魔法使いと虹と祈り
***
藤を編んだ大きな籠の中で、生まれたばかりの赤ん坊はすやすやと眠っていた。
その可愛らしい姿から、幼いスピーゲルは目がはなせない。
「……小さいね」
スピーゲルの小さな手より更に小さなその掌を、スピーゲルはそっとつついてみる。すると、赤ん坊の短い指は、意外に強い力でスピーゲルの指を握ってきた。
スピーゲルは頬を蒸気させる。
(可愛い……)
こんなに近くで赤ん坊を見たのは初めてだ。
というより、同じ年頃の子供を見かけたことすらスピーゲルはない。アーベルは『まだ早い』とスピーゲルを外に連れ出してくれないのだ。
「名前をつけてあげなさい。スピーゲル」
肩に手をおかれ見上げると、アーベルが穏やかに微笑んでいた。
「お前の花嫁になる子だ」
「名前?」
スピーゲルの一族にとって、名前はとても大切で神聖なもの。
その名前をつける栄誉を与えられ、スピーゲルは背筋を伸ばす。
「名前は……」
赤ん坊を、スピーゲルは見下ろした。
スピーゲルの指を握る小さな手。
スピーゲルを見つめる大きな瞳。
その存在は無垢で純粋で、まるで――――……。
「近寄らないでちょうだい!穢らわしい魔族!」
寝台の上で、痩せ細った老女は金切り声をあげた。
家の中にも入れず、スピーゲルは裏口に立ち尽くし途方にくれる。
母親の病気を治して欲しいと頼まれて来たものの、当の本人がスピーゲルが近づくのを嫌がり治療を拒んでいるのだ。
魔法をかけるには、相手に触る必要がある。それ以前の問題として何の病気か、体のどこがどう悪いのか、確かめないことには何もできない。むやみやたらな魔法をかければ逆に体を傷めつけてしまうし、魔法を使わなくても服薬で治るならそちらの方がいい。
「早く出ていって!近づかないで……っ」
老女は頭を押さえてふらついた。
「か、母さん!」
スピーゲルをここへ連れて来た男――――エーミールが慌てて母親に駆け寄る。
「母さん!大丈夫か!?」
「エーミール!早くその穢らわしい男を追い出して!!魔族が何をしたか忘れたのかい!?」
エーミールの母親は戸口で立ち尽くすスピーゲルを憎悪に燃える目で睨み付け、そして指差した。悪人を糾弾するように。
「22年前、魔族がおこした洪水のせいでお前の父親と妹は死んだのよ!」
「そうだとしても!」
エーミールは母親の肩を掴み、真剣な目で母親を見据える。
「そうだとしても、母さん。母さんに元気になって欲しいんだ。俺には子供もいないし、女房にも先立たれた。もう母さんしかいないんだ……!」
「……エーミール……っ」
「頼むよ、母さん。俺を一人にしないでくれ!」
涙ぐむエーミールに、エーミールの母親は荒い呼吸を繰り返し黙りこむ。
エーミールの家は、貧しい村の中でも特に貧しく見えた。
雨漏りで濡れる床。
軋む扉。
火が消えた暖炉の鍋に残ったスープには、豆が数粒浮かぶだけだ。
報酬として渡された銀貨は、きっとエーミールのなけなしの財産なのだろう。
銀貨は後で返すことにしようと、スピーゲルは思った。
そもそも稼ぐことを目的として、客を迎えているわけではない。贅沢さえしなければそれなりに暮らしていける額の蓄えを、アーベルは残してくれている。
とはいえ、その蓄えも例の村の人々を養うために大分つかってしまったのだが。
どう工面したものか。何か手だてを考えなくてはならない。
エーミールが鼻をすすり、スピーゲルを振り返った。
「た、頼む」
「……わかりました」
スピーゲルは頷き、足を踏み出した。土埃に汚れた床が、ギシリと軋む。
スピーゲルが近づくと、エーミールの母親は顔を背けた。
「名前を聞いても?」
「……」
「ドロテーだ」
答えない母親に代わり、エーミールが答える。スピーゲルは手袋をとり、ドロテーに手を差し出した。
「手を」
「……」
「ほら、母さん」
エーミールに促され嫌々ながらもドロテーが出した手を、スピーゲルはとる。
「……」
冷たい手だ。それに脈が早い。
