だから走っちゃダメって言ったのに!」
母親らしい女性が、女の子を追いかけてきた。
女性は女の子に寄り添うようにしてかがみこみ、アルトゥールに頭を下げた。
「娘がすみません、大丈夫ですか?お怪我はありませんか?」
「だ、大丈夫ですわ」
アルトゥールは立ち上がった。
林檎飴を落としてしまった上に母親に叱られるなんて、女の子があまりに可哀想だ。だから笑って何ともないと言ってあげなくては。
「ほら、どこにも怪我は……」
顔が、ひきつる。
笑わなければと思うのに、笑えない。
「……な、い……」
必死に笑おうと口角に力をこめる。
けれど自分でも分かっていた。そうやって出来上がるのは、あの歪な笑顔でしかないことを。
揺れる灯りのせいで笑ったように見える人形のような、そんな不気味で不自然な笑顔。
それを見て、女の子とその母親、そして騎士も、顔を青くして後ずさる。
「ほ、本当にすみませんでした……っ」
女の子の手をひき、母親はそさくさとその場を後にしようとした。
「お母さん。あのお姉ちゃんの顔怖いー」
「しっ!そういうこと言うんじゃないの!林檎飴また買ってあげるから!」
親子の後ろ姿が遠ざかっていく。
「……」
地面に転がったままの林檎飴をアルトゥールは見下ろした。
砂を纏った林檎飴は、アルトゥールが見るうちに行き交う人に蹴られ、踏まれ、無惨に潰れる。
もう一度、アルトゥールは指先で頬に触れた。
頬は冷たく堅く、硝子のようだった。
「……スピー……ゲル……」
『はい?』と尋ね返すような返事は聞こえない。
泣きたいのに、泣けない。
笑いたいのに、笑えない。
アルトゥールは呆然と立ち尽くした。
麦酒で乾杯する人々。
客を呼び込む声。
山羊を巡って商談をする商人。
母親に店先の玩具を指差し『買って』とねだる子供。
――――人が息づく雑踏。
かつてアルトゥールが、塔の上から見下ろし、憧れた場所だ。
あそこに立つことが出来たら、どんなにいいだろうと思っていた。
アルトゥールがどんなに出来損ないだろうと、あれだけ人がいれば誰かしら許容してくれるのではないかと。
そうしたら、アルトゥールでも人並みに生きていけるのではないかと。
その場所に、今アルトゥールは立っている。
でも、駄目だ。
どんなに賑やかな場所に身を置いても、どんなに沢山の人に囲まれても、駄目だ。
スピーゲルがいない。
スピーゲルという、たった一人の人間がいない。
ただそれだけで、アルトゥールの心は呆気ないほどに駄目になる。
それを思い知り、アルトゥールは愕然とした。
料理人が玉葱を気長に煮込み、丹精込めてつくっただろうスプーンからいい匂いが香ってきていたのは大分前のこと。
アルトゥールの前に置かれた皿のスープは、すでに温もりを失っていた。
一口も飲まれることなく冷たくなった憐れなスープを見下ろし、アルトゥールはため息をおとす。
スープをすくったスプーンが妙に重くて、持ち上げて口に運ぶ気になれない。
アルトゥールは、遂にスプーンをテーブルに置いた。
スープも、パイも、果物も、食べ物が喉を通らないなんて経験は初めてだ。
「お口にあいませんか?」
丸いテーブルごしに、コルネリアが心配そうにアルトゥールを窺う。
スピーゲルが姿を消して二日。
アルトゥールはエメリッヒの館で衣食住を世話になっていた。
一部を除いた多くの召し使いが、アルトゥールを死んだはずの『笑わず姫』ではなく、エメリッヒと旧知の間柄であるどこかの貴族の姫だと思っているらしい。
ふさぎこむアルトゥールに、侍女達は『お菓子はいかがですか?姫君』『美しいお召し物がありますよ。姫君』と下にも置かないもてなしぶりだ。
侍女達にかしずかれた、何不自由ない生活。けれどアルトゥールの心は鉛のように重かった。眠ればスピーゲルが後ろ姿で去っていく夢を見て、起きればスピーゲルがいない現実に打ちのめされる。豪華な食事も、まるで味がしない。
そんなアルトゥールを心配したコルネリアが『私のお部屋で一緒にお食事を』と誘ってくれた。
コルネリアの優しさが嬉しく、そして出産で気力も体力も使い果たしたばかりの彼女に気を使わせて申し訳なくて、アルトゥールはコルネリアの誘いをありがたく受けることにした。
けれど、やはり食べる気になれない。
アルトゥールは、俯きがちに謝った。
