笑わず姫と香草焼きーエメリッヒ①ー
エメリッヒの居城は、この地方の代々の領主の持ち物らしい。重々しい石造りの城は暗く古めかしく、まるで亡霊でも彷徨いていそうな雰囲気だった。
漆喰が塗られていない石壁が剥き出しの廊下を抜け、アルトゥールとスピーゲルは主居館の一階の部屋に案内される。
部屋の中は、廊下とは見違えるほどに明るい内装が施されていた。白を基調とした壁には青磁色の漆喰で月桂樹を模した化粧が施され、明るい色の木目の床は温かみがある。
客をもてなす用途で整えられた部屋ではなく、家族など親しい間柄で食事を楽しみ寛ぐための空間のようだ。
白い布が敷かれた長い机には、香ばしく焼かれた鵝の丸焼きをはじめ、パイや色とりどりの果物が並んでいる。
「……姫。涎」
「はっ!」
スピーゲルの指摘に、アルトゥールは慌てて口を拭う。
エメリッヒが嫌味っぽく笑った。
「大食は相変わらずなようだな。まぁ、座れ。遠慮なく食べるといい」
アルトゥールとスピーゲルが並んで席につくと、侍女がやってきてアルトゥールの目の前に置かれた硝子のグラスに飲み物を注いでくれた。
それを見たアルトゥールは急激に喉の渇きを覚え、すぐに手を伸ばす。
ところが、スピーゲルが横から手を出し、グラスに掌で蓋をしてしまった。
「これは何です?」
スピーゲルが尋ねると、侍女は頭を下げて答えた。
「白葡萄の果実水でございます」
スピーゲルはそれを鵜呑みには出来なかったらしい。硝子のグラスを鼻先まで持っていき、匂いを嗅ぐ。そうしてやっと、彼は納得したようだ。
「飲んでも大丈夫です」
スピーゲルに手渡された硝子のグラスを、アルトゥールは両手に持って口に運んだ。
(……二度もありましたものね)
アルトゥールが間違えて酒を飲み、酔い潰れたのは今日の昼間で二度目だ。
二度あることは三度ある。スピーゲルが警戒するのも無理からぬことである。
だが、事情を知らないエメリッヒは、スピーゲルの動向を鼻で笑う。
「妻の飲み物にまで口をだすとは。姫、あなたは随分と口うるさい男を夫にもったようだな」
この言葉に、アルトゥールはカチンときた。何故エメリッヒにスピーゲルのことをとやかく言われなければならないのだ。
グラスを勢いよく置き、アルトゥールは眉間に皺をよせて立ち上がる。
「エメリッヒ!さっきからいちいち失礼で……」
腕をスピーゲルに引かれ、アルトゥールは発するつもりだった言葉を飲み込んだ。
「……スピーゲル?」
アルトゥールが見ると、スピーゲルは静かに口を開いた。
「父親から蔑ろにされる従妹を見ても何もしなかった誰かさんよりはよっぽどましです」
アルトゥールは驚いた。スピーゲルらしからぬ挑発的な発言だ。
エメリッヒが顔をひきつらせる。
「言うではないか」
「言われたままでいる義理はありませんから」
火花を散らして睨みあうスピーゲルとエメリッヒに挟まれ、アルトゥールは身を縮ませた。
ここは少し強引であろうと、話を逸らすより他ない。
「エ、エメリッヒはいつからここに!?国境の警備を任されるなんて、相変わらずお父様の信頼が厚いんですのね!」
「……逆だ」
「逆?」
アルトゥールが訊き返すと、エメリッヒは目元に皺を寄せ、侍女が注いだ葡萄酒に口をつける。
