笑わず姫と夜の終わりー水鏡の警告ー
闇を這い上がるようにして、スピーゲルはその階段を登った。
そして行き止まりの壁を、二度叩く。
「『鏡よ鏡。この世で一番美しいのは誰?』」
壁の向こうから、イザベラの歌うような声が聞こえた。
相変わらず、清廉すぎて薄気味悪い声だ。
「……『それはあなたです。お妃様』」
スピーゲルが合言葉を口にすると、壁に見せかけた扉が軋みながら動く。
その向こうに、イザベラが幸せそうに笑いながら待っていた。
「早いのね、スピーゲル」
「……」
無言で、スピーゲルは小さな麻袋をイザベラに差し出した。
麻袋の端は赤黒く変色し、そこから黒い液体が滴り落ちる。それは鮮やかな赤い花のように、白い床に散った。
それを見て、イザベラはクスクス笑う。
「綺麗な赤」
イザベラはスピーゲルの手を引っかくように麻袋を奪うと、嬉しさをこらえられないとでもいうようにそれを頭上に掲げ、その場でクルクルと回り出した。
「今からなら朝食に間に合うわね。国王陛下がお喜びになるわ。陛下は若鹿の心臓のソテーがお好きだから」
その姿はまるで花の妖精のように可憐だ。だが麻袋から滴る血が、イザベラの白く細い腕を伝い流れていくさまは世にもおぞましく、スピーゲルは手を握り締めることで必死に震えをこらえた。
「……じゃあ、僕は行きます」
踵を返し、スピーゲルは隠し扉の戸口をくぐる。
けれどその腕が、後ろから掴まれた。
ドクリと、スピーゲルの心臓が怯えて鳴く。
ゆっくり振り返ると、イザベラの頬からは幸せそうな笑顔が剥がれ落ちていた。
何の感情も伺い知れない顔は、スピーゲルの心の奥で息を殺していた恐怖を増幅させる。
「噂を聞いたの」
血に濡れた手でスピーゲルの腕を掴んだまま、イザベラは秘密を囁くように唇を動かした。
「ある街で、魔族が出たんですって」
「……それで?」
恐怖と緊張を綺麗にひた隠し、スピーゲルは冷ややかに返す。
「魔族が出たなんて噂、珍しいことじゃないじゃないですか。流行病も農作物の不作も、都合が悪いことは何だって魔族の仕業だ」
喉が緊張で砂漠のように乾いていたが、声が震えないように、スピーゲルは注意深く発声した。絶対に、動揺をイザベラに悟られてはならない。
スピーゲルの腕を握るイザベラの手に、力が入る。
「その魔族はね、広場で火炙りにされかけた仲間を助けにきたそうよ。竜をつれて」
服越しであるはずなのに、爪が食い込むほどの痛みを感じ、スピーゲルは微かに眉を寄せる。
「仲間のなかにはね、一見して魔族には見えない黒髪の美女もいたんですって」
イザベラは大きな目を瞬かせることなく、スピーゲルを見据えた。
「ねぇ、スピーゲル。『笑わず姫』は殺したのよね?」
確信を突く問いかけに、急を知らせる鐘のようにけたたましく心臓が騒いだが、スピーゲルはそれを一切表情に出しはしなかった。
(落ち着け)
静まれ。
ボロを出すな。
「――――何が言いたいんですか?」
冷やかに尋ねると、返答はすぐに返ってきた。
「私を、裏切ったりしていないわよね?スピーゲル」
切りつけるようなイザベラの強い眼差しに晒され、スピーゲルは静かに呼吸する。
「……裏切るも何も……僕をかけらも信用していないあなたを、どう裏切れと?」
「……」
イザベラは咎めるかのようにスピーゲルを見つめ続けたが、やがてゆっくり瞬いた。
「そうね。そうよね。フフフ……」
スピーゲルから手を話し、イザベラはまたクルリと回る。ヴェラーを踊るかのような足取りに、着ていた白い夜着のレースの裾が揺れて広がった。
「あははは!そうよね!あはははは!フフフ、あはは……」
「……」
スピーゲルは今度こそ隠し扉の戸口をくぐったが、イザベラは見送る素振りも見せずに笑い続ける。
地獄に続くかのような暗い階段を、スピーゲルは駆け降りた。
どこまで行っても、イザベラの笑い声が追いかけてくる。どこに逃げても隠れても無駄だと言うように。
階段を降り切ったそこは地下水路だ。
階段につづく扉を閉め、脇によけてあった材木をたてかけて扉を隠す。
そしてスピーゲルは崩れ落ちるようにその場に膝をついた。
水路に平行する暗い歩道。
湿った天井は、スピーゲルが動くたびにその音を反響させる。
「……っは……っ」
大して走っていないのに、息が切れる。
極度の緊張に耐え続けた心臓は、まだひどく早鐘を打っていた。
(大丈夫だ)
イザベラに掴まれた腕を労うように抱き寄せ、スピーゲルは自らに言い聞かせる。
表情にも、目線にも、細心の注意を払った。疑われてはいるだろうが、バレてはいない。
ゆっくり、呼吸を整える。
大丈夫、大丈夫、大丈夫……。
『……さい』
人の声に、スピーゲルは弾けるように立ち上がり、壁を背にした。
(……誰だ?)
