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笑わず姫と香草焼きーエメリッヒ③ー

両親に抱き上げられた記憶が、エメリッヒにはない。

頬ずりされたことも、手を繋いで散歩したことも、一緒に食事したことも、眠る前に本を読んでもらったこともない。ただの、一度も。

打算と利害関係の一致で結婚した両親の仲はお世辞にも睦まじいとは言えず、彼らは一人息子のエメリッヒのことは召使い達に任せてそれぞれの恋人と過ごす時間を大切にしていた。

時折顔を会わせても、形式的な挨拶しか交わさない他人行儀な親子関係。

けれどエメリッヒは寂しいとは思わなかった。

伯父がいたからだ。

エメリッヒの伯父は国王だった。

伯父は(エメリッヒ)の誕生を大層喜んで、自らの名前と同じ名前を甥に与えた。

名前だけではない。珍しいお菓子や、新しい玩具。ありとあらゆるものを、伯父はエメリッヒに与えてくれた。そして頭を撫でて笑ってくれる。

『明日狐狩りに連れて行ってやろう』

『本当ですか!?』

『ああ。楽しみに待っておいで』

翌日。朝早くから胸を高鳴らせてエメリッヒは伯父を待った。

伯父がエメリッヒとの約束などすっかり忘れて、取り巻き連中と飲んだくれているとも知らずに。

狐狩りも、遠駆けも、船遊びも……。

約束は、ただの一度も果たされることはなかった。

それでも、エメリッヒは伯父を信じていた。

彼から愛されているのだと、疑いはしなかった。

アルトゥールと出会うまで。

アルトゥールは、伯父のただ一人の実子。エメリッヒのただ一人の従妹。

初めて顔をあわせたのは、エメリッヒが6才か7才の頃だった。

二歳年下であるのに、彼女はエメリッヒより背が高く、そしてとんでもなく美しい顔をしていた。

壇の木のように黒い髪。雪のように白い肌。林檎のように赤くつややかな唇。青い瞳は煌めく泉のようだった。

彼女は王女とは思えない軽装で、下働きの子供達と鬼ごっこをしていた。

弾むような笑い声。輝くような笑顔。

エメリッヒは一瞬で目を奪われた。

『こっちですわ!エメリッヒ!』

『待ってよ!姫!』

生まれて初めての鬼ごっこ。

乳母達に甘やかされ走ることも滅多になかったエメリッヒでは、なかなかアルトゥールに追いつけない。終いには躓き、派手に転んでエメリッヒは鼻水をたらして泣き出した。

『エメリッヒは泣き虫ですのね』

呆れ顔のアルトゥールに、エメリッヒの涙がひっこむ。

エメリッヒが泣けば誰もがチヤホヤとなだめすかしてくれたのに、アルトゥールは呆れている。

急に、エメリッヒは恥ずかしくなり、俯いた。

アルトゥールはエメリッヒの手をとり、歩き出す。

『怪我を手当しなきゃいけませんわ。お母様のところに連れて行ってあげますわ』

エメリッヒがアルトゥールの母親ーー伯父の妻であり、この国の王妃と会うのはその時が初めてだった。

アルトゥールの母親は、王妃であるにも関わらず滅多に公的な場所に姿を現さない。

他でもない伯父が彼女(つま)を蔑ろにしていたからだ。

夫に見放された王妃を誰もが侮り、いないかのように扱った。

『大丈夫。すぐによくなりますよ』

アルトゥールの母親とは思えないほど、その人は平凡な顔立ちだった。

けれど、その穏やかな微笑みに、傷を洗ってくれた柔らかな手に、エメリッヒの胸は熱くなって、目から涙があふれ出る。

アルトゥールが、困った顔をした。

『エメリッヒ?痛いんですの?』

『違……』

食べきれないほどの豪華な食事も、お菓子も、絹の服や部屋いっぱいの玩具も、こんなふうにエメリッヒの胸を熱くしてはくれなかった。

こんな優しさを、安心を、アルトゥールは毎日当然のように享受しているのだ。

(僕だって……!)

