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笑わず姫と干し棗(なつめ)ー魔法使いの経済事情ー

「全部あんたのせいよ!」

金切り声が、薄暗い部屋に響いた。

小さな体は握り締めた拳で無茶苦茶に殴りつけられた末に、

虫を踏み潰すように踏みつけられ、蹴飛ばされる。

「あんたのせいで……っ!」

彼女の両目からは、心臓を抉られる方がましというほどの絶望が、涙となって流れ落ちる。

「返してよ!」

彼女は彼の白銀の髪を鷲掴みにし、そしてまた頬を打った。


「マティアスを返して!!」





「……っ!!」

固い寝台の上で、スピーゲルは飛び起きた。

ドクドクと音をたてて血管が収縮し、心臓が鼓動する。

「は……っはぁ……はぁ」

冷たい汗が、首筋を伝い流れる。

狭い部屋は静寂に包まれていたが、夜の重い闇は薄れつつあった。朝が近いらしい。

「……はぁ……っ」

深く、呼吸する。意識してそれを繰り返すうちに心臓は落ち着きを取り戻していった。

「……」

闇を、見据える。

ヘドロのような罪悪感に溺れかけている心を、胸を握るように押さえることで叱咤した。

(……償うと)

そう誓った。

(でも……)

俯くスピーゲルの表情を、結っていない白銀の髪が流れるように覆う。

鎧戸の隙間から、細い太陽の光が部屋に差し込んだ。







晴れた空は蒼が深く、春のような暖かな陽気に小鳥達が嬉しそうに囀ずっている。

いつものように家の裏で薪を割っていたスピーゲルのもとに、アヒムが顔を出した。

「旦那。俺出稼ぎ行ってくるわ。半月くらいで帰ってくるけど、エラのこと引き続きよろしくね?」

「え?」

出し抜けに言われ、スピーゲルは面食らう。

「まぁ、出稼ぎっていうか本業に戻ろうと思って」

アヒムは腰に下げた長剣を軽く叩いて見せる。彼がスピーゲルの家を襲った際に持っていた物だ。

アヒムの本名と目的が分からない間は取り上げて隠しておいたのだが、『あれ、エラから貰ったんだよね。返してよー』というアヒムの要求に応じて、先日スピーゲルは彼に剣を返却していた。

散らばった薪を足でよけ、スピーゲルはアヒムを見る。

「本業?」

「俺、そもそも商隊の護衛をしてたんだよね。エラのことがあって一回辞めたんだけど、いつでも戻ってきてくれって隊長には言われてるし」

「でも……」

スピーゲルは口ごもる。

「でも、だって姫は?」

アヒムがアルトゥールに求婚していくらもたたない。それなのにすぐ出稼ぎにいくというのは、どうなのだろう。アルトゥールは寂しがらないだろうか。

アヒムはキョトンとした顔で首を傾げる。

「ん?お姫様?お姫様がどうかした?」

「あ、いや……」

スピーゲルは口を手で覆う。

馬鹿なことを言った。求婚したから、出稼ぎにいくのだ。きっとアヒムはアルトゥールに渡す結納金を稼ぐために仕事に戻りたいのだろう。

(……持参金。やっぱり姫に持たせた方がいいかな)

本来ならアルトゥールの家族でもないスピーゲルが持参金を用意する必要などない。だが、スピーゲルが用意しなければ他に誰がそれをするのだ。

彼女が幸せになる為に、出来るだけのことはしてやりたい。

アルトゥールの食欲を折り込めば、世間一般の持参金の相場に上乗せした額を持たせるベきだろう。

それをどうやって工面してものか。

(……正直、厳しいな)

アーベルの残してくれた蓄えも、底が見えかけている。

切れ長の目を、スピーゲルは細めた。

(()()。早めに進めた方がいいな)

