笑わず姫とロールキャベツーレオナ②ー
細かく切った玉ねぎを練り込んだ肉団子を葉野菜に包んで煮込んだその料理は、レオナの母親の得意料理だ。手間隙惜しまず作ったその料理を食べに、毎日店に通ってくれたお客もいた。お客が美味しそうに料理を平らげるのを見るのがレオナは大好きで、その流れで母を手伝って店に立つようになった。
笑顔と笑い声が絶えない店―――。
その店が抵当に入っていると知ったのは、母が倒れてからだ。死んだ父が、借金を残していたことも同時に知った。
(私が店と母さんを守るんだ!)
レオナは必死だった。母の看病と店の切り盛り。あまりに必死で、料理の味が落ちていることに、レオナは気付くことが出来なかった。気付いたのは、客足が遠のいてからだ。客は日に日に減っていき、借金の返済は滞る。
焦った。焦ったが、どうにもならなかった。
その日の昼時。
客はまた一人も来なかった。以前なら昼時は満席で、店の外にも待っているお客がいたのに。
誰もいない閑散とした店のなかで、レオナの何かが折れた。
裏庭に、一心不乱に穴を掘る。手も顔も泥だらけだったが、かまいはしなかった。
そしてその穴の中へ、鍋にいっぱい残った料理をぶちまけようとした、その時。
「ちょっと待った―――ですわ―――!!」
驚いて、レオナは顔を上げた。
垣根のその向こうに、びっくりするほど綺麗な顔の女と、彼女を守るように立つ外套で顔を隠した背の高い男がいた。
***
レオナの店は、そうは広くなかった。壁に向かって作られた席がいくつかと、円卓が七つ。けれど客がいない店内は、妙に広々として寒々しかった。店の入り口自体も大通りからは少し奥まっているらしく、店の中は寂しいほどに静まり返っている。
厨房に近い円卓に座ってレオナから事情を聞いたアルトゥールの膝の上には、中身の廃棄寸前にレオナからひったくった鍋があった。アルトゥールはそのなかを覗きこむ。
透明なスープのなかに、肉団子を包んだ葉野菜が浮いている。
「……こんなにいい匂いがしますのに……」
本当に客足が遠のくほど味が悪いのだろうか。少なくとも匂いからは、そうは思えない。
レオナは涙を前掛けで拭った。
「でも、お客さんが来ないんだよ!今日も、昨日も、その前も…… 味が落ちたんだよ!そうにきまってる!」
円卓を挟んで向かいに座るレオナが、両手で顔を覆う。
「……レオナ……」
かける言葉がわからずに、アルトゥールは口ごもった。
(でも……)
いくら美味しくないとはいえ、食べられることなく捨てられるなんて、料理が可哀想だ。
アルトゥールは円卓の上に置いてあった籠から、突き匙を一本拾い上げた。その突き匙で鍋の中の肉団子を巻いた葉野菜―――子供の拳くらいの大きさ―――を突き刺し、まるごと口に放り込む。そして咀嚼し、細かくなった肉団子を舌の上で転がした。
「……その大きさを一口……」
背後に立ったままスピーゲルが愕然と呟いたが、アルトゥールは口の中の料理を味わうのに忙しい。
ゴクリと、アルトゥールは料理を飲み込んだ。
「……美味しいですわ」
「え?」
レオナが涙を目にためて顔を上げる。
その目を見つめて、アルトゥールはもう一度言った。
「とっっっ……っても!美味しいですわ!」
力強く断言したアルトゥールに、レオナはポカンとしている。
「で、でも……お客さんは……」
「煮込んだ野菜は溶けるように柔らかく、肉団子からは肉汁があふれでる……絶品ですわ!何故お客が来ないかはわかりませんわ。でも料理は間違いなく美味しいですわ。ベーゼンには及ばないとしても……少なくともこの料理に関しては王城の料理人と互角ですわね」
「え?王城?」
首を傾げるレオナに、アルトゥールは自らの口が滑ったことに気がついた。
「あ……え……っと」
レオナは怪訝な顔でアルトゥールに尋ねてきた。
「王城の料理を食べたことがあるのかい?」
「そ、それは……」
「配ればいいんじゃないですか?」
話の流れを断ち切るように、スピーゲルが突如話に割り込んできた。
「え?」
「え?」
アルトゥールとレオナは、同時にスピーゲルを見る。
レオナに顔を見られることを怖れ俯きがちだったスピーゲルは、更に俯く。
「そもそも捨てるつもりだったんですから、捨てたと思って大通りで配ればいいじゃないですか。今まで来ていた客が来ないなら、新規の客を掴まえればいい。味がいいならすぐ掴まります」
「……スピーゲル」
アルトゥールは突き匙を置いて静かに立ち上がる。
スピーゲルは怯んだように一歩下がった。
「……な、何です?」
「素晴らしい案ですわ!!」
アルトゥールは店が揺れるほど大きな声で叫ぶと、スピーゲルに抱きついた。
