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笑わず姫と潰された林檎飴ー思わぬ再会ー

もう半刻ばかりで太陽が山際に姿を消すという頃合いだというのに、街はまだ多くの人気があった。

道の隅に置かれた樽に腰掛け、アルトゥールは痛む額をさする。

「……どうして痛いのかしら……?」

ユッテが持ってきた飲み物を飲んだあたりから、記憶が定かではない。凄まじい衝撃に我に返れば、目の前にはアルトゥールと同じく額を押さえて屈みこむスピーゲルと『だ、大丈夫?凄い音、したけど……』と、心配そうにこちらを窺ってくるユッテ。そして、何故か悪い顔で舌打ちするジギスヴァルトがいた。

(いったい何が……?)

わけがわからないままスピーゲルに連れられてユッテの店を後にしたアルトゥールは、暗くなり始めた街角に一人座っている。スピーゲルに、ここで待っているように言われたのだ。

(スピーゲルはどこに行ったのかしら?)

足をブラブラとさせて待っていると、ほどなくして人混みの中からスピーゲルが姿を現した。その手に林檎飴を携えて。

「どうぞ」

「……え?」

「食べたいと言ったでしょう?」

目深にかぶったフードのせいでスピーゲルの表情はいまいち分からなかったが、彼の声は固かった。何か怒っているような様子だ。

(わたくし……何かやらかしたのかしら?)

少しビクビクしながら、アルトゥールはスピーゲルを上目遣いに見上げる。

「わ、わたくしが言いましたの?食べたいと?」

「言いました」

スピーゲルは、やはり固い声で答えた。

「……」

アルトゥールは手を伸ばし、林檎飴を受け取る。

「……ごめんなさいですわ」

肩を落とし謝るアルトゥールに、スピーゲルが首を傾げる。

「どうして謝るんです?」

「またお金をつかわせてしまいましたわ……」

アルトゥールは項垂れた。

筋金入りの世間知らずであるアルトゥールだが、スピーゲルと行動を共にするようになってからは色々と物事の仕組みを学んできた。

店に並んでいるものは、勝手にとったり食べたりしてはいけない。欲しいものは銀貨と交換で、銀貨は働いた報酬として手にはいる。等々。

そして最近も一つ学んだ。店で提供されるわけではなくとも、家で食べる食事も無料(ただ)ではない、ということを。

よく考えればそれはそうだ。食事を作る材料も、それを煮炊きするための薪も、空から降ってくるわけではない。

そもそも、それに気づいたのはアヒムが『っていうかさ、エラとかあの村で暮らしてる人達の生活費ってどうなってんの?』と、ベーゼンに対して質問をしたのを横で聞いていたことがきっかけだった。

スピーゲルはその場にいなかったように思う。多分いつものように庭で草取りをしていたのだろう。彼は除薬に没頭すると時間を忘れるから。

アルトゥールと一緒に豆の鞘剥きをしていたベーゼンは、少し言いづらそうにしながらも教えてくれた。

『アーベル様がスピーゲル様のために残してくださった蓄えがありますから。それからスピーゲル様に魔法を依頼しにいらっしゃるお客様もいますし……』

『つまり全額旦那もち!?』

アヒムは驚愕に目を剥いていた。

『いやいや、客って言ったってそんなに来ないじゃん。俺がここにきてから来た客って一人だけだよ?アーベルさんってどんだけ金持ちだったわけ!?』

『……実は……』

ベーゼンは、身を縮ませるようにして打ち明けた。

『蓄えは、もうあまり残っていなくて』

『はあ!?』

アヒムは大声をあげ、頭に手をやった。

『……いや、そりゃそうか。あの人数を養ってたら、財産もそりゃ食い潰しちゃうよね。自給自足できるだけの土地もないし』

『私も悪いのです。いつもついつい料理を作りすぎてしまって……』

ベーゼンの言葉に、アルトゥールは手に握る豆を見下ろした。

つまり、食費が家計を圧迫しているということらしい。そしてその食費は、間違いなくアルトゥールのせいで前年比倍、いや十倍にはなっているはずだ。

頭を棒で叩かれたような衝撃に、アルトゥールは呆然とした。

そういえば、以前スピーゲルの元に来た客を追い返したこともある。

(わたくし、営業妨害まで……!)