「少し前のことだ。一人の部下に、私は頭を悩ませていた。その部下はある人物の権威を後ろ盾にした専横が目にあまり、私はこれを直に陛下へ言上し処分をお願い申し上げようとしたのだ。だがその不在中に銀髪の子供が『魔族』として聖騎士団に突き出されてきてな」
アルトゥールとスピーゲルは、ピクリと肩を揺らす。
銀髪の子供……それはもしや……。
「問題の部下はその子供を大した吟味もなく火炙りにしようとした。恐ろしいことだ。ただ銀髪というだけで、子供を殺そうとしたのだからな。だが、そこへ本物の魔族があらわれたのだ。魔族は竜と仲間の黒髪の魔女を連れ、街を破壊し人々を恐怖に陥れ……」
「……」
「……」
何も言えず、アルトゥールとスピーゲルはそれぞれ床に視線を彷徨わせる。
二人の様子がおかしいことに、エメリッヒは気づかない。
「この騒ぎの際に留守にしていた責任を問われて私は団長の任を陛下にお返しするよりなかった。口惜しいのは私の後任として聖騎士団の団長になったのは例の部下だ。噂によれば聖騎士団の団長とは名ばかりで日々遊興三昧だとか」
エメリッヒは、疲れたように大きくため息をつく。
「そして私はこの辺境に遣わされたわけだ。陛下は近年私を疎んじておられるからな。口うるさく意見する者がいなくなったと、今頃せいせいしておられることだろう……ん?どうした、姫?顔色が悪そうだが?」
「え、あ、な、何でもありませんですわ」
苦笑いで取り繕うと、アルトゥールはスピーゲルにヒソヒソと耳打ちする。
「スピーゲル。銀髪の子供ってザシャ達のことですわよね?それに、魔族に竜に黒髪の魔女って、それってわたくし達の……」
つまり、エメリッヒが聖騎士団団長の座を奪われたのはアルトゥールとスピーゲルの責任だ。
「わたくし達謝らなければいけないんじゃありませんの?」
「そ、そうは言っても、謝ったらバレちゃうじゃないですか。僕の正体」
二人が密やかに相談していた時、廊下側から扉が叩かれ、声が聞こえた。
「エメリッヒ様。お邪魔してもよろしいですか?」
「コルネリア!?」
エメリッヒが大急ぎで部屋を横切り、飛び付くようにして扉を開ける。
「コルネリア!出歩いていいのか?」
「病人じゃありませんのよ」
ゆったりと微笑みながら部屋にはいってきたのは、薄い色の金髪を優雅に結い上げた貴婦人だった。
白地に細かな花模様が織られたドレスの縁には青碧色のフリルが飾り付けられ、しとやかな印象の彼女によく似合っていた。この部屋の設えも、きっと彼女の趣味なのだろう。
「お客様がいらしていると聞いて、一言御挨拶をと思いましたの」
貴婦人は重いほどに長いまつ毛を品よく瞬かせ、視線を巡らせた。
「……っ」
アルトゥールが反射的に立ち上がると、彼女は優しげな目元を緩めて美しく笑う。
「初めまして。コルネリアともうします」
コルネリアはドレスを軽くつまみ、膝を折る。宮廷風の御辞儀は洗練されていて、とても優雅だ。
「は、初めまして……ですわ」
コルネリアの美しさと気品に圧倒され、アルトゥールは口ごもる。
それにしても、この貴婦人は何者だろう。自国の宮廷にこんな女性がいただろうかとアルトゥールは思いを巡らせたが、元より貴族達との交流がないアルトゥールに彼女の正体がわかるわけもない。
コルネリアは背筋をのばすと、ゆったりとエメリッヒに笑いかけた。
「それで、エメリッヒ様。こちらの方はどなたですの?まさか、侍女達が騒いでいるように本当にあなたの愛人というわけでございませんでしょう?」