「ちょ……っ!ひ、姫!?」
「何て素晴らしい案なんでしょう!さすがスピーゲルですわ!」
スピーゲルの首にしがみついたまま、アルトゥールはピョンピョンと跳び跳ねた。
「そうだね……とってもいい考えだよ!何で思い付かなかったんだろう!」
それまで思い詰めたように涙ぐんでいたレオナが、明るい顔で立ち上がった。
「すぐに料理を温め直さなきゃ!」
「何か手伝いますわ!」
厨房に入っていったレオナを追いかけるアルトゥールの首根っこを、スピーゲルがすかさず掴まえる。
「姫!ちょっと!」
アルトゥールは青い瞳を瞬かせてスピーゲルに向き直った。
「どうしましたの?」
「この街に何をしに来たか、また忘れてるでしょう?」
「……あ」
この街に来た目的は人探しだ。『キスの相手』探し。
(完全に忘れてましたわ……)
スピーゲルは大きくため息をつき、そして声をひそめる。
「僕との約束を忘れたんですか?あなたの人生は明日にも終わるかもしれないんですよ?他人のことにかまっている時間なんてないはずだ」
「……それは……」
アルトゥールは目を伏せた。
確かに、アルトゥールは明日をも知れない身の上だ。スピーゲルがアルトゥールの魔法無効化体質を改変する方法を見つけたら、その日がアルトゥールの人生の最後の日になる。そういう約束のもとに二人は行動を共にしていることを、アルトゥールは勿論忘れてはいなかった。
「……でも、まだ体質を変える方法はみつかっていないのでしょう?」
「……いませんけど、でも」
「わたくし」
目を上げて、アルトゥールはスピーゲルを見据える。
「わたくし、子供の頃に母を病気で亡くしましたの」
「……」
スピーゲルが戸惑うように口を閉ざす。優しい彼のことだ。アルトゥールの身の上を憐れんでくれているのだろう。
その優しさにつけこむようで申し訳ない気もするが、明日をも知れぬ身だからこそ、アルトゥールはレオナを手伝いたかった。
「わたくしは母に何も出来ませんでしたわ。でも、レオナは違いますわ。してあげられることがある。それなら、わたくしレオナを手伝いたいんですわ。少しでも力になりたいんですの」
「……」
スピーゲルは難しい顔で――――実際は外套で顔は殆ど隠れているのだが、けれどきっと難しい顔をしているに違いない――――黙りこんでいたが、やがて大きく溜め息をついた。
「……わかりましたよ……」
スピーゲルは諦めたように言って、扉に向かって歩き出す。
「スピーゲル?どこに行きますの?」
「皿を買ってきます」
「……皿?」
何故そんなものを買いに行くのだろう。
首を傾げるアルトゥールの頭に、スピーゲルの大きな手がのる。
「……いい子にしてるんですよ」
そう言ったスピーゲルは、優しく笑っていた。
*****
レオナの店を出たスピーゲルの脇を、小さな子供が走り抜ける。
「お母さーん!待ってー!」
子供を目線で追い、スピーゲルは背後を振り返った。
笑いながら母親と手を繋ぐ子供。
その姿を、スピーゲルはぼんやりと眺める。
「………母親、か……」
独白は涙のように零れ、消えた。
*****
「あんた、名前は?」
尋ねられ、アルトゥールは数回瞬いてから答えた。
「ベーゼン……ですわ」
「『箒』?変わった名前だね」
目をまるくしたレオナから、アルトゥールは目を逸らす。
「……よく言われますわ」
偽名を名乗るのは相手を騙しているようで気分が悪いが、『アルトゥール』と名乗るわけにはいかなかった。下手をすれば素性が一発で露見する。
「あんたが『箒』であっちが『鏡』。へんな二人組だね。それで?ベーゼン。あんた私の手伝いなんてしてていいわけ?何か用事があってこの街に来たんじゃないの?」
アルトゥールに尋ねながら、レオナはパンをナイフで切り分けていた。料理に一口大のパンをつけようということになったのだ。
アルトゥールは戸棚から皿を取り出した。
「用というか……人を探しているんですわ」
「人探し?誰を探してるの?家族?」
「いいえ。家族でも友人でもありませんわ」
取り出した皿を、アルトゥールは作業台の上に注意深く重ねて置く。
「キスの相手を探しているんですわ」
アルトゥールの言葉に、レオナが手を止めた。
そしてたっぷりと間をおいて顔を上げ、アルトゥールの顔をまじまじと見る。
「…………何だって?」
「キスの相手を探しているんですわ」
一言一句違わずアルトゥールが繰り返すと、レオナは目の前に虹色の山羊でもいるかのような顔をした。つまりは、驚愕に顔を歪めたのだ 。
「ど、どういうこと?」
事態がよく飲み込めないらしい。
(……そんなにおかしなことを言っているのかしら?)