伯父に愛されている。愛されているのだ。

だから羨ましくなんてない。妬ましくなんてない。

必死に自分に言い聞かせても、知ってしまった『寂しさ』を、どう埋めればいいのかエメリッヒにはわからない。

だから、毎日のようにアルトゥールと遊ぶようになった。

そしてわざと転んで怪我をして、アルトゥールに手を引かれてアルトゥールの母親の部屋にいく。

アルトゥールの母親は、いつも優しく迎えてくれた。

頬を寄せて、抱きしめてくれた。

寂しさが……心が満たされていく。

けれど、そんな日々は長くは続かなかった。

アルトゥールの母親が死んだのだ。

塞ぎこむアルトゥールを、エメリッヒは部屋から連れ出した。 アルトゥールを元気づけるために始まった鬼ごっこ。

沈んでいたアルトゥールの顔に、微かに笑顔が滲む。

それなのに、その笑顔は踏みにじられた。

他でもない伯父ーーーーアルトゥールの父親によって。

『これだから女は……媚を売ることしか知らん』

物陰から様子を窺っていたエメリッヒの耳には、アルトゥールの心がひび割れて、砕け散った音が聞こえた気がした。

以来、アルトゥールは笑わなくなった。

人形のように表情を亡くした彼女を、人々は厭い、離れていく。

どうにかしなければと、エメリッヒは焦った。

笑わないなら、せめて泣かせてやりたい。

アルトゥールの胸の奥に鬱屈しているだろう想いを、泣くことで吐き出させてやりたい。

だから、意地悪をした。

アルトゥールが泣くように、怒るように、アルトゥールが嫌がることをした。

アルトゥールの髪をひっぱり、お菓子を横取りし、悪口を言った。

けれど、アルトゥールは泣かない。

これくらいではダメなのだ。もっとアルトゥールが嫌がることをしなければ。

そう考えたエメリッヒは、アルトゥールから、彼女が最も大切にしている物に目をつけた。アルトゥールの母親の形見だという小さな袋だ。

中に何が入っているかは知らないが、アルトゥールはそれをいつも首から下げて、肌見放さず持っている。

それを、エメリッヒは奪った。

『返してですわ!』

必死に追いかけてくるアルトゥールに、エメリッヒの唇に笑みが浮かぶ。

『返して欲しければここまでおいで!』

直後。エメリッヒの体は階段から転げ落ちた。




運がよかったと、医者は言った。打ちどころが悪ければ死んでいたと。

『何ということをしたのだ!』

伯父は怒り狂った。そしてアルトゥールを叩いた。

アルトゥールの白い頬は赤く腫れ上がり、唇から血が出ても、伯父はアルトゥールをなぶり続けた。

あまりの剣幕に、誰もが恐れて止めることも出来ない。

エメリッヒもそうだった。アルトゥールは悪くないのだと言いたいにの、初めて見る激昂する伯父が恐ろしくてたまらない。エメリッヒは、世話係の侍女の影でただただ震えるだけだった。

『エメリッヒは余の跡継ぎになるのだぞ!万が一のことがあったらどうしてくれる!』

伯父は、遂にはアルトゥールを引きずって、王城のすみにある塔の一室に放り込んだ。

『余の許しなしにこの傲慢な娘を塔から出すことは許さんぞ!』

誰も、王には逆らえない。

下手にアルトゥールを庇えば、自分にも類が及ぶからだ。

一日、十日、一月、半年、一年……。

いつまでたっても、アルトゥールは塔から出てこない。

伯父は、アルトゥールを許さなかった。

いや、アルトゥールの存在すら忘れているようだった。

『…………』

エメリッヒは、拳を握り締める。

以前から、アルトゥールが国王(ちちおや)に蔑ろにされているという噂は囁かれていた。

そしてその噂を聞くたび、エメリッヒは優越感を抱いていたのだ。より濃い血を受け継ぐ実子(アルトゥール)より、甥である自分の方が愛されているのだと。

愚かだった。

愚かであることすら気づかないほど、エメリッヒは幼かった。


『エメリッヒは余の後継ぎになるのだぞ!』


ーーーーだから、伯父は自分を大切にしているのだと、その頃のエメリッヒはもう悟っていた。

後継ぎだから、男だから、大切なのだ。

自分がもし女なら、きっと自分もアルトゥールと同じように蔑ろにされていただろう。

無条件に愛されているわけでは、ない。

けれど、もうよかった。

アルトゥールの母が、抱きしめてくれたから。

彼女は高価な贈り物をくれたわけでも、狐狩りに連れて行ってくれたわけでもない。けれど愛情が何かを、教えてくれた。

血がつながらない甥を、けれど彼女は確かに愛してくれた。

それでもう、きっと十分だ。

目尻に浮かんだ涙を、エメリッヒは腕で乱暴に拭った。

『泣くな……!』

立派な後継ぎにならなくてはならない。誰からも認められる後継ぎにふさわしい男になって、そしてアルトゥールをあの塔から助け出すのだ。

それが出来るのは自分だけ。

アルトゥールの母がくれた愛情に報いるには、それしかないのだ。


呪いにも似た重い義務感。

それは、コルネリアと出会って激しい恋に落ちても、少しも薄れてはくれなかった。


アルトゥールを助け出さなければならない。

アルトゥールに幸せになってもらわなければならない。

もう一度笑ってもらわなければ。




それなのに



穢らわしい魔族なんかに嫁ぐなんて―――――!!