コルネリアの発言に、アルトゥールとエメリッヒは目を剥き声を上げる。
「あ、愛人!?」
「愛人だと!?じ、侍女がそんなことを!?」
「その反応を見ると、やはり違いますのね」
ホホホ、と上品に笑うコルネリアに、エメリッヒは顔をしかめた。
「まったく、愛人などとんでもないことを……彼女は私の従妹にして義妹。国王陛下の唯一の姫君。アルトゥール王女だ」
「まぁ!」
コルネリアは美しい顔を驚きに染める。
「アルトゥール王女というと……あの……」
言い淀むコルネリアに代わり、アルトゥールが言葉の先を受ける。
「ええ。わたくしが『笑わず姫』ですわ」
肩を竦めながら笑ってみせると、コルネリアは戸惑う様子を見せた。
「……私が聞いた話では『笑わず姫』は美しさを鼻に着てまったく笑わないと……それに確か『魔族』に殺されたはずでは?」
「『魔族』に殺されたように見せかけて、この男……」
エメリッヒは腕をくみ、スピーゲルを横目に見た。
スピーゲルは俯いたまま何も言わない。エメリッヒはこれに小さく舌打ちした。
「このスピーゲルと駆け落ちしたそうだ。王家の姫が駆け落ちなど、話が広がれば事だ。侍女達には姫のことは私の幼馴染とでも言って王女だということは黙っておいてくれ」
「わかりました……」
コルネリアが神妙に頷く。
その様子を、アルトゥールは不思議な思いで眺めた。
エメリッヒとコルネリアが並ぶ姿は、とても親密そうに見える。
(……恋人?)
アルトゥールの視線に気づいたエメリッヒが、わざとらしく一つ咳払いした。
「コルネリアは隣国の王族の姫で……私の妻だ」
「………………妻!?」
仰天して、アルトゥールは目を丸くした。
「妻って、いつの間に結婚したんですの!?エメリッヒ!!」
立太子こそされてはいないが、エメリッヒは次期王位継承者。そんな彼が結婚したとなれば、アルトゥールの耳にもさすがに届くはずだが、そんな話はきいたこともない。
エメリッヒは、ばつが悪そうに斜め後ろの床を見る。
「……いや、その……」
「実は正式に結婚したわけではありませんの」
コルネリアが微笑みながら答えた。
「エメリッヒ様とは数年前に初めてお会いしましたの。私の国の式典に、エメリッヒ様がこちらの国王陛下の代理として出席されて」
近年、アルトゥールの父親は自らの名代としてエメリッヒを諸国に送り出すことが多かった。エメリッヒとコルネリアが出会ったのはそんな事情が背景にあるのだろう。
「それからエメリッヒ様が時折訪ねて下さるようになったのですが、エメリッヒ様はちっとも私達の仲を国王陛下に申し上げてくださらなくて」
「そ、それは色々事情が……その」
言い訳をするエメリッヒの頬には、冷や汗が滝のように流れている。
コルネリアはエメリッヒのしどろもどろな言葉など完全に聞く気はないようで、アルトゥールに向ける笑みを深くした。
「そうこうするうちに私が身籠って」
「え……」
見れば肩掛けで隠れていたコルネリアの腹部は、ポッコリと膨らんでいる。アルトゥールは驚きの声をあげる。
「あ、赤ちゃんがいますの!?」
「それなのにこの方はまだ『事情が』『時期が』と、うだうだ仰るだけなので、私エメリッヒ様の元に押しかけたんですわ。ですから国王陛下から結婚のお許しを頂いてはいないのです」
