幕間小話 ベーゼンの賭け
ベーゼンは箒の精霊だ。
人間につくられ、大切に使われ、そうして長い年月がたち魂を持ち、名前を贈られた。
名前を贈ってくれたその人は、やがてベーゼンに花をくれた。次いで真心を、言葉をくれた。『夫婦になろう』と。
けれどベーゼンは、人間の身を象った姿をしていても本性は箒に過ぎない。その体に新しい命を宿すことができない。
アーベルの一族はその容姿と魔力を理由に迫害され、世代をおうごとにその数を減らしている。そんななか、次世代に命を繋がない結婚をアーベルの一族は祝福しなかった。
アーベルが一族の指導者的な役割を果たす家の跡取り息子で、責任ある立場にあったことも、祝福されなかった理由の一つだろう。
アーベルを責める者もいた。ベーゼンに害を加えようとした者もいた。悩んだ末に、アーベルは一族を捨てる決断を下した。
一族が住む谷を遠く離れた森の中で、ベーゼンとアーベルの生活が始まった。けれど、彼は一族を愛していた。遠く離れても、二度と帰らないと心に決めていても、彼の故郷への思慕は決して薄れはしなかった。
アーベルは『一族の人間が危険ではないと知ってほしいから』と近隣の村々を回り、病人を診て薬を配った。
アーベルを『穢らわしい』と蔑む者や、薬をもらうだけもらって礼の一つも言わない礼儀知らずも少なくなかったが、アーベルは細々と回診を続けた。『魔族狩り』で一族が滅びるまでは――――……。
晩年、アーベルは病の床に伏した。
アーベルの一族の多くがそうであったように、アーベルも自らに魔法をかけることはできない。つまり、彼は魔法で自らの病気を治すことができなかった。
魔法の『限界』と『制約』。
生まれつき魔力が強いスピーゲルの力でも治すには及ばないほど、アーベルの体は手の施しようがないほどに病に蝕まれていたのだ。
『あの子の優しさが、いつかあの子を縛る呪いになりはしないか。それが心配だ』
死を待つ床で、アーベルはスピーゲルの心配ばかりしていた。
アーベルにとってスピーゲルは、滅びた一族を偲ぶ最後の光明だったのだろう。
『ベーゼン。スピーゲルを頼むよ。私達の大切な息子を……』
痩せ細った指のどこにそんな力が、と不思議なほどの強さで、アーベルはベーゼンの手を握った。
ベーゼンは頷いた。
笑えていた自信はない。
スープを混ぜながら、ベーゼンはため息をついた。
窓から、ツヴァイク達が顔を覗かせた。
「ため息ばっかだな。ベーゼン」
「幸せ逃げちゃうわよ?」
「……元気だして」
彼らの慰めにも、ベーゼンの気持ちは浮上しない。
「姫君様がこの家を出ていくなんて……」
ベーゼンはまたため息をつく。もはや何度目のため息なのか、定かではない。
(ああ、アーベル様。どうすればいいのでしょう?)