***




金属の耳障りな接触音。

細かな火花が刹那散り、スピーゲルとアルトゥールめがけて振り下ろされた剣は、回転しながら宙に弾き飛ばされ、そして床に突き刺さった。

「……っ!?」

スピーゲルが、僅かに身を起こし背後を振り返る。騎士に背を向けアルトゥールを庇っていた彼には、何が起こったかは分からなかっただろう。けれど、アルトゥールはすべて見ていた。

「エメリッヒ!」

振り下ろされた剣とアルトゥールとスピーゲルの間に、滑り込むように割って入ったのはエメリッヒだった。

エメリッヒは手にしていた剣で、騎士の剣を受け止め、それを弾いたのだ。

「こ、公子!」

「エメリッヒ様!お怪我は!?」

はからずもエメリッヒに斬りかかってしまった騎士は顔を真っ青にし、周囲の騎士達もエメリッヒを案じて一目散に集まってきた。

「大事ない」

エメリッヒは一言発すると鞘に剣を戻し、アルトゥールとスピーゲルに向き直る。そして、憎々しげにスピーゲルを睨んだ。

「何故、魔族が姫を庇う?」

アルトゥールはスピーゲルの腕の中から飛び出し、エメリッヒに対峙した。

「スピーゲルは、ずっとわたくしを守ってくれていたんですわ!」

「何から守ると言うんだ!?」

エメリッヒは顔をしかめる。

「魔族こそが脅威!魔族こそが災厄の元凶!何故あなたは穢らわしい魔族を庇うのだ!?察するに夫婦というのは偽りだな!?この魔族を庇うために、従兄の私に嘘をついたのか!?」

「それは謝りますわ!でも……っ」

「危うく騙されるところだったが魔族とわかったからにはすぐに……」

ガタン、と扉が大きく鳴った。

誰もが、その音を振り向く。

そこにいたのは、コルネリアだった。

「……コルネリア様?」

「……」

アルトゥールの呼び掛けに、コルネリアは応えない。

何故か彼女は驚き、怯えたふうな表情をしていて、壊れていない方の扉に寄り掛かっていた。そしてそのままズルズルと床に座り込む。

「コルネリア!?」

エメリッヒが駆け寄ると、コルネリアはエメリッヒにすがり、震える唇から、か細い声を漏らした。

「……痛……」

「何?どうした?」

「……お腹、が……」

コルネリアのドレスの裾が赤く汚れていることに、アルトゥールは気が付いた。

(……血!?)

事態を飲み込むことも、コルネリアから目を離す事も出来ず、アルトゥールは背後のスピーゲルに尋ねた。

「スピーゲル……赤ちゃんが生まれるんですの?だから血が?」

「……陣痛が始まる前兆として出血することがあると師匠から聞いたことはありますが……」

途切れた言葉の先を求めて、アルトゥールはスピーゲルを振り仰ぐ。

スピーゲルは、難しい顔をしていた。

「……けれど、あの出血量はおかしい」

「おかしいって……」

アルトゥールは眉をひそめた。

出産は命がけと言われている。難産や産後の肥だちが悪くて命を落とす女性は珍しくない。まさかコルネリアの命も危ないというのだろうか。

「……っ穢らわしい魔族め!」

突然エメリッヒがいきりたち、また鞘から剣を抜く。

「早くも厄災を呼び寄せたな!?今すぐ血祭りにしてやる!」

「ち、違いますわ!」

アルトゥールは叫んだ。

「スピーゲルは何もしていませんわ!」

だが、エメリッヒに呼応するように、周囲の騎士達もまた剣をかまえた。

「穢らわしい魔族め!」

「思い知るがいい!」

騎士達は口々にスピーゲルを罵った。

(どうして……!)