コルネリアは、そう言って大きなお腹を優しく撫でた。
エメリッヒに愛されているという自信がそうさせるのか、はたまた命を育む母としての強さか、コルネリアは国王の承諾のない結婚を、恥じるどころか誇る勢いである。
(強い方、ですわ……)
ただ美しく上品に微笑むだけの女性ではない。
「……エメリッヒ公子」
アルトゥールの後ろにいたスピーゲルが、剣呑な声で言う。
「姫の駆け落ちをどうこう言える立場ではないんじゃないですか?」
「わ、私は駆け落ちではない!コルネリアのご両親にもお許しは貰ったし、伯父上に……国王陛下に言っていないだけだ!!」
エメリッヒは吠えるように主張するが、自分でも自分の言い分がおかしいことは理解しているらしい。
「た、ただ時期が……本当に……その」
両手の人差し指をツンツンさせていじけるエメリッヒに、コルネリアが顔から微笑みを消して止めをさす。
「言い訳は見苦しいですわよ。私が思いきらなければ、この子は父親がいない子として生まれていたかもしれませんのよ?」
「う……」
エメリッヒは項垂れ、黙る。
夫婦の力関係は既に決しているようだ。もはやエメリッヒは一生コルネリアに頭が上がるまい。
「あの……コルネリア様」
アルトゥールはおずおずとコルネリアに歩み寄る。
「その……触ってもよろしいかしら?」
遠くから見たことはあるが、すぐ近くで妊婦に接するのは初めてだ。
コルネリアの大きなお腹は、アルトゥールには神々しいまでの神秘だった。
コルネリアは、優しく頷いてくれた。
「勿論です。どうぞ」
「ありがとうですわ!」
中にいる赤ん坊を驚かさないように、アルトゥールはそっとコルネリアのお腹に触る。
温かい張りに、アルトゥールは頬を上気させた。
「すごいですわ……」
「もうすぐ産み月ですの」
コルネリアがそう言うと、母親の声に反応したのか赤ん坊がお腹を蹴った。
「動いた!!」
アルトゥールは満面の笑みで、スピーゲルを振り返る。
「スピーゲル!動きましたわ!」
「早く出てきたくて、ウズウズしてるのかもしれませんね」
スピーゲルが、小さく微笑みながら頷く。
「元気に生まれてくるんですのよ」
笑顔でコルネリアのお腹に話しかけるアルトゥールと、アルトゥールに寄り添うスピーゲルの姿に、エメリッヒが剣呑に目を細めた。
「……コルネリア」
エメリッヒに呼ばれ、コルネリアは返事をする代わりに顔を上げる
「姫の相手を頼む。女同士話しもはずむだろう。ーーースピーゲル。貴様はここに残れ。話しがある」
アルトゥールは慌てて身を乗り出した。
「だ、ダメですわ!わたくしスピーゲルから離れませんわよ!」
騎士だらけのこの城で、スピーゲルを一人にするわけにはいかない。
「姫」
肩に、スピーゲルの手の重みがかかる。
「スピーゲル……」
「僕は大丈夫ですから、コルネリア様と行ってください」
子供を言い聞かすように優しく笑ってから、スピーゲルはエメリッヒを見る。
「僕も、エメリッヒ公子に話があります」
エメリッヒと対峙するスピーゲルの横顔は、どことなく緊張しているように見えた。
向かい合うスピーゲルとエメリッヒを部屋に残し、アルトゥールとコルネリアは暗い廊下に出た。
(……結局、何も食べれませんでしたわ……)
並んでいた料理の数々を思い出し、アルトゥールはがっくりしながらコルネリアに続いて歩く。
(……話って何かしら?)
