笑わず姫とトマトスープー走り出したら止まれないー
東の空の山際が明るくなると、灰色の雲に薄い朱がさし、急激に夜の気配が遠ざかる。
蓋をするように谷間にかかっていた霧は徐々に薄れ、秋の足音がかすかに聞こえる少し肌寒い朝がやってきた。
アルトゥールとスピーゲルが満身創痍で戻ってきて10日程。
アルトゥールは舌の上でとろける卵の黄味を楽しんでいた。
「姫君様、パンのおかわりはいかがですか?」
「頂きますわ!」
アルトゥールはベーゼンが差し出した籠のなかから白パンをうけとった。それをちぎって、口いっぱいに頬張る。
「ベーゼンの作る食事はどれも美味しいけれど、今朝の白パンは特に絶品ですわね」
心から絶賛に、ベーゼンは嬉しそうに顔を綻ばしてくれた。
「ありがとうございます。スピーゲル様もお一ついかがですか?」
「……いや、いい……」
スピーゲルは皺を寄せ、不機嫌そうに首を振る。本当に機嫌が悪いわけではなく、彼は朝に弱いのだ。
木の実の種から抽出したらしい黒い飲み物――珈琲というらしい――を陶器のカップになみなみと注ぎ、眉間に皺を寄せて飲むのが彼の朝の日課だった。
「……そんな苦いものより、ベーゼンのスープを飲んだらいいのに。ねえ?ジギス」
アルトゥールはすぐ脇で食事をするジギスに同意を求めた。小さな手で器用に匙をつかい、ジギスはトマトを煮込んだスープを匙で口に運んでいる。
目に傷を負ったジギスヴァルトは、ザシャ達ととあるところに匿われていたらしいが、先日、迎えに行ったスピーゲルに連れられて帰ってきた。
スピーゲルの魔法により目の傷は既に塞がり、視力にも問題はないらしい。
ただ前にも増して、やたら食べるようになった。
「……よく朝からそんなに食べれますね……」
スピーゲルはため息混じりに呟き、うんざりと言った様子で、アルトゥールの前に並ぶ料理の数々を見やる。
赤いトマトのスープ、白いパン、太陽のような卵に青々とした葉物野菜。彩り鮮やかなそれらの食事を、アルトゥールはいつもほぼ一人で平らげる。
窓からツヴァイク達が顔を覗かせた。
「朝飯は一日の基本だぞスピーゲル!」
「ちゃんと食べないと怪我が治らないわよ!」
「……食べて」
反抗期のアストにまで言われて、スピーゲルは何とも言えない顔で黙り込む。ツヴァイク達がスピーゲルの怪我を心配して言っているのが彼にも分かるのだろう。
アルトゥールはスープを飲みながら、スピーゲルの様子を窺った。
(……魔法で治せればいいのに……)
けれど、スピーゲルの一族は自分で自分に魔法はかけられない。
他人の病気や怪我は魔法で治してやれるのに、自分にはそれが出来ないなんて何とも不便だが、出来ないものは仕方がない。
幸いにもスピーゲルの肩に刺さった矢は骨には届いておらず、神経を傷つけてもいなかった。痛みもだいぶひき、薬草の力をかりれば、後一月ほどで以前と同じように動かせるようになるらしい。
とにもかくにも、早く怪我を治すにはやはり滋養がある食事と十分な休息が必要だ。
「スピーゲル」
アルトゥールは匙に卵をのせて、スピーゲルに差し出した。
「はい。あーん」
スピーゲルが、ギョッとした顔で身をひく。
「……何してるんです?」
「だから、はい。あーん」
「……え、いや……」
「あーん!」
アルトゥールの勢いに押されたように、スピーゲルはおずおずと僅かながら口を開く。アルトゥールはそれを見逃さず、すかさず薄い唇の隙間へ匙を差し入れた。
「ほら。美味しいでしょう?」
アルトゥールがニッコリ笑うと、スピーゲルの頬がみるみるうちに赤く色づいていく。
いつもは世話を焼くのはスピーゲルで、アルトゥールは焼かれる側だ。その役目が図らずも逆転したことにアルトゥールは気を良くして、もう一度卵を匙ですくいあげた。
「はい。あーん」
「ご馳走さまでした!!」
スピーゲルは真っ赤な顔をアルトゥールから反らすように立ち上がる。
テーブルの足につまずきよろけながらも、彼は戸口から慌てた様子で出ていった。
「スピーゲル?」
残されたアルトゥールは、何が何やら分からず瞬きを繰り返す。
「いやー分かりやすいなぁ、あいつ」
「若いっていいわねぇ」
「……甘酸っぱい」
窓の外では、ツヴァイク達が日向ぼっこをしながらニヤついている。
「こら。あなた達がそうやってかまうから、スピーゲル様がますます頑なになるんですよ」