「おーい、旦那?お姫様が何?」

アヒムに呼び掛けられ、スピーゲルは我に返った。

「いや、何でもない」

「そ?実はさーずっと気になってたんだよね。あの村の生活費どうなってんのかなーって」

「………え」

今まさに悩んでいた厳しい懐事情を明かすのは、正直気がひける。

けれどアヒムはあっさり言った。

「言わなくていいよ。ベーゼンから聞いたから。アーベルさんが残してくれた蓄え、けっこう使っちゃったんでしょ?」

「……」

「もうすぐ冬じゃん?さしあたって金が必要じゃん?」

ニカリと、アヒムは笑う。

「俺の稼ぎなんてたかがしれてるけど、少しは足しになるかなと思ってさ」

「え……」

スピーゲルは戸惑わずにはいられなかった。つまり、アヒムはスピーゲルに経済的援助を申し入れてくれているわけだ。アルトゥールに渡す結納金のためではなかったらしい。

スピーゲルは頭を下げた。

「……ごめん」

人々を村に閉じ込めているのは自分(スピーゲル)であるのに、満足に養いきれず、被害者であるアヒムにまで心配と負担をかけてしまうことが情けない。

アヒムは口を尖らせる。

「違うでしょー」

「え?」

「俺が欲しいのは他の言葉」

拗ねたように言うアヒムに、スピーゲルは少し考えこむ。

「……あ『ありがとう』……?」

おずおずと口にしたスピーゲルに、アヒムは不満げだ。

「何で疑問系?」

「……ありがとう、ございます」

スピーゲルが言い直すと、アヒムは明るく笑って頷く。

「正解ー……っていうか、お礼を言うのはこっちなんだけどね。エラの面倒みてもらってるわけだし」

「いや、それは……僕が彼女をあそこに閉じ込めてるわけだし」

「違うでしょ!」

再びの駄目出しに、スピーゲルは困惑する。

「えっと……」

「閉じ込めてるんじゃなくて、匿ってるんでしょ?」

「……」

物は言いようであるがやっていることは変わらない。スピーゲルが黙りこむと、アヒムはため息をつく。

「旦那さぁ、本当に少しくらい自己弁護しなよ。何にも説明しないから、村の皆、自分達が旦那に閉じ込められてるんだと思ってんじゃん」

「それは……その通りだし」

「いやいや。だからぁ、旦那が皆を殺した(てい)であの村に隠さなきゃ、皆イザベラに本当に殺されちゃってるわけじゃん?相手は権力者(お妃様)だもん。衛兵100人を指先で操れるんだよ?逃げられやしないよ。旦那だってそう言ってたでしょ」

「……そうだけど」

だから自分に責任がないとは言い切れない。スピーゲルが言葉を濁すと、アヒムは困ったように眉尻を下げる。

「旦那ってさあ、諦めてるとこもあるよね?魔族(じぶん)が何言ってもムダって思ってない?」

ドキリと、心臓がざわつく。

アルトゥールにも、同じようなことを言われたことがある。『理解して貰う努力を怠ってるだけ』と。

(でも……)

実際、スピーゲルが何かを言ったところで人々は耳を貸してすらくれない。それが現実だ。

けれどアヒムやアルトゥールが、スピーゲルのことを思って言及してくれたことは理解できる。その厚意を素直に受け入れられないことが、スピーゲルは申し訳なかった。

「……ごめん」

「……まあ、旦那がそう思っちゃうのも仕方ないことだけどさ」

アヒムはため息混じりに言うと、一転して声を明るく変調させた。

「というわけで、村の皆に旦那の事情は話しときましたー!」

「え!?」

スピーゲルは目を剥く。

「ちょっ、何勝手に……」

「話していいかって相談したら、どうせ旦那ダメって言うでしょ?」

「だからって……」

「皆、複雑な顔してた。旦那にされたことは許せないけど、自分がしただろうことを棚にあげて旦那だけ責められないし。もとはといえば、自分達がイザベラの怒りを買ったことに端を発してるからさ。身に覚えがないって怒る人もいたけど、真っ青な顔をしてた人も沢山いたよ。思い当たることがあるんだろうねぇ」

ガシッ、とアヒムがスピーゲルの首に手をまわす。

「とりあえず!旦那は皆を閉じ込めてるんじゃなくて、匿ってるってことはしっかり伝えてあるから!!」

スピーゲルは身を堅くした。スピーゲルの髪と目の色を知っていて、こんなふうに遠慮なく、かつ恐れずに触れてくるのはアーベルかベーゼンか、アルトゥールくらいしかいない。