その上、街に出れば『あれが食べたい』『それも食べたい』『もっと食べたい』と、何も考えずにスピーゲルの財布で買い食い放題。

(わたくしって……)

スピーゲルに実は疎まれているだろうことはわかっていたが、実害が出ていたとは。ここまで来ると、もはや厄介者確定である。

その話の数日後。アヒムは『出稼ぎにいく』と言い出した。少しでもスピーゲルの助けになればと考えたのだろう。

アルトゥールも出来ることならアヒムのようにスピーゲルの力になりたいが、お金を稼ぐ方法など分からないし、正直何かにつけて不器用な自分にそれができるとも思えない。

それなら、せめて自分に関する出費を抑えられないだろうか、とアルトゥールは考えた。つまり、食費を減らそうというのである。

そういうわけで『手羽先の甘辛煮とパンを七人分』というアヒムの注文を『三人分』と訂正し、空腹を訴える胃には水分を大量に流し込む作戦にでたのだが……。

宝石のように輝く林檎飴を、アルトゥールはため息とともに見下ろした。無意識のうちにスピーゲルに『林檎飴が食べたい』と催促するなど、どれだけ食欲が強いのだ。

スピーゲルが、アルトゥールの前に膝をついた。

「もしかして……我慢してたんですか?僕にお金をつかわせまいと?」

「……」

「だから食堂でも注文を減らしたんですか?」

「……だって」

アルトゥールは力なく呟く。

「わたくしが沢山食べるせいで、スピーゲルに無駄にお金を使わせてしまっていたのでしょう?」

「次にそんな理由で何かを我慢したら怒りますよ」

怒りますよ、と予告しているにも関わらず、スピーゲルの声は既に怒っている。

その刺々しい声に、アルトゥールは眉尻を下げた。

「怒っていますの?スピーゲル」

「……そうじゃなくて」

彼は片手で顔を覆い、言葉を探しているようだった。

「……情けない……あなたにそういう心配をさせるなんて……」

「……スピーゲル?」

どうやら、スピーゲルは怒っているのではなく落ち込んでいるようだ。

慰めようにもどうすればいいかわからずアルトゥールがもたついていると、スピーゲルは俯いたまま話し始めた。

「……林檎を」

「え?」

「庭の林檎です。……毎年食べきれない分は腐らせてたんですが」

「ええ!?」

勿体ない。

「今年は……売ろうかと思って」

アルトゥールを見ることなく、スピーゲルはポツリポツリと言葉を繋げる。

「林檎飴とかジャムとか果実酒とか、用途は色々あるので需要はそこそこあると思うんです。……それこそアヒムに口をきいて貰ってマトカ・カウパ商会に買い取って貰えれば……贅沢は出来ませんが、村一つが冬越えする分くらいは……」