王都と城の地下に張り巡らされた地下水路は、誰でも出入り出来るが、好んで立ち入る人間はそうはいない。実際、スピーゲルは何度もこの通路を使っているが、誰かを見かけたことはない。
あたりを見回すが、やはり誰の姿も見当たらなかった。
水路のせせらぎだけが、闇に反響する。
気のせいだろうかと、スピーゲルが思い始めた時。
『か……さい』
囁くような小さな声。
(気のせいじゃない!)
スピーゲルは身を固くした。
声は途切れ途切れに、けれど確かに聞こえてくる。
『かえ……い。は……く』
何を言っているのか聞き取れない。
声はどこから聞こえてくるのだろう。
スピーゲルは耳をすまし、声のする方ににじりよる。
声は、水路の方から聞こえた。
けれどそこに人はいない。
まさかと思い覗いた水面は暗く、スピーゲルの姿をうっすらと映すのみだ。
『早く』
驚いて、スピーゲルは身を引いた。
水面に映った自らの姿が、スピーゲルが口を動かしていないにも拘らず喋ったのだ。
(馬鹿な……)
魔族だ魔法使いだと呼ばれる立場にはあるが、こんな怪異に遭遇したのは生まれて初めてだ。
『かえり……さい』
「……え?」
ようやく言葉を結び始めた声は、聞き覚えがある。
(……この声……)
どこかで聞いたことがあるような気がする。
スピーゲルは恐る恐るまた水路を覗き込む。
鏡像は揺れる水面に妙にハッキリと影を結び、スピーゲルを見つめてくる。
そう。見つめてくるのだ。
鏡像は、また囁いた。
『早く。帰りなさい』
その聞き覚えがある声が、自分の声であることに、スピーゲルは気が付いた。
そして、アーベルとかつて交わした会話も。
“お前は死んだお前の父親にそっくりだ”
アーベルは、そう言った。
スピーゲルは笑って答えたものだ。 “知ってる。だから僕を『鏡』と呼んでいるんでしょう?”と。
鏡に映ったようにそっくりだから、『鏡』。
だからってそれを呼び名にしてしまう感覚は如何なものかと、ベーゼンはいつも文句を言っていた。
仕方がない。アーベルはベーゼンにも『箒』と名付けた強者なのだから。
“そうだ。生まれたばかりのお前は、お前の父親が赤ん坊だった頃にそっくりだった。そして、今も”
アーベルは優しく笑った。
“お前のなかで、あれは生きているのだな……”
水面に映るその姿を、スピーゲルは信じられない思いで見下ろす。
「……まさか……」
そんなはずはない。
死者と対話する能力など、自分は持ち合わせていないはずだ。
けれど、今日は死者が帰ってくる星宵越しの夜――……。
「……父……さん?」
呼びかけたが、けれど鏡像はそれには答えなかった。
『帰りなさい。早く』
『早く』
『帰りなさい』
『帰りなさい』
『早く。帰りなさい』
ただただ、彼は繰り返す。
スピーゲルに耳を貸す様子もない――――いや、実際にこちらの声は聞こえていないのかもしれない。
スピーゲルは眉を寄せた。
何故、これほど急かすのだろう。まるで家で何か不測の事態が起こっているかのような――――……。
不安が、ゾクリと背筋を這い上がる。
スピーゲルは顔をあげ、家があるとおぼしき方向を見た。
(何か……)
起こっているのだろうか。
昼間、暖炉の前で並んで豆の莢を剥いていたアルトゥールとベーゼンの姿が、脳裏を掠めた。
「……姫……ベーゼン……っ」
駆り立てられ、スピーゲルは水路の出口に向け走り出す。
――――……暗く揺れる水面から遠ざかるスピーゲルを見送り、鏡像は心配そうに顔を歪め、波間に消えた。
***
「どこにあるんだ!?」