「……どこが苦しいんです?」
スピーゲルが尋ねると、やはりドロテーの代わりにエーミールが答えた。
「微熱が続いてる。それから食事を嫌がって……」
「唾を飲み込むにも喉が痛むのよ」
ドロテーがそっぽを向きながらつけたす。
「喉?」
喉の病気だろうか。それならよく効く薬湯がある。
持ってきた薬草で調合出来ただろうかと考えを巡らすスピーゲルに、ドロテーは更に訴えた。
「最初は奥歯が痛かったのよ。そのうち口が開きづらくなって、食欲もなくなって」
「……ちょっと失礼します」
スピーゲルはドロテーの首筋に指をあてる。
(腫れてる……)
昔、同じような症状の老人をアーベルが診たことがあった。歯の痛みを発端に顎の骨を患っていることがわかったその老人は、薬湯を毎日飲み続けて一月あまりで微熱などの症状はおさまった。
(……でも、この人は……)
スピーゲルは立ち上がる。
「ちょっと来てもらえますか」
「何だ?」
怪訝な表情で、エーミールも立ち上がった。不安顔のドロテーを部屋に残し、スピーゲルはエーミールを裏口から外へと連れ出す。
「治療はできません」
声を低くして、スピーゲルは告げる。エーミールは目を見開いた。
「何だって?どうしてだ!?」
「全身に病の毒が回っていて、手の施しようがありません。心臓や他の臓器にも負担がかかっている。薬も魔法も、もう効かない」
「嘘だ!」
エーミールがスピーゲルの胸ぐらを掴む。
「もう薬が効かないって……どうして医者と同じことを言うんだ!?あ、あんた魔族だろう!?魔法が使えるんだろう!?」
「医者と同じように魔法にも限界があります。ドロテーさんの体は魔法で治せる限界を越えている」
いつ意識を失いそのまま息をひきとってもおかしくない――……それを言うのは止めておいた。きっと医者にも同じことを言われたはずだ。
「う、嘘だ……嘘だ……っ」
エーミールは声をつまらせ、その場に膝をつき、手をつく。
「……気休めですが、呼吸を楽にする魔法ならかけられます。せめて……」
「……金だろう?」
エーミールが何を言ったのか聞き取れず、スピーゲルは訊き返す。
「はい?」
「金が足りないんだろう?金が少ないから治してくれないんだろう?」
エーミールが、スピーゲルの腕を掴む。彼の爪が服越しに腕に食い込み、スピーゲルは顔をしかめた。
「金なら出す!す、すぐには無理だが必ず……っ」
涙を流しスピーゲルを見上げるエーミールの目は、常軌を逸している。
彼を落ち着けようと、スピーゲルはゆっくりと話すことを意識した。
「違います。お金は関係ない。いいですか?お母さんは高齢で体力もない。下手に魔法をかけては逆に苦しむ時間が長くなるだけ……」
「嘘つけ!治ししぶって金を巻き上げる気だな!?」
エーミールが声を荒げ、スピーゲルを突き飛ばす。不意なことだったので、スピーゲルは背中から地面に叩きつけられてしまった。
「……っ」
「金なら払うと言ってるじゃないか!人でなし!穢らわしい魔族め!恥を知れ!」
スピーゲルに馬乗りになり、エーミールは拳を振り下ろす。反撃するのをスピーゲルが躊躇ううちにエーミールの声を聞いた隣の家の住人が顔を覗かせる。
「エーミール?どうかしたのかい?」
住人は髪が顕になったスピーゲルの姿を見て、即座に叫び声をあげた。
「ま、魔族だ!誰か来てくれ!!魔族だ!!」
人が集まり囲まれては逃げるのは難しくなる。早く逃げなくてはと、スピーゲルは素早く立ち上がろうとした。
けれど煤色の外套を掴んだエーミールに、力任せに引き倒される。
「逃がさないぞ!母さんを治せ!!穢らわしい魔族!!」
「だから……っ」
治そうにも治せないのだ。魔法をかけたとしても病の毒に負けて、死を早める可能性だってある。それを説明したところで、今の状態のエーミールが納得するとは思えなかった。
「穢らわしい魔族め!!」
エーミールが振り下ろした拳を、スピーゲルは掌で受け止める。そして呼んだ。
