笑わず姫とパイビュッフェースピーゲルの許嫁ー
盗み見するつもりはなかったのだ。
けれどアルトゥールの手をとりその場で片膝をついたアヒムの姿に、スピーゲルは思わず物陰に身を隠した。
そして聞こえた声。
『僕と結婚してください』
ブランコに腰かけていたアルトゥールの横顔が、林檎のように赤く染まる。
恥ずかしそうで、けれど嬉しそうなその表情を見ていられず、スピーゲルは顔を背けた。
足音と息を殺しその場を離れる。
家に入り、後ろ手で閉めた扉に寄りかかった。
つまり、そういうことだったのだ。
アルトゥールはアヒムの傍にいたいから、この家を出て村に住むと言い出したのだ。
(あの二人がそんな関係になってたなんて……)
まったく気がつかなかった。
けれど、思い返せば二人はキスをしようともしていたではないか。頭に血が上ったスピーゲルが邪魔をしたから、未遂ではあったのだが。
そう言えばあの時、アルトゥールはアヒムを庇っていた。お笑い草だ。まさにスピーゲルは『邪魔』だったのだ。
(でも……)
それなら、何故昨日アヒムはスピーゲルの背中を蹴り出すようなことを言ったのだろう。
腑に落ちない。とは言え、アヒムがアルトゥールに求婚し、そしてアルトゥールが応じたのは否応なしの事実。
(……アヒムなら……)
アルトゥールをまかせられる。
諸々の事情はわかっているし、軽薄そうに見えるが、ちゃんと物事を考えている男だ。
それに何より……。
(彼は、『魔族』じゃない……)
白銀色の前髪が揺れるのが妙に腹ただしい。鋏で寸断してしまいたい衝動が沸き起こるが、そんなことをしてどうなる。
どんなに短く刈り込んだとしても、髪はすぐ伸びる。そして伸びた髪は間違いなく白銀色だ。
例え髪を切ろうが染めようが、俯いて目を隠そうが、この身に流れる一族の血は変わらない。変わりようがない。
『穢らわしい』と蔑まれる『魔族』の血。
その血が流れる限り、アルトゥールに触れることは叶わないのだ。
***
「ベーゼーン!これマジ旨だね!エラ達に持って帰る分ある?」
アルトゥールやスピーゲル、そしてアヒムが囲む食卓には、南瓜パイに有りの実のパイ、それから胡桃のパイ等、季節の食材を使ったパイが所狭しと並んでいた。
ベーゼンが嬉しそうに頷く。
「ええ。そう仰るだろうと思って余分に作っておきました。お帰りになる時にお持ちになってください」
「やったー!さっすが出来る女は違うねー」
「褒めてもこれ以上は何もでませんよ。アヒム様」
諸手を上げて喜ぶアヒムに、ベーゼンはクスクス笑う。
アヒムは基本的にエラの家で寝起きするようになっているが、食事時やお茶を淹れる段になると何故かフラリと姿を見せる。先程も『パイが焼けたからお茶にしましょう』とベーゼンが言うや『俺もー!』と大仰に扉を開け放って現れた。
スピーゲルの隣の席に当然の様に陣取る姿は、もはやこの家の日常に完全に溶け込んでいる。
「そう言えばさー村にいるエトムントって奴。めっちゃ目障りなんだけど、どうにかなんない?」
「目障りって、何かありましたの?」
ベーゼン特製の南瓜パイを頬張りながら、アルトゥールは尋ねた。エトムントという人物とアヒムの間に、何か諍いでもあったのだろうか。
アヒムは剣呑な様子で目を細める。
「あいつエラに気があるみたいなんだよねー。お兄ちゃん許せなーい」
「……」
アルトゥールとベーゼンは無言で目をあわせ、肩を竦める。妹を可愛がるのはいいが、それもここまでくると病気である。
それを見てアヒムはいきり立つ。
「何その反応ー!?お嫁になんてまだまだいかせないよー!ちょっと旦那ー!あの男だけ違う場所に移せないわけ?ねぇ!ねぇ!ねぇ!」
アヒムは隣に座るスピーゲルの肩をつかみ、無茶苦茶に揺すった。スピーゲルの首はガクガク揺れて、今に頭がもげてしまいそうだ。
けれどスピーゲルはされるがままで、全く抵抗しない。
「……旦那?」
アヒムはスピーゲルから手をはなすと、その顔を窺う。
スピーゲルはボンヤリと自分の前に置かれた皿を見下ろしていた。彼の皿に切り分けられた胡桃のパイにはジギスがかぶりつき、既に半分以上がなくなっている。少食なスピーゲルが自分の食べ物をジギスに分け与えるのは珍しい事ではないが、これは完全な横取りだ。
「旦那あ?どうかしたの?」
アヒムはスピーゲルの目の前で掌をヒラヒラさせたが、スピーゲルはそれでもボンヤリとしたままである。
この数日、スピーゲルはずっとこんな状態だ。ボンヤリしていて、誰が話しかけても生返事。
アルトゥールはパイを唾下した。
「スピーゲル」
「……」
やはりスピーゲルは返事をしない。
アルトゥールは立ち上がると身を乗り出し、スピーゲルの視界に無理矢理割り込む。
「スピーゲル!!」
「え?」
ようやくスピーゲルは我に返った。
アルトゥールは皿を指差す。
「パイ。ジギスに食べられてしまいましたわよ?」
「え……あ……」
皿の上にはパイではなく、膨れたお腹を抱えて満足そうにゲップするジギスがいる。
アルトゥールはため息をついて椅子に座り直した。
「何だかこの頃おかしいですわよ?どうしたんですの?」
「……いえ。べつに……」
スピーゲルは口ごもり、湯気が漂うお茶に口をつける。
(体調でも悪いのかしら……?)