アルトゥールとしては戦場で死にかけている騎士が『最後に誰それに会いたい』と考えるそれと感覚としては大差ないのだが、大抵の人がアルトゥールの探している相手が誰なのかを聞くと『何だって?』と訊きかえしてくる。
アルトゥールはレオナに向き合った。
「キスをするのが、わたくしの子供の頃からの憧れなんですわ」
脳裏に今も残る幼い日に見た光景。
雪が積もり始めた城門前の通路を、一人の女が駆けていく。床磨きの下女だ。
彼女が走るその先に、彼女の恋人が待っていた。
彼が笑顔で広げた両腕のなかに、彼女は迷いなく飛び込む。そして、彼女と彼は見つめ合い、唇を重ねた。
雪が、ひらひらと舞い落ちる。
その雪が溶けてしまいそうなほどに、その口づけは情熱的で、甘くて、美しかった。
『いつか』とアルトゥールは思った。いつかあんなキスをしてみたい。
その願いを聞いたスピーゲルの厚意によって、アルトゥールは色々な街を訪れて、『キスの相手』を探しているのである。
(せっかくですもの)
どうせなら好みの男性とキスをしたい。けれど、ピンとくる相手が見つからない。
そもそも自分の『好みの男性』がどんなものか、アルトゥールにはよく分かっていなかった。食べ物のこと以外に興味を持たずに生きてきてしまったつけである。
レオナは、いまだ納得しかねる顔だ。
「憧れって……スピーゲルにしてもらえばいいじゃない。恋人でしょう?」
まただ。
どうして誰も彼もがアルトゥールとスピーゲルを恋人か夫婦と勘違いするのだろう。
アルトゥールは首を振った。
「違いますわ」
「違うの!?だって、あんた達……」
レオナは何かを言おうとして、口をつぐむ。
「……ああ、そういうこと。無自覚ってやつね」
訳知り顔で、レオナは腕を組む。
「何か理由があって想いを抑えてるとか……単純に鈍感で自分の気持ちに気づけないとか?」
何だか楽しそうなレオナに、アルトゥールは訳がわからない。
「レオナ?無自覚って何のことですの?」
「あんたは間違いなく後者だね。ある日気づいたらいつのまにか、て人種」
小刀を手にレオナはまたパンを切る作業にもどったが、アルトゥールは納得出来ない。
さっきから、レオナは何のことを言っているのだ。
「気づくって何をですの?」
レオナを問い詰めようと一歩を踏み出したアルトゥールの手から、白い皿が滑り落ちた。
板張りの床に叩きつけられた皿は、けたたましい音と共に粉々に砕ける。
レオナが顔を上げ、眉を寄せた。
「また!?」
実はアルトゥールが皿を割るのは、これで三枚目なのだ。
「ご、ごめんなさいですわ……すぐ片付けますわ」
アルトゥールは謝り、箒を取ろうと腕を伸ばす。その肘が予備の突き匙をいれてあった籠にあたり、傾いだ籠から中身が一斉に床に散らばった。
金属の騒がしい悲鳴が収まり、床の惨状にアルトゥールとレオナは二人押し黙る。
「……手伝ってもらってこんなこと言っちゃ悪いけど……」
レオナがアルトゥールを横目で見る。
「あんた……壊滅的に不器用だね」
「……」
アルトゥールは返す言葉もない。
(……だからスピーゲルは皿を買いに行きましたのね……)
スピーゲルのことだ。こうなることを予測していたのだろう。
レオナの冷たい視線から逃げるために、アルトゥールは目を泳がせた
「……豆の莢剥きなら何とか人並みに出来ますわ」
レオナは腕組みをして肩を竦める。
「残念だけど、豆の莢剥きは間に合ってるよ。まったく……」
レオナはため息と共に膝を折り、突き匙を拾い始める。
「……ごめんなさいですわ」
アルトゥールはもう一度謝り、割れた皿を箒で掃くことにした。
(何もしないことがわたくしが出来る最大にして唯一の手伝いかもしれませんわ……)
顔には出ないが、地面にめり込みそうなほどにアルトゥールは落ち込んでいた。
「……私もキスくらいしておけばよかったなぁ」
レオナの呟きに、アルトゥールは手を止めた。
「え?」
「私ね、これでも一応恋人がいたんだ。私が作る料理が好きだってたくさん食べてくれて……見た目は牛みたいでちょっとこわいけど、でも母さんの為に高価な薬を手にいれてくれたり、優しいとこもあったんだ」
恋人を思い出しているのか、レオナの頬が仄かに色づく。恥ずかしそうで幸せそうな、恋をしているのだと一目で分かる顔だった。
アルトゥールはその横顔に、呼吸も忘れて見いる。
(恋をすると……)
人は誰でもこんな顔をするのだろうか。
