笑わず姫と師匠の果実酒ー星宵越しの夜①ー
朝食の席から逃げ出したスピーゲルは、すぐにアルトゥールに捕まった。
『私が笑うと……やっぱり……媚を売ってるように……見えるのではなくて?』
そう言って、アルトゥールは顔を伏せる。まるで今にも泣き出しそうだった。
(媚って……)
前にもそんなことを彼女は言っていた。笑うと媚を売っているように見えるから、だから笑えなくなったのだと。
「媚を売ってるってソレ……誰に言われたんです?」
尋ねると、アルトゥールは恥じるように、深く深く俯く。
「…………お、お父様……に」
「………」
スピーゲルは眉根を寄せた。
(……父親に?)
アルトゥールの父親は、スピーゲルの一族を根絶やしにしたこの国の王だ。
スピーゲルは直接国王の顔を見たことはないが、若い頃は国内外の娘という娘が夢中になったと語られるほどに麗しい青年だったという話はきいたことがある。察するにアルトゥールの美貌は父親譲りなのだろう。
この国王が後継ぎ欲しさに妃を取っ替えひっかえしたという話も、有名な話だ。けれど結局どの妃も国王の息子を生むことは出来ず、国王は諦めて甥を養子に迎えたと云う。
アルトゥールは国王が迎えた5人目の妃がうんだ、国王のただ一人の実子。国王にとっては、唯一血を分けた子供だ。
(それなのに……媚を売ってる、なんて……)
アルトゥールがどんなに傷ついたか、想像するだけで胸が痛くなる。
けれど、スピーゲルも知っていた。
スピーゲルの養い親だったアーベルは例えどんなに機嫌が悪くても、故意にスピーゲルを傷つけるようなことは決して言いはしなかった。だが、世の中にはそういう親ばかりではない。
驚くほど残酷な言葉を吐きながら、子供に暴力を振るう親もいる。
「……」
スピーゲルは手をのばし、アルトゥールの手をとった。
小さな――……丸い手。
いわいる指輪が似合う指ではない。指の先にある爪の形も丸っこい。
容姿の何もかもが完璧に整っているアルトゥールの手としては、その手はある意味唯一の欠陥箇所とも言えた。
けれどその手が妙に温かみがある気がして――――、その手こそが不器用なほどに真っ直ぐなアルトゥールの本質であるような気がして、スピーゲルは小さなその手を大切に大切に握り締める、
アルトゥールが、おそるおそるという様に目をあげた。
(目を)
逸らしてはいけない。絶対に。
彼女の笑顔が、不快だなんてことは有り得ないのだから。
アルトゥールの笑顔は、花だ。
深い雪の下から姿をあらわした花。
その花を見ると、スピーゲルはたまらなくなる。
胸の奥から何かがあふれて、どうしようもなくなってしまう。
「……そらすのは?」
言葉を詰まらせたスピーゲルを、アルトゥールが促す。
その、目。
青い泉に溺れるような感覚に、スピーゲルは情けないことに早々に耐えきれなくなり、目を逸らした。
「そ、らす、のは……あ、あなたが笑うと……」
必死に、スピーゲルは声をふりしぼる。
その笑顔は、決して不快なものではない。笑うことに、気後れする必要はない。アルトゥールにそれを知って欲しかった。
「あ、あなたが笑うと……」
触れたくなる。
頬に触れて、髪に触れて、腕の中に閉じ込めてしまいたくなる――――……。
***
「星宵越し?」
豆の鞘を剥いていたアルトゥールは、聞き慣れない単語に戸惑い手を止めた。
「何ですの?それ」
「夏の終りの頃、月がない夜に灯りを消して星の光だけで過ごす夜のことです」
アルトゥールと並んで鞘剥きをしながら、ベーゼンが説明してくれる。
「星を眺めて、食事をして、亡くなられた方を忍ぶんです。スピーゲル様の一族では人は死ぬと星になるのだと言われていますから」
「それが今夜?」
「ええ。準備がいろいろとありますから、姫君様も手伝ってくださいね。まあ、大変。果実酒をとってこなくては……」
ベーゼンはいそいそと立ち上がり、戸口から出ていった。庭にある食料の備蓄庫に行ったのだろう。
アルトゥールは首をひねる。朝からベーゼンは妙に上機嫌だ。
「星宵越しの夜には、故人の魂が地上に戻ってくると言われてます」
背後から聞こえたスピーゲルの声に、アルトゥールは振り返った。
「スピーゲル」
「本当に魂が帰ってくるのかどうかは知りませんが、それでもベーゼンにとっては今夜は年に一度の特別な夜なんです」