段々、アルトゥールは心配になってきた。
「スピーゲルー」
窓の外からスピーゲルを呼ぶ声に、スピーゲルだけではなくアルトゥールとアヒムも顔を向けた。
「客みたいだぞ」
ツヴァイクが枝で示した庭先に、不安気な顔の痩せた男が立っていた。
初めて見る男だ。
スピーゲルは椅子から立ち上がり、戸口から外へ出る。アルトゥールもその背を追いかけた。
「何かご用ですか?」
姿をあらわしたスピーゲルに、男は怯えつつも半信半疑の様子だ。
「ま、魔族……本当に……?」
わざわざ訪ねて来ておいて『本当に……?』など妙な話だ。
おそらく、男は『霧の森の奥に魔族が住んでいる』という噂を聞いてやって来たのだろう。真偽不明の噂に――――魔族に頼らざるを得ないほどの事情があるに違いない。
「か、金を払えば、ち、力を貸してもらえると聞いた」
男は恐る恐るスピーゲルに歩み寄る。そして腰に下げた小さな革の鞄から、小袋を引っ張りだす。金属同士が接触する音から推測すると、小袋の中には銀貨が入っているらしい。
「た、頼む。は、母親が病気で……この金で……魔法で治してくれ……!」
空の向こうへと遠ざかるジギスヴァルトの影を、アルトゥールは窓から見送った。
(大丈夫かしら……)
家族の病気を治して欲しいと、訪れた男に乞われるままにスピーゲルは出掛けてしまった。具合が悪くて彼がボンヤリしていたのなら、行かせるべきではなかったのかもしれない。
「ねえ、ベーゼーーン。聞こうと思ってたことがあるんだけどさ」
頬杖をつきながら、アヒムは胡桃のパイをフォークでつつく。
「旦那の許嫁って何者?誰が決めたの?」
思ってもみなかったアヒムの発言に、アルトゥールの心臓が飛び上がる。
(スピーゲルの許嫁のことなんて…)
そんなことを聞いてどうするのだ。
アルトゥールはその場から逃げ出したい衝動に駆られたが、心の隅に『聞きたい』『知りたい』と訴えるもう一人の自分もいる。結局そのもう一人の自分の訴えを無視する事が出来ず、アルトゥールはその場に留まった。
スピーゲルの飲みかけのお茶を片付けていたベーゼンが手を止める。
「決めたのは、アーベル様です」
「アーベル?」
アヒムが眉をしかめる。ベーゼンは、頷いた。
「スピーゲル様を育てたお方です。まだスピーゲル様がお小さい頃……」
窓の外に、ベーゼンは視線を移す。
風はすっかり秋をまとい、それに揺れる椚木の葉は色づきはじめている。
「あるご婦人が、ここに訪ねてこられました。大きなお腹を抱えて」
「妊婦?」
「ええ。十月十日をすぎてもお腹の子が生まれず、お困りの様子でした。産婆や医者からも匙を投げられ、藁にもすがるようにして此方に来たようです。アーベル様は一族の中でも医療知識が豊富で、そういった関係の魔法が得意な方でした。だから昔から密かに治療を乞いに訪ねて来る方も少なくありませんでしたし、近隣の村を回診していた頃もありました」
からになった食器を重ね、ベーゼンは空席になっていたスピーゲルの椅子に座る。
「それを幼い頃から見ていたので、スピーゲル様も自然と知識を身に付けられたのでしょうね」
「で、今日みたいに近隣の奴等に医者代わりにつかわれてるわけだ」
アヒムが口を尖らせた。
「よくやるよね。『穢らわしい』とか『血濡れてる』とか影で言われてるの旦那も知らないわけないのに、それでも治してやるなんて本っ当にお人好し。真似できないわ俺。しようとも思わないけど」
「お人好しの何が悪いんですの!?」
アルトゥールは両手をテーブルに叩きつけ、アヒムを睨みつける。
「スピーゲルは優しいだけですわ!困ってる人を放っておけないんですわ!」
「わ、わかってるよー」
アヒムは珍しく少し焦った様子を見せた。
「俺だって旦那には感謝してるし?ただちょっと……優しいことで旦那が損してるんじゃないかなぁって、そう思ったの。それだけ」