至近距離から、アヒムはスピーゲルの目を覗いて笑った。

「誰も彼もが俺みたいに切り替え早いわけじゃないからさ、いきなり夕食に招待、なんてことにはならないと思うけど、でも今度村に行ったら挨拶くらいはしてくれると思うよ」

近しい距離感に対するスピーゲルの戸惑いはゆっくりと溶け、代わりにくすぐったい照れくささが、心に満ちる。きっと兄弟や親友がいれば、こんなふうなのだろう。

「……アヒムは、いい人ですね」

スピーゲルが言うと、アヒムは目を丸くする。

「えー?そんなこと初めて言われるけど。俺の評価なんてだいたい煩いとか笑顔が胡散臭いとか」

「そんなことない」

スピーゲルは緩く首を振り、微笑んだ。

「君は優しい」

「……」

アヒムが、スピーゲルから手を離す。その顔は妙に赤らんでいた。

「……な、なんか正面きって言われると恥ずかしいな」

照れるアヒムの姿に、スピーゲルは目を細める。

アヒムなら、アルトゥールを幸せにしてくれるだろう。きっとアルトゥールを守ってくれる。

(そのために、僕は僕が出来ることをしよう……)

「アヒム。頼まれて欲しいんですけど」

「何ー?おみやげは買ってこないよ?ご存じの通り金ないから」

おどけるアヒムに、スピーゲルはつい軽く噴き出す。

「はは。そうじゃなくて……」

笑いを飲み込み、一つ呼吸する。

「商隊の護衛をしてたっていうなら、国境付近の地理に詳しいんですよね?」

「うん?まあ、主要な街道と裏道は頭にはいってるけど」

「それなら、国境の近くに隠れられる場所を探して欲しいんです。廃村とか……村の人達全員が身を隠せる場所」

「……どういうこと?」

アヒムが顔をしかめる。スピーゲルは彼の緑の目を見据えた。

「イザベラを王妃から引きずりおろします」

「……え」

アヒムが、驚きに目を見開く。

「だって……いいの?お妃は旦那の……」

「……本当は、もっと早くに僕がイザベラを止めるべきだったんです」

力をかせと言われたその時に、復讐なんてやめさせなければいけなかったのだ。けれど、イザベラに頼られたことが――――償えることが嬉しくて、許してもらえるなら何でもしようと思ってしまった。

結局、償うどころかイザベラを欺き、沢山の人の人生をねじ曲げただけだったが。

けれど、それももうお仕舞いにしよう。

目線を上げ、スピーゲルは話を続けた。

「イザベラから王妃としての権力を奪えば、姫やエラ、村に隠れている人達を閉じ込める必要はなくなります。彼らを自由にしたい。……でも、もし失敗した時のために、皆が自力でイザベラの権力が及ばない国外に逃げられる準備をしておきたいんです」

それまで大人しくスピーゲルの話を聞いていたアヒムが、『待った』と言うふうに軽く挙手する。

「そんな面倒なことしなくても、さっさと全員国外に逃がしちゃえばいいじゃん。確かに故郷を離れたがらない人もいるかもしれないけどさ、それも命があってのことだし」

「だめです」

即座に、スピーゲルはアヒムの提案を切り捨てた。

「姫がこれから生きていくために『イザベラに命を狙われている』という障害は絶対に取り除くべきなんです。どこにいくにも、何をするにも、顔を隠して名前を偽るような、そんな生き方を姫にさせたくない」

はっきりと、そして強く言い切ったスピーゲルに、アヒムが感心したように腕を組む。

「愛してんだねえ」

「……愛してるよ」

囁き、スピーゲルは俯く。

「だから、あの人を大切にしてください」

その呟きは風の音にまぎれてアヒムには聞こえなかったらしい。

「ん?旦那、今何て言ったの?」

「……べつに」

「ふーん?まぁ、いいけど。っていうかさ、旦那。お妃を引きずり下ろすのは賛成だし、勿論協力するけど……下手したら旦那が火炙りになるんじゃないの?それ、わかってる?」

確認するかのようにアヒムに問われ、スピーゲルは頷いた。

「わかってます」

自分はイザベラと共に裁かれて然るべきだ。その覚悟は、もう出来ている。

近づいてくる足音に、スピーゲルとアヒムは振り向いた。

家の陰から、アルトゥールがひょっこり顔を出す。

「スピーゲル、お茶を淹れましたわ。少し休み…アヒム?来てましたの?」

「お茶ー?今日のおやつは何ー?」

屈託ない笑顔でアヒムが尋ねるが、アルトゥールはそれには堪えずに不満を口にする。

「どうしていつもおやつ時に来ますの?わたくしの食べる分が減りますわ」

「いやいや。お姫様の食べる量はおかしいから。どこにはいってんの?」

軽快に軽口を言い合う二人を眺め、スピーゲルは胸の痛みを堪えて微笑んだ。

(僕の隣でなくてかまわない……)