井戸から汲んできた水を、スピーゲルは水甕に注ぎ入れる。重い水桶を抱える腕には、何の障りもないように見えた。肩の怪我はもう心配ないようだ。
アルトゥールは椅子の上で上半身をひねり、スピーゲルに向きなおった。
「どういうことですの?」
「星宵越しの夜は死んだ師匠が帰ってくるとベーゼンは信じてます。だから毎年この日のために師匠が好きだった果実酒を手間暇を惜しまず浸けるし……あと、それ」
スピーゲルが目線で示した先には、アルトゥールが鞘を剥いた豆が籠に山になっている。スープにするのだと、ベーゼンは言っていた。
「空豆のスープは師匠の大好物でした。たぶん、ミートパイも作ると思いますよ」
「……何だか、恋人と会うみたいな盛り上がりですわね」
王城で、侍女が恋人と会う前に大騒ぎしていたのをアルトゥールは思い出す。
勿論、その様子をアルトゥールは実際に目にしたわけではない。露台に出て、階下の侍女達の部屋から漏れ聞こえる声を聞いていたのだ。
侍女はドレスを何度も着替え髪型に悩み、周りの侍女仲間も呆れるほどのはしゃぎっぷりだった。
今日のベーゼンは、あの時の侍女と様子が少し似ている。
「そりゃ、実際恋人でしたから」
「え?」
アルトゥールが目で尋ねると、スピーゲルは空になった水桶を片手に抱え直した。
「だから、ベーゼンと師匠です。恋人だったんです。一族に反対されて結婚できずに、谷を出て二人でここに移り住んで……結局正式には結婚しなかったようですが」
アルトゥールはベーゼンが出ていった戸口を見た。
「……こいびと……」
ベーゼンにそんな相手がいたなんて。
ムクムクと好奇心が頭をもたげる。
水桶を片付けに外に出たスピーゲルを、アルトゥールは急いで追いかけた。
「アーベル様は……スピーゲルのお師匠様はどんな人だったんですの?」
「師匠ですか?」
スピーゲルは水桶を定位置に戻し、アルトゥールに向き直る。
「……僕の母の叔父だったって話は」
「聞きましたわ」
「医療系の魔法が得意で」
「それも聞きましたわ」
アルトゥールが頷くと、スピーゲルはちょっと困った顔をして、風に揺れる林檎の枝を眺めた。
「変わり者だと言われていたそうです」
「変わり者?何故ですの?」
「僕の一族の人間は住んでいた谷から出て一族以外の人間と関わることをあまりしなかったようなんですが、師匠はそれを厭わなかったので」
今は亡き師を思い出すように、スピーゲルは目を細めた。
「自分達が危険ではないと知って欲しいからと、近隣の村を定期的に回って薬をくばったり、病人を診たり」
「立派な人でしたのね」
アルトゥールがそう言うと、スピーゲルは嬉しそうに笑った。
「ええ。立派で、優しい人でしたよ。肩車をしてくれたり、ブランコを作ってくれたり」
「ブランコ?」
庭にある大きな椚木を、スピーゲルは指さす。
「あの枝に紐をとおして」
「素敵ですわね」
大きな椚木の枝振りを見上げ、アルトゥールは目を輝かせる。
「私もブランコに乗ったことがありますのよ。お母様が生きていた頃に侍従にお願いして」
風が頬を撫でる爽快感。
木漏れ日がキラキラと輝くその先で、母が笑っていた。
けれどいくらもしないうちに、父親の怒号が響いた。『騒がしい』『邪魔だ』と。
母は跪いて謝り、そのドレスの影で震えることしかアルトゥールにはできなかった。
『ごめんなさいね。アルトゥール』
父が立ち去った後、母はアルトゥールにも謝り、枝にかけたブランコは侍従により片付けられてしまった。
頬に浮かべた笑みが、嵐にさらされ崩れる土壁のように剥がれ落ちる。
「……とっても……楽しかったですわ……」
まるで説得力のない弱々しい声音に、スピーゲルの切れ長の目が巣から落ちた鳥の雛を見るように揺れた。
「……ちょっと待っててください」
言うが早いか、スピーゲルはアルトゥールを井戸端に残し、納屋へ入って行く。そしていくらもたたないうちに腕に何かを抱えて戻ってきた。
「何ですの?それ」
「古いですけど、まだ使えます」
スピーゲルは太い縄をもってニコリと笑う。
それから彼は縄を結びつけるために、椚木の木に登った。
果実酒の壺を抱えて出てきたベーゼンが、眩しげに枝の上のスピーゲルを見上げる。
「あらまぁ。ブランコですか?懐かしいこと」