「ごめんなさいですわ……食欲がありませんの」
普段のアルトゥールを知る人間が聞けば目を真ん丸にして自らの耳を疑うような発言であるが、知り合って日が浅いコルネリアは悲しげに呟くだけだった。
「そうですか……」
コルネリアは夜着のままで髪を右耳の下で軽く結った姿だったが、寝台から起き上がり、アルトゥールと同じテーブルにわざわざついてくれている。
「……起きていても大丈夫ですの?」
アルトゥールが尋ねると、コルネリアは顔に笑みを浮かべて頷いた。
「ええ。少しは動かないと、体が固まってしまいます」
その時、コルネリアの寝台に平行して置かれた小さな寝台の中で赤ん坊が泣き始めた。
「あらあら……」
コルネリアはすぐに立ち上がり、赤ん坊を抱き上げる。
「起きてしまったの?泣かなくてもお母様はここよ」
まるでずっと前から母親であったかのような慣れた様子で、コルネリアは赤ん坊をあやした。
つい数日前まで、赤ん坊はお腹の中にいて触れることも出来なかったのに、短い時間でこれほど抱くのが上手になるのかと思うと、不思議な気がする。
「スピーゲル様がいなくなられてから、王女殿下は笑いもしなければ泣きもなさらない。まさに『笑わず姫』ですわね」
「……え?」
ボンヤリしていたアルトゥールは、目を瞬かせる。
コルネリアは赤ん坊を抱きながら、アルトゥールに微笑んだ。
「スピーゲル様に置いていかれたのが、それほどショックでしたか?」
「……」
アルトゥールは、掌を頬にあてた。
笑いも泣きもしない『笑わず姫』。
コルネリアに気味が悪い思いをさせてしまっているのかもしれない。
申し訳ないと思うもののが、やはり頬はひきつり、表情を反映しようとしなかった。
「王女殿下はスピーゲル様がお好きなのですね」
唐突とも言えるコルネリアの言葉に、アルトゥールは彼女の顔を見返した。
「……わたくしとスピーゲルは、夫婦でも恋人でもありませんわ」
アルトゥールがそう返すと、コルネリアは笑みを深くする。
「それは伺いました。ですが、人を想うのに夫婦や恋人なんて、そんな肩書きは関係ありません。王女殿下はスピーゲル様に恋をしてらっしゃるんでしょう?」
「……恋……」
その単語から逃げるように、アルトゥールはコルネリアから目を逸らす。
以前、ベーゼンから同じことを言われた時、アルトゥールは『違う』と答えた。恋ではないと。
何故なら、恋は楽しいもののはずだから。
王城で恋人の話をする下女は楽しそうで幸せそうだった。
でも、アルトゥールは苦しいのだ。
スピーゲルを想うと、湖で溺れたかのように胸が苦しい。
だから、スピーゲルに恋しているはずがない。
「……好きなんかじゃ、ありませんわ」
否定は、けれど弱々しかった。
「スピーゲルなんて少食だし、過保護だし、口煩いし……それに」
優しくて、強くて、心配が過ぎると怒りだす。
猫舌で、よくひそかに舌を火傷してる。
草取りを始めると時間を忘れる。
笑うと、切れ長の目がビックリするほど優しくなる。
一つ思い返すと、次々にスピーゲルの姿がアルトゥールの網膜に蘇った。
「……お、お別れくらい……言ってくれてもいいのに。一言もないなんて」
声が、震えだす。
「は、薄情すぎますわ……っ」
膝の上で、アルトゥールは手を握り締めた。
込み上げる感情を、どう処理すればいいのかわからなかった。
大声で泣き叫びだしたいのに、スピーゲルがいなければアルトゥールは泣くことすらできない。
泣きたいのに、泣けない。
行き場がない感情が胸に渦巻いて、アルトゥールはまるで陸に打ち上げられた鯨のように息も絶え絶えだ。
「……そうですね」
コルネリアが、赤ん坊をあやしながら頷く。
「最後にお別れくらい言っていただきたかったですわよね。そうしたら、きれいさっぱりお別れできましたものね」
その言葉に、アルトゥールは弾かれたように顔を上げた。
コルネリアは、そんなアルトゥールにニッコリと笑いかける。
「そうでございましょう?」
その通りだった。
お別れくらい言ってくれればよかったのに。
そうしたら、きっと、きれいさっぱりに……。
「…………いや」
アルトゥールは、ゆっくり首を振った。
「……いや。いや、いや、いや……そんなのいやですわ!」
夢に見た遠ざかるスピーゲルの背中。
(どうして……!?)