アルトゥールは手を握り締めた。悔しくてたまらない。

スピーゲルは何もしていないのに、何故悪いことが起きるとすべてスピーゲルのせいにされてしまうのだ。

「揃いも揃って……っ!!」

アルトゥールは肺いっぱいに息を吸い込み、そしてそれを声に変換して喉から叩き出した。


「この、石頭のわからず屋あーーーっっっ!!」


耳が痺れるほどの絶叫に、エメリッヒをはじめとした騎士達が目を丸くし、スピーゲルも、そしてアヒムも呆気にとられて動きを止めた。

「姫……?」

「お姫様?」

アルトゥールは一番傍にいた騎士を指差し、捲し立てる。

「剣を振り回して赤ん坊が無事に生まれるんですの!?それなら腕が千切れるまで一人で勝手に振り回せばいいんですわ!」

「え……あ、あの……」

アルトゥールの勢いに飲まれ、騎士はたじたじだ。

「エメリッヒ!!」

アルトゥールは次いで従兄に向き直った。

アルトゥールのあまりの剣幕に、エメリッヒがビクリと肩を揺らす。

「な、何だ!?」

「あなたは『お父様』になるんですのよ!?それなのに何をしているんですの!?やることが他にあるでしょう!?」

不測の事態をスピーゲルのせいにして苛立ちをぶつけるより、エメリッヒには優先すべき大切なことがあるはずだ。

「エメリッヒ!!」

「……ちっ」

アルトゥールが促すと、エメリッヒは小さく舌打ちしつつ、剣を鞘に収めた。

それを確認し、アルトゥールはスピーゲルを振り向く。

「スピーゲル。コルネリア様と赤ちゃんを助けてくださいですわ」

彼に頼むべきことではないということはわかっている。本当なら今すぐ彼をここから逃がすべきなのだ。

(でも……っ)

コルネリアの出血に、アルトゥールは言い知れない恐怖を感じていた。

アルトゥールの母親も、かつてアルトゥールを産んだ際の難産で体を壊し、終生健康を回復することはできなかったのだ。

目の前で大きなお腹を抱えて青ざめているコルネリアに、アルトゥールは自らの母親の影を見ていた。

アルトゥールの視線にそんな切羽詰まった悲壮感を感じとってくれたのか、スピーゲルは頷いた。

「……わかりました」

足を踏み出したスピーゲルの前に、エメリッヒが立ち塞がる。

「妻に触るな!」

「……血を止めないと」

スピーゲルは、静かにエメリッヒに言う。

「あの血は異常です。量が多いし鮮やかすぎる。早く対処しないと……」

「信用できるか!貴様の一族は伯父上に根絶やしにされたのだぞ!貴様は我々を恨んでいるはずだ!コルネリアを呪い殺すつもりにきまっている!」

「エメリッヒ!」

アルトゥールは二人の間に割り入った。

「スピーゲルはそんな……」

「……あなたが言う通りだ」

その肯定に驚いて、アルトゥールはスピーゲルを仰ぐ。

スピーゲルは切れ長な目で、エメリッヒを見据えていた。

「僕が生まれたその日に、僕の一族が暮らしていた谷は焼き払われた。僕は父親の顔も、生まれた家の壁の色すら知らない。髪を蔑まれ、目を罵られ、石を投げられて生きてきた。恨まないはずないだろう?憎まないはずないだろう?」

スピーゲルの目に憎悪が揺れる。その暗い光に、アルトゥールは初めて気づかされた。

(スピーゲルは……)

身を焦がすような恨みを、憎しみを知っている。知っていて、それをずっと押さえてきたのだ。

優しいだけではない。彼は、憎しみを捩じ伏せる強さも持っている。

今まで知らなかったスピーゲルの一面を見て、アルトゥールは何故か泣きたくなった。

スピーゲルは語気を強くする。

「だからって、あなたの奥方を呪い殺してどうなるんです?滅びた一族が蘇るんですか?火炙りにされた父が生き返るんですか?僕が与えられるはずだったものが戻ってくるんですか!?」

「そ……れは……」

スピーゲルに気圧されながらも、エメリッヒは負けじと何かを言い返そうとする。

だが、スピーゲルは容赦しなかった。

「そんなわけないでしょう!?何をしたって失われた命は戻らない!過去は変えられない!そんなことすら分からない生物だと僕を見下すのは勝手だが、奥方と赤ん坊を助けたいならそこをどけ!どうしても火炙りにしたいなら後にしろ!」