そしてアルトゥールの耳元で囁いた。
「スピーゲル様は初めて乗った時に後ろ向きにひっくり返って大泣きなさって……」
「ベーゼン!」
スピーゲルに制され、ベーゼンは首を竦めて口を閉ざす。二人のそのやりとりが楽しくて、アルトゥールは密かにクスリと笑った。
椚木の木から飛び降りたスピーゲルが、アルトゥールを振り返る。
「いいですよ。乗ってみてください」
「……」
少し戸惑いつつ、アルトゥールはブランコの紐を握り、腰板に座る。
やや軋む音はしたものの、腰板も太い紐も、それを結わえ付けられた枝も、アルトゥールの体重をしっかり支えてくれた。
「ちゃんと掴まっててくださいね」
スピーゲルが紐を後ろへ引く。足が宙に浮きアルトゥールの体はブランコごと後方へと持ち上げられた。
「いきますよ」
その声を合図に、スピーゲルがブランコの紐から手を放す。
「……っ」
アルトゥールは目を見開いた。
髪が、後ろへ靡く。
景色が急速に移り変わり、そしてまた戻っていく。
「押しますよ!」
アルトゥールの背を、スピーゲルが強く押した。
その強さの分だけ速くなった景色の変化にアルトゥールは頬を綻ばせた。
「もっとですわ!スピーゲル!」
耳元で風が鳴いた。
空を飛ぶ鳥になれた気分だ。
「もっと!!」
アルトゥールの望みに応じて、スピーゲルがその背を押す。
父親の怒鳴り声が遠くなっていく。
規則的に動く景色のなかに、こちらを見る母の微笑みが見えた気がした。
つらかった過去が、優しい思い出に昇華していく。
「スピーゲル!もっと!」
アルトゥールが笑いながら肩越しに見ると、スピーゲルも楽しそうに笑っていた。
太陽が西へ傾くまで、アルトゥールはスピーゲルに背を押してもらい、ブランコを楽しんだ。
空が夜の色へと様変わりし、あたりが急激に暗くなってきた頃、ミートパイが焼けるいい匂いが漂い始めた。
「そろそろ火を消しましょうか」
ベーゼンはそう言うと、暖炉の火に灰をかけた。
薄暗かった家のなかは途端に塗り潰されたように暗くなったが、スピーゲルが窓を開けると視界がかすかに明るくなる。
窓の向こうに見える暗い空には、早くも小さな星が輝いていた。
庭ではツヴァイク達が寝転び空を見上げている。
「星が見えたぜー」
「ねぇ、どれがアーベル?」
「……あれかな?」
アルトゥールも窓から身を乗りだし、夜空を見上げた。
(わたくしのお母様はどの星かしら?)
それとも母はスピーゲルの一族ではなかったから、星にはなれなかっただろうか。
「晴れて良かった。去年は雲がかかって、星がよく見えませんでしたから」
アルトゥールの隣に立ち空を見上げるスピーゲルの横顔を、アルトゥールは盗み見る。
(わたくしも死んだら……)
スピーゲルに殺されたら、星になれるだろうか。
それとも、やはりスピーゲルの一族ではないから駄目だろうか。
「……」
アルトゥールは黙ったまま、目を空へ戻す。
王城でも、よく一人で星を見た。広い夜空に、アルトゥールはまるで置き去りにされたような心細さを覚えたものだ。
だが、今日見上げる空はただただ綺麗だった。スピーゲルが隣にいるからかもしれない。
「さぁ、アーベル様。どうぞ」
背後を見ると、ベーゼンが硝子の杯に果実酒を注いでいた。
「……え?」
アルトゥールは目を瞬かせた。
穏やかな目差しの年配の男性が、いつの間にか席についている。
男性はスピーゲルと同じ白銀の髪を頭の後ろで縛り、ベーゼンを赤い瞳に映し、目元を緩めた。
呆然とするアルトゥールに、スピーゲルが椅子に腰を下ろしながら声をかける。
「どうかしましたか?姫」
「ミートパイをどうぞ。沢山つくりましたから、遠慮なく食べてくださいね」
スピーゲルもベーゼンも、当然のように食事を始めようとしていた。
見ると、男性はいなくなっていた。
「……え」
目をこするが、やはり先ほどの男性はいない。
「……」
「姫?」
誰も座っていない空席を、アルトゥールは不思議な思いで眺めた。
「……何でもないですわ……」
今日は星になった魂が、地上に帰ってくる特別な夜。
(あの時、見えた気がしたのは……)
ブランコにのっていた時に、木漏れ日のなかに母親が微笑んでいるような気がした。
(あれは……)
星がでるのを待てずに、帰ってきた母の魂だったのかもしれない。