笑わず姫と師匠の果実酒ー星宵越しの夜②ー
「あ!!」
ブランコに座り夜空を見上げていたアルトゥールが、目を丸くして声を上げた。
「流れ星ですわ!!」
「何い!?」
「どこどこ!?」
「……どこ」
ツヴァイク達が身を乗り出すようにして空を見上げるが、既に流れ星の軌跡はどこにも見当たらないようだ。
「ほら!あそこらへんですわ!」
「見えねえよ!」
「わかんなーい!」
「……どこ」
それでもまだ流星を探すアルトゥールとツヴァイク達の姿を、スピーゲルは出窓に軽く腰かけて眺めた。
まるで年端のいかない子供達がはしゃいでいるような騒ぎに、我知らず口元が緩む。
(……そういえば)
あれほど露骨にアルトゥールに反発していたアストだが、いつの間にやら並んで星空を眺めるまでになっている。
アルトゥール相手に強硬な態度を保つのは、スピーゲルではなくてもやはり難しいことなのだろう。
「賑やかな星宵越しですこと。ねぇ、アーベル様」
スピーゲルの背後で、ベーゼンがまるでそこにアーベルがいるかのように空席に話しかけた。
アーベルが生きていた頃の彼らのやりとりを思い出し、スピーゲルの胸に暖かい懐かしさがこみあげる。
言葉数が少なかったアーベルは、いつもベーゼンの話に相槌を打つ役目だった。
アーベルがそこにいないことはわかっていたが、当然のように彼がいた頃の懐かしい感覚が甦る。
振り返らないまま、スピーゲルは掌のなかの酒杯に口をつけた。
(……一緒に飲みたかったな……)
アーベルが生きている時に共に飲むことは叶わなかったほろ苦い果実酒。その味をスピーゲルはゆっくり味わった。
「来年には姫君様を奥様とお呼びできればいいんですけれど。ねぇ、アーベル様」
ベーゼンの唐突な発言に、口にふくんでいた果実酒を勢いよく噴き出す。
「ゲホッ!ゴホ!」
「まあ!スピーゲル様お行儀が悪いですよ」
ベーゼンが眉をしかめるが、スピーゲルにしてみれば行儀どころではない。
スピーゲルは手近にあった布巾で口元を拭い、ベーゼンを横目で睨み付けた。
「ベーゼン……」
「キスなさろうとされたんでしょう?姫君様に」
生卵とトマトを同時に投げつけられたような衝撃に、スピーゲルは目を剥く。
「な……え?……ええ!?」
アルトゥールはそんなことまでベーゼンに話したのだろうか。
激しく動揺するスピーゲルだったが、ベーゼンは知らんぷりでからになった皿を片付け始める。
「姫君様の一人言を私が聞き齧ったんです。どうせ土壇場で余計なことを考えたんでしょう?」
カチャリと、重なった白い皿が鳴る。
「……『魔族は姫君に相応しくない』とか、そんな妙なことを……」
「……」
ベーゼンの指摘に、スピーゲルは困り果てて黙りこむ。
ベーゼンは怒ったように言った。
「あなたはアーベル様の自慢の息子です。姫君様に相応しくないなんてことはありません」
そうだろうか、とスピーゲルは内心でベーゼンに反論する。
『穢らわしい』『血塗られた』と蔑まれることが、昔は悔しくて辛かった。
けれど今は、そう言われても仕方がない。
自分は卑怯で自分勝手で残酷で、まさに人々から忌み嫌われる『魔族』そのものなのだ。
そんなスピーゲルとキスしたところで、本当に心の底から渇望するものをアルトゥールが手に入れられるわけがない。
その事実を、アルトゥールと唇が重なる前に思い出せてよかった。慌てて顔をそらした反動で思いっきり額がぶつかってしまったが、おかげで目が覚めた。
ブランコの縄が軋むのが聞こえ窓の外に目をやると、アルトゥールが腰板の上で立ち上がり、重心を器用に移動させてブランコを漕いでいた。
その回りをジギスがパタパタと飛び回り、アルトゥールが笑い声を上げる。
――……出会った頃、こんなふうに彼女が笑うようになるなんて思わなかった。
彼女の声に、眼差しに、こんなに胸を締め付けられるようになるなんて――……。
スピーゲルは両手の指を強く絡めた。
「……スピーゲル様」
皿を重ねていた手を止め、ベーゼンはスピーゲルを見つめる。
「姫君様がお好きなのでしょう?どうしてそのお気持ちに素直に従わないのですか?」
ベーゼンの声が、途端に潤む。
母親よりも母親らしくスピーゲルを慈しんで育ててくれたベーゼン。彼女に静かに責められ、スピーゲルは顔を背ける。