ベーゼンは嗜めるが、そのベーゼンの顔もどこか笑いだすのを我慢しているように見える。
ここのところ、いつもこうだ。
ベーゼンやツヴァイク達が何を楽しんでいて何が甘酸っぱいのか、アルトゥールにはどうにも分からない。
そしてスピーゲルは、頻繁にアルトゥールから視線をはずす。まるで逃げるように。
「……ご馳走さまでしたわ」
匙を置いて、アルトゥールは立ち上がった。
そして戸口へ向かう。
ベーゼンが声をかけてきた。
「姫君様?どちらへ?」
「スピーゲルと ……ちょっと話がしたいんですわ」
そう答えて、アルトゥールは扉を開けて明るい外へ出た。
スピーゲルを追いかけるアルトゥールの背中を、ベーゼンやツヴァイク達が見送る。
ベーゼンは目を細めて溜め息をついた。
「……まだるっこしいこと。育て方を間違えたかしら」
ツヴァイク達は、ゴロリと日向に転がった。
「ありゃスピーゲルが腹くくらねえと進展しねえぞ」
「お姫様鈍いしねえ」
「……付かず離れず」
つまらなそうな林檎の木々に、けれどベーゼンは何かを確信したように腕を組む。
「心配いらないわ。時間の問題よ」
「えー?そうかあ?」
「難しいんじゃない?」
「……ヘタレ×ニブ=無限ジレジレ」
訝しむツヴァイク達に、ベーゼンはクスリと楽しげに笑う。
「スピーゲル様がどんなに自分の気持ちから目をそらそうと、姫君様がどんなに鈍かろうと……」
風が吹き、木々の枝が揺れる。
いつの間にか季節は巡り、林檎の木々の枝には林檎の青い果実が実っていた。残暑が通りすぎ実が鮮やかに赤く色づけば、収穫の季節だ。
「走り出したら止まれないのが恋ですもの」
風にほつれた髪をそのままに、ベーゼンは呟く。
遠くを眺めるその瞳には、一体誰が映っているのか……。
そんなベーゼンを、ツヴァイク達が憧れの眼差しで見つめる。
「ベーゼン……何かかっこいいぞ」
「大人の女って感じ……」
「……しびれる」
――――その頃。アルトゥールは広い庭をスピーゲルを探して歩いていた。
ほどなく庭の隅で屈みこむスピーゲルの背中を見つけ、アルトゥールは呼び掛ける。
「スピーゲル?」
スピーゲルはビクリと肩を揺らすと、アルトゥールを振り返ることなく立ち上がった。
「……薪、割ってきます」
不自然な動きで歩き出すスピーゲルを急いで追いかけ、アルトゥールは束ねられた銀髪を掴んで引っ張った。
「逃がしませんわよ!」
「い……っ」
仰け反るようにして立ち止まり、スピーゲルは頭を両手で押さえる。
「い、痛いじゃないですか!」
「スピーゲルが逃げるからいけないんですわ!」
アルトゥールはようやくこちらを向いたスピーゲルに訴えた。
「どうしてわたくしから逃げるんですの?どうして目をあわせてくれませんの?」
「……っそ、れは……」
言い淀み、スピーゲルはまたアルトゥールを避けるように目を泳がせる。
それを見て、アルトゥールはスピーゲルの髪から手を離し、俯いた。
「やっぱり……本当は、不快なのではなくて?」
「……え?」
スピーゲルがこちらを見る気配を感じたが、アルトゥールは顔を上げられない。
人と話すときは相手の目を見なさいと母から教えられていたのに、そうする勇気をかき集めてもかき集めても、指の隙間から零れていってしまう。
「私が笑うと……やっぱり……媚を売ってるように……見えるのではなくて?」
かつて、アルトゥールが笑うと父親は言った。媚を売るしか能がない、と。
誰にどういわれようが好きな時に笑えばいいとスピーゲルは言ってくれたが、やはりアルトゥールの笑顔は周囲を不快にさせるものなのかもしれない。
スピーゲルは優しいからそうとは言えないだけではないだろうか。
言葉を詰まらせたアルトゥールの頭上に、スピーゲルの声が降ってくる。
「媚を売ってるってソレ……誰に言われたんです?」
アルトゥールは恥じるように、更に深く俯いた。
「…………お、お父様……に」
「…………」
血が繋がった父親にさえ疎まれるほどなのだ。さぞかしアルトゥールの笑顔は他者を不快にさせるのだろう。
着衣の襞を強く握り締めるアルトゥールの手を、スピーゲルがとった。
父親似の姿形をするアルトゥールにとって、唯一母親から受け継いだ小さな手。
その手を引かれ、アルトゥールはおそるおそる目をあげる。
すると、スピーゲルの強い目差しとぶつかった。いつになく真剣な赤い瞳に、アルトゥールは息を詰める。
真っ直ぐにアルトゥールを見つめながら、スピーゲルが口を開く。