「……アーベル様が」
ベーゼンが、口元を綻ばせる。過去を懐かむその微笑みは、どこか悲しげだ。
「アーベル様が生前に言ってらっしゃいました。『あの子の優しさが、あの子を縛る鎖になりはしないか』『それが心配だ』と……」
ベーゼンの言葉にアルトゥールとアヒムは黙りこむ。
アーベルの危惧は現実のものになってしまったらしい。スピーゲルはその優しさ故にイザベラに逆らえず、優しさ故に村の人々を殺せずに閉じ込めるに至っている。
彼の優しさを弱さだと言う人もいるだろう。他人の思惑に振り回されて、自分を保てない愚か者だと。
確かに、スピーゲルは愚かかもしれない。彼は何もかもを一人で守ろうとして、何もかもを一人で背負いこんでいる。
(だから……)
だから、少しでもスピーゲルを楽にしてあげたい。
アルトゥールがあの村で大人しくすることでスピーゲルの心理的な負担が減るのなら、そうしたいとアルトゥールは心の底から思った。
(結局、村に移る話もうやむやになっていますわね……)
重くなった空気を散らすように、ベーゼンが努めて笑った。
「話がそれてしまいましたね。それで、その身重のご婦人もどこかで噂を聞いて此方にいらっしゃったようです。ですが、不思議とアーベル様は治療を渋って、そのご婦人を追い返そうとなさいました」
そこにその妊婦がいるかのように、ベーゼンは庭先を見つめる。アルトゥールも、同じように庭先を見た。
「それは何故ですの?」
「さあ。わかりません。ご婦人が跪いて『助けて欲しい』と懇願してもアーベル様は頑なで……その様子を見ていたスピーゲル様がアーベル様に頼み込んだのです。『助けてあげて』と」
庭先に小さなスピーゲルの幻があらわれた気がして、アルトゥールは目を細める。蹲る女性を庇い、養い親にすがりつく小さなスピーゲルの姿が容易に想像出来た。きっと今と同じように、スピーゲルは優しい子供だったに違いない。
ベーゼンの話は続く。
「アーベル様は婦人に条件をだしました。生まれた赤ん坊をスピーゲル様の花嫁にすること。それが約束できるなら赤ん坊を助けると」
アヒムが口を挟んだ。
「それ、赤ん坊が男だったらどうすんの?」
「勿論、女だから言ったのです」
「……分かるの?」
「わたしやアーベル様には分かりかねますがスピーゲル様には分かっていたようです。当時は目を怪我していて、その影響か魔力と聴力が異常なほどに強くなっていましたので」
目の怪我のことは、アルトゥールも以前聞いたことがある。
アヒムは呆れたように干物がぶら下がる天井を見上げた。
「……いやー大分慣れたと思ってたけど、時々越えられない文化の違いを痛感するわ俺」
「アーベル様は元々ひどく心配なさっていました。ご自分に何かあったらスピーゲル様が一人になるのではと……」
ベーゼンはしばらく庭を眺めていたが、やがて夢から醒めるようにアルトゥールに目を移した。
「スピーゲル様が砂時計をお持ちだとご存じですか?」
アルトゥールは頷く。
「知っていますわ。スピーゲルの亡くなったお父様がつくったものですわよね?」
「あれは特別な砂時計なのです。あの砂時計の砂が落ちきったそのときにスピーゲル様は許嫁の方を『迎えにいく』ことになっています」
まるで雪景色を閉じ込めたようだった砂時計を、アルトゥールは思い返した。
(あれは……形見というだけではなかったんですのね)
父親の形見であると同時に、許嫁との約束の時間を刻み示してくれる特別な品だったのだ。
「幼い頃、スピーゲル様は『早く迎えに行きたい』とよく砂時計を眺めてらっしゃいました。花嫁の意味など分からないなりに、楽しみにしていたようです。スピーゲル様にとって自分より小さい存在は他にいませんでしたし、あの赤ん坊の存在そのものが自分の存在意義だとスピーゲル様は思っていらっしゃったようです」