「……っ」

完全に、エメリッヒが黙する。

アヒムが口笛を吹いた。

「旦那かっこいー」

スピーゲルはエメリッヒを押し退けコルネリアに近づくと、膝をつく。

コルネリアはスピーゲルを恐れてか涙ぐんでいる。彼女の国でも、スピーゲルの一族は侮蔑と畏怖の対象なのだろう。

コルネリアを落ちつかせようと、スピーゲルは優しく彼女に話しかけた。

「お腹に触らせてください」

「……っ」

コルネリアの目はスピーゲルを拒絶していた。

アルトゥールはスピーゲルと同じようにコルネリアの前に跪く。

「大丈夫ですわコルネリア様!スピーゲルは村々を回って病気の人を治していたお師匠様のお手伝いをしていたんですのよ!だから病気や怪我を治す魔法は得意なんですわ!」

「……でも」

「大丈夫ですわ!」

アルトゥールは重ねて言う。

アルトゥールのスピーゲルに対する絶対的な信頼感。それを感じたらしいコルネリアは、唇を噛み締め頷いた。

「……わかり、ました」

震える声でコルネリアが承諾すると、スピーゲルは革手袋をはずし、コルネリアの大きなお腹に触れた。

「お腹の張りはいつから?」

「……張りは少し前から……よくあることと気にしていなかったのですが……」

コルネリアの答えに、スピーゲルは眉を寄せた。

「お腹の中で、臍の緒が根本から剥がれかけているんだと思います」

「え……?」

「魔法で臍の緒を補強することは出来ますが、長くは保てません。今日、赤ん坊を生んでください」

「馬鹿を言うな!!」

エメリッヒが叫び、後ろからスピーゲルの肩を引く。

「生み月にはまだ早い!赤ん坊が死んでしまう!それに陣痛もないというのに……!」

「今生まなければ奥方も赤ん坊も死にますよ!?」

スピーゲルはエメリッヒの手を振り払う。

スピーゲルとエメリッヒの二人は睨み合い、張り詰めた空気が痛いほどだ。

「……た、すけて……」

コルネリアが、スピーゲルの腕にすがった。

涙を流しながら、コルネリアはスピーゲルに懇願する。

「私はどうなってもかまいません……この子を……お腹の子を……助けてください」

少し驚いた風に目を見張ったスピーゲルは、次に滲むように微笑んだ。

「『どうなっても』なんて言うのはやめましょう?あなたは無事に赤ん坊を生んで、その手で赤ん坊を抱き締める。そうですよね?」

スピーゲルの言葉に、今度はコルネリアが驚いたように目を見張り、そして涙が滲んだ目を細めて微笑んだ。

「はい」

スピーゲルは、肩越しにエメリッヒを見やる。

「いいですね?」

「……っ」

エメリッヒは決断しかねるように目を伏せたが、そのままスピーゲルに深く頭を下げた。

「……頼む!」

スピーゲルは頷くことでエメリッヒに応え、コルネリアの手をとるとその名を呼んだ。

「『コルネリア』」

「……『はい』」

その返事を受けて、スピーゲルは薄い唇で呪文を紡ぐ。

呪文は光になり、無数の小さな光が星屑のようにコルネリアの体に降り注ぐ。

美しく幻想的な光景に、誰もが言葉を失い、立ち尽くした。

厳粛で神聖な空気。

その空気は、光が滲むように消えるとともに、日常の色を取り戻す。

力が抜けたのか、コルネリアの体が傾ぐ。それを支えたのはスピーゲルだった。

「出血はこれで押さえられるはずです。陣痛を促す魔法もかけたので、産婆を呼んでお産の用意をしてください」

スピーゲルは首を回し、エメリッヒに指示を出す。少し悔しそうに顔を歪めながらも、エメリッヒは頷いた。

「承知した」

「それから」

「まだ何かあるのか!?」

「僕が奥方を部屋まで運んでもかまいませんが、どうしますか?」

「……っ私が運ぶ!!」

エメリッヒは一息にコルネリアを抱き上げようとしたが、それを見たスピーゲルは目を吊り上げた。

「お腹を圧迫しないでください!」

「はっ!そ、そうか、すまん」

「そっちを抱えて、僕が足を支えます」

「う、うむ。頼む……何故貴様が指図するのだ!」

言い争いながらも協力してコルネリアを運ぶ二人の姿に、騎士達は戸惑い立ち尽くす。

そこにアヒムが手を叩いた。

「はいはーい。とりあえずやれることやろー。えっとー…君は産婆さん呼んできてね。あ、君は炊事場でお湯沸かしてもらって、それから君は侍女に言って清潔な布集めてね。残りの人は掃除でもするか隅で座っててーウロウロされると邪魔になるから」