どうして傍にいてくれないのだ。
どうして傍にいてはいけないのだ。
「いやですわ!!」
自らの膝に、アルトゥールは突っ伏した。
スピーゲルが矢に打たれて水路に落ち、生死がわからなかった時。
そして、彼が生きていると分かった時。
それだけでいいと思ったのに。生きていてくれるだけでいいと、そう思った気持ちは本物だったはずなのに。
いつの間にか、それじゃあ足りなくなっていた。
お別れなんて、嫌だ。
挨拶があろうがなかろうが、関係ない。
彼から離れるなんて出来ない。
スピーゲルに傍にいて欲しい。
スピーゲルの傍にいさせて欲しい。
(気づかなかった……)
こんなにも、スピーゲルを好きになっていたなんて。
「……」
たちこめていた深い霧が、晴れていくかのようだった。
自分でも気づかぬ間に育った恋心は、その強大さゆえに、もはや無視することも、なかったことにすることも難しすぎた。
涙を堪えるように、アルトゥールは目を閉じる。
(スピーゲルが、好き……)
それは、本能。
生きるために食事をするのと同じように、アルトゥールが生きていくにはスピーゲルが必要だ。
例え彼に憎まれていたとしても、迷惑をかけていたとしても、それはアルトゥールが立ち止まる言い訳にはならない。
そもそも、彼は言ったではないか。
『あなたは無茶苦茶でいいんです。横暴で我が儘で周りの事情なんて鑑みないで』
アルトゥールの体を包んだ、スピーゲルの腕の感触が蘇る。
『そうやって、あなたは僕を振り回せばいい』
――――世に、男に二言はないと言うではないか。
言ったことの責任をとってもらおう。男として。
「王女殿下?」
コルネリアが、赤ん坊を抱いたままかがみこむ。アルトゥールが泣いていると思ったのかもしれない。
けれど、アルトゥールは泣いてはいなかった。泣けないのだ。ここは、泣く場所じゃない。
瞼を、上げる。
蒼い目は、行くべき場所を知っていた。
「……わたくし、帰りますわ」
「え?」
前を見据えたまま、アルトゥールは立ち上がる。
「帰りますわ」
「帰るって何処へ……」
「スピーゲルのところですわ!」
言うが早いか、アルトゥールは部屋を飛び出した。
「殿下!?」
「お世話になりましたですわーー!」
背後に聞こえるコルネリアの声を振り返らず、アルトゥールは叫んだ。
(帰らなきゃですわ!)
霧深い森の奥。林檎の木に囲まれた、ブランコが揺れる小さな家。
帰り道が分からないばかりか、ジギスヴァルトがいないのでは、ここから遥か離れたその場所に帰る方法もない。
それなら歩けばいい。
歩き続けて足が棒になっても、何年もかかった末に、迷い野垂れ死ぬのがおちだったとしても。
(スピーゲルのところに、帰る)
彼が、アルトゥールが泣くことが出来る唯一の場所だから。辿り着いた場所だから。
(帰る!!)
――――まさに、それは本能。『帰巣』と呼ばれる、それだったのかもしれない。
大きな窓が並ぶ長い廊下。
そこをアルトゥールは駆け抜ける。
既に日は暮れ、廊下の壁に規則的に掛けられた燭台には、灯が揺れていた。
今夜は月が出ならしく、窓の外は真っ暗だ。
そこへ、突如影が差した。
「!?」
思わず窓の外を見上げたアルトゥールは、息を飲む。
暗闇の中、けれど確かに大きな鳥の影が群れをなして飛んでいる。
(……違いますわ)
鳥ではない。
(羽蜥蜴!!)
巨大化した羽蜥蜴の群れ。
そして群れの先頭を飛ぶ、尻尾が二股の羽蜥蜴の背に乗る人影。
それが誰なのか、見誤るアルトゥールではない。
アルトゥールは身を翻すと、今来た廊下を駆け戻った。