スピーゲルが何か用があってこの街にきたことは、アルトゥールもわかっている。その用というのが、エメリッヒと話すことなのだろうか。
「気になりますか?」
前を歩いていたコルネリアが立ち止まり、振り向いた。
アルトゥールは目を泳がせる。
「え?あ、えっと……」
コルネリアはスピーゲル達がいる部屋の方を見て、大きくため息をついた。
「殿方は大事な話をするときはいつも女を締め出しますわ。私達が聞いても理解できないとでも思ってらっしゃるのかしら」
少し頬を膨らませ、コルネリアは怒る。
「馬鹿にされていると思いません?」
アルトゥールは勢いよく頷いた。
「思いますわ!スピーゲルも大事なことは何も言ってくれませんの!」
「それがわたくしの為だと本人達が本気で思い込んでらっしゃるのが、また腹がたちますのよね」
互いの言葉に、二人は何度も頷きあう。
「……」
「……」
目をあわせ、アルトゥールとコルネリアはクスリと小さく笑う。
「私の部屋に改めて食事を用意させますわ。私のお喋りに付き合っていただけますか?」
「ええ。よろこんでですわ」
友人ができそうな予感に、アルトゥールは胸を弾ませた。
***
「どうやったのだ?」
アルトゥールとコルネリアが出ていくと、エメリッヒは少し不貞腐れた様子で椅子に座り込んだ。
「どうって……?」
エメリッヒの質問の意味がよくわからない。スピーゲルは椅子に座ることなく、エメリッヒに向き直った。
「何のことです?」
エメリッヒは椅子に深く腰かける。
「姫が笑わなくなったのは母君が亡くなった後だ。母君の死の悲しみがそれだけ深かったのか、国王陛下からの……父君からの仕打ちに耐えかねたからか」
エメリッヒの目に悲しみが滲む。
足を組み、椅子に肘をつき、エメリッヒは苦々しい表情で過去を語った。
「幼かった私は姫にどうにか表情を取り戻させたくて、姫の嫌がることをしたものだ。髪をひっぱったり、姫が大事にしていたものをとったり……そうすれば笑わずとも怒りに表情を変えるだろうと考えてな。だが、上手くいかなかった。姫は笑うことも怒ることも泣くこともせず……」
「……」
そういえば以前アルトゥールから、仲が良かった従兄が、急に意地悪をしてくるようになったと聞いたことがある。
(あれはこういうことだったのか)
やりかたは幼く拙かったが、エメリッヒも彼なりにアルトゥールを救おうと必死だったのだろう。
(……悪いことを言ったな)
彼にも彼の事情があっただろうに、さっきは一方的に責め立てるようなことを言ってしまった。
エメリッヒは顔を上げる。
「どうやって姫を笑わせた?貴様が何かしらしたのだろう?」
尋ねられ、スピーゲルは改めて振り返ってみたが、これといった心当たりは見当たらない。
「……僕はべつに」
やや素っ気なく答えると、エメリッヒは眉をひそめた。
「……ふん。まぁ、いい。それで?スピーゲル。話しというのは?」
肘掛けに頬杖をつくエメリッヒの姿勢は尊大で、人の話をきく態度としては褒められたものではない。
エメリッヒから向けられる嫌悪感に、スピーゲルは拳を握り締める。
魔族と気づかれているのでなければ、エメリッヒのこの態度は平民への侮蔑としか思えない。
(身分の上下なく人に接する人格者だと噂には聞いていたけど、話が違うな)
義妹を盗み出した犯人への憎しみとも受け取れるが、いずれにせよイザベラに対抗するため公子を味方に、というアヒムの提案は、やはり無理なのではないだろうか。
「……そちらの話を先に窺います」
「そうか」
エメリッヒは控えていた侍従を手招きし、何かを受け取った。そしてそれをスピーゲルに向けて投げる。
エメリッヒが投げた小さめの袋は、スピーゲルの長靴の爪先にあたり、ガチャリと音をたてた。
(……銀貨?)