「いい加減にしてくれ、ベーゼン。僕は姫に恋なんてしてないし……許嫁がいる」
「いい加減にするのはあなたのほうです。あちらはあなたを許嫁とは思っていませんし、あなただって今更あちらを花嫁として迎える気もないくせに」
ベーゼンは長細いテーブルを回り込み、スピーゲルの正面に立った。
そしてスピーゲルの両腕を掴む。
「アーベル様はあなたの幸せを願って婚約をきめられました。それなのにご自分の気持ちを見て見ぬふりをする言い訳として婚約を持ち出すのはおやめください」
ベーゼンの手を、スピーゲルは見下ろした。
アルトゥールとは違って、ベーゼンの指は長く、爪は細長い。
幼い頃、泣く度にこの手に抱き締められ、慰められた。
その手から、スピーゲルはやんわりと自らの手を引き離す。
「……僕は……償わないといけない」
バサバサと羽音が聞こえ、スピーゲルは弾かれたように顔を上げた。
鎧戸を開け放ったままの窓辺に止まったのは、漆黒の翼を誇る使い魔だった。
「……エルメンヒルデ」
呼ぶと、エルメンヒルデは紫の風切羽を誇るように翼を広げ、恭しく頭を下げる。
いつもながら貴婦人めいたその仕草に、スピーゲルは小さく頷いた。
「出掛けてくる」
「スピーゲル様」
呼び止めるベーゼンと目を合わせずに身を翻し、スピーゲルは壁掛けにかけてあった外套に手を伸ばし、それを手早く羽織った。
「いつまで……」
背中にかけられたベーゼンの声に、スピーゲルは立ち止まる。
「いつまでイザベラ様のいいなりになるつもりです?償わなければと、あなたは人のことばかり……ご自身こそ人生を奪われていることにお気づきですか?」
「……」
背中に刺さったベーゼンの声には知らんぷりで、スピーゲルは扉を開けて外へ出た。
そして、星明かりの下で立ち尽くすアルトゥールを見つける。
「……姫」
「……行ってはダメですわ」
アルトゥールはそう言うと、スピーゲルに走り寄ってきた。
「やっと怪我が治ったのに!また騎士団に囲まれたらどうしますの!?」
「姫……」
アルトゥールは、スピーゲルの腕にしがみつく。
「行ってはダメ!!」
「……」
そっと、スピーゲルはアルトゥールの髪に触れた。
昼間、フワフワと軽やかに風に踊っていた髪。
「……スピーゲル?」
見上げてくる、青い目。
笑おうが笑うまいが、そんなことは欠片も関係ない。
間違いなく、アルトゥールは世界で一番美しい存在だ。
彼女がそこにいるだけで、スピーゲルはその頬に触れて、髪に触れて、腕の中に閉じ込めてしまいたくなる。
その醜悪な独占欲と向き合う勇気が、スピーゲルにはどうしても持てない。
強張る頬で、スピーゲルは無理矢理笑って見せた。
「大丈夫……です」
そしていつものように、アルトゥールの頭に手をのせる。
「朝までには帰ってきますから、いい子で待っていてください」
かつて、アーベルはスピーゲルの頭を撫でて『いい子で待っておいで』と出掛けて行った。
そうされると、スピーゲルは安心できた。アーベルは帰ってくるのだ。待っていてよいのだと。
アルトゥールにも、待っていて欲しかった。
安心して、この家で、スピーゲルを待っていて欲しい。
(他には……望まないから)
アルトゥールは眉間に皺を寄せていたが、やがて渋々と言った様子で、スピーゲルの腕から手を離した。
「わかりましたわ……」
「……」
腕から消えたアルトゥールの指の感触が名残惜しくて、スピーゲルは小さく自嘲する。
アルトゥールを置いていくのはスピーゲルであるのに、何故か自分の方こそが置いていかれるような気分だ。
もう一度アルトゥールの頭を撫で、スピーゲルは目線を上げた。
ツヴァイク達が、少し離れた場所で心配げにこちらを見ている。
「……留守を頼む」
スピーゲルが声をかけると、彼らは各々頷いた。
「おうよ」
「まかせといて」
「……行ってらっしゃい」
ジギスが心得たように飛んできて、スピーゲルの肩にとまった。
「……『ジギスヴァルト』」
名前に続き呪文を囁くと、ジギスの体は光り、瞬く間に大きくなる。
堅く大きなジギスヴァルトの前足に足をかけ、スピーゲルはその背に飛び乗った。
「……行こう。ジギス」
ジギスヴァルトの巨大な羽が風を掴み、その巨体は空へ舞い上がる。
エルメンヒルデが、それを追いかけるように羽ばたいた。
目の端にとらえたアルトゥールの姿が、闇の中に吸い込まれるように急激に遠ざかる。