「手伝いますわ!」

アルトゥールは樽から飛び下りると、スピーゲルと目を合わせるために屈みこむ。

「わたくし、手伝いますわ!スピーゲル!」

林檎を収穫して袋につめるくらいなら、不器用なアルトゥールにも出来るはずだ。

スピーゲルに迷惑ばかりかけていた自分でも、彼の役に立てるかもしれない。そう思うと、アルトゥールの胸は高鳴った。

「あ……いや」

目を輝かせるアルトゥールに、スピーゲルは少し困惑したようだ。

「僕が言いたいのは、だからお金の心配なんてしなくていいってことで」

「そうですわね!たくさん収穫して、どんどん売りさばくんですわ!」

アルトゥールは立ち上がると、夜色が滲み始めた空に、林檎飴を力強く掲げた。

「目指すは国一番の林檎農家ですわね!!」

林檎飴の遥か先の空に、一番星がキラリと大きく瞬く。

「お母さーん。あの人何してんの?」

「しっ!見るんじゃありません!」

傍にいた親子連れが、アルトゥールを横目に足早に通り過ぎていく。

その後ろ姿を眺め、アルトゥールはしょんぼり肩を落とした。子供の教育上、見せるのはよろしくない対象物だと判断されてしまった。

「……そうですね……」

どこか夢見るような呟きに、アルトゥールは振り返る。

スピーゲルは少し考え込んでいるように見えた。

「林檎を育てて、収穫して、売って、そのお金で冬を越して、また林檎を育てて……そうやって日々を積み重ねて季節を繰り返して……そういうの、いいですね」

スピーゲルが、噛み締めるように笑う。

それが嬉しくて、眩しくて、アルトゥールは目眩がしそうだった。

「スピー……」

ふと、遠くに馬の嘶きが聞こえた。

連鎖する悲鳴が、さざ波のように近づいてくる不気味な空気。

アルトゥールは何を言おうとしていたのかも忘れ、眉を寄せる。

「……何ですの?」

「何かあったみたいですね」

スピーゲルも異様な空気を感じたらしく、立ち上がる。

一体何事なのか――――……。

アルトゥールが訝しんだ直後。蹄の音を響かせて、黒い馬がこちらに疾走して来るのが見えた。

「逃げろ!!暴れ馬だ!!」

誰かが叫び、人々が一斉に逃げ出した。

「姫!こっちに!」

スピーゲルに促され、アルトゥールも避難の為に走り出す。だが、我先にと逃げようとした見ず知らずの男に後ろから突き飛ばされてしまった。

「邪魔だ!どけ!」

「きゃ……っ」

よろめき、アルトゥールは道に手と膝をついた。手に持っていた林檎飴は転がって、逃げ惑う人々に蹴られ踏まれ、やがて無惨に潰される。

「姫!!」

スピーゲルが慌ててアルトゥールを助け起こそうとしてくれるものの、逃げ惑う人々に揉みくちゃにされ、アルトゥールはすぐに立ち上がれない。

そうこうするうちに、黒馬の巨体が背後に迫った。

逃げる猶予も、魔法を使う余裕もない。

アルトゥールは固く目を閉じた。

潰された林檎飴のように、自分も馬の蹄にきっと骨を砕かれるのだ。そう覚悟した。

けれど、アルトゥールのその悲壮な覚悟は徒労に終わる。

先が輪になった縄が、どこからともなく飛んできたのだ。

その縄の輪は黒馬の首にかかり、黒馬は縄に引かれて横倒しに倒れた。

「姫!大丈夫ですか!?」

「だ、大丈夫ですわ」

駆け寄ってきたスピーゲルに、アルトゥールは頷いた。

泡を吹いて暴れる馬に、駆け付けた騎士達が次々と縄をかける。

「お見事です!殿下!」

一人の騎士が笑顔を見せた先には、白馬に乗る若い騎士がいた。

(……あ……れ?)