笑っていてくれればいい。

幸せでいてくれれば、それでいい。

どこまでも走っていける限りがない広い世界を、アルトゥールに贈りたい。

そのためなら……。

「……何だってする……」

吐息のような呟き(決意)は、やはり誰の耳にも届くことはなかった。



***



「……ってわけで、行ってくるからー」

そう言って笑うアヒムは、荷袋を肩に背負った旅姿だった。

爽やかな緑から赤黄色く変化した椚の木陰で、ブランコに揺られていたアルトゥールは目を瞬かせる。

「行くって……どこへですの?」

季節はすっかり秋。木々が色づき、春とは違う華やかさを森が装う時季。

生き物達は来る厳しい冬の備えの為に忙しく働いていた。それは人間も例外ではない。冬の間に食べる保存食作りにベーゼンは毎日忙しく煮炊きを繰り返しているし、スピーゲルも薪を多く切ったりと冬支度を進めている。

アルトゥールも手伝いたいのだが、如何せん絶望的な不器用である。何もしないことが最大の手伝いであると、ブランコに揺られていた。

アヒムは荷袋を肩から、地に下ろした。

「だから出稼ぎ。元の仕事に戻ろうと思って。俺商隊の護衛をしてたんだよねー……って俺、旦那に昨日言ったんだけど?聞いてない?」

「……聞いてませんわ」

アルトゥールにしてみれば寝耳に水の話だ。

周囲にいたツヴァイク達も知らなかったらしい。

「知らね」

「初耳ね」

「……今知った」

アヒムは不思議そうに腕を組み、首を傾げる。

「ありゃ?てっきり旦那から聞いてると……あ!旦那!」

丁度納屋から顔を出したスピーゲルに向け、アヒムが手を挙げる。

それに返すように、スピーゲルも軽く手を挙げた。いつの間にか随分と親しげになったものだ。

「これから行くんですか?アヒム」

「うん。ねぇ、旦那。何で俺が出稼ぎ行くってお姫様に話しといてくれなかったの?」

「……え?」

きょとん、とスピーゲルは動きを止めた。

「僕は……てっきり姫は君が出稼ぎに行くと知ってるとばっかり」

「何で?」

「何でですの?」

異口ほぼ同音にアルトゥールとアヒムが尋ねると、スピーゲルは困った顔をする。

「だって……姫には一番に伝えてあると思って」

スピーゲルの主張はアルトゥールにはいまいち理解しがたかった。

何故『姫には一番に伝えてあると』と彼が思ったのか。謎である。

アヒムも得心いかない様子だ。

「……まぁ……別にいいけどさぁ」

「アヒム様」

家の中に戻っていたベーゼンが、包みを持って出てきた。

「パイとチーズが入っています。道中お食べください」

「お弁当!?うわー!ありがとー!」

アヒムは嬉しそうに包みを受けとる。

「いい匂いがするー美味しそー」

「……アヒム」

少し遠慮がちにスピーゲルがアヒムを呼んだ。

「あの件ですけど……」

「まっかせといて!」

アヒムはニカッと笑うと、力強く親指を立てた拳をスピーゲルに突き出す。その様子にスピーゲルは笑って頷いた。

「うん。任せます」

「任されたー!じゃ、行ってきまーす」

アヒムが歩き始めると、その背中に、ツヴァイク達が口々に声をかける。

「しっかり稼いで来いよ!」

「気を付けてね!」

「……帰ってこなくていい」

アストが吐いた毒も聞こえていたはずだが、アヒムは振り返ることなく大きく手を振った。その背中が森のなかへと遠ざかるのを見送りながら、アルトゥールは上目使いにスピーゲルを窺った。

「あのことって……何ですの?」

「……別に、大したことじゃありません」

アルトゥールと目をあわせずに、スピーゲルは素っ気なく答える。言外に『訊くな』と言われたような気がして、アルトゥールは口を閉ざした。

昨日、薪割りするスピーゲルをお茶に呼びに行ったアルトゥールは、アヒムの声を耳にして立ち止まった。

『……んじゃないの?それ、わかってる?』

確認するかのようにアヒムに問われ、スピーゲルは頷いた様だった。

『わかってる』

その横顔は覚えがあった。

いつだったか、スピーゲルは『僕は()()火炙りになるわけにはいかないので』と口にした。まるでいつかは自分が火炙りになるだろうことを見越しているような口振り。

アヒムと何かを話し合っているスピーゲルは、あの時と同じような、思い詰めた表情(かお)をしていた。

彼らが何を話しているのかはよく聞き取れなかったが、二人の周りには近寄りがたい空気が立ち込め、その空気に飲まれたアルトゥールは彼らになかなか声をかけることができなかった。