『姫君様がお好きなのでしょう?どうしてそのお気持ちに素直に従わないのですか?』
――――従えるわけがない。
従ってはいけないのだ。
スピーゲルは必死に、自らに言い聞かせた。
***
スピーゲルを見送った後。
アルトゥールはベーゼンに促され一度は家に入り寝台に横になったものの、どうしても眠ることが出来なかった。
夜着のまま寝台を抜け出し、階段を降り、火が消えた暖炉の前を横切って外に出る。
夜の風は冷たかったが何かを羽織りに戻るのも億劫で、アルトゥールはかまわず足を踏み出した。
星明かりに慣れた目は、難なくブランコを探しあて、アルトゥールはそこにそっと腰かける。
ギシリと、吊り紐が微かに軋んだ。そのまま足で弾みをつけて、アルトゥールはブランコを漕ぎはじめる。
静かな月夜に、ブランコの軋む規則的な音が響いた。
ぐっと、思いっきり体を仰け反らせると、世界が反転する。そのままブランコに揺られていたアルトゥールの視界に、突然林檎の木々が割り込んできた。
「眠れないのか?」
「お肌に悪いわよ?」
「……風邪ひく」
アルトゥールは慌ててブランコを止めて、ツヴァイク達に謝った。
「ごめんなさいですわ。起こしてしまいましたわね」
朝までには時間がある。空は夜色が色濃く、ツヴァイク達林檎の木々も寝入っていたはずだ。
彼らはアルトゥールの周りを囲むように幹を下ろした。
「気にすんな。スピーゲルが帰ってくるまではおちおち寝てられねえしな」
「心配よねえ」
「……お姫様も?」
尋ねられ、アルトゥールはコクリと頷く。
見上げれば、そこには満天の星。
夜明けはまだ遠い。
(スピーゲルは……)
彼が何をしに行ったのか、頭を過った考えを、アルトゥールは頭を振ることで急いで霧散した。
「……わたくし、最低ですわ」
「何でだよ?」
「何でよ?」
「……何で?」
異口ほぼ同音でツヴァイク達が尋ねる。
ブランコの吊り紐を、アルトゥールは握り締めた。
「スピーゲルが騎士団や衛兵に捕まらないかとか、怪我をしないかとか、考えるのはそんなことばっかりなんですわ……」
今まさにスピーゲルに命を奪われている誰かがいるかもしれないのに、その『誰か』のことなどアルトゥールにとっては二の次だ。
星に願うのはスピーゲルが無事に帰ってくるように。ただそればかり。
けれど『誰か』の命を奪うことで、誰よりスピーゲルが心を痛めていることも、アルトゥールはわかっていた。
エラから命を奪った春の月夜。
激痛を耐えるように俯いたスピーゲル。
その横顔を思い出し、アルトゥールの胸は軋んだ。
「……どんな思いで、スピーゲルは復讐なんてしているのかしら」
あんなに優しい人が、どんな思いで人を殺すのだろう。
あんなに優しい人がそうまでするほどに、一族を根絶やされた悲しみは、苦しみは深いのだ。
「……どんなって……」
「……ねえ?」
「……うん」
いつも陽気なツヴァイク達が、肩を落とすように枝を垂れ下げる。その様子に、アルトゥールは首を傾げた。
「ツヴァイク?」
「あいつは……スピーゲルは、やりたくてやってるわけじゃないんだ。復讐なんて……」
ツヴァイクが、悔しそうに悲しそうに顔を歪める。
「なぁ、お姫様。あんたスピーゲルを止めてやってくれよ」
「止めるって……」
アルトゥールは眉を寄せた。
止めるなんて、そんなことが出来るはずがない。スピーゲルを復讐に走らせたのはアルトゥールの父だ。
恨まれ憎まれ、復讐されてもおかしくないような酷い仕打ちを、アルトゥールの父はスピーゲルの一族にした。
それなのに、どうしてその娘であるアルトゥールが復讐を止められるだろうか。
「どういうことですの?やりたくてやっているわけではないって……スピーゲルは私の父を恨んでいるのでしょう?」
ツヴァイク達は悲しそうに窪みを細めた。
「あいつは……償おうとしてるだけなんだ」
「でもスピーゲルが償わなきゃいけないことなんて、本当は何もないのよ」
「……スピーゲル優しいから」
アストがポツリと呟く。
「優しいから……アーベル心配してた。『あの子の優しさが、あの子を縛る鎖になりはしないか』て」
その時。
ざわ、と闇の中で木々がさざめいた。
ツヴァイク達ではない。広大な庭に植えられた林檎の木のすべてが、ざわざわと葉を揺らしている。
『来た』
『来た』