アルトゥールは瞬く。どこかで見た顔だ。

白馬に乗った騎士は、持っていた縄を部下に渡す。そしててきぱきと事の収拾を指示し始めた。

「まず怪我人の手当てをせよ。それから馬主が誰か探しだせ。往来を騒がした罪は大きい。管理を徹底させる必要がある」

「かしこまりました」

「市中における安全対策を強化せねばならんな。早急に対策案をまとめるように」

「はっ」

部下から目を上げ、白馬の騎士は馬上からあたりを見回した。

「皆、怪我はないか!?此度のような騒ぎは二度と起こらぬと約束する!安心するように!」

その頼もしい言葉に、怯えていた人々に笑顔が戻る。

「公子殿下!」

「エメリッヒ公子様!ありがとうございます!」

「ありがとうございます!殿下!」

あたりはエメリッヒ公子を讃える声であふれかえる。

アルトゥールはスピーゲルの腕の中から、呆然とエメリッヒを見上げる。

「……エメ……リッヒ?」

どうして。

だって彼は、聖騎士団の団長で、国王の跡継ぎで、王都にいるのではなかったのか。

エメリッヒ公子は馬から降りると、片手を上げて歓声に応えながらアルトゥールとスピーゲルに近づいてきた。

「そなた達、大丈夫か?怪我をしたならすぐに手当てを……」

エメリッヒの目が、驚愕に染まる。

「……そ、なた……」

顔を隠してくれていたフードが肩に落ちていることに、アルトゥールはようやく気づいたが後の祭りだ。しっかり、エメリッヒに顔を見られている。

「エ、エメリッヒ……」

「い、生きておられたのか!?てっきり魔族に殺されたのだとばかり……っ」

エメリッヒの視線が、アルトゥールの体を支えるスピーゲルへと滑る。

「……その者は……?」

(ま、まずいですわ)

アルトゥールは大きく固唾を飲む。

エメリッヒは『魔族討伐』を使命とする聖騎士。もし彼がスピーゲルの素性に気づいたら、スピーゲルはすぐさま牢屋にいれられ明日の朝一番に火炙りだ。

アルトゥールは横目でスピーゲルの様子を盗み見た。フードを深くかぶっていたおかげで銀の髪も赤い目も(あらわ)にはなっていなかったが、この状況に酷く緊張しているのかスピーゲルは唇を引き結んでいる。

(とにかく……)