「『エーミール』!」
素早く呪文を唱えれば、光の矢がエーミールの胸を差し貫く。瞠目したまま、エーミールは地面に倒れ伏した。
一時体の自由を奪う魔法だ。横たわるエーミールの手に、銀貨が入った袋を握らせる。
「……力になれなくて、すみません……」
短く謝り立ち上がろうとしたスピーゲルの額に、衝撃がはしる。
「……っ!?」
何が起こったのか把握出来ないスピーゲルの視界の端で、拳大の石が地面に転がり、それを追いかけるようにして赤い血が滴った。
額に手をやると、ヌルリとした血液の感触。遅れてやって来た痛みに、スピーゲルは眉を寄せた。
「人殺し!エーミールから離れろ!」
先程の隣の家の住人が、真っ青な顔をしてまたスピーゲルに石を投げてくる。飛んできた石を、スピーゲルは空いている方の手で叩き落とした。
「おい!どうした!?」
「うわ!?」
「ま、魔族だ!本当に魔族だ!」
集まってきた村人達はスピーゲルの姿を見るや恐怖に顔を歪める。
「で、出ていけ!」
足元にあった石を、村人達は拾い上げて次々とスピーゲルに投げる。
「この村から出ていけ!穢らわしい魔族め!」
「災厄を持ち込むな!」
石を避けながら、スピーゲルは後退する。
その頬に、ポタリと冷たい感触が落ちてきた。
見上げた空はいつの間にか灰色の雲に覆われていて、雨の滴がパラパラと地上に降り注ぐ。
「あ、雨だ……!」
一人の村人が、悲鳴じみた声を上げた。
「雨だぞ!あの魔族が雨を呼んだ!」
「大変だ!大雨になるぞ!」
「川が氾濫する!」
スピーゲルが呆然と立ち尽くす前で、村人達は右往左往して慌てふためく。怯え狼狽える村人達の姿は、滑稽以外の何者でもなかった。
村人達が心配したとおり雨足は急激に強まり、地面に点々としていた血痕を洗い流していく。
「…………馬鹿らしい」
雨音に紛れるように、スピーゲルは呟きを吐き捨てた。
外套が雨を吸い、徐々に重くなっていく。
(雨を呼んだ?僕が?)
滞留する地下水を地上に噴き出させるくらいならともかく、天候を左右するほどの魔力などあるはずがない。
(そんな力があったなら……)
額から流れる血が目にはいり、世界が紅く染まる。
血のようだと言われるその瞳で、スピーゲルは雨に濡れる世界を冷ややかに傍観した。
(そんな力が、あったなら……)
こんな世界、とっくに水没させてやるのに。
初めてアーベルに連れていってもらった市場で、スピーゲルは同年代の少年から鬼ごっこに誘われた。
『一緒にやろうよ!』
『……でも』
店の前で待っていなさいと、アーベルからは言い含められている。
店の中に入ったアーベルに視線をやると、まだ買い物は終わりそうにない。
(少しだけ、なら……)
頭からスッポリと外套をかぶっているから、髪の色も目の色もばれはしまい。
同年代の子供と遊んだことがないスピーゲルにとって、鬼ごっこへの誘いは抗いがたい魅力にあふれていた。
『こっちだよ!』
『ま、待ってよ!』
先に走りだした子供の背を追いかけ、スピーゲルはアーベルとの約束の場所から駆け出す。
待っていた十数人の子供達に混ざり、スピーゲルは鬼ごっこに夢中になった。
アーベルとの約束も、時間も、そして自分の髪と目の色が何色だったかも完全に意識の外。
楽しくて、嬉しくて――――……けれど、楽しい夢はすぐに褪める。
つまづき転んだ女の子を助け起こした拍子に、フードが肩に落ちた。
『きゃああああ!』
それまで手を繋いでいた女の子が、悲鳴をあげて飛び退き、大きな声で泣き出した。
一緒に笑いあっていた子供達が、一斉にスピーゲルから離れていく。
『魔族だ!』
『あっちいけ!』
子供達はスピーゲルに向けて石を投げ始める。
石は肩にあたり、腕にあたり、額に当たった。
今の今まで仲良く遊んでいた相手から投げられた石は、スピーゲルの体だけではなく心をも痛めつける。
『やめてよ』
スピーゲルは堪らず泣き出した。
『やめてったら』