『誰か』
『来た』
『誰』
『知らない』
『人間』
『来た』
あまりに異様なざわめきに、アルトゥールは不安を覚えた。
「……何ですの?」
「侵入者だ!」
ツヴァイクは叫ぶと、アルトゥールの背中を押した。
「逃げろ!お姫様!」
「どういうことですの!?」
何が何やらわからず、アルトゥールは喚く。
「誰が来たというんですの!?」
「俺にも分からねえよ!でもそこら辺の人間が一人二人迷い混んだくらいで奴らはこんなに騒がねえ!」
つまり、聖騎士団が来たということなのだろうか。
幸か不幸かスピーゲルはいないが、聖騎士団が来たなら家も木々も焼き払われてしまう。
侵入者が聖騎士団ではないのだとしても、『魔族』を敵視して乗り込んで来たのなら、動く林檎の木々もただではすまないだろう。
「家の裏に抜け道がある!」
「早く逃げて!」
「……行って」
背中を押してくるツヴァイク達の枝に、アルトゥールは足をふんばって抗った。
「わたくしだけ逃げるなど出来ませんわ!抜け道があるなら皆で……」
「歩けない木々を置いては行けません」
ベーゼンの声に、アルトゥールは振り向いた。いつのまにか、家の扉が開いてベーゼンが立っていた。
「ベーゼン!」
「姫君様。これを」
ベーゼンは早足でアルトゥールに近寄ると、肩掛けを羽織らしてくれた。
「私達はここで侵入者を食い止めます。さあ、姫君様、お早くお逃げ下さい」
「ダメですわ!ベーゼン、あなたも……」
「私ならいざとなれば箒に戻ってやりすごしますから」
「え?」
アルトゥールは耳を疑った。『箒に戻る』と聞こえた気がするが……。
「姫君様。あなたは逃げなければ。あなたが生きているともし公になれば、多くの人の命が危険に晒されてしまいます。そうすれば、スピーゲル様の苦労が水の泡です」
ベーゼンが言っていることの意味が分からず、アルトゥールは混乱した。
(多くの人の命?スピーゲルの苦労?)
いったい何の事なのだ。
訊こうとするも、緊迫した場の空気とベーゼンの険しい表情が、それを許してくれなかった。
「逃げて、森に隠れてください。スピーゲル様が戻られるまでの辛抱です」
薄く微笑むと、ベーゼンはアルトゥールの肩に手を置いた。
「さあ、早くお逃げください。」
「でも……でも……」
ベーゼンの手に、力が込められる。
「スピーゲル様の為にも、逃げてください」
「……っ」
喉から嗚咽が込み上げた。
けれど泣いている場合ではない。
アルトゥールは必死に唇を食い縛る。
「……お姫様、早く」
アストが、アルトゥールの袖を引っ張る。
「早くしろ!もうそこまで来てる!」
「気を付けてね!」
ツヴァイクにも体を押され、アルトゥールはよろめくように歩き始めた。
「ツヴァイク……ライス!アスト!」
「大丈夫だ!石を投げつけてやるさ!」
「騎士団だろうが自警団だろうが負けないわ!」
「……早く逃げて!」
ツヴァイク達は枝で小石を抱えあげて笑う。
アルトゥールは歯を噛み締め、そして走り出した。
家の裏に回り、延び放題の草木を掻き分ける。そこにあらわれた道ならぬ道を、アルトゥールは迷うことなく駆け出した。
整備されていない獣道は石が転がり、木の根が飛び出て何度か転びそうになったが、アルトゥールはそれでも走る速さを緩めはしない。
(スピーゲル!)
スピーゲルを呼びに行こう。
スピーゲルは、きっと王城にいる。
森を抜けて、どこかの民家で馬をかりて王城まで駆ければ、スピーゲルがベーゼンやツヴァイク達を助けてくれるはずだ。
枝に掻かれて手や着衣は小さな傷だらけになったが、アルトゥールはかまわなかった。
「あ……っ!」
石に躓いて、アルトゥールは地に転がった。
擦りむいた掌は泥で汚れ、血が滲んでいる。
『気を付けてください』
声を、思い出した。
優しい声。
音もなく降りつもる雪のような声。
『怪我をしても治してあげられないんですから』
このまま誰とも分からない侵入者にあの家やベーゼン達を好き勝手にされるわけにはいかない
膝をつき、アルトゥールは立ち上がる。
(早く、スピーゲルを呼びに……)
走り出そうとしたアルトゥールは、背後に人の気配を感じて飛び退くように振り向いた。
「誰……っ」
手がのびてくるのが、最後に見えた。
スピーゲルの手ではない――――……。
アルトゥールの意識は、暗転した。