「あなたの笑顔が不快だなんてことはありません。絶対に。そんなことは一切ない。僕があなたから目をそらすのは……」
そこまで言うと、スピーゲルは眉間に皺を寄せる。
食べきれないほど大量の料理を、目の前に突き付けられたかのような顔だ。
「目を……そ、そらすのは……」
「……そらすのは?」
アルトゥールは先を促した。そうしなければ、先に進まないような気がしたからだ。
「そ、らす、のは……あ、あなたが笑うと……」
目を逸らすまいと努めていただろうに、けれどその視線は彷徨う蛍のようにフラフラとあらぬ方向へ飛んでいく。
「あ、あなたが笑うと……その、だ、抱き締めたくなるというか……」
その声は小さくて、ボソボソとしかアルトゥールには聞こえない。耳が、目に負けないほどに真っ赤だ。
アルトゥールは顔にかかる黒髪を指先で耳にかける。
「何て言ったんですの?スピーゲル。もう一回言っ……」
「な、慣れてないからです!!」
突然、スピーゲルが声を張り上げた。
「わ、笑うあなたに慣れてないから!だから、と、とととと戸惑っているというか……」
「戸惑う?……不快なのではなくて?」
アルトゥールが首を傾げるようにして確認すると、スピーゲルは大きく頷いた。
「そ、そうです!不快なんじゃなくて、ちょっと戸惑ってるだけで……っ」
「……何だ……」
アルトゥールはホッとして、肩から力を抜く。スピーゲルに嫌がられていたわけではないのだ。
「何だ。そうでしたの」
自然とこぼれたアルトゥールの安堵の笑みに、スピーゲルは瞠目し、そして両手で顔を覆って天を仰いだ。
「……スピーゲル?」
目をどうかしたのだろうか。
「いや、あの……本当に慣れてないだけなんです。そのうち……きっと……慣れると思うんで……多分……きっと」
何に対する言い訳なのか、スピーゲルは暫くそうして一人で呟いていた。
***
そびえ立つ石造りの王城を戴く王都。
歴史ある美しい街並みから一歩裏道に足を踏み入れれば、そこはその日暮らしの労働者達が雨風をしのぐ粗末な小屋が並んでいた。
人々の顔には日々の疲れと、やがて訪れる冬に対する不安が色濃い。
季節は残暑を迎え、空には蜻蛉が飛び始めていた。秋は短く、すぐに冬を連れくる。凍てつく冬を越すための蓄えがない彼らは、冬を真底恐れていた。
「出稼ぎの為に田舎から出てきたってのに、自分が食うのに精一杯だ」
裏通りの一角にある今にも崩れそうな古びた飲み屋で、その男は安酒を煽る。
周囲にいた仲間も同じように酒を飲み、口々に抱える不満をぶちまけた。
「物価も税も高すぎる。このままじゃ冬を越えられねえ」
「どっかにいい儲け話はないもんかな」
「あるよ」
突然降ってきた声に、男達は驚いて振り向く。
そこにいたのは外套を纏った、旅姿の若い男だった。
腰に長剣を下げているところを見ると、傭兵なのかもしれない。
けれど、若い男は自らの腕だけを頼りに生きる傭兵には不釣り合いな、人懐っこい笑みを顔に浮かべていた。
「いい儲け話。あるよ?のらない?」
酒を飲んでいた男達は、顔を見合わせ、そして頷き合う。
「……聞かせてくれ」
「どれくらい稼げる?」
傭兵らしい若い男はニッコリと笑い、男達が囲んでいた円卓に肘をつくと声を低めて言った。
「うまくすれば金貨200枚」
「き、金貨200……っ!?」
「ど、どんな仕事だ?やばいことをするんじゃないだろうな?」
あまりに桁が多い儲け話に酒の酔いもすっかり醒め、男達は怖じ気づく。
けれど傭兵らしい若い男は、まるでちょっとした悪戯を持ちかけたように楽しげだ。
「稼ぎたいんでしょ?多少のリスクはそりゃあるよ」
「……」
男達は黙りこむ。けれどその中の一人が意を決したように立ち上がる。
「お、俺はやるぞ!どんなことでも!どうせこのままじゃ冬の間に飢え死にするんだ!」
それを皮切りに、次々と決断した者達が立ち上がった。
「……俺もやる」
「お、俺も!」
「俺もだ!!何が何でも稼いでやる!」
やる気にみなぎる男達を見渡し、傭兵らしき若い男はニッコリと笑った。
「そうこなくちゃ」
最初に立ち上がった男が、隣のテーブルから使われていない椅子を引っ張ってきて、傭兵らしき若い男の横に置いた。
「座って詳しい話をきかせてくれよ。……えっと、名前は?」
椅子に座りながら、彼は足を組む。
そして、やはりニッコリと笑った。
「――――アヒム」