雪のなかを恋人に向かって走って行った人影を思い出す。彼女も同じような顔をしていた。
「……私、初めての恋人だったし、照れくさくてさ。キスどころか、手を繋ぐので精いっぱい。……でもそのうち、あいつが仕事で王都に行くことになってさ。それっきり」
レオナの顔が、悲しげに曇る。
アルトゥールはにじり寄った。
「それっきりって……どういうことですの?」
「手紙も寄越さないよ。雇ってくれてる商人が都に店を出すことになったって……もうこの街には戻らないんじゃないかな」
何でもないような口調でレオナは言ったが、その瞳は憂いを帯びていた。
「……一緒に行こうって言ってくれたけど、ちょうど母さんが倒れてすぐだったからさ……」
濁った言葉にレオナとその恋人の別れを察して、アルトゥールは胸を痛めた。
「そんな……」
「……ねぇ、ちゃんと向き合いなよ?」
「え?」
アルトゥールが訊き返すと、レオナは笑った。今にも泣き出しそうな、痛々しい笑顔だった。
「自分の気持ちと、ちゃんと向き合って。なくしてから気づいても遅いんだから」
「……」
レオナが何を言っているのか、アルトゥールにはやはりよくわからなかった。
ただ、何故か無性に、スピーゲルの声が聞きたくてたまらなかった。
*****
「美味しいですわよー!お代はいりませんわよー!」
「さあ!食べていっとくれ!」
若い娘達の溌剌とした呼び込みと料理の匂いに誘われて、肉体労働による疲労と空腹を抱えた男達が集まり始めた。
「一皿貰おうか」
「俺にも一皿くれ」
「旨そうな匂いだ」
「本当にお代はいらないのかい?」
尋ねた男に、鍋の料理を皿に盛っていた娘が白い歯を見せてニコリと笑う。
「ああ!いらないよ!」
「その代わり、美味しかったら今度店に来て下さらない?」
もう一人の娘がそう言って男に突き匙を渡す。
その娘の顔に、男は度肝を抜かされた。娘の顔がやたらと上品に整っていたからだ。
雪のように白い肌。泉のように輝く瞳。林檎のように赤い唇。黒い巻髪が、彼女が動くごとにその背中でフワフワ揺れる。
愛想が全くないことを差し引いても絶世の美女だった。
「美味しい煮込み料理ですわよー!しかも無料ー!」
声を張り上げる美しい娘に、座り込んで料理を食べていた若い男達は密かに色めき立っていた。
「すごい美人だ」
「愛想がないけどな」
「お前名前聞いてこいよ」
「俺!?」
「ほら行けよ!」
仲間達に肩を押されて、一人の若者がまろぶようにして立ち上がる。
仕事で汚れた服を払いながら、若者は美しい娘に歩み寄った。彼にとって、こんなふうに異性に声をかけるのは初めてのことだ。
「あ、あの……」
喉から必死に押し出した声は、情けないことに震えている。
「はい?」
美しい娘が、黒い巻髪を揺らして若者を振り返る。
ただそれだけなのに、若者は全身に雷が落ちたような衝撃を受けた。
「どうかなさいまして?」
「あ、あああの……」
「いけー!」
「男見せろー!」
少し離れたところから、仲間達が囃し立てる声がする。その声に背中を押され、若者は勇気を振り絞った。
「あ、あなたの名前を……っ」
言い終わらないうちに、視界が陰る。
見上げると、煤色の外套を着た長身の男が立ちはだかっていた。
顔はフードに隠れて見えないが、それがかえって不気味さを演出し、更には男が醸し出す妙な圧力が若者を圧倒した。
「ひっ……」
顔をひきつらせ、若者は後退る。
「スピーゲル!」
美しい娘に呼ばれ、長身の男は外套を揺らして若者に背を向けた。
「……盛況みたいですね」
「ええ!レオナの料理は絶品ですもの!これで客足も戻ること間違いなしですわ!」
弾んだ声とは裏腹に、娘は相変わらず仮面でもつけているかのように無愛想だ。
だが、先程まで彫像のように堅かったその頬に、微かに温もりが宿ったように見えた。
「……なんだ」
若者は肩を落として、仲間のもとに戻る。
「どうしたんだよ!情けねえな!」
「あんな男、背が高いだけで腕っぷしなら荷運びで鍛えたお前が負けるわけないさ!」
すごすご帰ってきた若者を仲間達がどやしつける。
けれど若者は渋い顔で座り込んだ。
「まだ小さな弟と妹がいるんだ。馬に蹴られて死ぬのはごめんだよ」
若者は皿に残っていた料理を掻き込んだ。
*****
鍋がすっかり空っぽになった時、日は西の山際に傾き、あたりは薄暗くなっていた。
街を囲む城壁が閉門する鐘が鳴り響き、街の出入りは容易には出来なくなっている。