早々にここを立ち去らなければ。

けれど、エメリッヒは思いもよらぬ方向からアルトゥールとスピーゲルに切り込んできた。

「……まさか、貴様が姫を(かどわ)かしたのか!?」

アルトゥールとスピーゲルは仰天して同時に声を上げる。

「えぇえ!?」

「はぃい!?」

スピーゲルの素性が露見することばかり心配していたアルトゥールとスピーゲルにとって、エメリッヒの発想は奇天烈なものだった。

だがエメリッヒは大真面目だ。

「しらばっくれるな!王城から姫を盗み出し、魔族に殺されたように見える小細工をしたな!?」

「え、あ、いや」

返答に窮するスピーゲルを指差し、エメリッヒは周囲にいた配下の者に命じた。

「この不届き者をとらえよ!!王女を誘拐した大罪人だ!今すぐ縛り首にしてくれる!!」

「だ、ダメですわ!!」

アルトゥールは慌てて立ち上がると、手を広げて騎士達からスピーゲルを背後に庇う。

エメリッヒがアルトゥールに詰め寄った。

「何故庇うのだ!あなたを拐かした極悪人だろう!?」

「ち、違いますわ!!」

アルトゥールは必死に首を振る。

このままではスピーゲルが縛り首だ。

周りには多くの騎士がいるので、この場から逃げるのは難しい。彼らの名前を知らない以上、魔法に頼れないからだ

どうにかして、この場を切り抜けなければ。

エメリッヒは攻撃の()を緩めない。

「違う!?何が違うと言うんだ!」

「ス、スピーゲルは……っ」

混乱する頭のなかを必死にかき混ぜ探り出した打開策を、アルトゥールはよくよく吟味せずに口から出した。

「彼は……わ、わたくしの夫ですわ!!わたくしは拐かされたのではなくスピーゲルと駆け落ちしたんですわ!!」

背後で、何も口にしていないはずのスピーゲルが勢いよく吹き出す音がした。






日は暮れ、通りに連なる店に明かりが灯る。

暴れ馬による騒ぎも収まり、穏やかな夕闇のなかで人々は家路についた。

だが、騎士達に囲まれて領主たる公子と話し込むアルトゥールとスピーゲルを、遠巻きにしながらも興味深げに眺めている者達もいる。

「あれは誰だ?公子様の知り合いか?」

「随分と器量のいい娘だ」

「公子様も隅に置けないねえ」

「何を話しこんでるんだろうな。こみあった事情でもあるのかね」

街の人々の憶測など露知らず、エメリッヒが愕然と声を上げる。

「か、駆け落ちい!?」

「そ、そうですわ!わたくしはスピーゲルと駆け落ちして、スピーゲルの妻になったんですわ!!」

アルトゥールは必至に訴えた。

スピーゲルが誘拐犯ではないことをはっきりさせなければ、彼は騎士に捕らえられてしまう。

(で、でも……)

アルトゥールの心の片隅で、弱気が頭をもたげた。

(スピーゲルは……迷惑かもしれませんわ)

アルトゥールと並んでいることで夫婦や恋人に間違われることを、スピーゲルはいつも嫌がっていた。

そんなスピーゲルの反応も以前は大して気にならなかったというのに、最近のアルトゥールはスピーゲルの一挙手一投足が妙に気になる。

スピーゲルにはイザベラという大切な人がいるのだから、アルトゥールとの仲を周囲に誤解されるのを嫌がるのは仕方がない。そもそも仇の娘であるアルトゥールの夫のふりなど、スピーゲルでなくとも誰だって嫌がるだろう。

「…………」

考えれば考えるほど、思考は勝手に暗闇に穴を掘って落ちていく。どつぼというやつである。

「……駆け落ちねえ……」

エメリッヒは腕組みをすると、アルトゥールとスピーゲルの周りを歩いて回りながら、訝しげにスピーゲルを眺める。

(お、落ち込んでいる場合じゃありませんわ!)

スピーゲルを守らなくては。

自らを叱咤すると、あるはエメリッヒの不躾な視線からスピーゲルを庇うため、エメリッヒの動きにあわせてスピーゲルの周囲(まわり)を周回した。

「だ、だから、ここでわたくし達を見たことはお父様にも他の人にも内緒にしてほしいんですわ。エメリッヒ」

「……駆け落ちねえ」

エメリッヒはそう繰り返し、スピーゲルの顔を覗きこむように身を屈ませる。アルトゥールは素早く身を乗り出すことで、彼の視界に無理矢理割り込んだ。

「か、かかか顔に醜い火傷の痕があるんですわ。だから顔を隠していて、その、ジ、ジロジロ見るのは失礼ですわよ」

「……」

エメリッヒは眉間に深い皺を寄せたまま姿勢を正し、腕組みをした。

「……塔に閉じ籠っていると思えば、密かに男を引き入れ駆け落ちとは。さすが国一番の美女はやることが大胆だ。まぁ、無事でよかった。あなたが姿を消して我々がどれほど案じたかなど、あなたには関係ないな」

苛立ちを大量に練り込んだエメリッヒの嫌味に、アルトゥールは首を竦める。

「し、心配をかけてごめんなさいですわ……」

「謝る必要ありません」

それまで俯き黙りこんでいたスピーゲルが、アルトゥールの肩に両手を置いた。

アルトゥールは首だけを動かし、背後を振り仰ぐ。

「ス、スピーゲル?」

アルトゥールの角度からは、フードの影にスピーゲルの赤い目が僅かに見える。その目は怒りで燃え、薄いフードの布越しにエメリッヒを睨み付けていた。

「妻を心配してくださったことには感謝します。けれど言葉が過ぎるのではないですか?」

叩きつけるようなエメリッヒへの抗議のなかで、スピーゲルはアルトゥールを『妻』と呼んだ。夫婦を装おうとしたアルトゥールの策にのってくれるようだ。

エメリッヒは険しかった顔を、更に歪ませる。

「何だと?」

「閉じ籠っていた?閉じ籠らざるを得なかった彼女の事情を従兄であり国の中枢を担うあなたが、まさか知らなかったわけではありませんよね?彼女の置かれた境遇を改善するために、行動しようとは思わなかったのですか?そもそも、姫が王女として相応の待遇を受けていれば、彼女は僕の手をとる選択なんてしなくてすんだかもしれないのに」