「掘れ掘れ!掘りまくれ!」
男達の粗野な声に、アルトゥールは目を覚ました。
一つだけのランタンが、あたりを照らす。
その光を頼りに見知らぬ男達が血眼になって林檎の木々の根本を掘っている。いったい何をしているのだろう。
体を動かすと鳩尾のあたりが痛んで、アルトゥールは顔をしかめた。
「……痛……っ」
「お姫様!大丈夫か!?」
「気がついた!?」
「……痛い?」
林檎の木々が、地面に転がるアルトゥールを覗き込む。
アルトゥールは起き上がろうとし、けれど叶わなかった。手首を体の後ろで縛られていたからだ。
見れば、林檎の木々も、三本まとめて縄でぐるぐる巻きにされている。
「わたくし……捕まったんですのね」
おそらく侵入者達は二方向から家を挟みうちにしたのだ。そうでなければ、いくらアルトゥールの足が遅くともあれほど早く追いつかれはしまい。アルトゥールは逃げているつもりで、自ら潜んでいた敵に近づいてしまったのだろう。
『イタイイイイイ!』
悲鳴に驚きアルトゥールが首を回すと、まだ若い林檎の木が枝を男の一人に折られて痛がっている。
「うるせえぞ!トルペン!」
「この林檎の木が俺の目を突こうとしたんだよ!」
男は木の幹を蹴り、持っていた踏み鋤を枝に叩き付ける。
『キャアアアア!』
まだ固い緑色の果実が、ボトボトと地に落ちた。
「次は火をつけてやるからな!」
男は唾を吐き、また木の根本を掘り始める。
枝を折られた木はシクシクとすすり泣き、周囲の木々は恐れて竦み上がっている。
「ひでえことしやがって!」
「あの木、枝振りが綺麗だったのに……」
「……こわいー」
そういうツヴァイク達も、あちこちの枝が折れ、葉や実が傷つき、痛々しい外観だ。随分と侵入者に抵抗したのかもしれない。
(それにしても……)
アルトゥールは顔をしかめて男達を眺めた。
男達は林檎の木の根本のあたりを、必死になって掘っている。おかげで庭のあちこちが穴だらけだ。
「あれは何をしてるんですの?」
アルトゥールの疑問に、ツヴァイクが答えてくれた。
「どうも金貨を探してるらしいぜ」
「金貨?林檎の木の下に金貨が埋まってるんですの?」
アルトゥールのこの疑問に、ライスとアストが幹を振る。
「そんなわけないじゃない」
「……ないない」
「じゃあ、どうして……」
アルトゥールは考え込んだ。何故男達は、林檎の木の下に金貨が埋まっていると信じこんでいるのだろう。どう頭を捻っても答えは出てこない。
「……とりあえず……聖騎士団ではなさそうですわね」
「だな」
「そうね」
「……うん」
アルトゥールの呟きに、ツヴァイク達も同調する。
様子から察するに、男達はどうやら野盗の類いらしい。魔族に恨みを持つと言うよりは、金目当てであるようだ。
「……そういえば、ベーゼンは?」
アルトゥールは、体を懸命に捻らせて周囲をまた見渡した。
家の扉は蝶番から外れ、そこから見える室内は荒らされて椅子がひっくり返っている。
どこにもベーゼンがいない。逃げたのだろうか。
「あれ……」
ライスが、縄で戒められていない枝で、男達の足元に散乱する物を指した。
「あれって……箒?」
柄が粉々になった箒が、無惨にも放置されていた。
ツヴァイクが、悲しげに鼻をすする。
「俺ら、油をかけられて火をつけられそうになったんだ」
「ベーゼンが助けてくれて……でもそのせいでベーゼンが……」
「……折られちゃった」
ツヴァイク達は、目の窪みに涙らしい水分を溜めている。
アルトゥールは驚愕に声をあげた。