腕には痣ができ、額には血が滲む。
『魔族だ!』
『大変よ!』
大人達が集まってきた。
『子供を守れ!』
『穢らわしい魔族め!俺の子供に何をした!』
暴力的に叩きつけられる嫌悪と蔑み。
大人達は、スピーゲルが羊を食い殺した狼かのように取り囲む。
『騎士団に突き出してやる!』
スピーゲルを捕まえようと、手がのびてくる。けれどスピーゲルは恐怖で萎縮し、逃げるどころか声すら出せなかった。
鳥が、スピーゲルの目の前を横切る。
『うわ!?』
『何だ!?』
次から次へと空から鳥が舞い降り、スピーゲルを取り囲む大人達を嘴でつつき始める。
『スピーゲル!』
アーベルが血相をかえて走ってくるのが見えた。
『探したぞスピーゲル!』
『師匠……っ』
頼もしい手に抱き上げられ、スピーゲルは安心からまた涙ぐむ。
鳥達の攻撃に騒然とするなか、スピーゲルとアーベルは市場から逃げおおすことができた。
『どうして?』
家でベーゼンから怪我の手当てをうけながら、スピーゲルは泣いた。
『好きで目が赤いわけじゃないのに。意地悪なんてしないのに。どうして?』
『スピーゲル……』
普段から聞き分けがよく泣くことも滅多にないスピーゲルの癇癪に、アーベルもベーゼンも途方にくれた顔を見せる。
二人を困らせたくない。困らせてはいけない。そうは思うのに、スピーゲルは泣き叫ばずにはいられなかった。
『皆嫌いだ!大っ嫌いだ!!』
『そんなことを言ってはいけないよ』
アーベルが、スピーゲルの前に膝をつく。そして腕を伸ばし、スピーゲルを抱き寄せた。
『スピーゲル。憎んではいけない。呪ってはいけないよ』
アーベルに抱き締められ、スピーゲルはしゃくりあげる。
『でも……っ』
『この世界のどこかに、いるかもしれないのだから』
スピーゲルの髪を、アーベルは優しく撫でてくれた。
荒くれた気持ちが凪いでいき、嗚咽が徐々におさまっていく。
『……師匠』
アーベルは身を起こすようにしてスピーゲルから離れると、両手でスピーゲルの頬を包んだ。
『この世界のどこかに、お前の銀の髪も紅い目も、魔力も、存在そのものを受け入れてくれる誰かがいるかもしれない。だから』
アーベルの穏やかな声と言葉が、まだ乾かぬ心の傷口に染み込んでいく。
『だから、その人が見上げる空を、踏み締める大地を、決して呪ってはいけないよ』
『……っ』
本当に、そんなことがあるのだろうか。
この世界のどこかに自分を受け入れてくれる誰かがいるなんて、スピーゲルにとって、それは途方もない夢のようだった。
――――重い足取りで、スピーゲルは泥濘を踏み締める。
雨は止んだが、濡れた着衣は雨に体温を奪われたスピーゲルの体を芯から凍えさせた。
外套の裾から、ジギスヴァルトが顔を出す。
爬虫類特有の丸い目を心配気に細めるジギスヴァルトに、スピーゲルは力なく笑ってみせた。
「大丈夫。もう血は止まってるよ」
石を投げつけられた額は、確かにもう出血してはいない。けれどじくじくとした疼きを感じて、スピーゲルはそこに手をやった。
雨に慌てる村人達の隙をついて、何とか逃げ出すことは出来た。怪我も大したことはない。でも、まるで嵐の荒海を泳いだように、スピーゲルは疲れきっていた。
「……」
今更だ。
差別も侮辱も、今に始まったことじゃない。
今更だ。今更だ。今更だ。
今更、傷つく必要なんてない。
(それなのに……)
どうして、いちいち傷ついてしまうんだろう。
ギィ、とブランコが軋む音に、スピーゲルは顔を上げた。
いつの間にか雨は止み、雲の切れ目から晴れ間が覗いている。
差し込む光の下、ブランコに腰かけるアルトゥールの背中が見えた。
幻を見るような心持ちで、スピーゲルはその後ろ姿を眺める。
(……ああ。だからか……)
唐突に、スピーゲルは悟った。
受けることに慣れ切っていたはずの侮蔑。
それが妙に心に刺さるのは、アルトゥールと出会ったからだ。アルトゥールと出会って、怯えも蔑みもしない真っ直ぐな眼差しを知ってしまったからだ。