ベーゼンは椅子から立ち上がると、重ねた皿を洗い物を集める桶の中に置く。
カチャリと皿が鳴り、ベーゼンはそれを俯くように見下ろした。
「……けれど成長するにつれて、スピーゲル様が砂時計を眺めることも『早く迎えに』と言うこともなくなりました。……自分の元へ嫁ぐということがお相手にとって必ずしも幸せなことではないと気づいてしまったんでしょうね。それでも……」
一度言葉を途切らせたベーゼンは、小さくため息をついてから、また口を開く。
「それでも『許嫁』はやはりスピーゲル様にとって特別な存在なのです。それが恋ではないにしろ」
「……」
片付けを再開したベーゼンの背を、アルトゥールはぼんやりと眺める。
紐を手繰り寄せて砂時計を握り締めるスピーゲルの癖。あの癖はただの手慰みではなかったのかもしれないと、アルトゥールは思った。
スピーゲルの言葉によって命を繋いだ赤ん坊。
その赤ん坊がこの空の下で今日も息づいていると考えることで、スピーゲルは自らを勇気づけていたのかもしれない。
誰もが彼を『魔族』と罵り蔑む残酷なこの世界で、赤ん坊はスピーゲルを許容してくれる唯一の存在なのだろう。
恋ではなくても、スピーゲルは許嫁を大切に思っている。
アルトゥールは胸を押さえた。そこにツキツキと刺すような痛みを感じる。
(やっぱり……聞かなければよかったかもしれませんわ)
スピーゲルとその許嫁の間には、アルトゥールでは立ち入ることが許されない絆があるのだ。
それを思うと胸焼けをしたように心が爛れて重く痛む。
(どうしてかしら?)
スピーゲルに許嫁がいようと、アルトゥールには関係ないではないか。アルトゥールはスピーゲルの恋人でも友人ですらない。ただの同居人で、その同居も遠からず解消するのだから。――――いつもなら、そう自分を無理矢理納得させていたアルトゥールだが、今日は上手くそれが出来なかった。
胸が痛い。そして、苛々する。
(……原因不明の苛々……)
アルトゥールは残っていたパイをフォークで突き刺すと、口の中に押し込んだ。
苛々したら空腹のせいにしてとにかく食べる。これに限る。
袖をチョイチョイと引っ張られ、アルトゥールは思考の波から引き上げられた。
袖を引いていたのはアヒムだった。
「ね。ちょっとお姫様」
「何ですの?」
アヒムはベーゼンの背中を横目に見て、扉を指差す。外に出ようと言うことらしい。
席から立ったアヒムについて、アルトゥールも外に出る。室内の薄暗さに慣れた目には、明るい木漏れ日は少し痛かった。
「これではっきりしたね」
「はっきりって……何がですの?」
訳もわからずアルトゥールが尋ねると、アヒムが声を潜めて言う。
「旦那の許嫁はイザベラだってこと。……いや元許嫁かな?イザベラは王様と結婚したんだし」
「え?」
何故そうなるのか。アルトゥールの思考力では理解しかねる。
けれどアヒムは確信しているようだった。
「旦那はイザベラに償わなきゃいけないとか何とか言ってたけどさ、要はイザベラに思い入れがあるから、逆らえないってことだと思うんだよね」
アヒムは腕を組み、顎に手をやる。
「旦那らしいっちゃ旦那らしいじゃん。復讐のためとは言え、他の男と結婚した元許嫁を放っておけないなんて。……で。ここで重要なのは何か。わかる?お姫様」
アヒムがキラリと悪戯っぽく目を光らせたが、アルトゥールには彼がは何を言わんとしているか全く分からない。
「……何が重要かって……何ですの?」
「旦那には許嫁がいるけれど、相手に恋愛感情はないってこと」
「……」
アルトゥールはアヒムの言葉を心のうちで反芻する。
(許嫁に、恋愛感情は……ない)
それが一体何なのだろう。
眉間に皺をよせるアルトゥールに、アヒムは乾いた笑いを頬に浮かべた。
「あははーダメかー」
「アヒム。何が言いたいんですの?」
「あははー」
アヒムは結局答えてはくれなかった。