スピーゲルがこの家にやってきたのは、彼が生まれてすぐのこと。
赤ん坊の彼の口に匙で山羊の乳を運んだことが、昨日のことのように思い出される。
スピーゲルは素直で我慢強くて聞き分けが良くて、そして自分を軽んじる、子供らしくない大人びた子供だった。
自分に価値などないような言動を折々にとる彼に、ベーゼンはいつもいたたまれなくなる。
心から慈しみ、大切に育ててきたのに、彼が幼い頃から抱え続けざるを得なかった罪悪感や、『魔族』と呼ばれ蔑まれてきた過程で植え付けられた劣等感は、いとも簡単に自分も尊重されるべき一人の人間なのだという自覚をスピーゲルから奪ってしまうのだ。
先日、ベーゼンは柄を折られた。スピーゲルの魔法のおかげで事なきを得たが、自分にもいつ何がおこってもおかしくないのだと、ベーゼンは痛感した。
もし自分に何かあれば、スピーゲルはどうなるのかーー……。
今更ながら、幼いスピーゲルに許嫁をあてがったかつてのアーベルの気持ちが分かる気がした。
自分を愛せないスピーゲルの代わりに、スピーゲルを愛して大事にしてくれる『誰か』が必要だ。生きることに消極的なスピーゲルを叱咤し、共に生きてくれる誰かが。
誰か――――アルトゥール以外に、誰がいるだろう。
星が瞬く春の夜、スピーゲルに連れられてやってきた『笑わず姫』。
彼女は、よく食べ、よく寝て、ちっともじっとしていない。傍若無人で無茶苦茶で、嵐のように周りを巻き込む生命力の塊。
不思議なことに、アルトゥールは異端とされるスピーゲルの容姿を、そして魔力も、一切恐れはしなかった。
そんなアルトゥールに戸惑い気味だったスピーゲルも、いつの間にか彼女の嵐にまきこまれ、振り回され、そうしているうちに無意識にアルトゥールを目で追うようになった。きっとスピーゲルは、自分にないものをアルトゥールに見つけ、焦がれ、惹かれているのだろう。
もどかしいほどにゆっくり、少しずつ距離を縮める二人。
やきもきしながらも、ベーゼンは彼らを見守ってきた。
スピーゲルが、どんなに自分の気持ちから目を背けようと、アルトゥールがどれ程鈍感だろうと、一度走り出したら止まらないのが恋だ、と。
ところが、ここに来てスピーゲルが、アルトゥールの居をこの家から例の崖下の村へ移すと言い出している。そしてアルトゥールも、それは自分の意思だと言うではないか。
(何故?)
お互い、相手を大切に想っていることは明白なのに。
それなのに、何故離れようとするのだ。
深く深く、ベーゼンはため息をつく。
ボソリと、アストが言った。
「……言っちゃえば?」
双方に相手の気持ちを耳打ちしろ、とアストは言っているのだ。
ベーゼンは強く首を振った。
「それはダメ」
二人の問題に他人が口出しするのはよくない。下手に混ぜっ返しては話が拗れてしまうかもしれないし、そもそもアルトゥールは自分の想いが何なのかすら気がついていない。
とは言え、このままではアルトゥールはこの家を出ていってしまう。
どうしたものか。
(スピーゲル様もスピーゲル様だわ)
かたくなに『恋じゃない』と、アルトゥールへの想いを否定し見ぬふりをしていたスピーゲルは、先頃ようやく自分の心と向き合うことが出来たらしい。
にも関わらず、彼はアルトゥールを手放すという。その後ろ向きな思考回路はどうにかならないものなのか。もどかし過ぎて発狂しそうだ。育て方を間違えたか。
「姫。髪に」
「え?」
庭から聞こえた話し声に、ベーゼンは窓から外を覗いた。
アルトゥールの髪についた落ち葉を、スピーゲルが指先でつまみとる。
「とれましたよ」
「ありがとうですわ」
穏やかに微笑み合う二人の姿に、ベーゼンは目を細めた。
そして、ひそかに心に決める。
(賭けてみよう)
アルトゥールの生きる力に――――本能に。
あの驚くほどの食欲からもわかるように、アルトゥールは元々備わっている生存本能が強い。
その本能が、生きるためにそれが――――スピーゲルが必要だと判じれば、アルトゥールは走り出すはずだ。
『迷惑をかけたくない』などというくだらない遠慮など、本能の前には何の拘束力ももたない。
アルトゥールは、きっとスピーゲルを追いかける。スピーゲルが、どんなにアルトゥールから離れようとしても。
それに賭けるより他ない。
(……けれど……)
それでは、アルトゥールの一方通行だ。自分だけがスピーゲルを追いかける関係性を、アルトゥールはどう思うだろうか。
「寒くありませんか?」
「大丈夫ですわ」
たわいもない二人の会話に、ベーゼンは目を閉じて聞きいった。
(アーベル様……どうかあの二人をお守りください)
祈らずにはいられない。
幸せに。幸せに。幸せに。
それしか、ベーゼンには出来ないのだ。
秋の風が、鎧戸を揺らした。