(『あのこと』っていうのは……)

昨日二人で話していたことと、関わりがあるのだろうか。

胃もたれにも似た不安が、胸をグルグルと渦巻く。

アルトゥールは、そっとスピーゲルの上着の裾をひいた。

「……スピーゲル」

「姫?どうかしましたか?」

スピーゲルが、アルトゥールの顔を覗きこむ。

太陽の光を浴びて琥珀色に輝くスピーゲルの目。それを見つめて、アルトゥールは途方に暮れた。

「姫?」

「……」

どんな言葉にすれば、この漠然とした不安をスピーゲルに伝えられるのだろう。それが分からず、アルトゥールは黙りこむ。

「……大丈夫ですよ」

スピーゲルの大きな掌が、アルトゥールの頭をポンポンと軽く叩くように撫でた。

「寂しいでしょうが、アヒムはすぐに帰ってきます。心配いりません」

そう言ってスピーゲルは滲むように微笑んだ。

アルトゥールの沈黙を、スピーゲルは彼なりに解釈したらしい。

(べつにアヒムがいなくても寂しくはないのだけど……)

けれど、否定すると何故黙りこんだのかを説明しなければならなくなる。そしてその説明をするための語彙力が、アルトゥールには圧倒的に足りない。

仕方なく、アルトゥールは曖昧ながらも頷くことにした。

「そう、ですわね……心配いりませんわね」

「……アヒムが戻ったら……」

少し躊躇うように、スピーゲルは言った。

「そしたら、あなたを村に移します」

スピーゲルの言葉に、アルトゥールは息を飲む。

隣で話を聞いていたベーゼンが、目を吊り上げた。

「姫君様を村へ!?何故です?どうしてそんな……」

「ベーゼン」

アルトゥールはベーゼンを制した。

「わたくしがスピーゲルにお願いしたんですわ。そうして欲しいと」

この家で暮らしたのは半年ほど。まるでここが自分の家であるような気分でいたが、所詮アルトゥールは訪問者。いつかは立ち去る人間で、そしてその『いつか』がやってきただけだ。

(これ以上……)

スピーゲルに迷惑をかけてはいけない。優しい彼を煩わせてはいけない。

ベーゼンは困惑した様子だった。

「姫君様が?それこそどうして……」

「スピーゲル」

ベーゼンの言葉を遮って、アルトゥールはスピーゲルを見上げる。

「わかりましたわ。アヒムが帰ってきたら、この家から出ていきますわ」

ズクズクと疼く胸の痛みを押し隠し、アルトゥールは懸命に笑った。

すると、スピーゲルは目元を歪ませる。

「……無理に笑わなくていいんです」

スピーゲルの言葉に、アルトゥールの笑顔がひび割れる。

「……む、無理になんて……」

「あなたは……」

アルトゥールの頭にのったままだったスピーゲルの手が、滑り落ちるようにしてアルトゥールの頬を包む。

指先は少しかさついていたが、彼の手は相変わらず温かい。

「あなたは、笑いたい時に笑って、泣きたいときに泣けばいい」

痛みを堪えるように、スピーゲルが微笑む。

その微笑みに、アルトゥールの胸が熱く、切なく疼いた。

「僕に、無理に笑いかけてくれなくてもいいんです」

それだけ言うと、スピーゲルはアルトゥールから離れ、納屋へと戻っていく。

ギイ、とブランコが軋む。

嘘をついたような後ろめたい気分に、アルトゥールは項垂れた。

(無理にでも……)

無理矢理にでも笑っていなければ、泣いてしまいそうだった。

この家を出ていくのが寂しくて、スピーゲルの傍にいられないのが悲しくて。

(村に移るからといって、スピーゲルと二度と会えなくなるわけではありませんわ)

スピーゲルが村を訪れることは、幸か不幸かはともかく頻回にあることだし、スピーゲルがいくらアルトゥールを憎んでいたとしても、優しい彼ならアルトゥールの様子を見に来るくらいはしてくれるはずだ。

(……それにしても)