「そういうわけでさ、泊まってもらうことにしたんだけど……いいよね?母さん」
店の二階にある住居で、レオナはアルトゥールとスピーゲルを母親のアガーテに引き合わせてくれた。
寝台の上に身を起こしたアガーテは、窶れた顔に笑みを浮かべて頷いた。
「勿論だよ。店を手伝ってもらったそうで、ありがとうございます。狭い家ですが、ゆっくり休んでくださ……ゲホッゴホッ」
「母さん!」
激しく咳き込むアガーテに、レオナが慌てて駆け寄り背をさする。アルトゥールも思わず駆け寄ったが、何をしてやればいいのか分からない。
「水を」
「え?」
振り向くと、スピーゲルが枕元の水差しを指差した。
「水を飲むと少しはましになります」
「わ、わかりましたわ」
アルトゥールは頷いて水差しに手を伸ばす。
「母さん!母さんしっかり!」
焦るレオナの肩に、革手袋を外したスピーゲルの白い手がのる。
「レオナさん。家にあるだけ枕をください」
「枕?枕なんて何に……」
「いいから、早く」
「わ、わかった」
「水ですわ」
水を入れた器をアルトゥールが差し出すと、スピーゲルはそれをアガーテの口にあてがった。
「噛むようにして、ゆっくり飲んでください。焦らないで」
アガーテは、スピーゲルの言うとおり水を一口に含んだ。だが、その矢先にまた咳き込み、吐き出した水がスピーゲルの脚衣を濡らす。
「す、すみませ……」
「大丈夫です。気にしないで」
柔らかくスピーゲルは言って、またアガーテに水をあてがう。
一口、二口、とアガーテがゆっくり水を飲んだところに、レオナが枕を抱えて戻ってきた。
「持ってきたよ!」
「ありがとうございます」
レオナから受け取った枕で寝台に小さな山を作ると、スピーゲルはそこへアガーテを横たえた。
「鼻から息を吸って、口から吐いて下さい。ゆっくり。深く息を吸おうと焦らないで……そう。上手ですよ。大丈夫。すぐに楽になります」
言い聞かせるように、スピーゲルはアガーテの背中をなでた。
徐々に咳がおさまり、アガーテは弱々しく微笑んだ。
「……大分楽になりました……」
「咳が酷いときは上半身を少し上げて寝るといいですよ」
立ち上がったスピーゲルに、レオナは呆然として言った。
「あんた……医者なの?」
「いいえ。死んだ養い親がそういう真似事をしていたので、少しばかり聞き齧っているだけです」
スピーゲルはアガーテに掛布をかぶせた。
「ゆっくり休んでくださいね」
「ありがとうございます。助かりました……」
スピーゲルは頷くと、長身を屈ませて脱ぎ捨てた革手袋を拾った。
部屋から出て、燭台の灯りに照らされた薄暗い廊下で、レオナが声を潜めた。
「……肺が悪いんだ。昔から風邪ひくと咳が長引く人だったんだけど……この前の冬、肺炎になってね。取りあえずは治ったんだけど、以来息切れが酷くて歩くのもつらくて……時々こんなふうに咳がとまらなくなる」
「肺炎をきっかけに肺活量が急激に落ちたんでしょうね……」
スピーゲルが、革手袋をはめながら言った。
「肉や卵、チーズやバターなんかを多めに食べるようにしてください。無理な運動はダメですが、寝台の上で足を上げ下ろししたり、少しずつ筋力を鍛えるといい」
レオナが顔を歪めた。
「治るの?でも医者は治らないって……」
「完全に以前と同じにはりません。でも、改善の余地はあると思います」
「本当に!?」
レオナがスピーゲルの両手を掴んだ。
「ありがとう!スピーゲル!ありがとう!!」
「い、いや、僕は何も……」
スピーゲルがレオナから顔を背ける。顔を――――目を見られてはまずい。
アルトゥールは慌ててレオナの腕を引っ張った。
「レ、レオナ!」
何かの拍子にスピーゲルの髪と目を見られては事だ。
だが、アルトゥールに引っ張られたレオナは面白そうにニヤリと笑った。
「ああ、ごめんごめん!大丈夫。とりゃしないよ、安心しなって」
「……え?」
またレオナが訳がわからないことを言っている。
「レオナ。昼間から時々よくわからないことを……」
「部屋に案内するよ!こっちだよ!」
レオナは頓着なくスピーゲルから手を離し、先に立って歩き出す。
レオナに聞こえない小声でスピーゲルがアルトゥールに耳打ちした。
「レオナさん。何のことを言っているんですか?とるとか、安心しろとか」
「わたくしもよくわかりませんわ……」
鈍感具合がよく似た二人である。
「……それより、スピーゲル」
ヒソヒソと、アルトゥールはスピーゲルに囁く。