アルトゥールはただ当たり前に目を見て、スピーゲルと話してくれる。スピーゲルを『魔族』ではなく、一人の人間として扱ってくれる。
そのおかげで他者からの蔑みが相対的につらくなるというのは何という皮肉だ。
不意にアルトゥールがブランコから立ち上がり、空を見上げる。
何を見ているのだろう。
スピーゲルはアルトゥールが見上げる空を、同じように見上げた。
風が、頬を撫でる。
重い雲が、山際へと押しやられる。
アルトゥールの目の色に、よく似た青空。
そこにくっきりと、七色に輝く虹の橋が架かっていた。
「……」
その美しさに、スピーゲルは息を飲む 。
スピーゲルの知る世界は、残酷で醜悪で、冷たく暗い地下牢のような場所であるはずだった。
それなのに、何故だろう。
どうして、ただアルトゥールの目を通して見るだけで、世界はこれほど美しくなるのだろう。
――――『憎んではいけない。呪ってはいけないよ』
青い空に、遠い日のアーベルの声がこだます。
――――『この世界のどこかに、いるかもしれないのだから』
目頭が、訳もなく熱くなる。
こみあげる感情と涙を、スピーゲルは歯を食い縛ることで飲み込んだ。
――――『この世界のどこかに、お前の銀の髪も紅い目も、魔力も、存在そのものを受け入れてくれる誰かがいるかもしれない』
「……」
そんな『誰か』が実在するなんて、思えなかった。
そんな『誰か』と巡り会えるなんて、あり得ないと思っていた。
けれど、奇跡は起きた。
スピーゲルが敬愛する師にして養い親は、いつだって正しい。
「スピーゲル?」
こちらに気づいたアルトゥールが、目を真ん丸にしている。
「おかえりなさ……びしょ濡れではありませんの!」
駆け寄って来たアルトゥールは、スピーゲルの怪我に気づき眉を吊り上げた。
「怪我まで!」
「……大したことありません」
「何言ってますの!?服も血だらけで……何がありましたの!?」
「……」
おかえり、と出迎えてくれる。怪我を心配してくれる。目を見て話してくれる。
鬼ごっこに興じたあの幼い日の僅かな時間と同じように、アルトゥールの前でだけは髪の色も目の色も忘れていられると、今にしてスピーゲルは思う。
「……」
「スピーゲル?」
風に、アルトゥールの髪が揺れた。
何気ないその光景は、まるで奇跡のようにスピーゲルの胸に刻まれる。
いつからか、なんてわからない。
けれど、ずっと自分の気持ちには気づいていた。ただ、それと向き合う勇気がなかっただけだ。
(ただでさえ……)
こんな、みっともない髪と目をしているのだ。それを抜きにしたとしても、生まれ落ちたその瞬間から周りに不幸を撒き散らすようにしてスピーゲルは生きてきた。そんな自分が、アルトゥールの手をとれるはずがない。
手が届かない相手に焦がれるだなんて、不様で滑稽で、あまりにも自分が哀れだった。だから、目をそらし続けていたのに。
好きじゃない、恋じゃない、と。
けれど、それももう限界だ。
目が、耳が、手が、心が――――アルトゥールを追いかける。
どんなに目を背けても、無駄だった。
愛しい。
ただ、ただ、アルトゥールが愛しい。
アルトゥールがアヒムを想っていたとしても、傍にいることすら叶わなくても。
願わずにはいられない。
風が、彼女に優しくありますように。
星が、彼女に美しく微笑みますように。
太陽が、アルトゥールを暖かく照らしますように。
――――『だから、その人が見上げる空を、踏み締める大地を、決して呪ってはいけないよ』
「よかった……」
心の底から安堵し、スピーゲルは呟いた。
アルトゥールが小首を傾げる。
「何がよかったんですの?」
不思議そうに揺れるアルトゥールの青い目。
煌めくその目に、スピーゲルは微笑んだ。
空が墜ちることを、大地が雨にのまれることを、願ったりしなくてよかった。
あなたが生きている。
ただそれだけで、この世界はこんなにも美しくなるから。