どうして『アヒムが戻ってきたら』なのだろう。

アルトゥールが村に居を移すのに、何故アヒムが関係あるのだろうか。アヒムが村にいようがいまいが、はっきり言って関係ないではないか。何故スピーゲルは、そこにこだわっているのだろう。

ブランコに座ったままそんなことを考えていたアルトゥールの前に、腕組みをしたベーゼンが立ちはだかる。

「姫君様!」

全身から凄まじい怒気を発するベーゼンの迫力に、アルトゥールは身を竦ませた。

「ご、ごめんなさいですわ、ベーゼン。棚の奥にあった干し棗。食べたのはわたくしですわ」

心当たりを素早く謝ると、ベーゼンはカッと目を見開いた。

「やっぱりそうでしたか!!でも今私が問い詰めたいのはその件ではありません!」

ベーゼンはアルトゥールの前に膝をついた。そして、アルトゥールを真っ直ぐ見据える。

「姫君様はスピーゲル様がお好きなのではないのですか!?」

何の誤魔化しもないド直球な指摘に、アルトゥールの背後でツヴァイク達が絶叫した。

「い……っ、言った――――!!言っちまった――!!」

「皆が言いたくてウズウズしてたことを!!」

「……あっさり言った!!」

驚愕と共に叫ぶツヴァイク達を、ベーゼンは鋭い眼光で八つ裂きにした。

「あなた達はだまってらっしゃいっっっ!!」

途端に、ツヴァイク達は自らの()窪み(くち)を塞ぐ。不思議なもので、そうしていると彼らは普通の木に見えた。

「姫君様!」

ベーゼンはアルトゥールに向き直る。

「姫君様はスピーゲル様がお好きなのでしょう?それなのに、何故この家を出ていくなんておっしゃるんです?」

いつも優しく穏やかなベーゼンが、どこか焦っているように見えた。

そんなベーゼンの様子に戸惑いながらも、アルトゥールは小さく微笑んだ。

「スピーゲルのことは、勿論好きですわ」

これだけ親切にしてもらっておいて、嫌いになれるはずがない。

だが、アルトゥールの答えはベーゼンが満足しうるものではなかったようだ。

「そういう意味の好きではありません!」

ベーゼンが、怒ったように言う。

「スピーゲル様とキスがしたいと仰っていましたよね?それはスピーゲル様に恋をしていたからじゃありませんか?」

アルトゥールは驚いて目を見開いた。

「恋……?」

「そうです!恋です!」

「……」

ズクリと疼いた胸を、アルトゥールは押さえる。

(スピーゲルに恋?)

そんなこと、考えてもみなかった。

「……恋じゃ、ないですわ」

心臓を掴むかわりに、アルトゥールは上着を強く掴む。

(恋じゃ、ない)

だって、王城で恋人の話をする下女は楽しそうで幸せそうだった。

でも、アルトゥールは苦しいのだ。

スピーゲルの姿に、声に、何気ない仕草に、言葉に、いつも胸が苦しくてたまらなくなる。

特に、スピーゲルと許嫁のイザベラのことを考えると、もう駄目だった。

心臓が張り裂けそうで、涙がでてくる。

これが恋だなんて嫌だ。

苦しいのは嫌だ。

アルトゥールは、内心を誤魔化すために微笑んだ。

「……恋なんかしていませわ。とにかく、もうスピーゲルに迷惑をかけたくないんですわ」

スピーゲルは優しいから、アルトゥールのことを憎んでいても、煩わしく思っていても、アルトゥールを突き放せない。だから、アルトゥールの方から離れてあげなくては。

ベーゼンが眉尻を下げる。

「姫君様……っ」

「今までありがとうですわ、ベーゼン。時々でいいから、わたくしのためにカボチャパイを焼いてスピーゲルに持って来させてくださる?」

「……っ勿論です!」

ベーゼンが腕を伸ばし、アルトゥールを抱き締める。

「毎日焼いて、スピーゲル様に持って行かせます!」

「時々でいいんですのよ?」

「いいえ!毎日、必ずスピーゲル様を行かせます!」

言い切るベーゼンに、アルトゥールは噴き出した。

「それじゃあスピーゲルが大変ですわ」

楽しくて嬉しくて、クスクス笑う。

(そうですわね。永久の別れというわけではありませんもの)

アルトゥールは自分にそう言い聞かせて、寂しさで悄気(しょげ)る心を励ました。








2022.2.2セリフの入れ忘れを訂正しました。

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