アヒムの指示を受けて、騎士達は『こいつは誰だ』と怪訝な顔をしながらも動き出す。

「わ、わたくしも何か手伝いますわ!」

アルトゥールはコルネリアを抱えたエメリッヒとスピーゲルの後を追いかけた。

『手伝う』とは言ったものの、アルトゥールに出来ることといえばコルネリアの額に浮かぶ汗をふいてやることくらいだ。

寒がるコルネリアの為にアヒムは暖炉に火をいれ、エメリッヒはスピーゲル指導のもとでコルネリアの腰をさする。

「だから!違います!もっと力いれてください!」

「そんなに言うなら貴様がやれ!」

「奥方に触るなと言ったのはあなたでしょう!?」

そうこうするうちに騎士におぶわれて産婆があらわれ、全員部屋から追い出されてしまった。

赤ん坊が生まれたのは夜が明け、朝がきて、また夜が訪れる頃だ。 

響いた産声に、城のあちこちから歓声があがる。

アルトゥールとスピーゲルは顔を見合せ、同時に口元を綻ばせた。

「生まれましたわね」

「元気な泣き声だ」

心の底から安堵と喜びが込み上げてくる。

お産を手伝っていた侍女が、部屋の扉から顔を出した。

「おめでとうございます。元気な若君です」

廊下をずっと右往左往していたエメリッヒは、侍女に飛び付いた。

「コルネリアは!?」

「ご無事です」

「会えるか!?」

「少しでしたら」

侍女はそう言って、扉を開けてくれた。

エメリッヒだけが中に入り、アルトゥール達は入り口から中を覗き見るに止めた。

コルネリアは、天幕を上げた白い(しつら)えの寝台に横になっていた。彼女のそのすぐ隣に、まるで子猫のような泣き声をあげる赤ん坊がいた。

「コルネリア!」

「エメリッヒ様」

寝台に駆け寄るエメリッヒに、コルネリアがゆったり微笑む。

エメリッヒは目を潤ませてコルネリアの髪を撫でた。

「よく……よく頑張ってくれた!よく……!」

固く手をとり合う二人の脇で、背が低い産婆が桶の水で手を洗っていた。

「呼びに来た騎士が出血していると大慌てしていたから、これはまずいと思ったけどね。初産でこれなら安産のうちだよ。赤ん坊も元気だ」

それを聞いてアルトゥールは驚いた。これだけ時間がかかって、苦しんで、それでも安産なのか。

エメリッヒが産婆に尋ねる。

「やはり出血するとまずいのか?」

「陣痛がこないうちに大量に出血するのはまずいね」

産婆はトントンと拳で腰を打った。

「そういうのは大抵腹の中で臍の緒の根本が母親の胎から剥がれちまってるのさ。こうなるとまず赤ん坊も母親も助からない。だが今回は臍の緒は赤ん坊が出てくるまでしっかり奥方(ははおや)につながってたし、陣痛の波も順調だった。……はて。一体何の出血だったんだろうね」

産婆が不思議そうに首をひねる。

そこへ、アルトゥールの後ろから部屋を覗いていたアヒムが軽口めいて言った。

「旦那いなきゃやばかったんじゃん?よかったねー旦那がいて」

アヒムはエメリッヒに対して敬語を使わなかった。いや、エメリッヒが敬語を使うべき身分だと忘れているのかもしれない。

そんなアヒムの不敬を、エメリッヒは(コルネリア)同様に気にする風もない。

「確かに!その通りだ!」

エメリッヒは真剣な顔で頷くと、すっくと立ち上がった。部屋を走って横切り、まずアルトゥールの手を握る。

「姫!協力に感謝する!それから……」

エメリッヒはアヒムの手を握り、その顔を見て一瞬止まる。

「……名前は知らんが、感謝するぞ!」

「彼はアヒムですわ」

「いや。テオね。テオバルト」

すでに定番と化したやりとりをするアルトゥールとアヒムを押し退けて、エメリッヒは廊下で遠慮がちに部屋を窺っていたスピーゲルの手をとった。

「スピーゲル!心から感謝する!お前は妻と息子の命の恩人だ!!終世この恩は忘れない!」

暑苦しいほどに直球で情熱的な謝辞である。

スピーゲルに『穢らわしい魔族』だの『信用できるか!』だの、挙げ句の果てには『コルネリアを呪い殺すつもりにきまっている!』と暴言を吐いていた人物と同じ人間とは思えない。