「スピーゲル、魔法でお母様を治したりは出来ませんの?」
名前は分かったし、出来そうな気がするが。
スピーゲルは困ったように口ごもる。
「出来ないことはないんですが……」
「が?」
何か問題があるのだろうか。
「……その場合、アガーテさんに僕の正体がばれます」
その光景を、アルトゥールは頭の中に思い浮かべた。
名前を呼ばれ手をとられ、そして魔法をかけられれば、アガーテはスピーゲルの正体が魔族であることに気付くはずた。アガーテはきっと恐怖に顔を歪め、助けを求めて絶叫し、その助けに応じて駆け付けたレオナがまた絶叫し、果ては自警団や地方駐在の騎士団が出張って来ての大騒動になりかねない。
アルトゥールは明後日の方角を見たまま目を細めた。
「やばいですわね」
「やばいでしょう?」
「何がやばいの?」
首を傾げるレオナに、アルトゥールとスピーゲルは慌てて首を振った。
「な、何でもありませんわ!」
「そう!何でもありません!」
「そ?ああ、ここよ。二人の部屋」
レオナに案内されたのは、少し広めの部屋だった。円卓と椅子が二脚。それから寝台が一つと、古ぼけた戸棚がすみにある。長く使われていなかったのか、雨戸の枠に埃がたまっている。
「ごめんね、しばらく掃除してなかったから……」
「かまいません。雨風を凌げれば十分です」
スピーゲルが答える脇を抜け、アルトゥールは雨戸に手をかけた。少し錆び付いた鉄の閂を外し、外に押し出すように戸を開ける。
「……まあ!」
店や家に灯った橙色の暖かな光が暗闇に連なる幻想的な夜の街並みに、アルトゥールは声を上げた。
「綺麗ですわね!」
「気に入ってくれたならよかった。はい、燭台。掛布と敷布は戸棚。お手洗いは裏庭。すきに使ってね。私は店の調理場で明日の仕込みするから、何かあったら呼んで?」
「仕込みなら、わたくしも手伝……」
「ごめん。それは遠慮するわ」
レオナに明確に拒絶され、アルトゥールは肩を落とした。
「……そうですわね……わたくしがいても邪魔になりますわね……」
「うん。ごめん。……それにさ」
レオナが、ニヤリと不敵に笑い、アルトゥールににじりよる。
「いい機会だよ」
「……いい機会?」
何のことだとアルトゥールが眉を寄せると、レオナはアルトゥールの肩を思いっきり叩いた。
「……痛……」
「何言ってんの!!あれよあれ!ほら…………」
アルトゥールの耳元で、レオナは囁く。
「自分の気持ちと向き合いなっていったでしょ?」
「……自分の気持ち?」
「キスがしたいんでしょう!?ちょうどいい機会じゃない!がんばってね!」
「……」
何がちょうどいい機会なのやら、アルトゥールにはさっぱりだ。
レオナはアルトゥールの肩を、今度は軽く叩いた。
「まぁ、とにかくさ、今日はありがとう」
照れくさそうに、レオナは笑う。
「色々手伝ってくれて助かったよ」
「……手伝えたかしら」
手伝えた自信がないアルトゥールはレオナから目を逸らす。
すると、レオナも目を同じようにアルトゥールから目を逸らした。
「……まぁ、余計な仕事も増やしてくれたけど……」
「……」
「で、でもさ!!美人見たさに人が集まったし、すごくいい宣伝効果があったと思うんだ!それに私の料理を美味しいって言ってくれた。母さんのことも良くなるって……すごく……すごく嬉しかった!」
「レオナ……」
レオナの言葉に、何故かアルトゥールの方こそが嬉しくなってしまった。
「それは……本当に美味しかったからですわ!」
両拳を握り締め、アルトゥールは力強く肯定する。
レオナは照れながら、けれど少し不安げにアルトゥールに尋ねた。
「……明日、お客さん来るかな?」
「来ますわ!絶対!」
「……うん。そうだね。来るよね、きっと」
アルトゥールの言葉に、レオナは自らに言い聞かせるように頷いた。
「うん!ありがとう!おやすみ!」
レオナの笑顔と共に、扉が閉まる。
その扉の前で、アルトゥールは立ち尽くした。
「……スピーゲル」
「……はい?」
「客足、戻りますかしら?」
レオナには自信満々に言ったが、アルトゥールは不安だった。
レオナの料理は美味しい。何の問題もない。今日レオナの料理を食べていた人々も皆満足そうだったし、店に来ると約束してくれた人もいた。
(それなのに……)
何故、こんなに不安なのだろう。
そもそも、料理に何の問題もなかったのに、何故客足が遠退いたのだろうか。
「……もし、明日お客が来なかったら……」