「あれが……あの箒がベーゼンですの!?」
別れ際のベーゼンの言葉を、アルトゥールは思い起こした。
いざとなれば箒に戻ってやりすごす、と言われた時はよく意味が分からなかったが、つまりそういうことだったのだ。
「ベーゼンは箒の妖精よ」
状況に混乱するアルトゥールに、ライスが教えてくれた。
「妖精?」
「人に長く大切につかわれた道具には稀に魂が宿るの。スピーゲルの一族はその魂を妖精と呼ぶのよ」
「……魂……」
アルトゥールは箒の残骸をもう一度見る。
思い返せば、確かにベーゼンについては説明がつかないことが多かった。いつの間にか姿がなかったり、かと思えばあらわれたり。
「ベーゼン……」
あんなふうに壊されて……どれほど痛かっただろう。
アルトゥールは込み上げる涙を、唇を噛んで懸命にこらえた。
(スピーゲル!)
スピーゲルなら、ベーゼンを魔法で治せるかもしれない。
彼はいつ帰って来るのだろうか。
アルトゥールは空を見上げた。
空はまだ夜が色濃い。長く気を失っていたわけではないようだ。スピーゲルが戻るには、まだ時間がかかるだろう。
(……何か出来ることはないかしら……)
アルトゥールは身動ぎしたが、縄がきつくて起き上がることすら出来ない。
縄がとれたとしても、林檎の木々を縛る太い縄を切ることも、男達を倒すことも無理だろう。逃げ出したとして、逃げきれるとも思えない。
かといって大人しく助けを待つなど論外だ。
スピーゲルが帰って来たその時に、彼の助けになることは何だろう。
(私にも出来ること……)
アルトゥールは目を閉じた。
そして、男達の会話に耳をすませる。
「……姫?眠いの?」
「しっ!静かに」
林檎の木々は、まるで眠っているようなアルトゥールに、首を傾げた。
その間にも、男達は庭を荒らしていく。
「アヒム!手をかせ!」
「おい!土をかけるなヨハン!」
「かけてねえよ」
「ディルクそれとってくれ」
ディルクと呼ばれた男が堀棒を渡そうと持ち上げると、その端が置いてあったランタンにあたったらしい。ランタンがひっくりかえり、その音にアルトゥールは驚いて目を開ける。
ランタンから油が地面に零れ、その油を辿るように火は大きく燃え上がり、あたりを照らし出した。
「うわ!?」
「馬鹿野郎!何やってんだ!」
「消せ消せ!山火事になるぞ!」
男達は慌てて火を踏み、消火を試みる。甲斐あって、火はすぐに踏み潰され、あたりはまた重い闇に包まれた。
男達は舌打ちする。
「おい。こう暗くちゃ仕事にならねえぞ」
「エゴン、灯りだ灯り」
「火打石はあるが予備のランタンなんて……」
「おい。ここにちょうどいいのがあるぜ」
「ヴィリー?どうするつもりだ?」
ヴィリーは、足元に散らばっていた箒の柄で、比較的長いものを手に取った。
「油を吸ってるし、よく燃えるだろ」
「おいおい、箒が化けてでたらどうするんだよ」
「逆だよ。二度と化けて出ないように燃やすんだ」
アルトゥールは目を見張った。ヴィリーはベーゼンの破片を燃やすつもりなのだ。そんなことになったら、いくらスピーゲルでもベーゼンを直せない。
「ダメですわ!」
アルトゥールは咄嗟に叫んだ。 すると、男達が一斉にアルトゥールを振り返る。アルトゥールの存在など忘れていて、今ようやく思い出したという顔だ。
「女が目をさましたぞ」
「へえ……?」
男の一人が近寄って来て、アルトゥールの隣に膝をついた。男はアルトゥールの顔にかかる髪を手で払う。
「綺麗な顔してるね、お嬢さん」
「やめとけアヒム。どうせその女も箒の化け物に決まってる」