スピーゲルはと言えば、エメリッヒの熱量に怯えるように後ろずさる。

「い、いや僕はちょっと魔法をかけただけで、頑張ったのは奥方で……」

「お前は何と謙虚な男なのだ!我が友よーッッッ!!」

エメリッヒは突然スピーゲルを強く抱き締めた。

完全に予想外の展開に、スピーゲルが永久凍土なみに凍りつく。

「友よーッッッ!!」

「……」

あまりに温度差が激しい抱擁を見て、アルトゥールとアヒムは声をたてて笑った。

「スピーゲル、顔がひきつってますわよ」

「あははー!うけるー」

静かな夜の空に、星が笑うように瞬いた。





***





コルネリアの出産も無事に終わり、ようやく落ち着いて食事の席についたスピーゲル達だったが、いくらもたたないうちにアルトゥールがコクリコクリと船をこぎ始めた。

「姫?眠いんですか?」

スピーゲルが尋ねるや、アルトゥールの上半身が急激に傾く。

「姫!?」

スピーゲルは慌てて両手を出し、料理に勢いよく突っ込む寸前だったアルトゥールの顔を受け止めた。

「おぉー旦那。さすがー」

隣で骨付き肉を頬張りながら、アヒムが拍手する。

「姫?」

呼び掛けるも、アルトゥールからは返事はなかった。こうなったら、もはや朝まで起きるまい。

(相変わらずだな……)

まるで小さな子供のようだ。本能に忠実と言うべきなのだろうか。

スピーゲルは溜め息をつくと、脱力したアルトゥールの体をどうに腕に抱える。

「休む部屋を用意してもらってかまいませんか?」

テーブルを挟んで向こう側たエメリッヒは、不思議そうに顔をしかめた。

「勿論だ。ところで……一応確認するが、夫婦というのは偽りだったんだな?」

「そうです」

アルトゥールを抱き上げスピーゲルは答えたが、エメリッヒは納得できないという顔だ。

「では……恋人とか?」

「違います」

即座にスピーゲルが否定するも、エメリッヒはやはり得心いかないらしい。

「それにしては……何というか……距離が妙に近いな。お前と姫は」

「……」

言われて、スピーゲルは気が付いた。

(しまった……)

当たり前のようにアルトゥールを抱き上げてしまったが、よくよく考えればこれはアルトゥールと結婚する予定のアヒムの役目ではないのだろうか。

とは言え、アヒムはパンにかじりついて椅子から立ち上がろうとすらしない。

その様子に、スピーゲルが以前から抱いていた不安がまた大きくなる。

(……本当に、アヒムに姫を任せて大丈夫かな……)

自分がそんな心配をするような立場ではないことも、スピーゲルのそんな心配はアヒムやアルトゥールにとっては大きなお世話だろうことも百も承知だが、どうにも気になって仕方がない。

「ともかく、部屋に案内しよう」

エメリッヒは立ち上がり、部屋のすみにあった燭台を手にした。歩き出したエメリッヒの背中に従い、スピーゲルは部屋から出る。

暗い廊下に、靴音だけが響く。

窓から差し込む月の光に、アルトゥールの寝顔が照らしだされた。

長い睫毛の影が、白い頬に落ちている。

アルトゥールを王城から連れ出した夜を、スピーゲルは思い出した。

あの夜もアルトゥールは突然眠りに落ちて、空を飛ぶジギスヴァルトの背から危うく転がり落ちそうになったのだ。

遠い昔の出来事のようでいて、つい昨日のことのような気もする。

「……スピーゲル」

前を行くエメリッヒが、振り向かずにスピーゲルを呼んだ。

「はい?」

「王城で、魔族狩りに関わった高位貴族や聖騎士団の関係者が惨殺される事件が頻発していることを知っているか?」

エメリッヒは前を向いたままだ。

(……ああ、だからか)