レオナが、酷く傷つく。それを思うと、アルトゥールは背筋が冷える思いだった。
「……とりあえず休みましょう」
スピーゲルがそう言うと彼の外套の奥からジギスが顔を出す。ジギスは丸い目で周囲を確認すると、小さな羽をパタパタさせて円卓に降り立った。
その隣に燭台を置いたスピーゲルは、やれやれといった具合に外套を脱いで椅子の背にかける。あらわになった白銀の髪が、燭台の火に照らされ橙色に染まった。
スピーゲルは戸棚を開け、中から敷布を取り出す。
「僕は床で寝ますから、あなたは寝台で……」
「ダメですわ!」
アルトゥールは異を唱える。
「寝台で寝るのはスピーゲルですわ!」
「……は?」
怪訝な顔で振り返るスピーゲルに、アルトゥールは腰に手をあてて答えた。
「だって、わたくしが不用意なことを言ったから、レオナの家に泊まることになったんですもの」
夕刻のこと。宿は決まっているのかとレオナに尋ねられ、アルトゥールは深く考えずに決まっていないと答えてしまった。
アルトゥールとスピーゲルは、いつも数里先にあるスピーゲルの家から魔法を使って街に出て来る。勿論帰りも魔法を使うので、壁の門がいつ閉まろうが関係ないし、日帰りの予定なので泊まる宿など決めてあるはずもない。
だが、それをレオナは知らないし、まさか『魔法で帰るから心配しないでね!てへ!』なんて説明をするわけにもいかない。
結局、宿がないならうちに泊まりなよというレオナの完全なる善意からの提案を、アルトゥールは断りきれなかった。
レオナの家に泊まることに対してアルトゥール自身は何の抵抗もないが、容姿を隠しているスピーゲルにとっては他人の家に泊まるなど気が休まらないだろう。それなのに、レオナの家に泊まることになってしまった。これはアルトゥールが責任をとるべきだ。
アルトゥールはトン、と胸を叩いた。
「大丈夫ですわ、スピーゲル。安心してよろしくてよ」
「……何がです?」
「わたくし、ここで夜通し見張っていますわ。万が一レオナやお母様が扉を開けようとしても、すぐには開けさせません」
扉の前で、アルトゥールはあたかも王城を守る騎士のように胸を張った。
「スピーゲルはわたくしが守りますわ!だから安心して休んでくださって結構よ!」
「……」
赤い目を丸くして、スピーゲルはポカンとしている。
アルトゥールは首を傾げた。
「どうしましたの?」
「……また何を言い出すかと思えば……」
スピーゲルはツカツカとアルトゥールに近づくと、戸棚から出した掛布を突き付けた。
「あなたが寝るのは寝台です。床は僕」
「いいえ。寝台がスピーゲルで、床がわたくしですわ」
「だから、あなたは寝台!」
「ですから、わたくしは床!」
「……強情な……!」
吐き捨てるように言って、スピーゲルがアルトゥールの腕を鷲掴む。強引に寝台へと連行しようという気らしい。
「ち、力づくなんて卑怯ですわよ!」
アルトゥールは必死に足を踏ん張って抵抗する。
「言っても聞かないじゃないですか!」
「だからって……きゃっ!」
突然、スピーゲルがアルトゥールから手を離した。自らの後方へ体重をかけていたアルトゥールの体は、そのまま後ろ向きに傾ぐ。それを狙ったかのように、スピーゲルはアルトゥールの体を抱き止め、軽々抱え上げた。
「あなたは大人しく寝台で寝てください」
「……っそうはいきませんわ!」
「え?わ!?ちょっ……!」
スピーゲルの腕の中で、アルトゥールは思いっきり身を捩る。体は宙に投げ出され、板間に叩きつけられ―――……なかった。
「い……っ」
「…………スピーゲル!?」
アルトゥールは目を剥いた。
打ち身覚悟でスピーゲルの腕から脱出したはずなのに、今アルトゥールはスピーゲルを下敷きという名の犠牲にして全くの無傷なのである。
「ど、どうしてですの!?」
スピーゲルの身体能力はいったいどうなっているのか。混乱するアルトゥールに、スピーゲルが後頭部を押さえながら冷静に言った。
「とりあえず、どいてもらっていいですか?」
「わ、わかりましたわ!すぐに……」
急いで身を起こそうとしたアルトゥールの耳に、微かに足音が聞こえた。スピーゲルもそれに気がついたらしく、焦った様子で半身を起こす。
「……っレオナさんが」
「大変ですわ!……」
スピーゲルの髪と目を見られてはまずい。
早くスピーゲルの上からどかなくてはと、焦った足が着衣の裾を踏んで、アルトゥールは再びスピーゲルの上へと倒れ込む。
足音はもうすぐそこだ。
(どうしたら……!?)