袋を見下ろしたスピーゲルに、エメリッヒが冷たく言う。
「単刀直入に言おう。その金をもってどこえなりと消えろ」
「……どういうことですか?」
フードの薄い布越しに、スピーゲルはエメリッヒを見やる。
エメリッヒは頬杖をやめ、両腕を肘掛けに預けた。
「王家の血を正統にひく姫が、どこの馬の骨ともわからん身分低い男と駆け落ちなど国の恥だ。貴様は二度と姫の前に姿をあらわすな。無論、姫をめとったなどと言いふらせばただではすまぬぞ」
「……」
気分が悪くなるほどの正論に、スピーゲルは小さく嘆息する。
(……それもいいかもしれない)
アルトゥールにとっては、スピーゲルの家や崖の下の村にいるより、従兄のエメリッヒの保護を受けたほうがいいはずだ。
衣食住に不自由はしないだろうし、それにもしそうなれば……。
(姫がアヒムと一緒にいるのを見ずにすむ……)
自らのあまりに暗い発想に、フードの影でスピーゲルは自嘲した。
(卑怯だな。僕は)
卑怯で、下劣で、最低だ。
自分の手がアルトゥールに届かないからと、他の誰もアルトゥールに触れなければいいだなんて。
まさに『魔族』。
黙っているスピーゲルに、エメリッヒは言葉を重ねる。
「姫は王城に送り届けた後、私の責任のもと然るべき待遇で然るべき家柄の者に嫁がせる。メッサリアの王弟になどやらん。姫を大事にしてくれる相手を探すと約束しよう。姫を想うならばこそ、身を引け。スピーゲル」
エメリッヒが口にした提案に似せた命令は、考えこそ偏ってはいたが、親身になってアルトゥールのことを考えたものだった。だが、スピーゲルはその内容を聞いて我に返る。
「待ってください。姫を王城に?」
「勿論だ。まず国王陛下に姫が無事であることをご報告せねばならん」
「いけない!そんなことをしたら……っ」
スピーゲルが乗り出すように足を踏み出すと、控えていた騎士達がスピーゲルの行く手を塞ぐ。
「ダメです!姫が生きていることは口外しないでください!」
国王にアルトゥールが生きていると伝えれば、それはイザベラに伝えるも同然だ。アルトゥールが生きているとなれば、イザベラはスピーゲルの裏切りに気づくだろう。
(そんなことになったら……!)
アルトゥールや、あの村に隠れている人々の命が危うくなる。
しかも王城にアルトゥールを送るなど、イザベラに殺してくれと言っているようなものではないか。
騎士達を押し退けながら、スピーゲルはエメリッヒに訴える。
「彼女を王城に帰してはだめだ!彼女の命があぶなくなる!」
「何を言っているのだ。まったく、大人しく身を引けばいいものを……早くその者を摘まみ出せ!」
エメリッヒは聞く耳を持たず、椅子から立ち上がりスピーゲルに背を向けた。
エメリッヒの意を受けた騎士達がスピーゲルの腕と肩を掴み、部屋から引きずり出そうとする。
「……っはなせっ!」
大人しく追い出されるわけにはいかない。
スピーゲルは肘を勢いよく回して騎士の手を振り払った。
髪を、顔を、隠していてくれたフードが、勢いに逆らえずに肩に落ちる。
頭の後ろで束ねた白銀の髪が空に波立ち、顕になった赤い目が炎のように揺れる。
「……っ!?」
「ま、魔族!?」
騎士達が一斉に下がる。
エメリッヒが、顔を青ざめた。
「ス、スピーゲル!?さてはあの街にでた魔族とは貴様だな!?」
これに、スピーゲルは答えなかった。
「呪い殺されたくなければ、僕に近づかないでください」
革手袋をはずした手を、エメリッヒや騎士達に向ける。
名前が分からなければ魔法はかけられないが、牽制くらいにはなるだろう。
(しくじった!)
アルトゥールをつれてここから逃げなければならないのに、この広い館のどこに彼女がいるのか、見当もつかない。
エメリッヒが、スピーゲルを憎々しげに睨みながら騎士達に命じた。
「抜剣を許す。穢らわしい魔族を八つ裂きにせよ」
公子の命令に、騎士達が次々と鞘から剣を抜く。
「……っ」
スピーゲルが一歩後ろずさると、騎士達も一歩間合いを詰めてくる。
自分を落ち着けるため、スピーゲルは静かに長く息を吐いた。
名前が分かるのはエメリッヒだけ。名前がわからない他の騎士には魔法のかけようがない。どう考えても、魔法もなしに戦闘訓練をした騎士達を相手にするのは分が悪すぎた。
「……覚悟しろっ!!」
騎士の一人が長剣を振り上げ、跳躍する。
スピーゲルは歯を噛み締めた。