侍女や侍従に指示すればすむことだろうに、エメリッヒ自ら部屋に案内するなどおかしいとは思った。エメリッヒは、スピーゲルとこの話がしたくて案内を買ってでたのだろう。

「……はい」

スピーゲルは首肯する。

するとエメリッヒは立ち止まり、スピーゲルを振り向いた。

「お前がやったのか?」

エメリッヒの目が、真っ直ぐにスピーゲルを貫く。

その目から逃げることなく、スピーゲルはまた頷いた。

「はい」

「お妃様か?」

間髪いれずにエメリッヒから投げられた問い掛けに、スピーゲルは驚いて息を飲んだ。

「え……?」

「お前に魔族狩りの関係者の殺害を命じたのはお妃様ではないのか?」

「……」

すぐには、スピーゲルは答えられなかった。

スピーゲルが犯した罪とイザベラの存在を、何故エメリッヒは直結して考えたのだろう。

「……何故」

掠れた声を飲み込み、スピーゲルは改めてエメリッヒに問いかけた。

「何故、そう考えるんですか?」

「『お妃と魔族を見た』という証言がいくつか報告されていてな。お妃が魔族を飼っていて、自分に異を唱える者を殺させているのではないかと以前から考えていたのだ」

整然と答えるエメリッヒに、スピーゲルは感心した。

アヒムに聞いた『有能で人望がある公子』というエメリッヒに対する世間の評価は、間違ってはいないのかもしれない。

確かに高い身分の人間にありがちな居丈高なところはある。けれど、彼は自らの過ちを謝罪できる人間だ。感謝を、言葉と態度に表すことが出来る人間だ。

「だが、実際お前に会ってみれば、想像していた残虐な魔族とはどうも考えられん。……お前はイザベラに仕えているのか?それとも雇われているのか?」

エメリッヒの質問には答えず、スピーゲルは自嘲してみせた。

「僕を火炙りにしますか?」

そうされても、文句は言えない。

イザベラを欺き、人々から自由と人生を奪った。

いつか自分には天罰がくだされるろう。スピーゲルはずっとそう考えている。

しかし、エメリッヒは首を横に振った。

「いいや、頼みがある!伯父上の前で……国王陛下の前で証言をして欲しいのだ!」

「……証言?」

訊き返したスピーゲルに、エメリッヒは前のめりになった。

「そうだ!お前を証人としてあのお妃を糾弾し、国から追放する!あの女のせいでこの国の内政はめちゃくちゃだ。だが、表だってお妃を批判すれば命はない。なんとか伯父上の目をさますことができないかとひそかに機会を探していたのだ」

エメリッヒは声に、目に、力をこめて更に言った。

「頼むスピーゲル!お前は証人として減刑、いや、無罪にしよう!必要なら褒美も出す。悪い話ではあるまい!?」

「……」

腕の中の愛しい温もりを、スピーゲルは見下ろした。

ーー……笑っていて欲しい。

幸せでいて欲しい。

(僕の隣でなくてかまわないから……)

どこまでも走っていける、自由で限りない広い世界を。

そのためなら、何だってする。

「……証言は、無理です」

スピーゲルが答えると、エメリッヒは落胆を隠せない表情で詰め寄ってきた。

「何故だ!?お妃のすることにお前は何か思うところがあるのではないのか!?だから姫のことも死を偽装して匿ってくれていたのでは……」

「証言したとしても、魔族の言うことなど誰も信じない」

自虐ともとれるスピーゲルの言葉に、エメリッヒが言葉を飲み込んだのがわかった。

『そんなことはない』とは彼は言えないだろう。『魔族』に対する差別と偏見という残酷な現実を、エメリッヒは知っている。

悔しげに唇を噛み締めるエメリッヒに、スピーゲルは告げた。

「ですが、()はあります」

「え?」

スピーゲルは、肩越しに背後に目をやった。

「アヒム。いる?」

「いるよー」

ひょい、と廊下の角からアヒムが顔を出す。

「ね?旦那。俺の考えやっぱりイケてたでしょ?公子様を味方にしよ、ての」

スピーゲルは小さく笑ってアヒムに謝った。

「うん。無理だとか言ってごめん」

「お前達ーー……」

エメリッヒは眉をひそめ、スピーゲルとアヒムを交互に見る。

「お前達は一体……」

眠るアルトゥールを抱き直し、スピーゲルはエメリッヒを見据えた。

「褒美はいりません。減刑も、無罪放免も望みません。イザベラと共に裁いてもらってかまわない。ただ……」

夜の闇に紛れて、男達の密談が交わされる。

スピーゲルに抱えられ安心しきって眠るアルトゥールは、そんな密談など知るよしもなかった。




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