焦りで上手く思考が回らない。
その時。テーブルにいたジギスが飛び立ち、床に固まっていた掛布をくわえ上げた。
扉が鳴り、それとほぼ同時に扉が開く。
「ねぇ、今すごい物音したけど大丈……」
白い掛布が、床の上に折り重なる二人を覆い隠している。
「……ベーゼン?」
呆然とレオナが呟くと、掛布が揺れ、アルトゥールだけがレオナに顔を覗かせた。
「―――――レオナ……」
乱れた黒い巻き髪。濡れたような唇。
長い睫の影が燭台の光に照らされて揺れる様は、壮絶な色気を醸し出していた。
「……ご、ごめんね邪魔して!」
レオナは顔を真っ赤にして、勢いよく扉を閉めた。
足音が騒がしく遠ざかり、階段を降りて行く。
アルトゥールは、スピーゲルに股がったまま身を起こした。
「……レオナはどうしてあんなに慌てていたのかしら?」
「……とてつもない誤解をされた気がする……」
起き上がる気力を失い頭を抱えるスピーゲルの横で、ジギスが二股の尻尾を揺らした。『やれやれ……』とでも言うように。
*****
横になっていた寝台から、スピーゲルは静かに体を起こした。
僅かに軋んだ寝台に、枕元で寝ていたジギスが小さく身動ぎする。その小さな頭を指先で撫でてやってから、スピーゲルは視線を巡らした。
扉の前に座り込むアルトゥールは、抱え込んだ自らの膝に頭を預け、安らかな寝息をたてている。寝付きがいい彼女は早くも熟睡しているようだ。
レオナが階下に降りていってからも、どちらが寝台で寝るかで紛糾したスピーゲルとアルトゥールだったが、結局スピーゲルが引き下がる形で事は終結した。
(言い出したら聞かないから……)
スピーゲルはブーツを履いて立ち上がる。
ぜんまいが切れたカラクリのように、アルトゥールは一度眠れば基本的に朝まで目を覚まさない。そうなれば彼女を寝台に運ぶのは至極簡単なことだ。
足音を忍ばせてアルトゥールに近づくと、その正面にスピーゲルは片膝をついた。
暗闇の中、アルトゥールの白い頬はまるで月に照らされた雪のようだ。
『スピーゲルはわたくしが守りますわ!』
高らかなその宣言を思い出し、スピーゲルは嘆息した。
(本当に……何を考えてるんだか)
自らの一族が魔族と呼ばれ、厭われていることを、スピーゲルは勿論知っている。その嫌われ者の魔族を『守る』なんて言うのは、アルトゥールくらいだ。
―――初めてアルトゥールと出会ったのは、春霞みの月夜だった。
髪と目があらわになったスピーゲルの姿を見ても、アルトゥールは悲鳴をあげなかった。怖がる様子すらも見せず、彼女はただじっとスピーゲルを見つめてきた。恐怖も怯えも侮蔑も、青い目のなかには見つからなかった。
そして行動を共にするようになった今。アルトゥールはまるで親しい友人や家族にするようにスピーゲルの名前を呼び、スピーゲルを真っ直ぐに見上げてくる。
(世間知らずもここまで来ると……)
すごいとしか言いようがない。
堅牢な王城で守られ育ったアルトゥールは、世間を知らない故に恐れも知らないのだろう。
だからスピーゲルに対しても平然としていられるし、先だっては人拐いにヒョイヒョイついて行って危うく売り飛ばされかけた。
今日も、自分よりずっと大きい牛みたいな男から喧嘩を買い取ったり、若い男から声をかけられ一切警戒もせずに真面目に相手をしたり。
スピーゲルがあの若い男を追い払わなかったら、きっとアルトゥールは彼に名前を教えるどころか誘われるままに食事にでも行っていたかもしれない。
「……ベーゼン……」
眠っているアルトゥールが、ムニャムニャと寝言を呟く。
彼女が好んで使う『ベーゼン』という偽名は、実はスピーゲルの家に昔から仕える召し使いの名前だ。料理から掃除まで家のなかの一切を任されているベーゼンは、スピーゲルの母親代わりも務めた。
面倒見が良いベーゼンにアルトゥールは初めて会ってすぐに懐き、ベーゼンもアルトゥールを娘のように気に入っている。二人はよく暖炉の前で豆の鞘剥きをしながらお喋りを楽しんでいた。
「……ベーゼン。おかわり……」
「………っ」
スピーゲルは思わず吹き出した。急いで手で口を押さえたが、笑いはおさまらない。夢の中でも、アルトゥールは何かを食べているらしい。込み上げる笑いと、それによる腹痛にスピーゲルは必死に耐えた。
「……まったく、あなたはもう……」
安らかなアルトゥールの寝顔を、スピーゲルは覗きこむ。
(まるで子供だ)
よく食べ、よく寝、ちっともじっとしていない。
傍若無人で無茶苦茶で、嵐のように周りを巻き込む生命力の塊。
スピーゲルは、遠くを見るように目を細めた。
「…………」
アルトゥールの頬にかかる黒髪の束を、耳にかけてやろうとスピーゲルは手を伸ばす。不意に、指先がアルトゥールの頬にあたった。
陶磁器のような見た目に反して、白い頬は柔らかい。
張りのある弾力と温もり。
それらが、胸の奥の傷口にじわりと染みた。慢性化して、痛いとすら思わなくなっていたはずの傷口なのに―――。
「……逃げてくれればいいのに……」
スピーゲルの手も声も届かない遥か彼方に、逃げてくれればいい。
「……逃げてくれたら……」
悲痛なほどの呟きを、拾い上げる者は誰もいない。
まるで血の涙に潤んでいるかのような赤い目を、スピーゲルは瞼の奥にしまいこんだ。