理路整然と、スピーゲルはエメリッヒを弾劾した。

「……何だと?」

エメリッヒの目に怒りがこもる。

まさに一触即発というはりつめた空気のなかで、スピーゲルとエメリッヒは、しばらく向き合っていた。

だがやがて、エメリッヒがため息とともに怒気を吐き出す。

「……ふん。言うではないか。盗人猛々しいとは貴様のことだな。まぁ、公子である私相手にはっきりと物を言うとは大したものだ」

エメリッヒは組んでいた腕を解いた。居丈高だが、その表情に苛立ちは見てとれない。

「それで、婿殿。名前は?」

スピーゲルは未だに怒りを燻らせているようだったが、低い声でエメリッヒに答えた。

「……スピーゲル」

「……(スピーゲル)?」

変わった名前だ、と顔には書いてあったが、エメリッヒはそれを口には出さなかった。

一つ咳払いすると、エメリッヒは一歩退き騎士らしく背筋を伸ばし胸を張る。

「スピーゲル。非礼を許されよ。ついては我が居城に招待しよう。良い葡萄酒がある」

突然の招待に、アルトゥールの肩に置かれたスピーゲルの手に微かに力がこもる。

「……折角ですが、連れと落ち合う予定がありますので」

「私は姫の従兄であり義兄だ。義妹が駆け落ちしたと聞いて『そうか、おめでとう。ではまた』と素通りできると思うか?せめて近況なりを話して妻の身内を安心させようとは思わないのか?」

エメリッヒの(げん)は、アルトゥールとスピーゲルが本当に駆け落ちした夫婦だとすればもっともなものだった。

無理に固辞しては、怪しまれるかもしれない。

「スピーゲル……」

どうしたものかとアルトゥールが見上げると、スピーゲルは視線を伏せるように目を閉じた。

何を考えているのだろう。

「……マトカ・カウパ商会に人をやってアヒム……いや、テオバルトという者に僕らがあなたに付いていったと報せてください」

「いいだろう。マトカ・カウパ商会のテオバルトだな?」

エメリッヒは頷き、控えていた配下の者に目配せをした。

どうやらエメリッヒについていくことになるらしい。アルトゥールはスピーゲルの上着の裾を引く。

「……スピーゲル。ごめんなさいですわ……」

スピーゲルを守ろうとしたのに、余計なことをしてしまったのかもしれない。騎士が大勢いるエメリッヒの居城に赴くなど、蛇の群れに飛び込むようなものだ。

アルトゥールの不安げな視線に、スピーゲルは小さく笑ってくれた。

「何で謝るんです?何も心配いりません」

スピーゲルは軽く叩くようにして、アルトゥールの頭を撫でる。

温かくて心地好い重みに、アルトゥールの不安は霧散していく。

それはまるで魔法のようだった。アルトゥールに魔法は効かないはずなのに。

(いずれにせよ、わたくしはついていくだけですわね)

彼が心配いらないというなら、いらないのだ。大丈夫というなら大丈夫なのだろう。

「わかりましたわ」

スピーゲルを見上げ、アルトゥールは微笑んだ。

その様子を見ていたエメリッヒが、太陽が西から昇ったかのように目を丸くした。

「ひ、姫が笑っ……あがっ!」

口をあんぐりと開けたまま動きを止めたエメリッヒを、騎士達が覗きこむ。

「どうなさいました?公子」

「公子?…………た、大変だ!」

エメリッヒの顎がはずれたと騎士達が大騒ぎをはじめたが、スピーゲルしか見ていなかったアルトゥールに、何故エメリッヒの顎が外れたのか分かるわけもなかった。





2021.2.9セリフ訂正しました。

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