「箒だろうと美人は美人だよ」
そう言って、アヒムはアルトゥールの髪に指を差し込み、優しく撫でた。
その優しげな手つきが、何故だかアルトゥールはとてつもなく気味悪く思えて……。
「……っいってえええええーーーッッッ!!」
アルトゥールは、アヒムの手に食らい付いた。
「アヒム!?」
「どうした!?」
「て、手を……っい、いててて!!」
焦ったアヒムは手を振り回し、騒ぎに集まってきた男達もアルトゥールの頭や肩を掴んで何とか引き剥がそうとしたが、アルトゥールは更に強く食らいつく。
「いっててててててッッ!!」
「何て女だ!」
「箒じゃなくて、キツネ獲りの罠の化け物なんじゃないか!?」
「くそ!このヴィリー様を舐めるなよ!」
男の一人――――ヴィリーが踏み鋤を振り上げた。
アルトゥールは衝撃を覚悟して目を閉じる。
――――が。
「『ヴィリー』」
その静かな声に、アルトゥールは目を開けた。そして見上げる。
ヴィリーの後ろに、いつの間にか彼は立っていた。まるでずっとそこにいたようにごく自然に、静かに。
そして、とん、とヴィリーの肩に白い手を置く。
「え?」
名前を呼ばれたヴィリーは、振り上げた手をそのままに振り返る。
風が囁いた。そんな錯覚を起こすほどに独特な発音。
音の一つ一つが空気に溶けて、風に乗って、ヴィリーを取り巻く。
「え?え!?」
「な、何だ!?」
周囲にいた男達が、怯えて一歩退く。
アルトゥールは、汚いものを吐き出すようにしてアヒムの手から口を放し、叫んだ
「……っスピーゲル!!」
風がスピーゲルの外套を拐い、隠れていた銀髪と赤い瞳が顕になる。
暗闇の中でもわかるほどに、その目は怒りに燃えていた。
凍りついたように動かない冷たい表情が、スピーゲルの怒りの激しさを逆に物語っている。ずっと眠っていた火山が大噴火する、その一瞬前のような危うさだ。
「……っ魔族だ!!」
「魔法使いだ!!」
男達は一様に恐怖を顔に浮かべ、ある者は逃げ出し、ある者はその場で尻餅をついた。
そんな者達には目もくれず静かな表情のまま、スピーゲルはヴィリーから手を離す。するとヴィリーの足が地面から離れた。
「な、な!?」
「う、浮いて……」
スピーゲルは人差し指でヴィリーを指差した。次いで橙色が滲み始めた空を指す。
「『ふっ飛べ』」
スピーゲルのその言葉を合図にして、ヴィリーの体は弓から放たれた矢のように空へ飛んでいく。
「うわああああぁぁ……」
悲鳴が、徐々に遠ざかる。
その場の全員が、呼吸すら忘れて立ち尽くしていた。
「……僕の家で」
ゆら、とスピーゲルの外套が揺れる。
「随分好き勝手してくれましたね」
感情を押し殺したような声に、アルトゥールは自分が間違っていたと気付いた。噴火寸前と思っていたスピーゲルの怒りは、すでに大噴火を起こしている。
「スピーゲ……」
「くそ!穢らわしい魔族め!」
一人の男が、土を掘るのに使っていた堀棒を振り回しながらスピーゲルに突進していく。
アルトゥールは叫んだ。
「『トルペン』ですわ!」
男の――――トルペンの攻撃を身軽に避けながら、スピーゲルが目を見開く。
「何ですって?」
「その男の名前は『トルペン』ですわ!尻餅をついているのが『ヨハン』!」
スピーゲルが帰ってくるまでに出来ること――――アルトゥールは、男達の会話に耳を澄まして、誰が何という名前なのかを聞き取っていた。
スピーゲルが帰って来ても、男達の名前が分からなければ魔法のかけようがない。
(でも、名前さえわかれば……!)
アルトゥールの意図を察したスピーゲルは、飛びかかってきたトルペンの腕を掴んだ。
「あなたが『トルペン』ですね」
「な……っ」
トルペンが顔を強張らせるが早いか、スピーゲルは早口で呪文を唱える。
「『出ていけ』」
最後にスピーゲルがそう言うと、トルペンの体は何かに引きずられるようにして地面を滑り始めた。
「た、助けてくれ!わああ……」
トルペンに蹴られた若い林檎の木やその周囲の木々が、仕返しとばかりに石や木の枝をトルペンに投げつける中、トルペンの姿は森に消えていった。
「あなたが『ヨハン』」
「ひいい!」
スピーゲルは身を翻すと、腰を抜かしているらしいヨハンの頭を掴み、呪文を唱えた。間を置かずに、ヨハンは悲鳴と共に夜の闇に消えていく。
アルトゥールは声を張り上げた。
「這って逃げようとしてるのが『エゴン』ですわ!」
「わああ!来るなあ!」
「そっちの男は『ディルク』!」
「ひいい!」
アルトゥールの声に従うように、スピーゲルは次々と男達の名前を呼び、魔法をかけていく。
最後に残ったアヒムは、アルトゥールに噛まれた手を庇いながら後ずさる。
「マジか……っ」
実際に魔法を目の前で見て、驚いているようだ。あたりが明るくなり始めたので、アヒムがひきつるように笑うのが見えた。
アルトゥールは精一杯体を起こし、アヒムを睨み付ける。
「『アヒム』!私の髪をいやらしく触った無礼者ですわ!!」
途端に、スピーゲルの目が今までの何倍もの怒りで燃え上がった。
「げっ!」
アヒムは慌てて踵を返し、森へと逃げ出す。
「……僕の留守中に……」
スピーゲルは狼も驚くほどの早さでアヒムに追い付くと、逃げ道を塞ぐようにアヒムの前に立ちはだかった。
「僕の大切なものに……」
「い、いや。髪にちょっと触っただけだし!」
アヒムは焦ったように言い訳したが、スピーゲルには聞こえていないようだ。
顎を少し上げてアヒムを見下しながら、スピーゲルは左手で右の拳を握りこんだ。すると、関節がバキバキと不穏な音をたてる。
顔に青筋をたてて、アヒムは降参を示すように両手を耳の上に上げた。
「え、ちょ、ぼ、暴力はよくない……よ?」
「勝手にベタベタ触ってんじゃねえーーーッッッ!!」
全体重をかけて、スピーゲルはアヒムの頬を殴り付けた。
アヒムの鼻血が、空中に弧を描く。
ドサリ、と白目を剥いたアヒムが地に倒れる。
肩を上下させるスピーゲルの荒い呼吸音だけがあたりに響く。
呆気にとられたように成り行きを見ていたツヴァイクが、笑った。
「は……ははは」
「あはは!」
「……ふふ」
つられて、ライスとアストも笑いだす。
「やったぜーーー!!さすがスピーゲル!!」
「やる時はやる男だと思ってたわーーッッ!!」
「……かっこいいーー!」
広い庭中の林檎の木が、歓声を上げて枝を揺らす。
「スピーゲル……」
「…………」
スピーゲルは、少しふらつくようにしてアルトゥールに近づくと、膝を折った。そして、アルトゥールの手を戒める縄をほどく。
「……スピーゲル!」
アルトゥールは手をついて起き上がると、スピーゲルに抱き付こうとした。
けれど、アルトゥールがスピーゲルに抱きつくよりも早くに、スピーゲルが腕を伸ばし、拐うようにアルトゥールを抱き寄せた。
「……ス」
「……」
何も言うなと言うように、スピーゲルの腕に力がこもる。その腕の強さに、アルトゥールの体から力が抜けていく。指先だけは、スピーゲルの着衣を握り締めた。
(スピーゲル……)
安心したからか、涙がこみあげる。
怖かったし、自分の無力が悔しかった。そしてスピーゲルが助けに来てくれたことが、嬉しかった。
山際から顔を覗かせた太陽が、荒らされた庭と家を明るく照らし出しす。
夜が明けた。
本当は怖い何とか童話……。